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      9月の日記
 
  2013年 10月の日記

 10月28日  

 仙台の花壇で7時に目覚め 宮城資料ネットにより 一関市に向かう。年輪年代学の大山幹成博士とmy長男と三人で 一関藩日形の千葉家の古建築を調査に出かける。胆沢ダムが放水すると浸水するため 全戸移転だそうで、板蔵1棟 土蔵3棟を来年度末まで解体し更地にする とのこと。
 
 

 8時半東北大を出て 10時15分頃 日形の千葉家に着く 聞き取りとざっと眺め 細かに聞き取り 昼食 

午後は 建築のざっと測量調査古文書撮影、土蔵の構造材に木材からサンプル採取と それぞれ作業をする。夕方 4時半まで調査し 5時までまとめの話会いをする。古文書は戦国時代のものがあり 文書も多数 レスキューが必要。 建築は荒っぽう修繕がなされていて 元の意匠が正確に分からず 推測をして 表記していいのか?分からない。

未指定文化財の扱いはとても難しいものだ 。1年半後にこの古建築が全て無くなってしまうので 粗寸法と全体の姿をとどめる動画など急いで撮るのみ 

 PM8時30分今日の作業を全て終え 東北大を出る 

 10月27日  時々時雨れ 

 須賀川に建設中の「一家」愛称海鼠 のコンクリートが打つ上がったので 中間打ち合わせをしに出かける 。工事は遅れ気味である  

福島市内の木々も特に欅が色づき始め 冬の訪れはもうじき

 ここらは日がぐーんと短くなり 気温も下がるので  好きになれない時節

春よ来いというのも早すぎるね

工事中の建築は単純な構成だけれれど すかすかせず

 各領域が 繋がっているけれど 区切られている気分が出て よい。  こじんまりし広がる気配がでそうだ。

 25年前の建築の中で 手作りの昼ご飯をいただき 話をする。 外壁は 海鼠にどてらを着せたような 気配でるよう、仕上げの鉄板は うっすら縞模様と決める。  内部は廊下の床が 30ミリ杉板 各領域の床は大理石 他は全てコンクリート打放しである

■ 午後五時半の各駅にのり仙台駅 町中でmy長男と落ち合い 軽めの飯を喰らう  9時頃花壇につき 楽天と巨人の野球の試合をみる 

10月26日 ダブル台風の襲来影響で  と  あり雨上がるも晴れず

■午前。沖縄研修旅行で御世話になった方々へ集合写真を送りまくる 。 お礼のメールも来たりし 返信を書きまくる。あんがい手間取るも これを怠ると 次回の交流が豊かにならない。人間の行為に誠実に反応すべし  

 
■午後 講習会へ出かける 市内は雨にも関わらず除染作業をしている作業員の姿を方々で見かける ご苦労様である。 線量はさほど高くないと 話合っている

講習会の講師は入間田先生の仲間の北野博司先生による 城郭石垣の保全について。石垣の保全とは何かを細かに聞く

白河の小峰城や 仙台城など多数の保全に関わっている ことが分かる内容であった

3点ほど質問し

1)崩れた石垣を どのように作業して戻すのか? 石の面を眺め 一つ一つ 過去の崩れる前の写真などとに照らし合わせてコツコツ 探し当てる、のだそうだ 気の遠くなるような ジグソウパズルみたいだ。
 最近はIcチップを付けて保全し積み上げ歪みなど観察している例もあるとのこと。仙台城の再現にはそれが出来なかったそうだ(現在作業中)。

2) 小峰城の崩れた石垣は昭和の修繕を行った石垣と言われたが 元に戻すのは江戸時代の姿に戻すのか? 失われた石垣素材はどうするのか?

 本来は江戸期に戻すのだが 資料や昭和修繕前の素材がないので 昭和の修繕の様で終わるとのこと。だたし 詳しく掘って調査をしているので 時々崩れる因は谷状になっていて 水が集まり易い地形だそうだ 水抜きトレンチの新設要だろうと 聞きながら思う

3)石垣など歴史遺産的景観は 地域の人人のアイディンティーを担保する一つの物であるが そこをどのように気づかせ 市民の力を歴史的遺構保全の支援に変えていくのか? 仙台城の石垣はゼネコンと市長が組 新しい石垣を作ろうとしたのだが阻止した例を語り聞いた。

めちゃくしゃ難しい問題である 答えは無い ので今後その路を拓くしか無いと思える解答だった
■ 講義後 大工道具館に移動し 道具を見ながら ワイワイ


■講義終了後 今中哲二先生の 福島事務所により 以下のような事を見たり 聞いたりして。置かれた状況の差異をよって生まれる、 飯舘村の人々の心の複雑さから生み出す嫉妬の源など詳細に聞く。

人間は複雑であるが 外部の人に単純に切り分け「フクシマ問題」も語られる事も多くなっている。違いが甚だしいが だからといって 外部の人々を拒否しても 先は拓かれない。 被災民自らが情報を作り上げ 未来の人々の伝える努力は不可欠である しかしまだそこを受け止め後世の人々の知恵にする 機構が出来ていない 

被災民同士で争っている場合いではない 菊池芳朗先生提案の仮称の 国立・東日本震災博物館(ミュージアム)の設立準備を開始したほうが よい  人生の後半はこれに絞って活動したほうが 俺の人生を活し 人々のためにもなるように思う
 
 


 10月25日  

キムさんデモに参加したもよう 機密保護法の全文を野中先生仲間が公開していた (機密保護法案 全文をよむ) 政治家主権国家をつくりたいようだ 国民の知る権利は危うくなってきた

 

 10月24日 昼頃から  とても冷える

 午前データ整理 など する 冷える 隣のおじさんが大根を持参してくれている

 6時半から ふくしま支援復興フォーラムに参加する 咳をしている人もちらほら いて風邪引くもの多そうだ 飯坂線でふくしま復興支援フォーラムへ
雨降りなので電車で、テーマは東日本大震災 原発事故から文化財を守る

 
 広範囲にわたる被災文化財の数々。被災地福島でそれらの現状が目配りよく語られて有意義な講義でした。 また 文化財専門領域の方々がフラットに連携される「福島県被災文化財等救援本部」ができたとのこと、少子高齢化が一層進むなかでの協働の場、語りの場がデザインされたわけで心強く思いました。(未指定文化財まで手が届く日はいつのことか?「現状では消えちゃいそうだ〜」と 気をもむばかりだった 点は解消されませんでした)

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未指定も含め、「文化財」を守るため、大震災の記憶を守り続けるためにも、多くの仲間を作り出し、多領域と連携をつくり、仮称「震災ミュージアム」の実現と未来永劫の運営を望まずには いられません

