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     2012年  08月の日記
     
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 8月30日  午後 午後ロゴごろしたが 雨無し

昨日義援金が振り込まれてきた 。お礼の電話をいれつづけていると 活動資金ないんじゃないと言う彼彼女が居て まだ俺の活動を支援してくれるとのこと 被災地出俺が考える有効なお金の使用法は多様にある  義援金が来てから考えればいいいだろう

 311以降のmy活動ほぼ終わったので 義援金をおくってくれ続けている沢山いるmy関西圏+東京圏の支援者に 終わったからの報告電話を2日間し続ける
  関西や東京の人々が俺に支援金を送ってこなければ 311以後の活動はしなかったと思う なぜなら 想定していた悲惨な日本各地の心の模様の配列と現実を改めて被災地に入り確認しても 俺には成すべき術がないからだ 
 
ただ お前の活動は俺の活動なので銭送るから何かしてほしい!飲んで使い切ってもいいといいよととの伝言だったが呑みきれる額ではないのだよ、

 そういう声が311以後今日も続いてるので 遊び続けることが 人生の役立たない俺は 活動でもしてみるか〜どうせ暇をもてあましているしなー の乗りで気楽に始めた各種活動。それらに 負荷を感じるようなこことは無いし あいかわらず何もしていない。 特別他者に伝えることもない

 日本という目の前の事実は 限りなく俺には退屈で豊かな表情を発しつづける面白い事態を継続している 生き物そのものである  

クラウドに書いたこと

何のご縁なのか? 要求したことはないが311以降俺の口座めがけて義援金(活動資金)が送られて来ている。my・fb壁2つ前のコメント欄にも大阪の書店主(calo=本+カフェ)である石川あき子さんがmy新聞について「・受け取った人は本当に選ばれたと思って欲しい」と書いてくれている

 が、「お前の活動は俺の活動なのだ」と発言し呼びかけ義援金を集め投下した人々= 私を「311による被災地の活動代理人」として選んだ人々が現れなかったら311以降の超へんてこりん(依頼者不在)なmy活動...や(こちらも依頼者不在)気仙沼市鮪立地区にターゲットを絞ったおかしなmy新聞(紙と印刷は本物の輪転機を使って作っている本物新聞・笑)=復興工事に関するまちづくり新聞 1,2号は日本の台地に姿を現すことはなかった

 ★今日行った 県庁の1階ロビーには滋賀県から福島県めがけ発せられた エールの各種が飾ってあった 俺にめがけて投下された各種のエールとの違いを想ってしまった  長い解説はできない、さて日本にはかように多数の声が架け橋すべき者の出現を待ったいるのが実情だ。熱意ある心と心が至る所に浮遊して着地できず在る。もったいない、それらに架橋し可視化術をもって被災者や被災地にとって有効な媒介者となれるかどうか? 義援金を投下した人々は私を試験していると換言しても許されるのではないだろうか?そんなことを県庁ロービーのエールの数々を観て想った

 (俺はお遊びで生ききたけど なんだかお遊びでない状況が出現しているように思う たいへんよろしくない現実があることを遊び人にお知らせいている展示物かもしれない)


 8月28日  カンカン暑い

滞納のやま 税金の催促がある 電話し来週税務課に行き滞納金の支払いを伸ばしてもら予定 収入にならない活動をポイント制にして 税金と交換してくれる制度をそうそうに作ってほしい(ボランティア活動を活発にするための誘導政策として対応するのが賢明だと俺は思う

■311以降の活動は全て一段落したので 税金もしこたま滞納しているので すこしこお金になる仕事をすることにしよう 暑いので手描きで図面の紙が腕にくっついてくる しこしこ図面かくも 納得できる全体が書き上がらない まだまだ

昨年買った

『世界『』
を時々読みながら図面かき しこしこ 
言論人では誰が信用できるのかを知るために 長い時間に耐える発言をしてる者を知ることは大切だからだ 高齢だが 鶴見俊輔さんさすがに いい  

