種田元春立原道造の夢みた建築感想あるいは誤読(2) 2020年12月より 作成 佐藤敏宏
(イ) 「序 一枚のスケッチから」 を読んで 感想
 10数年かけ編まれた著書の読後感想を1年かけて書くのもよい。そう思いweb頁をはじめました

 
■ 初めに 書く動機

「生きているあいだに一の詩をのこし、生きているあいだに一枚の絵をのこし、生きているあいだに一つの建築をのこし、また闇へともどりたい」

 暗黒の宇宙を漂う地球に生を得、言葉を介し社会に暮らす者ならそう思うかもしれない。たとえそれらが一瞬の儚い、暗黒においては何事もなかった唯一無二の小さな感情の軌跡であっても。そうすることが、とめどない時空の人としての証なのではないだろうか。

 そのようなことを成した若者が「立原道造であった」と種田元春さん教えてくれる。はたしてそうなのだろうか。そうであれば種田さんの著書を手に取ることで、立原道造を知ると同時に種田元春という「建築を、言葉を、絵を、愛する今生きている人」のことをあれこれ想うことができそうだ。そうして研究者の成果を追体験することができるだろう。今、この地上に立原道造は生きてはいない。だから彼の真の有様に近づく術は私にはない。(風聞の類には接したくない)

古い友人の北山研二先生はこんなことを書いていた。(註0)

 ミシェル・フーコーは、そのルーセル論(『レーモン・ルーセル論』)のあとがきのためのインタビューに答えて言う。

 「ある人が作家であるとき、その本において彼が発表するものにおいて、ただ単にその作品をとり上げているのではありません。その主要な作品とは、結局のところ、自分の本を書く彼自身なのだと理解した方がよいと思います。そして彼と本のこうした関係、彼の人生と本とのこうした関係こそが、彼の活動の、彼の作品の中央点、炉床をなしているのです。ある個人の人生、その性的好み、その作品はお互い結びついているものです。作品が生活を表しているからではなく、作品がテクストだけでなく、人生を含んでいるからです。作品は作品以上なのです。つまり書く主体は作品の一部をなしている、というわけです」



 以上は、孫引きである。けれど私は同意する。だから『立原道造がゆめみた建築』には、種田元春さんの人生そのもの、ほんの一部が現れていそうだ。そして彼の生が色濃く記さているはずだ。この著書の感想を書くことで立原道造を知ることになれば望外ではあるがそれはオマケ的なことだろう。立原道造についても本を頂戴するまで興味はなかった。むしろ、著書などもそうだが個の表現に思うところはある。

 1974年の夏に、全国の若者を福島市の温泉町に集めて彼らが表現可能な場をつくったことがある。結果の記録集も刊行した。(註00)温泉町の活動は身体表現や詩の朗読、歌、楽器の演奏、インスタレーション作品の展示などがあり、それらの表現は私が建築をつくることと地続きでもあったが「壁の有無」だけは大きな差異だった。その後それらの小さな表現は私がつくりだす建築を逆照射しつづけていて「何か」を問われ続けることになった。
 本を手に取り眺めていると、種田元春さんの表現の意図は理解できそうな気もする。理解できなかったら、私と種田さんの違いなどを探りながら分かろうとするだろう。そうすることで彼と私の感情や表現に対する構え方の相違が浮かんでくるだろう。その経緯をなぞる、実体験することでしか、種田元春さんが描いた「立原道造像」を私の暮しのなかに住みこませることができないだろ。残されたものが幻影だったとしても、本をもって表現されたことへの、ささやかな表敬になればいい。


 ここからは序文を読んで浮かんでいたことを、思いのまま。それは私を語ることで、種田元春像と、さらに現れるであろう立原道造像が鮮明になるような気がするからだ。では「若くして死ぬこと その後のこと」から














(註0)『レーモン・ルーセルの生涯』 フランソワ・カラデック著 北山研二訳リブロポート1989年6月刊行あとがきより






(註00)1984年10月1日 佐藤が刊行『土湯温泉パフォーマンス&シンポジウム 84全記録』


■ 若くして死ぬこと  そして その後のこと

 若い死

 立原道造さんのように夭逝、または自死・病死など、若くして人が亡くなるとどのよなことになるのか、想像しにくいので体験したことを書いてみる。

 私が小学2年生のとき16歳ほど年上の父の弟・おじさんは服毒自殺した。自死したその日は私を連れ福島市内の洋画館(映画館)に出掛けた。二本立て洋画を観、その晩に自死した。その日のことはよく覚えている。祖父母をふくむ家族・叔母さんや親戚、周囲の村人たちの嘆き悲しむ姿は痛ましいものだった。身ごもっていた叔父の婚約者とその母が悲しむ姿は記憶に鮮明で消えない。死因は服毒だが動機は誰も語って聞かせてくれなかったので知らない。だが、その時から自死を含む死に想いをめぐらすようになった。当初は哀しいこと、祖母が悲しみだすと娘たちが哀しむ。その姿を見るのはつらかった。時が経つほどに「生きることは死ぬこと」だと強く実感し「死を想う」が生きることなんだと思えるようになった。死が身近にあることは年齢が若い時の方がよいと、今も思う。

 壮年男子の死

 30代を過ぎると、友人たちは妻子を残して死んだ。そんなことで今、身近に友人は居ない。彼らが死に至った原因はいろいろあるが記さない。彼らの死に直面して思ったことは、働き盛りの一家の大黒柱が亡くなるのを、この目で観るのは辛いものだ。辛いなかで最も辛いのは友人たちが作り上げた「友人像」が残された家族によってことごとく崩壊させられる、その経過を観てしまうことだ。家族が作り上げた友人像は尊重すべきとは思うが、友人たちがつくり続けた彼ら自身の男像とでも言え、他者と共有していた幻想が、残された家族によって、ことごとく廃られてしまうのを見せつけられる。それは残酷物語そのものだ。
 「友人の遺品を整理し展示しなさい」とは言えない。なぜなら残された家族構成員は、それぞれの幸いを求めつづけることを、友人の死によって止めさせることはできないからだ。どんなに友人の記録がぞんざいに扱われたとしても、言いたくないものだ。そうして友人たちが生きた証は何も残らず、私の記憶の中に生きるだけとなっている。
 「酷い仕打ちだ」と思ったのは「友人の墓もろとも解体処分・・・・」してしまい消えた家族の存在だ。彼らはどこに消えたかしらない。