 10月23日  のち ぐずついた天気

 浅草の宿を出て うろちょろ 雷門や隅田川の川面を眺め スカイツリーを遠望する  区営のミニバスに乗り上野駅まで行く
 

上野駅から東北新幹線に乗ることになったので、コルビュジェ建築に対面しに行ってきた。通過駅となった上野駅構内では猪熊画伯の絵の下で自撮り
 

紅葉進んでる 我が家に 沖縄研修旅行から戻ると、色々寒いが 野鳥が来てにぎやかなり。小雨霧雨にびしょ濡れに。来年は中国東北地方の研修旅行が計画されてる、きっい研修旅行と皆言うが参加出来るよう、今年の後半は頑張ってみるかー
 
庭の柚子 実選りしたほうが よさげ 雨に濡れ小さくも美しい肌合い なり 家が冷えている ような気がする 

 10月22日 心配してた台風も来ず  なんとか天気持ちそう 

 沖縄研修旅行最終日 7時に宿を出て バスで嘉手納基地を目指す 今日は基地内の見学も出来る予定

北谷の砂辺より 米空軍の行き来を観る 老人達が講演でゲートボールを楽しんで居る 海は珊瑚礁の美しい浜辺が遠くまで続いている 4機編隊を組んで飛ぶこともあり 空を引き裂くような戦闘機騒音も日常のようで老人達は にこやかにゲートボールを楽しんで居た 米兵用のマンションの数々と Yナンバーの車を多数観る
 

嘉手納基地内に入り 広報官のレクチャーを受け 後広大な基地内を 米兵男女に案内され 巡る 写真撮影は禁止されている 戦闘機が展示されてる場は写真撮影が許されたので 集合写真と米兵とそれぞれと2ショット 

 

 基地を出て 近くの食堂で バイキング昼食 1000円を食べる パイン美味しい 
昼食後 安保の丘傍の 展望台の登り 基地外から 嘉手納基地の広大さを眺める

 北谷の中区の区長さんの講義を受ける 基地そば住民の 現在の問題と基地の関係など 少子高齢化と基地の公害など なすすべもない状況のなかで人はどのように淡々と暮らすのか 垣間見る

夕方は沖縄県庁に入り 県が基地問題をどのように扱っているのか研究員の講義と応答 したたかである 日本にほとんど軍事基地を専門に研究している者が居ない点が最もまずい事を知る

 7時 空港にて夕食など済ませ 7時40分に那覇空港を飛び立ち 10時に羽田空港に着く  福島に戻れないので 浅草近辺に宿をとる 台風の影響で沖縄にとどまる可能性もあったので 宿はドタバタ予約だった ハードな日程の 沖縄研修旅行では早稲田の学生の皆さんと共に有意義な 体験をさせていただくとが出来 とてもお得な研修であった

この研修は、合宿でも(修学)旅行でもありません。一生懸命学び、考えるために準備されたものです

野中先生の語りかけのように まったく その通り よく考えることができ 自分の人生に厚みが出来たように感じた 現場に立つことの重要性を再確認した研修でもあった

 

 10月21日  

 朝7時に集合

 バスで名護市の沖縄愛楽園を目指す

 オスププレーバット建設が予想される東村江と、普天間基地移設候補地で キャンプシュアブ隣の辺野古の浜を巡る 

 夜は 沖縄タイムスの女性記者たちの講義

 最後の夜なので宴会も激しそう

 愛楽園に向かう途中 女性記者のパイオニア 山城さんが高速入り口付近で待っていた。

 山城さんは女性記者のパイオニアでもあるが 男社会の新聞社で闘争しつづけ 女性記者の路を拓いただけではなく 弱者への視線・精神障害者への視線がとても素晴らしい方なので 愛楽園に着く間 野中さんと3人でワイワイする 実に好く素晴らしい希な女性である 学生さんたちは バスの中は 皆寝る 寝る

■国立ハンセン病療養所の愛楽園。

戦時中米軍によって殆どの建物が破壊された
 その間 職員、入所者が自ら掘って壕の中で暮らしたそうだ。

マラリアなどで289人が亡くなったとのこと 。元入所者の案内で広い園内を巡り 後 体験談と現在のことを 熱く語りを聞き続けた。 

 園内の給水塔には沖縄戦の弾痕の跡 生々しい戦争遺跡

■昼食を愛楽園内ですまし  東村高江へ向かう

 オスプレーパットの建設阻止しようと 反対運動を続け工事現場の入り口門を見張り続けている村の人々など1時間ほど話合う。

 重低音の被害で子牛が未熟児で産まれるなど 多様な害をもたらす話や 270度ほどの排気ガスが真下に吹き付けられることの害によって 美しく豊かなヤンバル(山原) 熱帯特有の豊富な生態系も破壊されるなど多様な問題があるようだ。
現在も 米軍海兵隊のジャングル訓練 =1週間 食い物無しで放置される訓練なのだそうで 目の前のジャングルで米兵が訓練中とのこと 

ベトナム戦争時代には 村民がベトコン役をさせられたとの話もでて 驚く



 標的の村(公式サイトへ)というドキュメンタリー映画 が作られ 東京で公開されたことで 訪れる人が多くなったそうだ。 世界中から注目されていて各国から人がやってくるとのこと。 沖縄県民を沖縄県警など 同じ沖縄県人同志で傷付け合う その構造を描き出しているようだ  福島でも上映が予定されているとのこと

  三上さんの英霊か犬死にか (沖縄から靖国を問う靖国裁判)はユーチューブでアップされている


 辺野古の海に立つ 名護市から南東12km キャンプシュアブの隣の浜辺 絶滅危惧種のジュゴンの生息地でもあり住民の移設反対が続いている
 

夜 沖縄タイムズの女性記者たちの講義と そして呑み会は深夜まで続いた 


 10月20日  台風の影響で 強  つよし ときどきスコール

昨日は人生初体験のものが多かった

 今日だって激し豊かで強烈な体験の目白押しだ

 沖縄戦の前哨戦ともええるその中でおきた 軍の強制 集団死のなかで生き延びた方の証言をお聞きするため渡嘉敷島へ渡った

昨夜は講義後 居酒屋で12時頃まで呑んでいた。早大生は 2時ぐらいまで 呑むものも おり若い 特に女性学生は 豪傑・豪快な者多し

 深夜 朝食を仕込むため 花田先生お気に入りの 辻スーパーに寄る 24時間営業だそうで 見慣れぬ、聞き慣れぬ 沖縄の品々多し 

■ 昨日の初体験色々は 壕に入って体験談を聞いたこと ボランティアで壕の整備や遺骨を収集している方の証言を聞いたこと 沖縄そばを食べたこと まだまだ沢山ある 沖縄には楽し驚くこと多しだ なにしろ会う人みな熱い移住したいものだ〜 (笑)