 8月27日  朝夕は涼しくなるも日中はカンカン照り

 資料など整理しつつ メールをしつつ 1日久しぶりにのんびりしていた 

■数日間ケイタイの電源を 映画館で切っていたままだった、夕方気がつく。電話せずにのんびりしていた。 電源を入れると なりすましかも?・・・鮪立の方とおぼしき方から苦情なのかな〜?不明な内容の伝言電話があった。屋号は名乗っているものの 成りすましもあると考えているので会ったことのない人と電話では交渉しない。対面にて話しをするのがよいでしょう。しつように○△だと名乗るほどに怪しさが増すので 会ったこともないので本当にその方なのか判断をつけることが出来ない内容だった。意図を書面で自自会長に提出いただければ 次号my新聞に賛成論・異論・反論は全て掲載するつもり
 ストレス社会だから誰彼構わず文句言うとすっきりする。そのための当たり散らし者かもしれない 

 8月26日  あいかわらず暑い福島セシウム都市 

何もしていないのだが しないと宣言しつづけている活動だが・・・。 鮪立の方から 手で薄くしたとろろ昆布が沢山届いた アイサレてんのかな〜市販の機械で薄くしたとろろ昆布嫌いの俺は おそるおそる食べた (鮪立地域内では俺を嫌う人も多いようだが 色々俺にあたえ応援している人も多いのである 。評価されたり好かれたり、他者に役立つためにと考えて 311以降の多様な活動をつづけているわけではない 誤解している人多し・誤解を解くための弁解も行動もするきはない)
手挽きとろとこんぶ」粗いすきかたなのでとても自然の昆布味が出てしまい 美味いとろろろ昆布だなや〜 機械ですいたとろろ昆布大嫌いだったんだけど すきかた拙いんだと知る うまい物を一番喰うのは生産地だなや〜

 我が福島市の超うま果樹も同様だで 市場に流通しているのってまずいもんが多い 農産物や海産物は海外でも売れるね! 美味いそれらを喰う機会がすくなくなるので応援したくないけど(笑)


■被災地で役立つとかなどと考えて行くのが間違えていると思うが fbに流れていた件にコメントをした
「役に立てずに申し訳ない」という書き置きを残して自殺した事件

○さんそのようなことがおきたんですか?役た立た図で「互いに在ることこそ価値」と考える私には 事実とは一概に信じられないです。「役に立てずに申し訳ない」=命すてる」を等価に考えてしまうのは個人の特性もあるでしょうが、教育制度がもたらす病でしょう。支援する者が「何もしない=なにもせず」一緒に居るだけで生物は意味がある」を身につけ(活動し続ける)るためには精神科の治療を受け続け支援する体制作りが肝要と考えます。
 セシウム都市福島内にくらしています。が、「人が生きている」単にそのことだけ意味があるんでそれ以外ではないですが、セシウム都市内のある種の人々と地域内メディアや一部の行政は「狂っている」としかしか思えない。被災都市内のセシウムのある現実の中で役に立つなんて思想は傲慢でしかないように感じます。人の実存・存在に目的合理主義を持ち込む腐った輩が社会を支配している事実が 彼を死に追いやるのだと感じます 気の毒なことです。被災地出色色やっていた私の仲間に対してご冥福を祈ります