 立原道造は24歳でなくなり、死後77年経っても種田元春さんによって立原道造はよみがえっている。種田先生は資料を読みこんで道造像を分厚くされたと推測する。それ以前に道造が亡くなってからの周囲による道造の資料を誰が、どういう動機と継続的活動で保存し、まとめることができたのか。保存しようとして躓きはなかったのか、関係者たちのの動機は何によって生まれたのだのだろうか。道造が有名になったとたん蠅のごとく集まる人は存在しただろう。記録保存は死後いくほどからなされ出したのか。道造の友人たちの力はどのように有効だったのだろう。なぜ道造は他の兄弟より家族に愛され続け、他者と協働で資料を残せ続けたのだろうか。財力はどうだったのだろう、有ったから、無くても残せたのだろうか。死の直前に中原中也賞を、受賞したからなのなか。『立原道造が夢みた建築』を手に取ると問いが吹き出し続ける。

 放射能沈着の記録との対比

 10年前に福島市にも積もった放射能の害と、起こりづづける問題。甚大な被害にも関わらず市役所も、個人も、あの記録は私が知る限り、意図し誰も保存していない。唯一我が家のそばに在る県立図書館には、関連本が増え続けている。福島市民の足下に沈着した放射能の起因は東日本大震災のそれだとされているが、憲政史上初の国会事故調の記録さえ10年経ってほどんど振り返る人はいない。たった10年前の記憶だって満足につくりあげることができていない。この様を見て、実作にせず(絵に描いたからつくった)夭逝した者の業績が保存に至る、その奇跡の全容を知りたくなる。記録し保存し続けるそのことは特に詳しく知りたい。

覚えてないぜ! (記憶できない自分が発信したメッセージ内容

 私は文字も言葉も、多くを覚えられないし、記憶力もまるでない。その証に1月前、種田元春先生に発信したメッセージ内容だってまるで覚えていない。種田元春先生に以下のようなメッセージ(全文は右覧)を送ったが覚えてない。だが現在はweb場にすべて保存されているので覚えておく必要もない。記憶力がまるでない私でも、webから、それを引きだして見ればたちどころにその時の私の感情は再現できる。発信したメッセージをどこに保存したか、それさえ覚えておけばいつでも過去の感情は再現できる。そんな気がして気が楽だ。

 手紙やFAXで交換する世にあってはそれが叶わなかっただろう。写しを一枚保存しない限り、その感情の再現はできなかったはずだ。保存せず自分の記憶が蒸発してしまっても「俺はこういう人間なのだ」と思い、そのまま暮らしたのだろう。時々のその場の思い付き、都合の好い記憶(それも大方捏造気味だが)それらを紡いでは、物がたっていたのだ。 「いや、そうでなく、昔の人間は現在のクラウド記憶力なみの能力を備えていて、その能力が無い人は信用されず、それぞれの世を生き延びられなかったんだ。今の人間にはその能力は要らなくなって誰でも生きのびられるようになったんだ」と言い張られれば私に反論する術はない。

 自分のためのホームページ(full chin)を開設し、web発信を20年ほど続けていると、自分の発信した内容を覚えていなくって・・・しばし答えに窮することがある。「佐藤さん、あの記録を読んでいるんですよ。あそこにこう書いてありましたよね・・・」なんて聞かれることがある。覚えていない。だがそのweb頁を開けば、たちどころにその事について応えることができる。
 要は過去につくった記録の一覧性をどれだけ高く保つために、日々記録をつくり続け、見つけ出しやすく整理し続けることが、21世紀の暮らし方なのだ、という気がする。
 建築系雑誌の記録なら全てデータ化し、検索機能だけ整えさえすれば、内容を暗唱したり、覚える努力の必要はない。そのような時間があるならば、新しい記録をつくったり、過去の記録をweb検索しつつ新しい記憶を重ね書きし、新しい今の記録をつくり続ければよいだけだ。そういう社会になっている。そのような暮らし方の豊かさを実感するばかりである。

 寺山修司ふうに言えば「実際に起こらなかった過去も歴史のうちである」だから豊かさは人に起きた悲劇をふくむ全てを記録することで、人の暮らしの多様さも増殖させ続けることが可能だ。それが21世紀の正道だ。実際に起らなかった過去も、今ここで量産する者こそが豊な人として暮せる。また誰でもがそうなれる社会が20年前ほど前から到来している。

 その、ささやかな一例として、20年ほど公開し続けているmyweb日記の、ごく一部を引き出してみたい。東日本大震災の発災の日から私の日記は一時中断した。代わって、Twitterをフル活用し時々の思いをその場で記録し続けた。そこには原発人災と放射能沈着災害など、私の生々しい思いが保存されている。
 だから2011年3月の日記と3・11以降のTwitter記録を読むと、あの時の感情やその日の暮らしぶりが立体化して蘇る。
 それは福島県全体の記憶や日本人の記憶でもない。単なる私自身の東日本大震災時の記憶と感情が再現できるだけだ。私・個人の記録をもとに普遍的で、みんなで共有すべき震災の記録をつくることは不可能だ。他の人々と共有すべき3・11の記憶を作ろうとすれば、必ず政治的意図が前面に出て来ざるを得ないのは当然で、できたものは私の記憶ではない。誰の記憶でもないこともまた事実だ。左・右どちらに傾こうが政治的力(学会的力)がつくりだす、東日本大震災の記憶や歴史である。

 ですから、ささやかな自分の記録をつくり続け自分の記憶を持つことが、政治的記録と記憶、さらに歴史的(学会的)事実を照らし出し続ける。だから個人が持つべき必要不可欠な道具となるのが個人の記録だ。

 とくに3・11のような大惨事、大事件には強くて・大きくて・長い力が働いてしまう。その塊に対面するには同様な個人の記録も必要不可欠だ。ですが、それを行っている人を知らない。大方は既成の磁場(学会)に入ることで、その磁場社会で許される活動内容のみが保存し示される。そこでは当然ようにパワーバランスが効き個人の磁力は弱まる。個人が強い磁力を発すると弾かれたり、分断や不要な争いなどが起き磁場全体が不幸に襲われ、ついには磁場そのものが消滅する。