 野中先生のコーディネート力・抜群! スゴイ・人間ネッワークと厚みあり 

■ 高速フェリーで渡嘉敷島へ 風あり 揺れそう      

遅くまで呑んでいたが 何とか目覚めデータ整理などしたが 船着き場に来ると眠くなる けれどもカンカン照りであり 暑い

港の中は波静かだ モノレールも走っているし コンクリートの建物が密集してるし 大都会の魅力と海の美しさを兼ね備え 東アジアの時代に突入している現在 やがては 中心地になってしまう ように思える

 渡嘉敷島の船着き場には 「強制集団死」の生存者の 吉川さんが島巡り用マイクロバスと 共に待っていた

吉川さんは島の元教育委員長で 島の整備や観光のためにも尽力されているとの事 

 また従軍慰安婦の少女たちも観ていた少年であるから  自決の場とその時の様子語りも生々しい。肉親と強制集団死の現場での関係した話は最強・強い

 慰安婦たち=少女達の様子も具体的で 生々しく その場に居た人間しか語れない言葉の数々に 圧倒されてしまうのであった

本の知識もよいけれど 現場に立つ 現地の触れる そのことの大切さを しみじみ再確認した

渡嘉敷島の強制集団死を行った場所 遺骨を集め納めた 白玉の塔 アリラン慰霊モニュメント を巡り
 
 玉砕体当たり用 ベニヤボートを隠し置いた洞窟。 美しい傍のビーチで 昼用の弁当をいただき 少し休憩 写真を撮るもの多し。  珊瑚礁の浜なので白く美しい 海水の色が刻々変化し観飽きぬほどの 美しい海 と山の木々  

 浜で自由時間が与えられて 泳ぐものもあり プチリゾート気分である

 浜辺の小さな集落をぶらぶら撮り歩く 台風が通過する場所なので 壁がブロックで梁とスラブはコンクリートのようだ 改修工事現場により 眺めるも 驚くほどの雑さに 唖然とする 地震はほぼ無いとのことで たぶん都市計画なしで もち 確認申請も 無しなのだろう 
色彩も 東南アジア風 シーサーも各家にあり 店にもあり 外界は悪魔だらけなのだろう 
     

 ■琉球朝日放送の 日本各地から注目で凄腕 女性 デレクター 2人の講演があるので 強風のあるなか 高速フェリーは飛ばし 学生のなかで数人が 船酔いとなり 青白き肌 気の毒である 

 
■ 夜の10時まで講演と質疑応答が続き 後 今夜も?み会 北海道警察 裏金事件を世に知らしめた 高田記者も今日から参加しているので 超プロ達が ジャーナリストの卵を育てる 絵柄となる 花田先生も今夜は遅くまで呑んで 熱く語っている 

 宿は沖縄で唯一の元・遊郭地帯にあり 現在はソープだらけの地帯 待ちの男達が 路上のベンチにも座り居る 様  寝る場所周辺だって 真夜中まで 熱い

  野中先生の絶妙なホテル選びに ジャーナリスト志望の学生は もとても鍛えられまくる〜さま なかなか好い だが ねる時間と データを整理する時間が無い!! 講義と交流と移動の間をぬって 整理したりする能力が要るし 無い者は 付いて行けないのだ 


 10月19日 沖縄 の那覇市晴れ  

 サンフランシスコ講和条約締結の1951年に生まれた俺がどんな時代を生きている人生なのかを知るためには 日本が独立国家になった当たりの日本の状況を知ることが必要だろうと 思っていた。地上戦争があった沖縄を訪ね体感することから その作業を したいと思っていて 長年実現できなかったけど とうとう今朝その事がかない始めた

 花田達朗先生と野中章弘先生が 行っている教育の一環といての早稲田大学の ジャーナリズム演習 ベーシック沖縄研修旅行に、 便乗させていただいたからだ

今日は地上線があった沖縄の普天間基地周辺の戦闘事情から 敗走し惨劇のかずかすを生み出した南部戦線と最南端の糸満市平和記念公園までを 琉球新報の宮城さんと 志良堂さんの案内で巡った。夜は青年会館で議論が重ねられ 10時から懇親回 1時に寝る 濃密な1日となった

 肉眼で 初めて普天間の滑走路を観る 海兵隊の基地 トマフォークや 無人戦闘機の初動戦争になった現在では 海兵隊の意味も薄れている と言われいる のだが 普天間はなかなか返還されない 周囲に学校や幼稚園病院 居住地で 米基準でもあってはならない住民にとっては危険きわまりない基地でもある

 

 読谷村を遠望できる嘉数高台公園より 普天間飛行場 や陣形などをしる 裏添市の壕を 遺骨収集をいまだにおこなっている 高江さんに案内いただく 
 
  人間が人工的につくった地下隠れ家
 がま 天然の洞窟を活用した 隠れ家

 つぎに 糸満市に移動し 最後まで沖縄県庁があった 轟の壕 


 最南端の 平和の礎  13歳で南部戦線を体験され生き残った瑞慶覧さんの戦争体験の話をお聞きする など 夜は那覇に戻り 議論 

 


  10月18日    昨日吾妻山に初冠雪があったとのニュースが流れていた 今朝は冷える 風邪引き気味なので朝寝をして体調を整える 汗びっしょりかき風邪を飛ばした。

9時に起き 朝飯をつくり喰らい 沖縄研修旅行の支度を調える 11時に福島駅につき 11時20分頃の新幹線の乗る。 昼の時間なのに案外混んでいる。 

13時頃モノレールに乗る 向こうの席に研修旅行のコーディネート役兼 先生の野中章弘先生が 座っていたので 挨拶 。俺は長ぞでの下着で長袖のシャツ 野中先生半袖ですっかり沖縄対応スタイル 。
 
14時集合 の第一ターミナルビルのスカイマークのカウンター前には既に10目ぐらいの早稲田の学生が集まっていた賑やかで明るい。 総勢35名ほどで ジャーナリストをめざす 男女の比は半分ずつ。旅行日程表や参加メンバーの名簿など頂き お土産を買ったり ワイワイ 15時40分の満席の飛行機は羽田を飛び立った。  

 18時30日那覇空港着 暖かし 。宿はソープ街のど真ん中と デぃープん である。チェックインを済ませ那覇の国際通りにでて琉球芸能の店で 懇親会 1500円 学生単価で 野中先生がてきぱきと指示。 明日はハードな豪巡りなので 早めに切り上げ 12時に寝る。 沖縄は芸能都市でもある 賑やかで明るいのではないか?



