種田元春立原道造の夢みた建築』感想あるいは誤読 2020年12月より 作成 佐藤敏宏

 はじめに

 種田元春著 『立原道造の夢みた建築』を読みおえると射精後発熱でもあるかのような、体験したことのない体温の上昇をおぼえた。1冊の本に記された文字を目でなぞっただけで細胞が常とは異なる活動をすることが、不思議に思えた。思春期スパートで異性に恋すれば生殖に関連する体細胞が勃起し合い熱くなることはあるだろう。だが私は高齢者なのだ。私のなんらかの細胞が他者が配列した文字をなぞっただけでそうなるとは考えにくい。いろいろ想いを馳せてみたが分からない。

 そこで一つの仮説を立てた。それは著者の種田元晴さんに立原道造が憑依しているとしよう。道造は元晴さんの身体を使って記させた、その文字が「気」へと変容し私を微かに包んでいたからだろうと。頁を開いた者の前に道造の気は紙面わずか数ミリにしか存在せず、存在したとしても日常行き交う他の気によってかき消されてしまい、あんがい気付かないように仕掛けてあるのだと。
 私が頁を開き続けそこに記された文字を目で追ったのは、師走に入った底冷えのきついある日で、宵闇が走り出した時分から深夜にかけてだ。福島市名物である凍み豆腐造りには適した底冷えの厳しい夜だったから、80年ほどと遠い昔に道造が放った微かな気さえ受け止め易い気候条件だったのかもしれない。元晴さんによって道造は本に記されることで、冷え切る宵には気と変わり舞いだし読者を包むという仕掛けだ。そこに現れた気が読者とともに戯れるなんてことは稀なことであるのだと。そう、そのような本に出合った縁ある幸いな者だけが受け止め可能な、細やかな気を観たという妄想に支配されているのだ、ということだ。
 だから「その縁とは何か」についても思い巡らすことで、道造が他者に気付かせたいことがあるのだ、とさらに仮説を立ててしまおう。生まれたばかりの微熱はそのような、よからぬ想像・妄想を産みだした。これから記すだろう読後感想、あるいは誤読は誰にも役立たない。だが私には身体の細胞が熱を帯びてしまった源を発見する稀な機会の訪れの一つだから放置はできない、そんな気がする。
 つい一月前まで無縁で知り得なかった種田元春さんと立原道造さんを少しだけ身体化、あるいは自分史化しようとする年寄りの冷や水で、いまさら無謀な試みだと言いる。だからこのweb頁を読んでも何の益もうまれない、そんな気が繰りかえし起る。そのことをあらかじめ示しつつ下記の番号順をなぞるようには書き進まない。途中で項目を加えたりもする。書き終えた項目にはリンクを張るが、出来上がる項目はあちこち飛ぶ、まだら書きで進む。だから一気に見通せるのは1年後のような気もする。では、おかしな行為を始めます。






2016年9月20日鹿島出版会より刊行
■ 感想文 目次 (リンク有はその項目に飛びます)
 
1)種田元春さんとの出会い  
 (イ)初・ZOOM(註1)に現れた人は
    種田元春・博士註2
 (ロ)種田博士に会う前の状況

2)『立原道造の夢見た建築』を手に取り体感くる
 (イ)フリックポスト
 (ロ)博士論文を集め始めた切っ掛け
 (ハ)手に取った感触 

3)『立原道造の夢みた建築』の感想の前に  
 本を読み終えると味わった事のない発熱を感じた。自分の年譜をつくり照らし合わせると因が分るのではないか。まず、初めに自伝ふうに項目をならべてしまい、それらの内容は時間を見つけては一項目ずつ詳細を記しながら、web頁を公開し続けることにする。
(仮書きした自伝ふう項目へ

4)本題『立原道造の夢みた建築』の感想

  (できあがったら、その項目にリンクツを張ります)
 (イ) 序 一枚のスケッチから (イの感想へ
 (ロ) 第一章 出会った建築、焼きつけた風景
 (ハ) 第2章 透視図に込められた物語
 (ニ) 第3章 建築を包む理想の山
 (ホ) 第4章 田園を志向した建築観
 (へ) 第5章 想いの結晶・芸術家コロニイ
 (ト) 終章 夢のひとひら
 (チ) まとめ



(注1) 
 2020年春ごろからCOVID-19が感染爆発することによって遠隔で多数の他者と双方向で行えるテレビ会議みたなアプリケーション・ツール。ネットには以下のような説明がおちている ⇒ Zoomとは、アメリカのZoom Video Communications社が提供するネットを通じて遠隔地のユーザー間でコミュニケーションを行うオンラインミーティングツールで、Webカメラを利用し会議、チャットでのコミュニケーションも可能とある