 少し視線を移動して、記録と記憶について続けてみたい。近世期末の資料、歴史系論文を読でいると、仙台藩でおきた地震や水害・飢饉などの災害発災時における人々の混乱ぶりは、仙台藩校の数学の教師であった別所万右衛門さんの個人の視線から克明に記録されている。その内容は、あの3月11日の出来事とも重なる点が多く興味深い。彼の記録から学ぶ点も多数ある。
 例えば宮城沖地震は40年前後で何度も起きていることも一例だ。3月11日の地震が起きたとき私は「ようやく宮城沖地震が起きたんだな」と思い、いつ来るかと身構え暮した、あの緊張から解放された気がした。
 地震が起きたらどう行動するかは、予め行動計画を立て反芻していたので、その手順で対応しただけだった。発災直後の困難の一つは、水の確保だ。我が家の南東にそびえる信夫山に設置されている、市管理の大きなタンクの水が切れることは停電になったので確実だった。タンクが空になる前に水の確保をすることだ。風呂桶に満杯の水はトイレ用。50Lのポリバケツ3本には飲料水を溜めた。薪や炭の燃料は玄米とともに備蓄してあった・・・など。

 3月11日のことを書きだすと、きりがないので興味があれば右の欄に目を通していただき、さらに興味があれば2011年3月の日記前後を眺めていただけば(私だけの呟き記録だが) あの日から放射能沈着時の混乱などもリアルに再現できる。具体的すぎる一つの災害における記録と記憶などに関することを示し、個人ための記録について焦点をあててみた。


■2011年3月12日午前10時半から30分間の私の
感情録 下ほど古い)

 近所の人達は老人は責任持てないから 避難所につれていけと言うし どうしたらいいのか分からない 何が「俺の家はお前の家」なんだ 肝心な時にやくだたんじゃないか 。あれはやはり専門家同士繋がっていることで成り立つ 時空であって普遍的な思考にまで高まってないことを知る posted at 11:00:38
専門的知識なんて 災害直後に 役に立たないことを知る 日頃から建築の安全性を伝える場がどこんもないと痛感している 俺の家は「丈夫だよね〜」と羨望の目でみられるが 老人達を建築あそびのように泊めてやるのがいいのか判断できなかった posted at 10:58:05
狭いところに老人たちには酷だが木造建築を彼らは信用してないので戻らない それもぞのはず 壁はびりびり 家具は転倒して色んなものが床に散乱している、その見た目だけでも壊れている と思って そこから先は考えられないのだ 構造造上は持つがと 言ってみたも 受けとめる知識が無いと posted at 10:54:48
うろうろ歩いて知るしかないのだ。ます身近な者の安否これまったくもってケイタイが役に立たないよ。ケイタイはテレビ機能だが身近な記事を伝える記者がいないので 聞いてるだけ疲れるさっさと切ってしまった。近所の人は木造家屋なので怖がって家に戻らないで車のなかで一夜を明かした 
posted at 10:51:00
我が家の前は大谷石の塀が今も道路がわに倒れそうだが 車が無神経に走ってるので 道路標識ガード設置し 注意をうながした 最初の地震とうじは家は潰れてないが 大谷石の塀が倒れてる瓦が崩れている 近くの大きな病院が火事になる など TVで流れる俯瞰的情報は地元には役ただない 身近情報は
posted at 10:38:44
断水していので近所の人のためにあらゆるタンクに水をためて一週間は水は大丈夫だ と思う にかく5分間ぐらいで揺れる続けるので 近所のおばちゃんは震えが停まらない のでそばにいあげたいが 飯の手当てをして 報告 皆さん心配いただきありがとうございます
posted at 10:34:48
僕の家はRC壁式で家具はすべて針金などで固定してあるので倒れることはなかった 近所の木造の家を見せていただいてチェックしているが 家具が転倒してて 食器がメチャメチャの家がほどんどだ 我が家は本棚たおれずも本はヤリのように落ち続けて防ぎようが無かった
posted at 10:31:15
7時から10時まで近所の独居老人の世話をしてた おばちゃんたち気が動転しててはちゃめちゃで誘導するのが難しいもんだ
posted at 10:28:14
やっと電気がきて PCできるようになった。 ホッ ラジオが無くって俯瞰的情報がなく 福島には原発ある 怖かったが どうやら放射能漏れしているようだ今知る
posted at 10:26:09








種田元春さんに送ったメッセージ

 さて冒頭の種田元春さんに発信した「覚えていないメッセージ内容」は以下のようなものだ。

 2020/11/26 7:05佐藤が発信
 お願いがあります。もし種田先生の博士論文、残部有れば頂けないでしょうか?知り合いになったら「欲しい」と必ず伝える主義なもんで、失礼な事ではありますが。市販されているのであれば書籍名を教えてください。宜しくお願いします

 2020年11月29日 20:17発信

 博士論文と『立原道造の夢見た建築』と書評、大学紀要第51集、建築ジャーナルの記事、リクシルの記事、届きました。
ばら見ですが、博論がなければ編めない、素晴らしい!立原道造評伝じゃないですか。種田さんは今世紀における、植田実さん的後継者となるべくあらわれた方ですね。(私は寺山修司の事ばかり話してたんですが、植田さんに初めて会いマイ建築を評(註1)してもらったり「建築あそび」のため、二度(註2)も我が家に来て頂きました。そのとき本もたくさんお土産で頂きました。

 「寺山修司と同級生だ」と聞かされ!顔から火がでましたね。久しぶりに植田さんを思いだしました。(註3)

 丸かた建築
(註4)は福島市内にどちらも学校ですが在ります。私も土俵の寸法を主にして丸を平面に多用してましたので親しみを覚えました。
 果物より福島県の美味い地酒の方が好きですか。植田さんは地酒好きでしたので。検討ください。
 (いただきましたものは時間かけて読ませていただきます。私の直感はいいですね、博論を厚かましくねだってみたら、運がやって来ましたよ)