 

 10月17日  

台風が寒気を連れて来たようで 冷える1日 。明日から早稲田ジャーナリズム沖縄研修旅行なので 留守の間に必要な雑事を済ませる。 灯油の注文や 銀行関係へうろうろ。 研修旅行の日程表を見る。10日11日は花田ゼミの福島研修旅行のコーディネートをして 事前調整が手間取ったが 今度の旅行は野中先生に全てお任せ 楽ちんの旅である 野中先生の学生への呼びかけ文章を読む

  <沖縄ジャーナリズム研修にあたって>
 今年もジャーナリズム演習の研修先として、沖縄へ行くことになりました。沖縄から、日本という国の歴史とそのあり方を見つめ直すためです。日本の近代から現代にいたる歴史の流れを検証しながら、沖縄に押し付けられてきた不条理を自ら内面化する作業を行います。
 明治政府の琉球処分で琉球王国は解体され、沖縄は沖縄県として日本帝国に組み込まれていきました。その後、アジア太平洋戦争では国内における唯一の地上戦の舞台となり、多くの沖縄住民が犠牲となりました。戦後は27年もの間、米軍統治下におかれ、沖縄は米国の軍事戦略の重要な拠点「太平洋の要石(キーストーン)」と見なされてきました。また、72年の施政権返還後も沖縄には日本の米軍基地の74%が集中しており、日米安全保障条約はこの沖縄の犠牲の上に成り立っています。沖縄問題はすぐれて日本問題であり、この問題を解決する責任と主体は日本という国と日本人にあります。
 研修では、このような沖縄の歴史をたどりながら、日本との関係において沖縄の抱えてきた矛盾とジレンマに触れていきます。1日目は、沖縄戦の跡をめぐり、なぜ多くの人びとが無残な死を遂げたのか。沖縄戦の実態を学びます。2日目は、渡嘉敷島を訪れ、「強制集団死(集団自決)」はなぜ起きたのか。その死の意味を問います。3日目は、ハンセン病の施設「沖縄愛楽園」を訪れた後、高江村、辺野古などに行きます。4日目は、米軍の嘉手納基地を訪れ、広報官との会見、隣接する嘉手納町の区長インタビュー、普天間基地、沖縄県庁などを訪れます。

4泊5日という日程では、訪れる場所や出会える人たちの数も限られてきます。沖縄の歴史や人びとの生活の表面をなぞるだけかもしれません。それでも、沖縄の「痛み」に触れることで、沖縄を切り捨ててきた日本のあり方を問うことはできるはずです。

 また普天間基地返還問題の報道のあり方などについても考えていきます。
 
ジャーナリズムの基本的な役割は、「国家(公権力)を監視する」ということです。沖縄を通して、その「国家」の本質を見据えていきます。

また、今回の研修では、沖縄タイムスや琉球新報、琉球朝日放送の記者たちに案内役や講師を引き受けていただきました。「東京の視線」と「沖縄の視線」のズレ具合を確認しながら、毎晩、記者たちとジャーナリズムのあり方を議論します。

この研修は、合宿でも(修学)旅行でもありません。一生懸命学び、考えるために準備されたものです。ハードな日程ですが、ジャーナリスト志望のみなさんなら、きちんとした成果をあげることができると思います。  201310  ジャーナリズム演習ベーシック担当  


 10月16日    
 
10年に一度の 大きな台風が来て 昨夜の夕方から雨が降り出し 風も強く 家の周りでバタガタと音がする  。伊豆大島では水害で 大きな被害がでているようで 自衛隊の出動要請があったとのこと 東北新幹線もとまり 福島県内の小中学校は休校   
    

東京都の大島町では山崩れなのだろう その濁流の呑み込まれ 多数の犠牲者が出たそうだ 

■地域的広がりの大雨でないので  特別警報が出ず 避難が遅れたようだ  ゲリラ雨のように局地的な大雨に対応するのは 難しいのだろう 

■ 先月 大阪に行き 5年ぶりに再開した 若手建築家やデザイナーの聞き取り(=ことば悦覧活動 ) 文字起こし作業は手つかずだった

 今日からしこしこ始めた。 広島県にある瀬戸内海の島で 生まれ育った 幸家太郎さんの肉声の文字化。 広島県内の木造建築の現在の一端を知ることができ 貴重だと思う。まちづくりにも関わっているし アート活動もしている 大阪府内の空き家になった木造建築の再生行為もおこなっていて 頼もしい人だ 

 放射能が降り積もった 故郷の大地から少しでも放射能を少なくするために 福島市の除染作業・監理員にもなったので 文字起こしは遅遅として進まないのだが 時間を見つけてはコツコツ進めていくことにしよう

■ 311以降 以前から継続して やりたいこと  現況に合わせて やるべきことと すぐ手当てしなければいけない事 それらが重なり過ぎ気味だ。 あと少し 今年末まで 頑張れば何とか 方々開けるだろう 


 10月13日   秋らしい気温にもどったようだ 仙台涼しい

■午前 早稲田花田ゼミ福島研修旅行などのデータ整理をする。午後家人の様子を看て 手当をする

■夕方 仙台に移動し my長男と 情報交換 & 呑み会  もつ鍋屋 仙台料金は福島料金の倍ほどの感覚かもしれない 場所代が高いのだろうね 28日岩手県南の古建築調査をすると決める 

 

 10月12日  台風の影響なのか東京では真夏日になったとか 10月にしては異様に暖かい日が過ぎ 通常のつめたさわやかの秋になりつつある福島市内

■今日は第8回 福島県ヘリテージマネジャー育成講習会。1時半に 311以降被災し休館が続いている、旧日本電気計測機器福島試験所社屋=現(花の美)写真美術館の被災現状を見学する。 案内役は東北工業大学の高橋恒夫教授

 1992年開設されたそうで 福島県内には大正期に建てられた官えい 建築の遺構が乏しいことと 石造遺構の指定が1棟も無いので貴重だ 。建立当時の原型に復帰させることが必要であるとの熱い語りに対して 私も含めた市民は応える術を持つているのでしょうか?と問われたと受け止めた。どのうに行動するかだが・・

 現在は屋根の飾りが落ちてこないように 足場パイプで補強されている。 屋根瓦が震災でズレ雨漏りが酷かったのを三浦さんが修繕したとのこと。  石造 なので2階の方が大きく破損することなど、写真美術館を実体験しつつ 破損状況も目視することができました 
福島教会とノートルダム修道院が 311災害によって解体され この石造社屋が解体されてしまうということは 福島市民の文化財に対する意識の低さを再確認することになるようです 旧日銀福島支店の保存運動の敗北から立ち直れない市民の姿を思って いました 