1) 種田元春さんとの出会い

(イ)初・ZOOMに現れた人は種田元晴・博士でした


 11月28日18時からZOOMを使った建築系の会合に誘われたので、スマフォにアプリケーションを装着した。ZOOM会議を初めて体験することが出来た。18時から30分弱は画面が回転したり途切れたりし、時々人影は写るも内容がさっぱりわからない。そんなZOOM初体験であった。私が18歳になったばかりの夏、1969年8月20日。アポロ11号に乗った宇宙飛行士たちは月面着陸してしまった。彼らは船外に出て月面をぴょんぴょん飛び跳ねた。その様子は世界各地のTV受像機に配信されて多くの人が見たはずだ。そのことを思い出していた。「今回はどんなZOOM宇宙になるんだろうと目を見張っていたら黒縁の眼鏡をかけた男性が最初に現れた。
 その方が『立原道造が夢みた建築』の著者である種田元春博士だとは、その時は知る術はなかった。ZOOM宇宙の船長はアームストロングさんではなく種田元春博士であった。

 web関連ツールは更新速度が早いく目まぐるしく変わり、あっという間に古いツールは使わなくなると同時にどんなツールが有ったのかさえ忘れてしまう。新ツールが出た後それも思い出せなくなる。だから冗長になるがすこし現在のことをふくめ書くことにした。

 COVID-19による感染拡大によって、人に会うことを控えたりしている。大勢人が集まらざるを得ない各種学校では今年度の新学期はスタートから一時閉鎖された。ZOOMは誰がいつ始めたのかは知らないが、そうこうしているうちにインターネット経由テレビ電話の機能を活用した授業が始まり賛否情報がタイムラインアに表示されるようになった。会社会議や各種講演会でも多数が参加できるテレビ会議ZOOMは一気に流行りだしたようだ。
 ZOOM以前にはスカイプというTV会議用アプリケーションはあったが、各領域の現場主義者たちは授業や会議などに用いることはなかった。しかし一級建築士の私は2003年11月18日、国交省から新聞社への意図的リークによる記事で始まったアネハ事件(註3)。そのあおりを被って3年に一度だが講習受講義務が生じた。講義はちっとも面白くないテレビ教室式で、仕舞には履修テストの義務まで課さられている。その度に財布からは1.2万円ほどの受講料が抜き取られる。そんな事がありテレビ講義に関しては好感はもっていなかった。

 無線回線や機材を整えて通信料を負担すればZOOMへの参加は無料だという。でもZOOM会議の主催者が使用料を費用を負担することで、人数と時間制限が取り除かれるという。無料使用の場合は40分の使用制限が掛かる。40分ごとに新たなZOOM場を設定し直して続けることで長時間の話合いも可能だという。そいう謳い文句いなっている。使用後に感想などのアンケートに応える必要もないので重宝され、COVID-19感染拡大図をなぞるかのように、またたくまに地球規模へと使用範囲は広まっていった。

種田元春博士の似顔絵 2020年12月11日
註21982年東京生まれ。2005年法政大学工学部建築科卒業。工学博士、一級建築士。文化学院大学造形学部 建築・インテリアデザイン学科准教授

(註3)耐震強度偽装事件アネハ事件)についてはmyHPのこの記録を参照ください。

(ロ)種田博士に出会う前の状況

 今は2020年の師走だけれど、今年はCOVID-19(新コロナ)感染拡大によって、それ以前の世界社会状況は一変した。日本ではだらだら続いていた戦後を脱することなく、嘘で塗り固められた感がある政治は、新コロナ感染が拡大するなかでも主権者の多数にはよく機能していない。新コロナの出現はIT革命後の多様な成果を社会が取り入れ、活かしながら若者たちが新21世紀に合った生活様式や文化を生み出す力があり、その採用時期の遅延に対しても警鐘を鳴らすことになった。だが20年続いてる政治状況は今日も変わらない。

 マスク無しでアメリカ第一主義を推しすすめ、感染拡大を阻止しようとしなかった米国のトランプ大統領のアメリカは例外としても、世界各地では新コロナの感染拡大防止として、人に会うことに注意を促しつつ、不要不急の外出は自粛したり自主規制せよと、各国の政府は発信した。人々が活動を抑制したり一気に止めたことで、経済も社会も先が見えない大混乱を起しつづけ、もうじき1年が経とうとしている。検査数を増す施策をせず、政治家たちは主権者を安心させない。その渦中にあって日本女性の自殺者数(註4)が急速に増えてしまったり、文科省はコロナ禍で大学生・院生の旧退学者が5千人超と発表(12月18日web朝日)したとのニュースも流れた。(例年の退学者数が分からないので増えたのか判断できず)

 10年ごとに破綻する経済は間隔を短くしつつ常態化し「資本主義の終焉と歴史の危機」(註5)と言われ続けているうえに、新コロナの感染拡大が止まらぬ中で、人類は経済と共に奈落へ落ち続ける。人類史の終焉感も出て来ている。来年も感染拡大と経済の落ち込みは歯止めがかからないだろう。
 SNS(註6)場では新型感染症に関する投稿と広告でほぼ満たされ、マスコミは連日にわたり感染者数と感染源をこと細かに報道し続ける。そうして視聴率を伸ばし販売部数も伸ばし、マスゴミと陰口を叩かれながらも関連企業の社員たちは、目に隈取りをこしらえてながらガンバリ続けている。彼らも凋落の感はぬぐえないが民主主義の継続維持にまだ一役担っている面々でもある。