(註1)各建築の句を添えたが、植田実さんは句を含め、建築全てに評された 建築文化1994年11月号 特集 自生する建築へ

(註2)建築あそび2度の記録
2000年5月27日 私的領域について
2005年7月2日植田実の仕事を語る

(註3)東日本大震災後から、建築に関することは頭に残らなかった。種田さんの著書をてにとって、忘れていたモノをおもいだし、懐かしい建築風にさらされたように感じた。もう建築の時代は終わった、懐かしいと思う。

(註4)丸型建築
 文化服装学園円形校舎の形態構成と空間構想に関する研究(文化学園大学・文化学園大学短期大学部紀要 第51集
 
人は他者の行為を知ろうとしない!その例 よく分らない受賞理由 

 前おきが長くなりました

 「序 一枚のスケッチから」 を読んで、その前おきが長くなった訳は「種田さんは立原道造自身が残した記録」と「前走者である道造研究者が残した記録」 それに基づいた関係者の記憶に、どのように近づき、再度組み立て直すことが可能だったのか。そのための要・注意を記しておくためだ。

 またそれらの記録が無い「道造の空白の過去」を探査することで行き着く地点。あるいは記録が無くって、想像力で種田さんがつくりだすことでしかできな事。それは既存の記録を繋ぐことによってできてしまう、この本(評伝)にもあるはず。そこにあるだろう数々の隙間や欠落を埋め、乗り越えるのもおもしろそうだ。そのような何かをつくりだす作業を通して、ようやく『立原道造の夢みた建築』を編み上げることが出来たはずだ。
 それはある種の創造行為で、ぎりぎりの所でつくり出す行為を踏みとどまる矜持のようなもと関わるはずだ。記録性を強く保とうとしたのか。それも出来ず目の前に現れた困難を断念し、種田元春先生がまったく創作するように道造像を書き上げてしまったのか。(たぶんこちらの方が新しいけど学問の意味は薄れる)それらの点に興味が向かうのは、優れた評伝を受け取り読む者いることで自然に湧きあがる想いだ。

 なぜ10数年、これほどまでの時間を労し種田元春さんは立原道造像をつくろうとしたのだろうか。人は他者の行為を知ろうとしない・・・のに・・だ。人は他者の行為を知ろうとしない、その実例を「建築あそび」での植田実の声で再現してみよう。

■ よく分らない受賞理由
建築学会賞を受賞した植田実さんが語った内容は印象深い。一部抜粋(全文へ2005年7月2日植田実の仕事を語る

 僕のは・・(建築学会賞)文化賞というのは建築外の人に・・。たぶん会員以外の人に・・。長年 建築の記録映画を撮られて来た方とか、教育に力を注がれた方とかね・・僕の場合いはね「建築というものを一般に啓蒙してきた」というすごくよく分からない受賞理由なんですね。有りがたく頂いたんですけども。
 逆に言うと、なんかあんまり賞というのは、周りもよく分かってないんだよね僕の仕事っていうのキット。「都市住宅やった」とか、いろいろ知っているだろうけども。長年の付き合いで漠然と知っていたんで、「ジャ、どういう他の雑誌と比べて、どこがどうだったとか・・」突っ込まれるとやっぱなかなか上手く言えないし。さらに若い人なんかに 僕のことを紹介する時に「この人は凄い雑誌をやっていたんだと言うんだけど・・「いや凄い編集者だ」と言ってくれるんだけど・・。   佐藤 わらう  

 結局 都市住宅なら都市住宅という雑誌は、68年に創刊して74年に僕は辞めていますからね。 そうすると今の学生さんが、こないだここにいらっした五十嵐太郎さん。彼68年生まれなんですね。僕が創刊号を出した年に生まれているぐらいですから。
   会場 ハぁ〜・・ 彼らなんかは少し調べて知ってるかもしんないけど、基本的にはみんな知らないぐらいですよね。最初に作った「建築」という雑誌があるんですけどそれは60年創刊ですから、モット昔なんですよ。

 僕 今(東京芸大)教えている学生はだいたい86〜7年生まれじゃないかな。2年生ですからね。もう、本当に コルビュジェったって「昔々の、徳川家康だったのその人」みたいな。「あの時代の人」と言うみたいな。実感がゼンゼンないだろうからね。
 それでね・・じゃそんなことで。それに動いてくれた人っていうのは、何言うかというと「お祝いしよう。お祝いしよう!」と。お祝いって何かってパーティなんですよね。結局パーティの話だけなの!    会場 笑い   「どこ使って」ね、「発起人だれ・・」と。「会費はいくらがだいたいい・・」とかね。それはいいけれども、「じゃ〜それで来る人は??」大体白髪頭の人が100人 200人来たってね。「いやいやって」って言って。だいたいスピーチも聞こえないんですよね。ああいう所っていうのはなかなかね。 みんなお互いに喋っているから。また「一番嫌だなと思っているものを俺もヤンナキャいけないのか〜」みたいな感じがあって。丁度お葬式と同じですね。    会場 わらい 決まっているわけね・・葬儀屋が来て「花輪どうですか」って。「100万でやりますか、200万でやりますか・・」みたいな。そういう感じだからね。


■ 私の周りにある詩と建築


 以上が抜粋した内容だけれど。今現在、目の前に生きている人の仕事でさえ、数多の他者は理解していない。建築系で重要な学会賞受賞者のことでも建築系の人々は理解していないようだ。で自らの理解の無さを忘れるためにパーティーを開くのだろう。そのことを、この記録は明かしている。

 ここからは『立原道造の夢みた建築』から少し離れて、遠回りして詩人、あるいは植田実さんのことを記すことで、立原道造と私の距離感や年の離れなどによっておこる考え方、発想の相違を具体的に実感してもらうことにしよう。そうすることでより種田元春さんの著書の存在が身近なものとなり、今現在における立原道造像の意味も鮮明になるように思うのだ。

 他者の設計したものも分からない (その実例

 私は寺山修司さんに影響を受けている。それを示すmy建築を一つ紹介しよう。この建築は寺山修司さん最晩年の演劇「百年の孤独」の舞台を女型とし引用・設計し「建築」としてつくった。現在もフクシマに建ち使われ続けている建築。また『建築文化』の表紙に採用さたので、編集長の目に叶った建築でもあったのだろう。私らしさが存分に表れている、お気に入り建築の一つでもある。