 講義会場へ移動し 高橋先生が関わってこられた 東北六県の歴史的建造物の保存と活用などの指導について講義を受けた。 質疑応答も1時間ほどあり 「伝統的形態を守る 活用する 伝統的形態を保存しつつ新しい生活をする ことの意義や問題点と 有るべき古建築総体の姿の理想について質問が出来た。明解な答えはなく 残念がりつつ路を拓き模索中の様子だった。 (俺は未指定 古建築のレスキュー活動をしていたのでその当たりの連携の仕方など聞きたかった。だが 指定建築の問題も山積していて 質問しにくかったのでやめた) 研究室に出向いて 色々聞くことにした

古建築保存の今後についても 各機関と連携しなされば出来なことなので 一研究者が 明確に応えられる訳は無いのだが体験豊富なので 示唆いただくこと多し。
 大内宿の現在の問題については、指定区域に暮らす人々と 指定外区域に暮らす人々の間に起きている対立 などについて狩野先生より 具体的な解説と助言もいただくことが出来た。

 原発災害後のフクシマ問題県民間の 亀裂や対立と似ているし 津波災害地に起きている リーダー不在(政治不在とも言い換えてもいいかな)なので  合意形成に向けた民主主義下にある現在の主権者の力量不足をどう鍛え上げていくのか?という 手抜きを続けパターナリズムに寝続けていた 市民の無責任とう 根深い問題の話になって 興味深かった。
 トライアンドエラーを続けることで 未来の人間関係を拓きつつ片方では古建築などの活用の路を拓くしかなさそうだ

■  今日から秋祭りが始まった福島市 山車や出店も大勢でて 普段には無い賑わいをみせている 広場では三味線の演奏会などあり
 お化け屋敷で自撮りをする 俺が恐いか? お化け屋敷が恐いのか? お化け屋敷へ客を呼び込むかけ声を掛けるお婆さんの方が恐いのか? 軍配上げ難し

 
 

■ 福島市 は 各個人の家屋敷は除染してるが、道路や側溝はまだであり放射能による線量高いので、 地べたベタ座りでもの食うのは問題がのこるけれど 2011年秋にも開かれた祭では若き女性のベタ座り食いが目立つっていたし 今年も方々で出店で売られている食い物を地べた座りで喰らっている女性多い  秋祭り@福島市  被曝を少なくする努力をしつつ日々暮らす、それが福島市民の暮らし方の通常となって欲しいものだ 
    

 10月11日 こさめ  のち 

 花田ゼミ 福島研修旅行 案内役 2日目 9時半宿を出発し 藍原寛子さんのオフィス へ。 藍原さんのオフィスには会議室があり そこで2時間講義を受ける

 初めてお会いしたのは いつだったか覚えてないが、藍原さんにお話をお聞きして驚いたことを思い出す 「福島にフリーランスの方が居た!!」 

 フリーランスのジャーナリストだって福島に根付いてほしいし。特に311以降の福島にあっては 藍原さんが  フクシマ後の歴史に大きな影響を与えないはずはないので 無理せず頑張ってほしい と 心より願う一人である 。

 研修している学生さんからは フリーランスの方へ単刀直入な質問の連続で なかなか 厳しく 好い対話がうまれていた  藍原さんありがとうございました 
  12から展望レストランで会食しつつ 質疑応答は12時50分まで続く濃厚さであった お忙し時間を割いていただき 多くの学生と交流していただいたことに心より御礼を申し上げたい 
 

 コラッセから 徒歩移動 福島民友の報道部長の講義を13時30分開始  2時間半ほどうける。地方紙が抱える 現在の福島問題の数々を 深く多層に配慮しつつ慎重に紙面をつくる姿勢は十分学生に伝わる

16時過ぎ 野田町にある 飯舘村から避難し 古民家を改造し夫婦+従業員多数で喫茶店を営んでいるかたの 講義を1時間半ほど受ける 奥様の動物的意見の方が学生の心に残っただろう

18時半 福島駅西口で解散 一部の学生が残ったので つやこで9時まで呑む   ゼミ生の質は年度によって ガラガラ質が変わるだそうで 先生も大変である その様を体験させていただいた

■花田ゼミ生の福島研修旅行コーディネーター役 無事済む バランスのよい講義布陣だったと花田先生も満足されていた。 福島のメディアの方々とはほぼ交流が無いのだが この機会に多くの方々に協力いただいたことは 今後の俺の活動に活かしていきたい。

 一つ、 講師が藍原さんをのぞき 男性中心だったと反省している。 まだまだ女性が男性の影に隠され 隠れ 見つけにくい地域だと思う。 日本は男性中心社会はまだまだ続く ので議論と他者との競走に勤しみグスギスした人間模様・状態がつづくだろうから 311後も弱者に支援をベースに行政サービスが運営されたり 他者に寛容な社会は訪れないかもしれない  そんな感想も浮かんだ 原子力災害の複雑多様さと困難の一端を 研修旅行案内役で学ばさせていただいた 

 10月10日 台風一過の

今日は色々活動しまくったので 簡単に 各種講義内容は省略しよう 時系列に羅列のみ

■ 13年ほど付き合い続けている早稲田大学教育学部花田達朗教授に「ゼミ生に福島研修旅行をさせたいので旅行行程なにかない?」と相談されたのは 7月4日。 花田教授は新聞学、特に真のジャーナリストを養成する専門の教育を大学で起こされた 熱・希・先鋭的な社会学者(ハーバーマスの直弟子)である。

 花田先生が運営されている早稲田大学ジャーナリズム教育研究所のHPの立ち上げから現在に至る更新の世話をし続けていることで 先生からは同志と認められている 変な田舎者である俺(色々な領域に出入りしすぎだかも俺
 
俺が暮らす福島市にも放射能が降り積もったことで 一気に日本人なら誰でも知り克服しなければ成らないアクチャルなイシューとなった福一原発事故後の被災地域の含・復興系あれこれ。 まずは現地を観てもらうしかない、議論はそこから スタートだ 。 現在のフクシマ問題を被災地以外の人々と共有するために 現在の問題の多様性お伝えする仕事もしてしまうのだ。 フクシマ被災地案内人として被災当事者の俺は進んで 学生さんのために 一肌脱いだということだ。

■  事前準備から3ヶ月ようやく今日は研修旅行日だ。まずは 50年前に卒業した母校 たった一人の小学校となった大波小学校へ行く。 研修旅行いよいよスタート  福島駅東口バス乗り場に集合し 大波小学校へ