 私の新コロナ暮らしは10年前の東京電力福島第一原子力発電所が撒き散らした放射能のある生活に新感染症が加算されただけだ。町も私の活動も静かになり続けているだけで、さほど窮してはいない。10年来の自己規制のある暮らしはさほど変わらない。幸い放射能では即死しなかったが、新コロナに感染すると高齢者は死に至る確立が高いとささやかれる。警鐘が届ても生きていることは死ぬことなので気に成らない。感染すると我が家の周辺にも自警団もどき輩が現れ悪者・犯人扱いされたり、近隣から白い目でみられるだろう。そうなると30年来の統合失調症・患者である家族の精神に与える影響は、放射能沈着時に体験済みだ。ああなると私の手には負えない。あんな状態が再び起きるかもしれない。この1年は身内の狂気を再度膨張爆発させないために、手洗をまめにおこない外出を少しだけ控えている。
 マスクは喉が弱いので冬場の乾燥機は常に付けていた。うがいは東本大震災の被災地支援に出かけ、毒の入った被災地埃を吸いすぎ、蓄膿症で入院手術し、酷い目にあった。あれ以来以来、大阪で流行りだしたという「イソジンうがい」と鼻うがいは、まめに行っていて習慣となっている。飯食って、よく寝てストレスを貯めない、ストレスがたまりそうな場には入らない。そんな暮らしを心がけていたので、免疫力ぐーんと有るはず・・・と過信気味でも穏やかである。


(註4)自殺者数 




女性の自殺者数


(註5)水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』


(註6)SNSはweb頁そのものも含まれるが、開設はフェースブック2004年2月4日、Twitterは2006年3月21日からと言われる。
 米国でのsns状況に関す講義を故藤田博司さんから受けたのは2008年以前だった。使い始めたのはフェースブックが2011年の東日本大震災直前ツイッターが2009年11月から、YouTubeは東日本大震災直後から

2)立原道造の夢みた建築』を手に取り感体くる

(イ)フリックポスト


 2020年11月29日に種田元春博士から届いたフリックポストを開けると、一枚の丁寧にタイプされた手紙と以下の本や資料がぎっしり詰まっていた。中身を年代順に並べると以下の6点であった。

@2012年3月法政大学に提出された博士論文『立原道造を端緒とする建築家の住宅図面に表現された田園的建築感に関する研究

A2016年9月20日『立原道造が夢みた建築』鹿島出版会より刊行本

B2017年1月8日・9頁に掲載された川本三郎さんによる「自然のなかに建てられる芸術品」と見出しがついた書評 

C2019年10月号『建築ジャーナル』ー戦後住宅クロニクル第21話1973 プーライエ鯨井勇自邸 こぼしさまの住む小山 (写真:石井翔大)

D2019年10月20日 『LIXIL EYE 20OCTOBER 』6〜9頁 ナビゲーター種田元春、取材文:長井美暁、写真:石田篤 

E2020年1月 『文化服装学院円形校舎の形態構成と空間構造に関する研究』ー文化学院大学・文化学園大学短期大学紀要 第51集 別刷 

 以上が種田元春博士から送られて来た博士論文と資料である。(私がリアル時空間で会っていない種田元春博士に「博士論文を送ってほしい」とお願いしたから手に入った)


 道造像をつくろう

 私は、立原道造が残した詩集も建築に関する言説などにも触れた事がない。送っていただいた、これらの資料を理解できるのかも分からない。けれど種田博士の書き表した書籍をもとに立原道造像をさぐりながら、私なりの鏡像のような・幻影のような「道造像」をつくったりしちゃって・・・反芻しては、一人でニヤニヤしてみたくなった。
 
 「誰がも事実の道造を知らないはずだ」と思うし「過去に書き表された資料などは、道造が書いたもの以外は大雑把に言ってしまえば、私と同類なのではないか」と邪推できるからだ。道造が書いた資料が手元に有ったとしても、彼だって自身のことをすべて把握できていたはずはない。その無防備な欠落というのが人間という類の面白いところであり、文化が栄える源だろう。そのことだけは事実であるから、そこ(道造像)に近づいたと想っても、それもさらなる幻想の中の一部だったと後に気付いたりする。だから人は自らを掴もう・つくろうとし、文化的ノドの渇きを潤すためにと、再び文化・行為を重ね続けてしまう生き物だ。そう仮定すれば虚像的、幻影的である、私にとっての道造像が出来るかも知れないな・・・と思った。