 ですが、発注者と家族をのぞく多くの人には理解されなかった。たとえば、県の偉い方に言われたので投稿・参加した。そこは建築学会東北支部での発表会場だった。ある審査員から「こんな建築は施主が理解できるはずがない、同意を得ているのか」と問われた。発注者が納得せず、発注者の敷地に「建築」が建ったりすることが東北地方ではあるんだ、と思いました。「もしかするとその建築はアートに近づいていて凄いではないか。観たい観たい」と思った。
 だか審査員はこのような建築が出現するのが腹立たしかったのだと、応答を繰かえした直後に分かった。「なんて審査員だ」と思い、自分の喜びが間違いだったとその場をつくろうことを諦めた。
 これが「実建築」に対する建築系学者たちの理解の仕方だろうし「彼らに恨みはない」と断っておくが、建築学会の審査員でも、この建築をつくりだす面白さは理解できない。そういう事例となったままである。(建築学会にも、今も興味がわかない)
 
 その想い違いというか、理解できなさ・・・というのは、建築を思考しつくりだす過程路の違いから生まれるものだと思う。建築に対しても無学な私は、発注者と長い時間の中でうまれる対話を身体同化するまで・・「言葉のみでも共有できた」と思い込むまで、勘違いするまで、あるいは「いたこ化」するまで手を動かさない。言葉でつくるのが好きなんだね。
 発注者の方が建築を遠い世界から連れてくる。近代的な私的意思などという言葉に出来る世界から連れだすことでで、目の前に出現する「建築」。それを手がなぞることで、施工者が造るために必要な図面が描ける。そのような経過を経ることが建築を造るという過程だ。そういう気がする

 建築学会でで拒否された建築は右欄の模型と写真のようなものだ。ベースは発注者・夫妻が小学校の教員であること。旦那さんが寺山修司の演劇「百年の孤独」を汐留で観た・・・という話が「建築るつぼ」の中で融合して建築として出現した。コンセプト模型は経過を分かり易くするために制作しただけだ。
 対話によって生まれた、発注者たちの言葉群を紡いだ建築のような事態を、トンと音がするように、野に設置し実建築化してみた。するとバブル経済によって買い尽くされた周囲の景色と、農業の歴史が共に崩壊していくのを、とどめて在る要石にも見えてきて、予想外にも愉快な建築になった。

 実建築を雑誌に発表するときは、建築の文言の〆として句をつくって添えている。「お前のような文章を書くとはなんだそれ。その為は建築雑誌への冒涜だ」と、他の著名建築雑誌の編集者から、直接罵倒されたけれど・・・。この建築の〆句は以下の2句。この句をよむとその時の言葉たちと、建築遊戯が立ち上がる。そうしておくことが、建築をつくる過程の記憶を私が再現するためには無くてはならない句の働きなのだ。(建築文化記事へ)

 その蜻蛉 緋を奪いとり 蒼を裂く
 空箱に 哭旗沈めし 稲穂なる

(手前に稲穂がたわわに首を垂れている。表紙の写真は句のように蒼い空を背景にし建つ姿だ)
 
以上は、人は他人の行為を知ろうとしない、他人の建築設計は理解できない。その事例として示した。つづいてこの機会に「詩人 と 建築家」について思いを巡らせよう。



絵:『寺山修司ー鏡のなかの言葉』 (1992年・新書館) より  舞台装置図 




 『建築文化』1997年2月号表紙




 コンセプト模型







■ 詩人 建築家 について

 詩を書いたり、読んだり、詠んだりすることが好きな人を詩人という。建築を語る、観る、読む、描く、造る、調べる、考える、そのことが好きな人を建築家という。

 海にでて一生一匹の魚も釣れずも、彼は大海原に生きる魚と対話し続け一生を終えたなら漁師と言う。一編の詩を編まずとも詩人。一軒の建築もつくらずも建築家と言う。 こう書いてみた。ふたっの言葉「詩人 建築家」とは一体なんだろう、どうして生まれたのか。聞かれても即座には答えられない。

 「寺山修司の詩」ついては長くなりすぎるので割愛するが、身近にある詩について思い出してみる。身近に詩人という生業はあるのか、についは、ないのかもしれない。私にはわからない。中原中也賞を受賞した福島市に暮らす知人の職業は高校の国語の先生だ。受賞し1年経っても、彼を誰も祝ってやらない。気の毒に思い知り合いなどに呼び掛け「祝う会」を、私が設計した小さな会計事務所を借りておこなった。詩の朗読もかね、開いた(註5)受賞した詩人の友人や詩人を日本各地から招いた。ときどき朗読し合ったりし賑やかだった。宴が終えても、夜明けまで詩について話し合った。この例がしめすように、中原中也の名前も、「詩」そのものについても私の傍では響き合わない。

 私は設計し建築が完成するたびに、個人の住宅であっても「一時でもいいから他者に開放し使いこむよう」すすめてきた(建築あそび)。ある日、完成なって久しい建築に、私もゲストとして招かれた。コンサートの後で「建築の話」を求められた。具体的な建築のつくり方をこう語った。「頭の中に蜃気蝶があらわれると、他の人には見えない蝶も採取可能です。たった一人の幻だった建築をこのような手続きで実現するんです」と、具体的に事例を示した。
 そうして数か月経つたある日、参加者から電話があり「詩集をつくるので、あなたがつくった蜃気蝶の言葉を使わせてほしい」と言った。耳を疑ったが即、了解した。
 そうして右欄に紹介する星隆雄さんによる『クレフの箱』という私家版・詩集が刊行された。(註6)私のまわりにある「詩」と「詩人」と私の「建築」はこのような実態であった。

 古来の建築家たち

 次に建築家についてだが、古来日本で建築を造ってきたのは大工さんと渡り職人たちだ。私の家は農家だったので、茅屋根ふきには渡り職人たちがやって来た。家具づくりも渡り職人がやってきて数晩泊まり込んでは出来上がると渡って行った。だから高校を卒業するまで建築家と名乗る人に会ったことがなかった。「建築家」という日本語を知らなずに、工業高校を卒業してゼネコンに就職した。そこで初めて大学卒の人々から「建築家」という日本語を聞いた。

