HOME 佐藤敏宏 shirasu 2024・01・17 無学実践派 建築士として 独立前史

1958年小学校に。入学したのは分校だった。

同級生10人
複式学級



←中2から土方バイトした建築はあれから58数年、旧電電公社花園支局!今日(2023年12月27日)も健在。←高校合格発表は現場を抜け出して見にいった。1967年4月県立工業高等学校建築科入学する
               周りの様子を動画で観る


入社当日よど号ハイジャック事件 大阪万国博覧会 3月14日
東京支店設計部に配属となる(10年で辞めると決意していた)
本社:兵庫県西宮市従業員1000人ほど 東京支店設計部8名
本社設計部員・安藤さん事務所に派遣され酷使、横目で見聞き
      住吉の長屋は部員の手描き図 酷い人だと皆
      権威指向と見下しが同居している
ゼネコン設計部員は有名事務所から無名事務所まで派遣され図面を書く、あるいは原図をもらってきて図面を描いて申請値段合わせまで全て行い仕事を受注する。

千葉県山武郡 2023年現在・稼働中 
24才泣きながら設計と現場監理をし会社始まって以来の高い利益を出しボーナスが2人分だった。製図のアルバイトをしつつ家族を養う。

高卒で一級建築士の資格をえるためには、3年の実務経験を経、2級建築士を受験する(一度製図で落ちた)合格後、実務4年で一級建築士の受験資格を得て1度の試験で通過するも登録せず。10年を経て退社。

1980年代 一級建築士に合格し(1977?) 1980年2月福島市に戻る     TAF設計を主宰 「建築あそび─俺の家はお前の家 お前の家は俺の家」活動始める 


日当500円の土方バイト代で買う
建築設計とは何かを知り一級建築士を目指す
16才 人生初建築書を買う
高校の先生に冷笑・馬鹿にされる

『行動建築論─メタボリズムの美学』
1967年6月刊行650円

大高正人、槇文彦、菊竹清訓、黒川紀章、川添登、粟津潔

日本万国博覧会(EXPO70)
タカラ・ビューテイリオン

中銀カプセルタワービル(140戸)(1972〜2022年)

寺山修司本に出会う(1972年)
敗戦後日本人の自立をアジ調
俺がやってきたことだが書いてあった

『花粉航海』処女句集を手に入れる

・寺山修司記念館(三沢市)
米軍基地、六ケ所村、斗南藩

粟津潔自邸(原広司設計)を訪ねると「俺が記念館の設計した」と話。
中村正義自邸「直方体の森」に泊る
・三浦雅士『寺山修司ー鏡の中の言葉』『寺山修司の宇宙』二冊とも1992年5月4日刊行

1983年刊行二刷1988年1月
『芸能としての建築』
建築家が書いた「まともな本があった!」
渡辺豊和さんに1985年12月5日毛綱モン太さん学会賞受賞祝う会で会う

1987年渡辺さん福島市講演参加
佐渡島に渡り能舞台、銀山など観る

1991年秋2週間ほど渡辺さんの家に泊めてもらい初期建築をしらみつぶしに観る
次男・渡辺菊眞展体験記
1983年刊行『大和に眠る太陽の都』お勧め


1980年5月建築事務所協会の方に「3年間働け」言われたが
1年半しかもたず独立。



福島市に児童センター



あまり覚えてないが県家畜市場と児童センターは使われている(43年後も現役)
1982年TAF設計の事務所登録をする。

1982年12月18〜26日「東松照明の世界・展 いま!!」34人の実行員の1人として参加(佐藤 前列左 30才)朝日新聞福島版1982年12月8日には「新しい空間使用集団と記されている。実行委員34名と共に.オリジナルプリント554枚を文化センターに展示。記念写真→

1984年10月20日
 自邸コンクリートボックス1住み始める
              (確認申請済 1984・2・3) 

 建築の理想は路上である

 建築あそび ちいさい公共圏(花田達朗著)開始

 1984年から佐藤が自・他の空間を使い
 共に駄弁る・喰らう・寝る、聞き取る、単に記録する行為
 自邸を造った1984年秋から開始(ゲスト毛綱氏)
 活動内容の記録は2000年〜WEBで発信中