 「立原道造は24歳で亡くなった夭折の詩人で建築家でもある」と言われているのだそうだ。私は彼が残した詩集は一冊も読まず、道造像づくりを始めようとしている。建築に関する設計図面や、竣工した建築そのものを観ると、設計者である建築家そのものの心理なども理解できるような大人に少しなれた・・・ような気がする。
 今世紀に入ってから20年ほどの間、全国各地に暮らす独立・建築家系若者の聞き取りや講演録を作り続けているので、若い建築家の気持ちのように限定された者達の「独特の気」は分るような気になっている。その気分は山勘だから、自分なりの道造像づくりが叶わなくても、種田博士からいただいた手元にある資料を読みこむことで、道造建築の世界を一部を発見できるかもしれない。もたもたと道造像を発掘するための道のりを体感しつつ、その後は道造の死後に成ったであろう建築の展開も幻視できるように想う。そのために貧困ではあるが道造の生とは対極にあるはずの建築経験を、私はたくさん積んできたような気もしだすのだ。

  道造像づくりの事態が立原道造像・話としても、極度にかけ離れた遠くへ飛んでいってしまわないめにも、凡人極まる私の24歳までの生と比べ、あれこれ想うのが良さそうだ。私のこれまでの建築的泥臭い生の軌跡は道造の短い生をさらに輝かしいものにさせるはずだ。そのように身構えても、その行為が功を奏しなくっても、私と道造は「どこが・どのように、異なるかのか」それ自体を知ることは、今後の若者に話を聞く「ことば悦覧(註7)」における優れた「建築家定規」を一つ手に入れることにはなる・・・はずだ。

 優れた「建築家定規」を身に付けるには、同時代を生きる優れた建築家の人生に寄り添い追い続けるのが正道だ。けれど私には生身の建築家を四六時中監視取材するほどの総合力が無い。どうしても書籍など他者がつくった紙媒体である二次情報を頼りにせざるを得ない。しかし今だれが生身の道造に寄り添うことができるのか、亡くなって既に80年ほど経っている。80年前はYouTubeがないので道造の立ち居振る舞いを肉眼で観たり、肉声を自分の耳で聞ける者は居ない。それが現状だ。だから二次情報に二次情報を重ねても道造像は立ち現れない。それなら幻視・幻想をもって立ち上げるのが好いと思う。道造が残した資料を観ることでしか生まれない彼の像と、二次資料をもとに描き出す道造像はかなり異なるのは当然だ。では読者などはどのようにその差異を修正するのか、する必要があるのか。道造研究専門者に修正はできるかもしれない。私にはその術はない。徒手空拳で道造像つくりに挑んでも空転するが、それもいいだろう。いずれにしても道造像づくりが愚行で危うい行為になるけで、それも俺らしい。

 立原道造と私の年の差は37歳だ。私の「祖父の弟」と言えるほどの年齢の人だ。20世紀に広まった結核菌が地上になければ道造は107歳で生きていた可能性だってあった。「私と年齢差37歳の人は居るか〜」身辺を見渡してみても見つからない。夭折の建築家というから既にこの世には存在しない。だけれど数百年も、前に生きていた人でもない。私は好きで「理想の建築家」の一人としている重源(註8)は、800歳ほども年上の僧だ。武士たちの権勢が成立したばかりの社会に生きた、建築家無き時代の建築家だと想っているので、私は好き勝手に重源像を想像しちゃって、自分の無能さを照らし合わせては、ニヤニヤして久しい。

 聞き取り活動をしてると、こんなこともある。生まれて幾久しく共に暮す両親の事を詳細に語れる子供に会ったことがない。「自分は知らないので母親の聞き取りをしてほしい」と願われ、戦後をたくましく生き抜いていた今は老女となった女性の人生の一部始終を聞き取り、web頁を差し上げたことはある。
 「ことば悦覧」のため方々に出かけて行き、聞き取り作業をしていると、傍で聞き耳を立てているパートナーが「あんたってそういう人だったの」と言い争うような、驚いたような空気が流れることもあった。
 自分の胸に手を当てて「俺は、唯一パートナーの両親の生きざまを詳細に語れるか」それを問うてみるとすぐに分かるだろう。傍で生きている生身の親族のことだってさっぱり知らずに、自分が作り出している義理の両親・幻想像と付き合っていることが多いのだ。道造に会った事も見た事も資料を集めて読んだことも無い私が道造像を描く術は『立原道造が夢みた建築』を一冊読み込んで幻想するしかない。「それは間違えた行為だ」と言い切れるのは道造研究家しかいない。
 さらに言えば、例え奇怪な建築家立原道造像を私がつくったとしても、既に世にある揺るぎのない道造像が変わるわけでもない。だから老後の置き土産の一つとし、心おきなく私なりの道造像をこの手の中でつくっても誰に迷惑をかけることにもならない。その事は明らかだと思う。あなたのように身近な人でさえ幻想像をつくりだし、更新する機会も設けず、ぼんやりした幻想像と付き合い続け、死んでいける、その人は幸いなのではないか。
 そう言い訳しつつ、道造の似顔絵を描きだした。誰が道造の似顔絵を描いても、翌日さらに描いても、写真に撮って、並べたとしても、一枚一枚違うはずだ。中には「こりゃ違う」と、とっさに決断し破り捨ててしまう人だっているだろう。違って当然なのだけれど血迷う。受け手の、作り手の、ルーズさ、あそびが少ないと、発見の道は閉ざされ、お互いの生を苦しめる結果にしかならない。