 現在でも官公庁では、私のような建築の設計をする者を「業者」と呼ぶ。民間では「設計屋さん」と呼ぶ。また日本政府は「建築家」を必要としてないことは次の事例で明らかだ。それは新国立競技場設計者の選択で国際的建築家のザハ・ハディドを葬り、かわって政府は日本の建築家を神輿にまつり傀儡化し、本体工事は予算も工期もきっちり守る、ゼネコンに委ねる路を選んでしまった。賢明な選択とも言えるし、人間の可能性に期待しない超現実主義者たちと捉えることも可能だ。
 そのことによって日本には、設計者を選択する場においても建築家を選びだす路は狭まり、建築家不要であることが、何に憚ることなく示された。「牡蠣の、潰れたような・・・」ものと称し葬った、あの事件はたいへん味わい深かった。日本人の建築家に対する心情を晒していた。
 旧来どおり、しっかりしたゼネコンさえ生き残れば、日本の建築は造りは安泰なのだ。国家プロジェクトにおける政治家の簡明な選択に多くの主権者は納得した。丹下健三さんが活躍した1964年オリンピック開催時とは建築造りの様子がガラリと変わったのだ。

 では「日本生息していたはずの建築家という生物は今後どうなるのだろうか」という疑問がわく。先に示したように「建築のことが好きな人を建築家」と呼べばいいだけだから建築家はこれからも生き続ける。そこで「建築家の名称で職業として成り立ち、そしてそれは生業(なりわい)なのか」と。そう問うてはならない。それはどうでもよいことだ。

 日本の実社会では建築を造るためには建築士の資格を持つ者が設計し、資格を持つものが施行を請け負い造るのだ。従来とおりの独占領域の生業だ。建築士であり建築家であることも可能だ。また一級建築士の資格がなくても、建築家が設計事務所を開設できる。そうしてその事務所で設計を請負うこともできる。
 私は建築家という名称には、あまり興味もわかない。このまま進めば重源の生きた800年前、さらにさかのぼり空海が生きたような、大工と渡り職人、建築家と僧侶と政治家が未分化のまま野にある、あの中世のような社会になるかもしれない。(註7)

 そこに居るのは、分業化が極まている現在のような「技術と表面のデザイン」だけが強調される建築家のような人々ではなく、政治家も詩人も建築家も一体となってある者かもしれない。彼は多相で多様な領域横断おこない活躍することになっているだろう。だから建築家という名はいきても、現在の建築家の職能は消滅してしまっているだろう。


(註5)以下二枚が中原中也受賞を祝う会の様子
 中原中也受賞を祝う会のようす
 







(註6)1995年3月31日刊行た『クレフの箱』



(註7)河原宏著『空海 民衆と共にー信仰と労働・技術』 2006年6月初版

■ 立原道造
(没1939年) 1935年生まれの三人が見た詩人
   
21歳年下 植田実 寺山修司 山田太一 

 日本の空気を一緒に吸いながら4年ほど生きたのは、立原道造と植田実、寺山修司、山田太一さんたちだ。同じ日本の空気を吸いながら生きていた人がいるというのはシミジミいい。その3人は立原道造をどのように思っていたのか。さらに「詩人」について彼らのそばにいた谷川俊俊太郎さんの声を聞いてみよう。 さほどは資料も無いが手元に有る本を開いてみた。(敗戦、それは道造亡き世にも生き続けた三人にも大きく影響を与えているが、そのことは後に機会があれば書いてみたい) 


 西洋女性名に憧れている青年たち

 寺山修司ドラマシナリオ集『ジオノ・飛ばなかった男』(1994年3月刊行。 解説 山田太一を開くと以下のようにある。

 寺山さんのラジオ・テレビ作品は昭和33年(158年〜)から、ほぼ10年間に集中している。・・・・・「ジオノ」は主人公の名前のつけかたから。なつかしい。余計なことだが、私は寺山さんの大学時代の同級生なのである。解説者が個人的感慨にふけってはいけないが、ジオノという名前を読むと、立原道造を思い出す。「小さき花の歌」の一行目「僕はおまへにアンリエットといふ西洋の名をつけた」というような文章に、
ひそかに寺山さんも私もまいっていたのである。今の目でみればおわらい草であろうし、当時でもやや隠すようなことでもあったが、昭和20年代末から30年代にかけての、西洋はおろか伊豆、信州に旅する金もない貧乏学生の現実逃避に「西洋の名」は、まだ役立っていたのである。

 そして主人公に「ジオノ」とつけた第一作も「中村一郎」(註8)も現実から羽ばたこうとして、飛び立てなかった男の物語である。飛び立てないのではない。飛び立たないのである。飛び立てるのに、飛び立たない。自分の力を信じられない


 山田さんは評がキツイが、「同時代の人間というのは仕様のないものである、私はあまり(寺山作品を)あまりほめなかった。正直な感想だが嫉妬もあったと思う。」とは書いてあるがライバル心はこの解説にも表れて素直な文にはなっていない。

 一方、寺山修司を支援しつづけ、詩作を並走した感のある谷川さんの言葉を拾い出だし、戦後の詩人についても思いを巡らす端緒をみつけてみたい

昭和33年『ジオノ・飛ばなかった男』民放祭入賞。昭和34年『中村一郎』民放祭連盟会長賞受賞

(註9)1983年といいのTV録画がネットにおちていた。文字にして一部紹介する。
司会:・・谷川さんはどの仕事を一番高く評価しますか
谷川: うーん。それは難しい質問だけど、あのー僕は放送の仕事というのは非常によかったんじゃないかと思いますね〜。あのー撲若いとき、知り合った頃に、彼にラジオドラマとかね、そういう仕事を回したりなんかしていたんですね。二人でね、彼の下宿で。バラエティーみたいな台本をでっちあげて、彼の生活費稼ぎの助けをしてたことがあるんだけど。
 それで僕はそのときにねー。彼がいろいろ書くの見ててね、「君、ぜったい1年以内に食えるようになるよ」って言ったのを覚えているんですね。「食えるようになるどころか、きっと何か放送の世界で凄いことになるんじゃないの」っていったら、本当にその通りですね。僕なんかもその前に2、3年放送の書いてたんだけど、彼は書き始めて1年で民放社の賞をもらっちゃいましたからね。そのとき僕は自分の予言が当たったから凄く嬉しかったんですけどね・・・。