 50年前に卒業した母校は少子高齢化や一時産業の衰退によって 全校生 ひとりの学校である。 そこへ町会連行会長さんの佐藤秀雄さん 市役所で被災地それぞれのまとめをしつつ除染を推進しつづけている 若手のリーダー 半澤一さん 校長の阿部先生の講義を 2時間 時間足らなすぎる〜

 

 集合写真を撮る 
 

 バス停まで追いかけて来ていただき バス停でも講義をしていただく佐藤秀雄さん 12時22分はつ福島駅へ向かう
 
 
 西口で各自昼食を済ませ 2時福島民報社へ 報道部次長の講義と質疑応答 社内見学。予定を大幅に延長する  被災地の当事者としての新聞社の編集のジレンマや課題を 次を拓く新聞社の姿勢など 熱く語り合えた 次長主導の展開に 教授から学生に注文が飛んだ (笑) 次長からは 「佐藤さんに任せずゼミ長自分で 連絡せよの」の注意・激励もいただく

 

 午後5時 今夜の学生さんの宿に着き チェックイン 5時半宿スタートし チェンバ大町へ 今夜のふくしま復興支援フォーラムは南相馬市長 桜井勝延市長の講義  宮沢賢治にあこがれ岩大へ入学されたとのこと 南相馬市は津波被災と放射能被災地にグラデーションがありかつ 人口が多い で 多様で複雑な市政を 市役所を移転させず 職員も被災しながらとどまる決断をし 現在にいたっている その熱い熱情を感じる講演であった

 フォーラム主催者から 参加者の平均年齢を大幅にさげてくれてありがとう と言われる もちろんフクシマ問題を福島県外の人と共有する 意義も大きい 被災地と非被災地の連携をつくりだし 21世紀の困難を乗り越える 方法を少しでも身につけたいものだ


 フォーラム終了後 ゼミコンパ 大いに盛り上がり 一人2000円 +呑み代 超穴場をセットしておいたので  学生大満足 多量にでた食べ物を朝飯用に持ち帰ってもらう (下段絵 桜井市長)


 11時解散 

 10月09日 のち午後 時々 

台風の影響で 暖かいし 時々 やや風もあり 夜 小雨もあり乱れた天候 
 
 昨夜 今日も監理員作業してと 一緒にまわっている青年から電話がある。 明日の早稲田花田ゼミ福島旅行の準備を片付け 早朝から 御山裏の除染完了検査を行う。計6軒の完了検査を済ませ 建築士福島事務所に戻り 完了済みの書類を書き整え 日報を報告し 1日の監理員の仕事を終える

 完了検査は数が多いうえに 計測者 除染業者 と所有者や借家人 3者が合う 時間調整が難しく そうそう はかどらない。 施工業者が完了検査の順序、時間や立ち会い者との連絡など 段取りを付けているので 彼らのタイムテーブルにしたがい 時間を調整しつつ 完了検査を実施した 

 
 除染用・クラウドコンピューティングを使い完了検査し その場で計測と写真確認 データアップしてしまえば 事務所に戻り書き入れ せず済む し 一括管理し 現在 除染現場で何が起きているかも分かるだろう。また、計測値が一瞬で可視化でき どの程度の除染効果があるのかも 時々刻々日々 ほぼ誰でも分かるはずだ。 だからクラウド構築すべきだと 思う。だが福島市独自の監理員制度なので そこまで システムが出来ていないのは仕方ない。 しこしこ手作業あるのみ。 

 原発安全神話の中で 除染作業のガバナンスができる現地のプロは いままで不要・存在してはいけない はずだった。今回の 除染作業の 超縄的 数々状況は強く記憶しておきたい。

 環境省への提案としては 未来の原発事故後の除染作業に備え IT社会なのだから そのシステム構築を整える準備だけでもしておいたほうがよいね だ。

今回の除染作業では pc不慣れな俺のような老人も参加しているので クラウド化は 難しかろうが 次回の原発事故時下に暮らす人々は pcなどの超使い手が多いことだろう (福一原発事故後の除染作業にそれを 今から導入すると完了ていしている2万戸ほどのデータ入力を誰がするのか?問題が生まれてしまうので 次回の事故に備える)

■ 建築学会 原稿校正済ませ 電送するも一部 校正してない部分があり追加する 

俺は メディアで流布している成功モデル型の建築家ではない。 福島という建築という概念にほぼ興味のない社会で建築をつくる難しさと だからつくる面白さもある。 赤裸々な地方の建築の現在こそ 地に足が着いた 建築だと思うので 赤裸々な自分の建築家人生を振り返って書いてみた (学会からの依頼がそうだったので対応した)

 凡人建築家は成功話しか書きたがらない馬鹿が多いので 社会の中にある建築家が解かねばならない数々の問題に投光されず 放置されてしまう。現実を観て解決しようとする態度はほぼ無いと換言できるし 放置されている、教育もされてない。 マイナー極まる建築家の生きている現実の世界 を自らがその現実を少しでも 学会誌に刻み入れるのは 意味のあることだと 思って 原稿 依頼に応じた
 

 10月08日  台風の影響で気温上昇しまくり暑い日中であった

今日は朝8時に建築士会福島支部に行く。我が屋傍の 御山裏の清水 2工区と呼ばれる地域に合流するよう」との支部長の指示にしたがって 清水2工区に入る。
 そこで除染作業に関わる監理員の見習いをするさんという(50歳前と語る)てきぱきと監理員の仕事をしつづける人で 監理員の仕事のあれこれと実践と指導で色々教えていただくことになった。 放射線計測専門の方2名 施工業者の監督さん1名と同行し 1日 最後の 三者立ち会いと呼ばれる 除染前の話会いも行う 戸建て住宅、共同住宅、事業所の建物と多様だった。 夕方 支部の事務所に戻り 日報を書き込み 過去の書類を眺める。
 
 「故郷 福島市から 少しでも放射能を少なくするとは?」 体的にどのような行為の積み重なりなのか? 除線の費用対効果については 批判されることが多いように思うし 机上の議論も 多くく聞く努力をしてきた。 そろそろ  現場に入らないと腑に落ちない話も多いな〜と感じたので 除染現場に入って 責任を持ちつつ 学ぶことも大切だと思い 監理員の見習いを始めた。

 20mSv/年以下1以上の地域を 環境省は非直轄地域 と指定されている 福島市は 独自の除染作業計画を策定1.8万戸ほど除染が終わっているそうだ。総計は9万戸だそうで発注済みがほぼ半分だ。監理員とは福島市が独自に定めた者で市の業務を代行できる講習を3日受けたる者。だれでも受講できるわけではなさそう(ここは不明) 受講者は建築士や測量士などが中心とのこと)