 届いたフリックポストと中身




 (註)右端は後に知り加えたコピーで2012年6月に種田さんが法政大学書籍に発表された「建築学生はだだ設計演習に取り組むがかりが能じゃない」



























(註7)「ことば悦覧」とは私が2008年からはじめた他者による推薦があって、独立系建築家を訪ねていき、「お前の家は俺の家だから泊めろ」と押しかけていき人生や建築を聞き取る行為









(註8)重源は私が理想の建築家の一人
  浄土寺浄土堂を訪ね作った句
 玄円に 妄夏を盛る 浄土堂

 重源似顔絵 世に重源像も数ある



立原道造の似顔絵

博士論文を集め始めた切っ掛け

 工業高校卒の私は博士論文がどのように書かれて刊行されるのかさえ知らなかった。博士と称される人に成る過程を知ったのは、長男と長女が博士号を取得する姿を傍で観たからだ。二人は地球上で誰も到達していない知の最先端に立つたのだが、その道程は孤独でアカデミック・ハラスメントに遭う可能性もある、困難で厄介な長い時が要るものであった。博士号を取得しても労の多い割には日本の社会ではその価値が認識されず、博士を生かし社会が豊かになるドクター活用法も、つくりさせてはいない。博士号を取得しても運が良ければ大学の教員になれるぐらいで、労と豊富な知性の割にはさほど月給は高くはない。官公庁でも民間会社でも博士たちを生かす場を持たないのは上司たちが博士に劣等感をもっていたり、扱い方に無知だったりするからだろう。そういうことで日本において若者が博士課程に進もうとするのは、本人も極めて危険な人生の選択の一つになり、益が少ないことを覚悟せねばならない。その事もあまり知られていない。

 だが博士論文を書きあげることほど、この世で最も素晴らしい文化行為に比類する事態もない。一方「建築系大学教員は著名なプロフェッサーアーキテクトの下で丁稚を長年していると、ご褒美として博士論文が無くても教員になる人は居るんですよ」そう聞かされたこともある。それは事実かどうかは知る術がない。

 長男は近世の災害と社会をテーマに博士論文を書いた。分厚いし一部内容にが崩し字がふくまれるので、読めなかったけれど、全て目を通した。博士号取得後も論文が刊行される度にもらって読んだ。最初は日本語で書いてあるのに関わらず意味不明だったが、長年読み続けると分かるようになるものだ。それは単に日本語で書いてあるからだが長女は医学で博士号を取得したので、論文は雑誌発表を兼ねた英文だった。もらったけれど内容は分らなかった。
 長男は幸いにも大学の教員になれたが、長女は研究と医療のどちらにも挑もうとしてたが、そのような女性に機会を与える場が、日本には無い。また長年話を聞いていると医師の世界はいまだ男尊女卑が甚だしい世界の一つだと断言できる。で、西欧に移民し思い通りの活動をすることを私はすすめた。そして娘はいま西欧で暮らしている。かの地は人種差別と男尊女卑と年齢差別が全くないと言う。スカイプとメールをフル活用し医療と研究の仕事を得てしまった。その時ほどこの30年ほどのIT革命の真の威力を実感したこともない。娘は今、蔓延したcovid19対応と癌治療を同時にこなし研究も続けている。

 このような身内の事情を書いたのは私が誰彼かまわず「博士論文ちょうだい!」と言ってしまうようになった心情をすこし分かっていただくためだ。種田元春博士の論文以前にも博士論文いただき何冊も持っている。例えば、2001年12月8日に開いた「建築あそび」(記録へ)では講師であった五十嵐太郎さんの博士論文『新宗教と巨大建築』を簡略化し講談社学術新書になっていた、それを五十嵐さんから手渡しでいただいた。(他の「建築あそび講演記録も FULL CHINで今も公開中)

 難しい論文で長い間積ん読しないと理解できないものもある。その事例を一つ紹介しよう。日本語で書いてあるけれど理解できない本はたくさんある。20年前にいただいた花田達朗先生の著書の多くは、その時は全く理解できなかった。けれど20年ほど付き合うあいだに理解できるようになった。早稲田大学ジャーナリズム研究所の招聘平研究員に招かれたり、お酒を呑み交わしたりしているうちに自然に理解できるようになっている。著者と付き合うと分るようになり、改めて読んでみると理解できるから、時の流れは不思議な力を持っていると知る。
 いただいた博士論文でも、その時は理解できなくっても積ん読していて、思い出したとき、必要になった時が来たら読むと理解できることは多い。