■2008年5月以降ことば悦覧開始
 他者の家や事務所などに寝泊り聞き取る活動
 「お前の家は俺の家」
 住経験つまり「星座型居住」の実践と思い込んでいる
 他者空間の場合は「ことば悦覧」と名付けWEB記録公開中
波及していった
阿部さんのハウスレクチャー
・デザインイースト ・ライブラウンドアバウトジャーナル 
・滋賀県大談話室 ・住経験インタビューのすすめ

1983年1月から1年間 朝日新聞福島版アドリブ帳 絵連載


1984年7月14日
 毎日新聞福島版 記事を読む
同年9月12日 毎日新聞東北版 寄稿記事を読む


1984年10月20日からBOX1に住み始める

1984年11月17日朝日新聞福島版  記事を読む 
1985年11月号 タウン誌『信夫野』  記事を読む 


1984年7月27〜29日路上で寝る駄弁る参加者は温泉宿の空き室に泊る


記録集刊行1984年10月1日 840円 売れず
勅使河原三郎は買ったと直に聞いた。交流は10年間ほど続いた

温泉客にステージが乗っ取られるなど珍事多数
最終日警察に踏み込まれる逮捕者をだす


1985年9月22日中曽根総理 竹下蔵相のもとプラザ合意
日本の経済バブル時代のが始まる。
1987年渡辺豊和さん福島市で公演する (絵WEB地図より)
「遊びに行くので泊めてほしい」快諾された。91年9月実行


1988年7月商店建築増刊号 BOx2(1987年2月竣工)
 1階が貸しギャラリーであった。多数の表現者と知り合い語り合う
大野一雄、森山大道、内藤正敏 浜田剛史、イトウターリ、斎藤隆の日本画と瀬戸正人のオリジナルプリントを買う(後・県美術館に寄贈)

1990年12月21日
福島大学経済学部から講演依頼あり翌年1月24日13〜14:30分

1991年9月 1991年9月 渡辺豊和さんの家に2週間泊り初期建築などを観て回る
大島哲蔵さんとも知り合い付き合いだす

 本間都さんの講演も

2002年6月大島哲蔵さん亡くなる(54才)葬式の帰り 
2002年6月10日原宿のイデフィカーレのイベントに参加し南泰裕さんと知り合う。翌日南さん建築パークハウスの現場を見学させてもらい体験記を書く。

■東京在住の建築家の方々と知り合いになる機会が到来した。絵7月20日パークハウス屋上にて右南さん。

2003年6月30日大島哲蔵評論集『SQUAttER』刊行される10年ほどの間に大島さんは仲間を連れて何度も我が家で「建築あそび」を行ったが記録はのこしていない。

BOX12に泊ってもらう 建築あそびをモデルに、阿部仁史さんが仙台卸町で「ハウスレクチャー」を開催しだす。 大阪DE00。 県滋賀大ではdannwasitu 。東京ではライブラウンドアバウトジャーナルが開かれる。

2003年9月25日エディフカーレ賞をいただく
 
2000年以降
の建築あそび WEB発信始める  (2013/02/03〜 新FULL CHIN 

2001年8月4日 田中浩也さん講師 ワイワイし共に喰らう
@佐藤敏宏自邸  記録を読む 

2000年8月5日 山中新太郎さん講師 集合写真
@佐藤敏宏自邸 記録を読む 

2004年3月27日 石川初さん講師 ワイワイ共に寝る
@佐藤敏宏自邸  記録を読む

 新都白河発表する
      
1982年 『妻たちの思秋期』刊行ショックを受ける。1995年『近代家族の終焉』。2002年『ビルディングタイプの解剖学』。2003年『SQUAttER』

2020年花田達朗コレクション第三巻『公共圏』。2019年『住経験インタビューのすすめ』。1994年『狭山池と重源上人』。

2011年3・11 東日本大震災発生する 被災地支援活動しまくる
 近世史研究家のmy長男と被災地支援で協働する(建築+古文書)
3・11後 初 2019年9月10日京都大学柳沢究研究室当日の記録を読む