敗戦後と詩人

 谷川さんが寺山の生活費稼ぎを助けていた

 1994年にmy建築を10軒観て、それら一つ一つに文章を寄せていただいた植田実さんから直接聞いたことは「たった1年だったけど、寺山修司さんとは早稲田の文芸部で一緒だった。かれの短歌はだれだれの写しだとか、戯曲は岸田理生の引用だと言われ、叩かれてもいた」。
 寺山修司はネフローゼが悪化し(体内に水がたまる病に伏し)大学は1年で辞めている。その20歳の寺山修司をラジオドラマ脚本家にしたて、生活費を稼ぎだすため支援したのは、4歳年上の谷川俊太郎である。(註9)  


敗戦後と詩人について 谷川さんの声をきこう

谷川:本来、詩というのは、もともと歌謡性を帯びていて、韻文であった、そこの場面ではつまり歌に近いと。ところが詩というものはまた同時にイメージを書く世界でもあるから、なにか必ずイメージがありますよね。それがシュールレアリスム的なものであれ、日常的なものであれ。そのイメージというもが詩をつくっているという点では映像とやっぱり本当につながっているもんだろうという気がしするんですね。だから、そういうところを割と素直に考えるとね、詩を書いていれば、それが例えば写真にいき、映画にいき、テレビにいき、あるいはそれがにいき。

 それから、演劇というのはまたちょっと詩とちがう面があるんだけれども、でももちろんご存知のようにギリシャ悲劇というのは、詩作品そのものだし。シェークスピアの演劇だってやはり、詩としか言えない部分がありますね。だから、詩の中にそういういろんなジャンルに発展する要素というのが、もともと僕はあるだろうという気がしんですね。
 それに加えて、やはり、時代というものが、例えば割合素人でもたやすく映画撮れてね、それからある程度のお金があれば、スペースを借りて演劇の発表会も出来るとか。そういう戦後の日本の文化状況というものが、余計そういうものを加速しているというか、気がするんです。


 敗戦後の日本の文化状況が詩人に与えた影響を簡潔に語りっていて興味深い。詩はイメージでつくるので、写真、映画、テレビ歌に発展していくと。さらに戦後になり、素人でも映画を撮影したり、演劇を発表し公演したできる状況がうまれたことで寺山修司は活躍の場がひろがっていたんだと語っている。

 谷川さんによれば 

・詩とは歌謡性をおびている韻文
・詩とはイメージを書くもの
・詩のイメージは映像につながっている
・詩は演劇とはすこし異なるがギリシャ悲劇は詩そのものも一部ある
・戦後、素人でもたやすく映画や演劇をつくり公演しやすくなった


 戦後の詩にいてはこのようにまとめておこう。建築も人間がえがくイメージから生まれて来るし、私は言葉によって建築を想い描きつくりだしている。
次に植田実さんの著をよみながら、小さな建築について想ってみたい。



 左の谷川氏肉声は
 1984年ごろのtv番組を観て一部文字おこししたものである





■ ヒアシンス・ハウス

 立原道造について知ったのは植田実著『真夜中の家ー絵本空間論(1989年7月第一刷「最小限住居のかたちー佐藤さとると立原道造」読んだからだ。この本から立原道造について引用してみよう。

 立原道造が浦和の50坪ほどの土地に建てる予定で、数多くのスケッチを残した「ヒアシンス・ハウス」は、4・5坪の実に愛らしい週末住居である。小さな木の階段を3段上がってドアを開けると、寝台、机、ベンチが壁に沿って一列に並び、あとは外套かけがあるていどの、便所をのぞいて、全体が1対2のプロポーションの一室空間になっている。長手方向に片流れの屋根が葺かれた、何気ない木造の家で、この素朴な室内に招かれたときの親密感や快適さは想像にあまりある。
 ヒヤシンス・ハウスは浦和が寒いという理由、さらに忙しさにまぎれて実現するどこではなかったといわれるが、ほとんどファンタジーの縁に建っていながら、低く、水平にのびているこの小住宅は、また現実にもふれていた。1938年設計となっているが、CIAMの理論的風圧は、ここまでは届いていない。立原の抒情の世界、あるいは北方の精神のなかに庇護されていた(彼の親友だった生田勉に直接きいたところでは、当時、日本の学生のあいだにもてはやされていたイタリアの建築雑誌を立原は好まず、もっぱらドイツ、北欧系の建築を紹介する雑誌を読み耽っていたという)わけだが、結局、この領域の建築が具体化することは、日本の近代史上なかったといっていい合理主義的、機能主義的、建築の風潮は、立原の建築を異端とし、大戦後さらに純理論化されて、住宅のリアリズムーつまり、プランニングメソッドを確立する。この跛行
(はこう)的リアリズムの代償として、1960年後半から、建築家の手がける日本の小住宅は一挙にマニエりステックなスタイルへと巻き込まれていく・・・。

 現在は(1984年)、この幻想世界への希求が都市の光景に映し出され、佐藤さとるの作品に見られるような、単純にして精緻きわまりない描写によってみえてくるただの小屋が、そのなかでは異常な精彩を帯びているにちがいない。それは童話の主人公たちによってつくられる。しかし、現実の側に出現したとしたら、その瞬間、夢みられた小屋ではなくなり、みすぼらしい普通のバラックになるだろう。タンタロスの家である。 


 この小文を読むと立原建築を異端とし、プランニングメソッドが確立すると同時その手法の乱用へとなだれ込み、小さな戸建て建売住宅が乱造されることになったようだ。web検索してみると、ヒヤシンス・ハウスはどこぞの公園に建てられている。私の邪推だが、一億そう観光誘致人となり客誘致合戦の波にでも乗って利用されたのだろうが、造ってはならない立原道造案のヒヤシンスハウスが造られていたようだ。
 私ごとではあるけれど、造ってはいけない建築がある、そう思い造らなかったmy建築・・・。植田さんのタンタロス発言はそれを思い出せる。設計図が完成し確認申請もうけとり、予算も収まり、施行者も決まった時点で、私は発注者に「造るのをやめましょう」と伝えたことがある。与えられたの規模で実現すると小さすぎる。依頼された建築より巨大に実現することが、その建築に合っている。そうした方がこの建築が活きると思っての提言だった。小さい建築を実現させてしまうことを安易に踏み出してはいけないと、その時に思った。ヒヤシンス・ハウスの非実現建築とはmy建築の断念は異なるが、造ることを安易にしてはならないと、今も思も続いている。