手に取った感触

 繰り返しになるが、種田元春博士の博士論文『立原道造を端緒とする建築家の住宅図面に表現された田園的建築感に関する研究』をもとに一般書籍になり、2016年9月20日鹿島出版会より刊行された本が『立原道造が夢みた建築』である。
 この本を手にしてページを開き「序 一枚のスケッチから」を読むとすぐに分かることだが、建築系の本にしてはとても読みやすい!この本、いいじゃないか!と驚いた。章立てや仕舞の方には立原道造年譜、関係する地図、多量の参考文献情報、図の出典について、さらに人名索引が簡潔にまとめられていた。とっさに「立原道造の優れた評伝じゃ!」と思った。評伝を書き上げる苦労の数々、そして書籍化されるまでの道のりを想い、世に有る見つけにくいはずの宝物を一つ手に入れた。

 封筒が内面に緩衝材が貼ってあるフリックポストで、厚みと重さ、表面が肌のような感触が、不思議な何かを連れてきた。年譜をぱら見し1938年に目がとまった。立原道造が亡くなる1年前、タイピスト水戸部アサイと愛し合うようになるに。最初に愛し合った女性が、入社しばかりの設計事務所の女性タイピストだったのか〜!酷く驚いて「なんだ俺の青春の思いでと重なるじゃん・・・とんでもない本をもらっちまったもんだ・・・」と、瞬時に本を閉じ袋に戻して寝た。(本を閉じた理由は後に書く予定だ)

 ZOOM縁が生まれるのは今世紀に入ってからの不思議な事態の一つであると思う。盛んにTI革命と言われた1995年から25年経つけれど、PCが社会に普及し現在はスマートフォンという電話やTV受像機とPCが一体化した、ポケットに入る小さな情報機器に変わっている。アプリケーションの数もたくさんあるようだが全貌を知らない。
 初ZOOM会議の様子をモニターを通して見ていると、種田博士は気に掛かる言葉を聞き取るたびに、高速タッチであっというまに検索エンジンを駆使してモニターに表示する。IT手品師みたいな姿に見えてしまう、がそういう姿は20年前に出会った田中浩也さんもそうして、PCと腕が一体化したかサイボーグでもあるかのような所作をし続けていたので、見慣れていた。とは言え、スマフォ画面にそのような姿が現れるのは不意を突かれたようで不思議な気持ちだった。そう、20年前は少数だったIT手品師は一般化しどこにでも彼らは住んでいて、PCと一体化したように口を動かし肉声を発し続ける、新人類が現れている。ますますそういう傾向に拍車はかかり、どうなるのかと、死んでは居られないと興奮気味になるばかりだ。

 しかしIT革命が置き去りにしているのは、リアル場の貧困の増加だったりする。IT機器を使えば使うほど、社会全体が急激に貧しくなっていたようにも思う。IT革命によって露わになった世界の貧困化を、その因をIT登場に求める安心してしまうのはよくない。今はそう判断しておく。
 ZOOM会議で種田元春博士に会っただけなのに、目の前に本がやって来た。博士が長年費やし、この世に生まれ来た著書『立原道造の夢みた建築』が目の前に届いてしまったのは、IT革命がもたらす幸いの一つで、具体的実例なのだ。そこで、道造と私の生の軌跡を攪拌してしまい、私が道造像をつくりだしたとしても、TI革命後の社会では、ごく当たり前の暮らし方、生きる方法になった。そういう実感こそがTI革命のもたらす、さらに人の意識の変容だから、それを甘受し楽しむことが、人に暮らしというものだ。 


3)『立原道造の夢みた建築』の感想の前に
       

 読み終えると味わった事のない発熱を感じたあの事実。自分の年譜をつくり照らし合わせると「熱」がうまれた因が分るのではないか。まず先に、自伝ふう項目をならべてしまい、そのご時間を見つけて一項目ずつweb公開しよう。

 ここまできて、気付くのが遅すすぎた。私のように大学を経て建築家正道を歩まず、外道に入り自分で決めては、自由になんでもやってみた、そんな道ををまっしぐらに進んで来た者に会ったことがない。建築家と言われる者は大概学部を卒業し修士課程を経ていた。あるいは卒業後、名あるいは大きな組織事務所で経験を積み重ねたのち独立系建築家となる。そのような者たちばかりだった。独学で名をなす安藤さんの独学は自称であって、大阪圏内の建築コロニーの底力に支えられ助走に加速が増した結果だ。西沢文隆さんの跡を継いでいた「豊和塾」の塾長の渡辺豊和さんに直に聞いたが「彼は第一期生で教えた。暇さえあれば事務所に、ヨー来おった」と。だから豊和塾を含む関西の水などでど揉み鍛え育てられたのだ。それは村野藤吾さんが始めた私塾、「村野塾」に源流がある。さかのぼれば「適塾」という源泉にだって辿り着くような大阪の空気なのだ。

 それにしても、私は無学である。無学。中学で土方バイトを経て建築家と呼ばれるようになるが、そういう者に成ろうとはしてなかったし、建築家と呼ばれるとは夢にも思っていなかった。どうしてそう呼ばれるようになったかも、知りたいので道造像をつくりながら、並走するように自伝ふう記録もつくってみたい。