2020年新型コロナ襲来 


2023年7月4日 講師 森純平さん 家成俊勝さん 所員の方々 聞き手:岡田栄造さん+佐藤
@ドットアーキテクツ 全記録を読む 


集合写真 この日は9時半半 駄弁り 共に喰らう時間が無かった



  ちいさい公共圏みつけた   
 
花田達朗著 
(建設業界2002年12月号 p46〜47写し

『ちいさい秋みつけた』という歌がある。

 だれかさんが だれかさんが
 
れかさんがみつけた
 ちいさい秋 
いさい
 
ちいさい    みつけ た

 サトウハチロー作詞、田中喜直作曲のその歌はボニージャックスが歌って、昭和37年の第3回日本レコード大賞童謡賞を受賞した。ご存じの方も多いだろう。「ちいさい秋」はだれでもがみつけるものではない。だれかがふとした拍子にみつけるものだ。だれがみつけるかわからない。そのふとした拍子を招き入れる軽い構えが必要なのだ。


 秋深まる福島を訪れた。福島在住の建築家・佐藤敏宏さんが主宰する「
建築あそび」に招かれ、そこで話をするためである。ご自宅の「BOX1」のコンクリート打ちはなしの外壁には色づいた蔦の葉がさざ波のように揺れていた。


 佐藤さんはユニークな建築家である。考え方も面白いが、つくった住宅が面白い。施主の注文が一千万円の予算だったことから、それを視覚化して、上から見れば1○○○の形をした住宅が設計された。つまり、丸い単位が三つ横に並び、外廊下でつながり、端に台所などの共有部が配置されている。この「千万家」は住む人にユニークな住み方を要求し、住む側にも家族のあり方を問うことになっただろう。けれども、結局住む側がその変わった住宅を使いこなし、住む人と建っている住宅は互角の関係を作って、お互い楽しんでいるらしいのである。


 彼は建築以外のものもつくり出している。それが「建築あそび」と名づけられた場である。そこにはいろいろな人々、老若男女が集まる。彼の友人や知人施主さん夫妻などが近隣から、ホームページで知り合ったサイバーフレンドやさらにその知り合いなどが遠方から集まってくる。だから、お互いほとんど初対面である。建築に関心のある人達が多いようだが、必ずしもみんながそうではない。そこにスピーカーが招かれ、その話が触媒となって遊び場が構築されるのである。触媒はほかにもあって、地元福島の地酒とおいしい料理が用意されている。

 
その場は公共圏に他ならない。見知らぬ者同士が集まり、自己紹介もそこそこに一つの話を聴き、あるいはプレゼンテーションを見て、自由に討論するのである。オープンな言葉の交通圏が立ちあがるのである。そこにはそういう場をシェアーしたいという意識だけが共有されている。 

 私はその場で公共圏というテーマについて話をした。あるまとまりのある講義として組み立てて話をした。ということは、公共圏と呼ぶことの出来る空間で、公共圏について語るという二重のことをやってみたことになる。公共圏を語りつつ公共圏そのものを実際化する、あるいは公共圏のなかに身をおいて公共圏を語るということである。その二重性は興味深い経験だっ。そういう意味ある経験はいかなる方向へであれ思考を刺激してくれるものなのだ。
 
公共圏概念と建築意識が遭遇し交叉したところに思考の断片が落ちてくる。そこからいくつかを拾ってみよう。

最初の断片−。公共圏と建築は似たところがある。どちらも空間として感じられるが、しかし入れ物や容器ではない。両方ともそこに社会関係をつくりだしもするが、同時に社会関係からそれらがつくり出され、つくり直されもする。公共圏も建築も未決定の動的な存在である存在というよりも過程であろう。そこに展開される社会関係によって生かされもするし殺されもする。住宅に住まうということと、公共圏に住まうということは住まうという存在のあり方において重なり合っている。生きられる公共圏と生きられる建築、つまりオーセンティックな公共圏と建築という視点が欠かせないのである。




 次に、住宅は通常プライベートな空間であるが、そこがパブリックな空間になることがある。いや、住宅はそのような可能性に開かれたものでなけらばならない、プライベートな世界に固定され閉鎖されずに、公共圏の取り込みを可能にするような住宅とはどのようなものだろうか。佐藤邸の「建築あそび」はまるでストリートの出会いのようだ。偶然に道で出会った人々が突然議論を始めるようなものである。もちろん口論ではなく、理性的な言葉の交換によってである。その舞台を用意できるような可変的な住宅こそが住まうべき住宅に値するのではないだろうか