下動画参照:植田さんが指摘したがタンタロスの家となった。


立原道造と15年戦争戦争

 序文では触れられていない日本の15年戦争と、1937年の立原道造の徴兵検査において丙種不合格について。道造のおかれた心境が記載されていない点は腑に落ちない。徴兵検査が定着して男性たちは兵役の義務が生じてから50年後の不合格だ。不合格は男性とその家族に何らかの精神における不の圧力が掛かっていたのではないだろうか。長身の男性がそのように日本帝国から扱われると、相当の歪があると思える。

 例えば私の父の徴兵検査と兵役の義務についてをみてみたい。父親が20歳になったのは1945年4月で、4ヶ月が後に敗戦だった。徴兵検査を受け合格し翌年には戦場に赴いたのだろうが、それを待たず敗戦になった。だが父親世代の若者は「戦死は臣民の道」として青春を過ごしたはずだ。父は徴兵されぬ人となった。徴兵されずに生き残った若者の心象を想うと複雑だと思う。
 父親のオジは立原道造と同世代で中国大陸で「中国人を一人、こうやって銃剣で殺した」と酒を呑んで酔うたびに大声で語っていた。それは人を殺害した重さに耐えられない心をなんとか保持するため、常に心の負担と化していたから、そのような言動になったことは、ごく自然に理解できる。鬼畜米へとはいえ、人殺などしたくないのは人としてごく普通の心情だと思う。
 母親の兄も同じように満州に出兵し徴用などをおこなっていた者なので、子どもたちがはしゃいで五月蠅くすると、満州の怖い話を語っては、子供達を静まらせていた。
 私の1980年代は会津の年老いた経営コンサルに仕込まれ、事業計画書をたくさん作り銀行に提出して、金を稼ぎだし生きていた。その先生も立原道造と同世代であった。彼は「戊辰戦争における会津藩の魂の汚名を挽回するために、あの戦争では、ここ時ぞ!とばかりに、武勇を見せつけるために、人一倍勇猛果敢に斬り込み隊長をつとめ戦った」と何度も語って聞かせた。西南戦争時の会津藩士たちの武勇伝は「抜刀隊員」のような姿で、彼らには有名だったのだ。西南戦争から60〜70年後でも、会津の男性を抜刀隊員のよに豹変させた。コンサル先生の形相をみていると反論はできないのだ。
 
 
 徴兵検査不合格の立原道造は日本兵になれなかったことをどのように消化していたのだろうか。とそのことが気にかかる。「愛らしい 痩せこけている、孤高、酒も飲まず、物怖じせず、素直、どこか子どもっぽい、恥ずかしがり、背が高い 学生服を着たやさしい青年」と語り切っていいものだろうか。

 父親と同年生まれで、学年も同じの平岡公威(きみたけ)氏=三島由紀夫さんは徴兵検査不合格者だったそうだ。私が19歳の東京恵比寿駅傍のゼネコン設計部に就き、半年ほどのち、彼は市ヶ谷の自衛隊に乗り込み割腹自殺をした。ああして父親世代の心に抱えた闇を露わにし、私にも伝えたのだった。それは父親たちが抱えて耐えられない暗い固まりを敗戦後25年に強引に見せつけられようで、気分が悪いものだった。今でも『建築文化』を発行していた彰国社いくと見てしまう、あの場所見上げるとそのことは必ず思い出す。

 そのような事件がありそれを忘れたように「素直に立原道造の作品をみていていいものだろうか」と思ってしまう。日本が始めた15年戦争による敗戦は、日本社会に今でも大きな影を落とし続け、75年経っても戦後は終わる気配がない。消化する手立てもつくれず、怠惰を棚上げ先送りし、つかの間だけ忘却しているだけなのだ。立原道造に関する本を手に取ると、どうしても、戦前の男たちが生き延び抱え込んで生きただろう、それぞれの戦争の闇について思い致し、語らねば片手落ちに思えるのだ。
 
■ 序について 感想のまとめ


 序文を読んで、いろいろ想ったことを、長々と気ままに書いてみた。建築教育を受けていない私は建築教育の効能をほとんど知る機会がなく人生を経てしまった。建築に関するなにか貴重なことを知らずに建築を仕舞うことは「建築」に係わっている人々に大変失礼になるように思う。無学を強調するきはないけれど、無学から見える建築のあり様は、誰も伝えてくれる者がいなかった。だから、このように書き記録し伝えようとすることが私の役割のように思う。

 建築の大学教育を受けずとも、建てられた建築、建てるための図、建てるための言葉それらは、それぞれ一つで建築設計図が出来上がるわけではなく、多数のそれらが選択されてたった一つの建築が実現される。だから実現されなかった建築たちの中を建築を設計した者は自在に空想だが体験し、実建築と比較し、あれこれ想い続けることができる。それは建築を設計する者だけの愉楽であり、その面白さを伝えるのは、出来上がって建築を理解してもらうより、更に困難なことである。

そのうえ、詩人ではない私が詩人の思いを咀嚼しようとして、挑んでもさほどおもしろそうでもない。詩人になるとは「実にはどういうことなのか」を寺山修司と立原道造の足跡を比べながら、種田元春先生の著書に先導してもらいながら次の頁から『立原道造が夢みた建築』本編につての感想を記していく予定だ。


 (本題 『立原道造の夢みた建築』 感想03へ すすむ)
■ 感想文 目次 (リンク有はその項目に飛びます)

 初めに web頁 01

4)本題『立原道造の夢みた建築』の感想

  (できあがったら、その項目にリンクツを張ります)
 (イ) 序 一枚のスケッチから
 (ロ) 第一章 出会った建築、焼きつけた風景
 (ハ) 第2章 透視図に込められた物語
 (ニ) 第3章 建築を包む理想の山
 (ホ) 第4章 田園を志向した建築観
 (へ) 第5章 想いの結晶・芸術家コロニイ
 (ト) 終章 夢のひとひら
 (チ) まとめ





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