封書で ホールボディーカウンターで内部被曝の検査実施の知らせなどあり、放射能と共に暮らす、福島市の現在と その大地に暮らす市民の声、振るまいを実感しまくった1日が終わる。

■ 仕事場に戻ると原稿ゲラが電送されていた。 建築学会より依頼されていた「お題は学会より 与えられて(下の絵のようなお題でした)、「 お前の 人生を振り返れ」との注文だった。 11月号掲載とか。(印刷 配布 間に合うのだろうか? 俺が心配してどうする)  夜、最終校正 をする予定
 明日の夕方まで済ませとの指示メールだ


 大震災以降 俺の活動の一部を紹介したことがある。それも建築学会に依頼されて書いた。 文章はwebで公開されいている→→ (PDFを開いて読む

 10月07日  昨日はぐずついた天気だったが快晴

 庭の柿の実 色づき始める。 除染がまだなので今年も食べず捨てる。線量計測すれば食えそうだが、もう少し色づきだしたら計測してみよう。面倒なので忘れるかもしれないな〜 柿と梨 スーパーもので 頂きます 晴れ上がり 台風が暖かい空気を運んでいるのだろうが 暖かし福島市

      

■ 10日早稲田大学花田ゼミ生15人ほど福島研修旅行に来き2日間方々を案内し議論する予定だが 新幹線の運行だが 台風24号の影響を受けねばよいのだが

■ 午前中は 貯められているゴミを 整理し出す。病の家人は視覚・聴覚がおれより優れた能力を発揮しているようで「そこにゴミがある」と言い張る。 俺には見えないゴミを拾い集めてゴミ袋に入れる。そのことで空気が入ったようなゴミ袋が多量に出る。。今日はゴミ収集車が来るので、それらの可燃ゴミをまとめ処理すると案外時間が掛かる 午前中。 プラゴミ を分けておくように指示するも 反応無し。

■午後 1週間前御世話になった県建築士会の岸波さんにお礼にでかける。長袖では汗ばむほど。犬も歩けば除染作業に当たるほど旧市内は除染作業員などが多量に作業を続けている。 明日 監理員の見倣いをすることになっているので色々目に付く。

■家に戻ると 我が家のガラス屋根除染命令が病の家人から発せられ 屋根に登り 雑布で拭き取る。

 
福島市役所は可燃ゴミに付いたセシウムは焼却し取り除く装置があるようで 可燃ゴミで出してよいとのこと。311以後 セシウム都市は少し賢くなってる かもしれないと感じる 俺がセシウムの除去方法を勉強してるんだったな

 ガラス屋根は高圧洗浄すると割れるだろう

拭き取るだけでも、放射能は少なくできる。 RC躯体の平らな屋根は 高圧洗浄かも。 押さえコンクリートは強度を落としてるのでボロボロに成りそ。  建物そばの シュウカイドウ 今が見頃

 

  10月06日 ぐづぐづした天気 夜 

 周囲の知り合いなど 天気のせいか グズグズ愚図で 感染しそう。 静かに時を待ちつづ データ整理などする

■京都のエガちゃんこと 江頭昌志さん達が、偽物合戦と名付けた映画を作っていた!DVDが送られてきていただく。観る。

 京都の支援者達を動画撮りしていたときに ラモーンズの曲目で初ライブに立ち合うことになった。ぎしぎし爆音の中 ライブハウスで取材し動画を公開している。610ビューもあり驚きました。 今は 江頭さんは古里の山口県で暮らし始めたそあだ。遊びにゆきたい。

(右絵 二人で建築ケーキを作って プレゼントし 皆でわいわい言いながら 食べたのを思い出すな〜  2010年8月1日京都の江頭さんの家で 有名なO邸 その建築ケーキをつくり記念写真)

 京都の若い人々の生活の仕方はとても 融通無碍だが やるときは バッチリ気合い充分なのだ 続編がでるかもしれない


  

 俺がとりまとめアップした 動画(下表示) 名前が間違っているのだが 偽物なので許してもらう(笑)

 



 10月05日 小雨 断続的にあり 

 25年前に竣工なったmy建築の別棟 建築を造っている

 12年ぶりに設計し 着工までも とても時間がかかり ようやく着工したけれど 遅れ気味の 「一家・いちいえ=愛称・海鼠なまこ 壁の配筋検査と型枠チェックを 小雨のなかで行う。

  依頼された敷地には 太平洋戦争が終結し サンフランシス講和条約を経て日本国の独立が国際社会からみとめられた 事実を記念し 63年前に 木造民家の庭先に建立された 平和記念の碑があった。

その記念の碑を建築内部に設えたスリットから 生活活動・動き回るたびにチラチラと (記念碑を)覗くだけの仕掛けの建築
 

 「快適な建築」とか「性能が良い」とかは ポピュラーな要望は一切なく 性能要求に応える気も遠い。 それは機械だ商品で my建築ではない。 無邪気な建築士ならそれでもいいだろうが 年老いたおれが 対応すれば 現在の俺の態度は昔の俺に批判されるだろう。

 そのような面倒な悶々を(ち) 続ける能力を持つ発注者(全国的も希な発注者)。俺に建築設計を頼んでも さらなる建築を作ろうとする人間が存在していることの方が 原発事故災害後に セシウム大地の出現より もっともっと記念すべきだとも思った 

 建築的に必要と言われ「応える能力を こそ競うよふう デザインの工夫は何もしない」 と決め=放射能が降り積もった我が大地に建築を作る気にも ほどんど成れなかったからだ(全く無責任極まる建築士と言えるね)。 ほったらかし建築でもある=海鼠はじっとして生き続けるのだし そのようにありかった つまらない  建築的ガバナンスをしない)

 発注者の根気強さに引っ張られ久しぶりにmy建築をつくる気になった(造っていてもまだ 上の空 その気になってない が実感だ)。 1年ちょい経ってようやく 壁の配筋が済み 片側の型枠が立った。
 12年前に設計していた 複雑過ぎるmy建築(25年前の隣の建築よりも)と比べると 超単純

 我が屋 より一層 単純な構成を目指した。似ているのは 床の高さをそれぞれ切り替え 40センチずつ付け 3ブロックに分けただけでも 施工は案外難しい  


     
 着工後 職人さんが手配できず、遅れぎみは今日も続いている

 復興特需や 消費税が来年4月 より上がるので 駆け込み需要も重なり 世間の受注気分は強気だ。(アベノミックス誘導にて)各種の値上げは避けられない。 建築資材と施工単位の値上がりも避けられない。