 今年夏。福島県庁の建築課の方に「おい!福島県の三奇人になっているぞ」と呼び止められた。五十嵐太郎さんが著した福島県の三奇人の一人になっているというので、雑誌のコピーを渡された。以前にも五十嵐太郎先生には雑事をふくめいろいろな雑誌などに書いていただいた。

 多様な媒体で自分という人間が分解解析されならが、幾重にも増殖し続けるのは歓迎だ。寺山修司の影響大なのだが、例えば彼は「忘れ去られる人になるより憎まれつづけて忘れことが出来ない人間になれと」も言っていたかも、聞いた気がする。自分の像が多様に増殖することを「面白い」と思えるのも人の特性だ。他者が私をどのように受けとめ、思いきり好き勝手に表現しようが、それは著者に与えられた表現の自由というもので、何を書いてもらっても気に成らない。他所では名誉棄損で訴えることもあるが、そういう事態になるのは稀だろう。

 五十嵐太郎博士に「奇人」と言わしめた私は、自分が想うより変わった建築人生を送り続けているのだろうか・・・かもしれない。そうして「お前は変な人生」そうなだと、教えてもらえることも私の人生の愉楽・宝の一つである。巷にある私の像とこれから書き続けるだろう自伝ふうweb記録を撚り合わせて、さらに他者の創造の泉に投げ入れ何かの足しに資するのもよいではないか。

 そういうことで『立原道造の夢みた建築』を読み込んでいると「さらに異なる自分像を創造できるかもしれない」と思った。だからこの機会に乗じ、長くはなると思うが自伝ふうに記す気に成ったのだ。それを書き続けると私の身体を通した1970年以降の日本のある断面が少し見えてくるような気もする。人はどこに生きているのか分からないものだが、その思いはさらに加速している。情報革命後の25年後の現在は、過去・現在・未来などが瞬く間に、IT技術を通過して攪拌される。新たな時が攪拌され続ける様に出会うばかりだ。
 IT革命の成果の一つと言えそうだが、時は進み続ける事態なのだと考える世紀は終わっていたようで、新しい時間に関する態度を手に入れたように想う。そこで奇妙な自伝ふうなものに辿り着けるだろうと思う。まずは先に項目だけを並べておき、攪拌した時間や攪拌された自分の過去を記しておきたい。
(記録作成終了制限時間は2021年以内)


(本題 『立原道造の夢みた建築』
     (イ) 序 一枚のスケッチから イの感想へつづく 

















種田元春著『立原道造の夢みた建築』について


 2020年1月14日下・自撮動画の説明。
今年2本目の感想文を書きはじめた。1本目は渡辺菊眞さんが刊行された「建築書」についてでweb公開した。二本目は種田元春著『立原道造の夢みた建築』についてで数日前から書き始めたばかり。菊眞本の感想文も長くなったが、元晴本の感想も長くなりそうだ。それは自分の人生を書いてしまうような気がするからだ。だから書いている途中で放り出さないため自撮動画を撮って事前公開してしまおう。SNS時代は長い文章など迷惑なものだと想うがweb文はオンデマンドなのでさほど心配はいらない。2020年12月14








自伝ふう項目  それぞれの頁が出来次第リンクをはります

1970年代
 (ア)1970年3月社会人になり兵庫県西宮市で1ヶ月J ・T受ける
 (イ)ゼネコン設計部に配属される
 (ウ)恵比寿駅前7階ビルは寮付き東京支店転勤を命ぜられる
 (エ)6階の寮から4階の設計部への出社だが、毎日遅刻 
 (オ)透視図を習うために原宿駅傍の夜学に通う
 (カ)タイピスト娘さんに製図台山盛りのバラの花束をもらう。20歳誕生日
 (キ)国立代々木競技場第一体育館はmyラブラブ最適地
 (ク)映画を観ると寝てしまう
 (ケ)寺山修司著『家出のすすめ』を買い読みふける
 (コ)21歳3カ月で結婚し、新居は代々木駅と新宿南口が最寄り駅
 (サ)新妻に家出され、追いかけて引き留める
 (シ)調布市菊野台に引っ越す
 (ス)1974年正月すぎ長男誕生
 (セ)24歳、敷地2haシュークリーム工場を設計し、泣きながら監理
 ( )1974年二級建築士製図試験で落ちる。都庁に聞きにいく
 ( )1975年3月31日東京都にて二級建築士登録する
 ( )1976年夏、長女生まれる
 ( )1978年春 次男生まれる
 (ソ)一級建築士にも合格しかつ、ゼネコン設計部在席10年になり退社
 