 もうひとつの断片−。
公共圏はだれのものでもない。どこにでも発生する。それはそもそも所有されないし、私有されるべきものでもない。それが原理である。しかし、建築ないし住宅はどうだろうか。それは地表に固定されて、土地に結びつき、不動産と呼ばれ、所有権が設定され、おおむね私有物である。マイ所有物なのである。この了解事項は果たして今後も当たり前のこととして放置されてよいであろうか。所有しない住宅、私有化されない住宅という可能性はないのか。テンポラリーにそのスペースを占有するとうい考え方と仕組みが発明できたら面白いと思う。それが住宅で実現できるなら、今世紀は無所有の原理に向かって一歩を踏み出すことが出来るかもしれない。私自身、すまうべき住宅を探している。ついに見つけられずに死ぬのではないかと思っている。
 

さて私の見つけたちいさい公共圏。ちいさいからこそいろんなことを考えさせてくれる。他者との出会いを美酒が間を取り持ってくれる。おそらくこうした小さい公共圏は無数にあるのであろう。すべてを知る必要はない。自分がみつけたものと付き合っていけばよい。


 再び佐藤さんはユニークな建築家である。福島市でも一夜にして60センチもの雪が積もることがあるという。そうすると、かれは自宅の雪掻きもそこそこに施主さんの家へ出かけて行って、さりげなく
トップライトの雪下ろしをしてくる建築が人々の社会関係のなかに配置され呼吸しているのだ。次に来る施主さんがどういう注文を出し、彼がどういう住宅をつくるか、それを見るのを楽しみにしている。
(参照:「公共圏に吹く風


2001年8月22日 花田達朗先生に会う 翌日の佐藤の日記
8月23日  昨夜は仙台my子の家に泊まり。バスで福島に戻る。乗客は3人でした。郵便局前からトヘトヘと我が家まで歩きます。民家の庭先には昨夜の台風の雨水が軽薄な色のポリゴミバケツにタップリと、嘘のような青空を映しています。小さなゴミ箱の海は軒樋を用い集めた雨水の海ですが、一人前以上に夏の名残をおしんで澄み切っていていいものです。

ぅん ゴミ わすれおり

昨日は台風が静岡当たりにいる頃、我が家を出て仙台に向かいました。蟹本店の看板のような大きなバスのワイパーが、断続的に叩きつける雨をかきなぐる・・なぐるで高速道を走るのです。乗客が9人ほどと少なくて、元気で大きなワイパーの様子は空元気に見えるしまっです。8月22日〜9月1日まで阿部仁史さんの個展が開かれていますので覗きに行ってきました。場所は仙台駅前にあるビルの1階のにある「GALERY5番街」です。Living in Sendaiという名の個展。昨夜はオープニングシンポがありました。「仙台での建築の実践を通して、仙台に住まうことの意味と可能性について問いかける」と案内の葉書には書いてあります。シンポ人は阿部仁史さん・五十嵐太郎さん・小野田泰明さん・中隆介さん・佐藤正幸さん熱海俊一さんの6名でした。

会場は街角のモニャーと曲がった幅2.7メーターほどの隙間みたいなもので向かいの陸橋下ののほうが広々していました。台風が来てるので外は止めて、2階の窓際に腰を下ろして待っていたら、目の前のテーブルが討論用の台だった。真後ろで2時間半ほど熱心に聞いてしまった

私は自分が住んでいる福島でのライフスタイルや、福島と世界との関係だとか福島に住む意味や可能性について思いを巡らせるなんてない・・思ったこともなかったんで・・なんだか面食らったよ。身近な縁有る人と楽しくお金をかけずに暮らしていければいいや、それに「建築あそび」で縁有る人に来ていただき、呑んで・喰って・踊って・話してまぁー・・なんていうかノンビリした気持ちで、建築等の話をしながら日々生きていた。若い人の・・人の・・自己分析といか自己解析というのか、そうなのね・・なるほど・・でもこれってカッペのする事チャウのとかカッペの証明ジャンなんて思って聞いていた。