 かといって先延ばしすると 復興特需でさらにコスト高し〜 人手不足〜 で各地から復興金目当てに ぶへぼへ職人が集まりなされる仕事になるこことは間違いない。全て値が上がるのは必至だ。 値上げは世間の気分で決まるので 値上げを押さえることが出来るのは 気分だ オリピックもあり 当分値が下がらないだで

そんななか
 y建築が12年ぶりに完成したら私の奇跡だ
 

 10月04日  

 1週間移動交流し続けたので その間に集まった資料整理をする

 風呂のシャワー温度が上がらなくなったので、いつもお願いしている設備屋の大橋さんに来ていただきなおしてしていただく 

 花田ゼミ研修旅行の初日10月10日  福島市役所の方にも大波小学校に来ていただき 福島市の除染の現在を語っていただくことになる 幸運なり

 原発事故災害は多領域と多地域に複雑な問題を日々生み出していて いまだ解決の見通しさえ付かない その現実を 原発電力を消費続けていた 学生さんに知っていただき これからのエネルギー問題と 現状の災害をどのように乗り越えていくのか 福島と東電圏内の人々の連携による 協働の場が拓かれること 研修旅行を エージェントコーディネータとしては 幸いなのだが

 ■ 30年ぶりに建築を造る気にになっているので 

青春ししていた 30年前の名刺に戻してみて 200枚ほど 出来て来た




 10月03日  

 除染作業管理者は監理員と呼ばれることが多いと確認しながら 3日目の福島市除染作業監理者講習 3日目受講

 シンチュレーションサーベイメータと(空間の放射線を測定する)GM管サーベイメータ正面から入るβ線を測る (表面がどれだけ汚染されているか) コリメーター(シュンチュから一定方向の放射線を測り 他方から来る放射線を遮蔽する)取り扱い説明を受け 実際に使ってみて学ぶ。

後小鳥の森に出かけ 管理室を 一戸の住宅と考えて3人一組でモニタリングの実施をする 俺はシュンチュレーションサーベイメータ使って測定係をしてみた 

 

 記録係に数値を告げ何処の場所で測ったかを記録し 講義用事務所に戻り記録を整理し 考察をまとめ 環境省に除染プラザの方を住民に見立て 測定結果にもとづき説明し 問題点を指摘いだき 監理員の語り方を学んだ 監理員とは何かを的確につかむことが出来た実習であった

夕方は 市職員の方を住民に見立て 除染前の三者打ち合わせ(居住者・除染業者 監理員)の練習 。受講者2人一組で監理員が居住者に説明する ロールプレイングを行う。 それぞれの設問に対する応答の問題点など指摘していただき教えていただいた

 最後にこの1年半監理員第1期生の実体験に基づく 監理員の仕事の進め方と 注意点を教えていただき 3日間の講義を終えた

また理解が足らない部分が多いが復習などし 現場に出て実体験を積み重ね 福島市の大地から少しでも放射能を少なくする仕事をしようと思った 



10月02日  よる台風の影響で 

福島市独自の除染作業監理者(講義では管理員と語り続けられる福島市独自の代行職の役割) 2日目の講義を受ける

 放射能に汚染された福島市において 俺の様な年老いた人間にとって故郷の大地に役立つことは あるのだろうか?その疑問は自分で解決するしかないので 昨年から 各種講義に参加し続けている

 我が暮らす 大地も大海も汚染されている それらの生活の場を 自ら元に戻す努力無くして 加害者に文句も言えないだろう し 待っている時間は無いね。 そののち 自らが設計をした建築を お使いくださって大丈夫ですよと 言えないのが寂しいからね

だから  まずは大地を綺麗にすることでしか「あらゆる建築をつくる基本を手に入れられない 

311以降ぬけぬけと建築を作り続けることが出来るような 鈍感な建築系の専門的人々とは専門馬鹿なのだろう 」と 言い切るしかないようだ

(汚染源は国と東電だとは言われ続けているけど ) 微力ながら 大地の 除染作業においらも参戦し その後 my新建築を作る行為に入る積もりだ(注文が来ればだけどね)

   

  今日は環境省の電離放射線に関する 360度方向に時間不規則 ベクトル不規則飛び回る 軌跡をドライアイスの曇に写し 放射線(α)を後軌跡の 飛行機雲を目で観る 美しい


わいわいしたのち  除染作業に関する知識 機械の取り扱い方 法令など総 5コマ 

法令が最後に全体を引き締めまとめる除染作業監理員の法的活動と根拠を解説頂く 講義毎にテストもあるも 除染作業の基づけになる 目に耳にしたこと無い法令部が最も難しい 慣れることが好いことなのか?福島にあっては仕方が無いね 
 濃う紺ブルーの制服に身を包んだ環境省の人々(スキンヘットはやりみたいね)が 口早に説明し テストも早足である 

 市役所の食堂で2目の昼食をとる 日替わりそば 300円 9階の食道階から講義を受けている 仮設プレファブ建築を見下ろす




講義後 明日のロールプレイングのメモを書き上げる  


■夜  市内の食堂に出向き 10月10日の早稲田花田ゼミ のコンパの会場を探す 料理2000円のみ代別として 23人が一同に介し 他者が交わらず 静かなる場を探し予約を入れる。
 
 


   

  01日  台風の発生にて時折雨 どんよりした天気

■休暇を利用しドイツより一時帰国していたmy長女 早朝の飛行機でドイツでの研究生活に戻る 研究生活にエンジンが掛かるだろう 春には長期滞在でドイツの近代初期建築を観て歩きたい ので着々準備したい

■ 今日から3日間は 福島市 除染作業監理者講習会を受けることになっていたので市役所の西隣の仮設2階建て 除染企画課+除染企画課棟へ。 8時40分頃会場に着く 建築士会支部長のよりり色々教えていただく。 統一した作業衣やヘルメットなど準備してあるとのこと、サイズなど聞かれる。

■ 9時からで講義開始 福島市ふるさと除染実施計画についての具体的な内容 除染の概要 面的な除染の進め方 手順 除染実施要領 同意書についての課題など盛り沢山  テキストや資料も ふんだんに頂く 

 

昼食を市役所庁舎の最上階に初めて立ち入り 食べる 内部が快活ではなく各部署のアイコンタクトや 他部署の職員が動きを知るための空気がほぼ効かない 建築であることが理解出来た (良し悪しは別)

 最上階の食堂で初めて 市役所飯をいただく 中華丼380円  一度体験した 浜の寿町のサポート食堂の昼飯を思い出す 
 

■ 夕方 講義終了後 スマフォが動かなくなり ショップへ行く 時々電源オフが要るとのこと 電源を切ると 復活する でも 電話番号を持つ人の名前は全て消える