       
1980年代
 (タ)1980年2月20日福島市に戻る
 ( )同年5月30日一級建築士免許証を退職金で登録する
   1979年に合格したけど登録料が無かった
 (チ)東松照明写真展実行委員になり会場設計する
 (ツ)朝日新聞福島版に週一で一年間イラストを担当する
 (テ)1984年夏 土湯温泉町に各地から若者集めイベントを主催する
    身体表現とアートイベントは刑事事件に発展し逮捕者をだす始末
    福嶋泰樹の朗読で中原中也の曇天を体験する 
 (ト)1984年10月20日コンクリートの自邸が完成し引っ越す
 (ナ)1984年11月、第一回建築あそび。ゲスト建築家の毛綱モン太氏
 (ニ)建築あそびin旅館 「日本人と漂白について」
    村上護さんを講師に種田山頭火と漂白などについて
 (  )無名だった勅使河原三郎さん宮田佳子さんに会う
     KARASU福島公演を手伝うな、どそも後交流が続いた
 (ヌ)毛綱もん太さん建築学会賞受賞、市谷で祝う会があり
    村上護さん六角鬼丈さんや渡辺豊和さんなどと二次会
    状況劇場(通称赤テント芝居)福島市公演を毎年手伝うようになる
 ( )my建築できる敷地10坪 ポストモダン・パロディ建築にする
   1階画廊、2階ジャズ喫茶 3階住居
   多様な表現者たちに出会う
 (ネ)87渡辺豊和さん福島市と新潟市で講演する
    追っかけし佐渡にも渡りウニを食べる
 ( )1988年商店建築編集長にmy建築発掘され掲載される

1990年代
 (ノ)1991年奈良に在る渡辺豊和さん自邸に2週間泊めてもらう
    初期・渡辺建築をめぐる間に、布野修司さんの京大就任祝参加 
    以後、渡辺豊和さんを団長にしメキシコ・チベット
    ・チャンティガー・アンコールワット・などの遺跡をめぐる
 (ハ)1994年3月カンボジアで渡辺豊和さんにmy建築をみせる
    「帰国したら建築文化へ写真を送れ」と言われ送る
 (ヒ)1994年8月家人が統合失調症を患っていると気付く 
 (フ) 同上 建築文化富重編集長が来福されmy建築を観て回る
 (ヘ) 同上 植田実さん原野りささんが来福されてmy建築を観て回る
 (ホ)1994年建築文化11月号に特集される。タイトルが「自生する建築へ」
    編集長に「建築が出来たら連絡せよ」と言われる
 (マ)1995年阪神淡路大震災が起きる建築を造り続けるか悩む
    地下鉄サリン事件も起き全共闘世代後露見さらに悩む
 (ミ)1997年『建築文化』2月号の表紙に採用される
    寺山修司演劇作品『百年の孤独』の舞台をままmy建築化に成功作
 ( )首都機能移転・新都白河の講演会を10月28、29日開催
 ( )家人を精神病院に入院させることが出来た
 ( )家人を別病院に再入院させる
    以降、治らない病と諦め自分が仕事を一時やめて診ることに決める

2000年代
 ( )田中浩也さんに会う たびたび代々木の家に泊めてもらう
   多次元フォトコラージュのヘビーユーザーとなる
   六本木ヒルズ美術館にて山手線の主なる駅周辺を展示する
   ストリュートビューが現れフォトコラージュ人気落ちとなる
 ( )HP開設 fullchinとした。茶水の画材屋に白眼視される 
 ( )花田達朗先生に仙台で会う 東大を退官され早稲田大学へ
    この俺が、ジャーナリズム研究所の招聘研究員となる
 ( )詩 寺山修司のこと。 知人が中原中也賞を受賞
    1年待って誰も祝わないので、my建築を会場に祝ってやる

2010年代
 ( ) 東日本大震災が起き 福島市にも放射能沈着する
 ( )被災直後・新建築社から原稿依頼があり、現実・ままを寄稿
 ( )長男と仲間たちと宮城県内の被災地を回る
 ( )石巻市本間家土蔵再生支援しだす
 ( )気仙沼市唐桑町鮪立港づくりの支援しだす
 ( )宮城大学竹内泰先生に出会い支援をし続けてもらう
 ( )建築学会の『建築雑紙』寄稿依頼、2度あり書く
 ( )県立滋賀大学DANNWASITUに招待され話す 学生の家に泊まり込む
    『雑口罵乱F』に内容が掲載される
 ( )長女 西欧に移民する
 ( )放射能によって家人、三度目の統合失調症激悪化の引き籠り
    家じゅうガムテープアートで埋め尽くされる
    手に負えず長男とともに手足を縛り精神病院に
    2月ほど入院、退院後は正常の路をひらすら進んでいる
 ( )福島市の除染監理員になり除染作業をする
    放射能沈着の現実とその実態として原発事故後を実体験する
 ( )長男、国会の参考人に呼ばれ、さらにユネスコ本部にも呼ばれ
    311被災地および古建築の文化財レスキューの現状を伝える 

2020年代
 ( )2020年 COVIDー19による感染症拡大する
 ( )2020年12月 ZOOM会議にて種田元春博士に会う
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