これは私が歳喰っているので思うことですから、ケチと違うのだけど・・それより淡々と個展をして方がワイは好きなだけです。若い人は欲張りなところがん・・なていっても、やっぱり良いんで、聞き入ってしまったわけです

 世界の事と地域のこと、と言っても高度情報化社会の到来や情報を高度利用して世界を覆い尽くした資本が・・地域と世界・・個と世界をバリバリズリズリと等価な日差しに晒してしもうたから、どうしても言及せずにはおれんということでしょうかね。諸問題の顕在化や対応はこれからなんねー

 補助金や交付税にタンマリドップリと依存している福島のような場所にいると、政治をなんとかしないとねぇーとは思うが・・選挙民の多くは今のままがいいようですから、よけいなお世話のよな気もするし。全然盛り上がらないのじゃないかなー・・。


仙台が中継地点に成っていて、世界に製品や情報を発信してないんじゃんのという話ならわかる。これは日本全体が生産拠点を海外に移しているし。優秀なヤツは海外に出て行き遊民となるっているだろうから、なんだか元気がでない・・が私の本音。

結節点としての魅力を発見し地の力とを融合させるてそれぞれの人が生きる。情報やモノの内的循環というらしいんだ。仙台の方々には理想的な内的循環都市として具体的に目標にしてる都市が有るようなんだが聞いてて、わからなかった。私ならトットとその地に移住して生活してしまうのだがね。仙台はmy子二人暮らしているので時々遊びにいっていみて、悪くないよ。私は20代を恵比寿で暮らしていたから東京もいいとは思うが・・何処でもいいやと思う。

そんなことより仙台の建築家たちが作る業界の風がへんだなー、私は大阪のオネイチャンに会うために時々遊びにいっていたけど、昨日のようなシンポの時は大勢建築家が集まってきてワイワイやってた。終いにぁ喧嘩が起きるけど又集まってきてワイワイやる。そんなことを30代から体験していたから、仙台の建築家同士って障子の影から覗いているのかあなーなんてゲスの勘ぐりをしてしまう。夜中まで暴れてワイワイやるのが建築家なんておもっていたら、最後の呑み話にいたのは時々建築家の私だけで他に建築家はオランや・・それはなんか仙台のに住むとか以前の問題何じゃないのかと大いに外野の私が心配になる有様です



福島には建築家と呼べる人がいるのかどうか解らないので、もしかするといないのではないだろうか。せめて仙台の
阿部仁史さんや八重樫直人さんこ展覧会ぐらいみに来て盛り上がればいいのになーと思うのでした。話の内容よりこちら深刻な問題と違うのだろうかなー

30代には身体表現者や絵描き仲間と楽しく遊んで、互いに盛り上げていたので、建築家周りの薄ら寒い空気にはなじめないんだけど、誰かが言っていたけど皆が超一流に成ればいいんだよね・・何についてとは言わないけど・・

私にとっての昨日のピカ一は外野席の花田達朗さんの「公共圏」の話でした。50以上のジジイ教授は死ねと大声で言っていたら、レモンの松永直美さんが目の前で合図していたけど、花田先生は別よ別・・別と申し開きをしておきました。今度花田先生や五十嵐太郎さんを呼んで建築あそびをしますよ。約束したもんねー、指切りげんまん嘘ついったら原酒浴びさせないもんねぇーだ・・

そうだ大切なこと忘れていたな・・昨日は仙台のオネイチャン捜しに行ったんや、オネイチャンなしよ・・で残念な私は新婚ほやほやの遠藤香奈子ちゃんを亭主の前で口説いていたが、さすがに調子上がらす。かなちゃんの名前忘れた。ワイとしたことが・・呑んで、花田先生がいい話で照らすから忘れたやんけ・・ワイもオネイチャンの名前は絶対忘れないのに・・花田先生のせいにしよーっと・・なんだか歳をかんじるな^^イカンイカン

花田先生の著書−−「公共圏という名の社会空間」木鐸社「メディアと公共圏のポリティクス」東大出版会です。建築家ではないのですが、話していると色々聞き出したいことが沸いてきて大変面白くて深夜まで話コンでしもた。五十嵐太郎・阿部仁史・花田達朗の四名は深夜まで呑みしてアレコレアラコラ・・・

     今日は終わります

 佐藤敏宏の文字だけ年譜