■■ 以前に体験した夢や 時事実の中に入り込み体験したい! という人間の願望は演劇となり3d映画となっているのだが 3d映画は俺が生まれる前から挑んでいたわで新しい挑戦ではない しかしcg技術が深化し続けていて 見るに堪える映画ができていた
ソビエト映画Robinson Kruzo(1947年、アレクサンドル・アンドリエフスキー監督)第4パーフォレーションだけを残した35mmフィルム上に、正方形の画面2つを焼き付けた「ステレオキノ」方式
本格的にcgを駆使した3D映画を観る機会がなかったので「プロメティウス」を 観る ハリウッド映画はお馬鹿さんな筋我多いので期待せず。 筋や映画をつくる概念に期待を持って観ていた訳ではない 単に3dを観たいだけ 不況下の米国とあって以前のようなお馬鹿な話ではなかった ギーガーが作った1作目ではなく エーリアンをの2作目だったと思うが作った監督だったので 省エネであろう似たようなセットがふんだんに出てきて エイリアンを思い出した
 3d画像が美しさを増しているなーと思えるのは 下図の宇宙の立体図の中に人が立ち(マン中○に人あり)立体図を自在に動かして情報を得るシーンがとても美しかったのであった 危機的シーンのオンパレードはいつものハリウッド映画
 女性だけが生き残るのは90代中頃からアメリカが落ち目になってきてる時点で多く表現されていたが 落ち目続きのアメリカを現すように女性だけが生き残っていくのは 時代の特徴だ (落ち目のアメリカに相変わらず盲目的に追従してばかりの日本人は馬鹿まるだしだけど)

2001年宇宙の旅 猿の惑星 スターウォーズとつづく映画術を思い出しながら鑑賞できたので面白かった 3d映画は今後ますますsfジャンルで成長し続けるかも今度時間ができたなら うぶかたさん原作のマルドゥック・スクランブル 排気アニメを観るつもり
  

 8月24日 

昨日福島駅で刷り上がった my新聞「宿藤鮪・おらほう」を350部受け取り 重ーい福島駅前から高速バスに2時過ぎに乗る 仙台駅で乗り継いで 気仙沼を目指す 三陸道周りのバスに乗ってみたが 志津川など浜を通り 気仙沼市の南本吉から北上し 旧警察署まえに7時半頃 降りる 待ち合わせの駅まで30〜40分と遠い 途中復興商店のようなプレハブのラーメン屋に入り 店主とだべる 8時に店を出る

 気仙沼市のどの当たりか真っ暗 西の空に三日月がある明るさなのえ 分からなかった 10分ほど歩くと 見覚えのある橋が現れ 時分の位置を知った だらだらした切り通しを抜け 左に折れだらだらした上り坂を10分ほど歩くと気仙沼駅だ 途中の空き地には大型ダンプが集まり夜間工事を始めるのが朝礼のような格好で工事の人々が 監督から指示をうけていた

8時過ぎの気仙沼駅には スマホを抱え2人の女子高生がイケメン男性歌手の歌をならしあほのように静かな人気のない構内でギャーギャー楽しんでいる 自治会長さんがいきいき大学でお勉強後 9時半に駅に迎えにくるというので 1時間ほど駅待合室で ぐだぐだ
 
気仙沼市をでて 10時半前に上沢さんの家に着く 合計8時間の長旅 高速バスは時間が掛かるけれど3000円で到着するのが唯一の魅力であるかも?
 my新聞を渡しワイワイ 読んでいただく 地域の現在の問題点も聞き取ることができた 
 

24日8時より活動開始 樋の口のお母さんに会いわいわい小松浩平さんの家に行き記事を読んでいただき 討議 今夜の防潮堤勉強会へは参加しないことにする 一区菅野京子さんの家に行くも不在
 鮪立地区を南から北へ移動しつつ地域内の様子を見る。途中の家の前で会った人には新聞を手渡す。仕事中の人には迷惑になるので渡さず。
 鼈甲やのそばで草刈りしていたたお母さんと道路談義をする 西の前のお母さんとお父さんとワイワイ、合理的に語る方なので鮪立では珍しいタイプの方々である 中島さんに行くも不在 石屋さんに行きお父さんおかあさんと 防集についてワイワイ 北上し 片っ端から顔をだしてみる 孝幸さん夫妻とワイワイ 沢口のお父さんとワイワイ 小倉さんとうぃわい 鱈釣りに行く話で盛り上がる 船酔いするといつも脅かされるのである 鮪立を 北上しきり活動終了

和浩さんにに軽トラで漁協、支所、気仙沼市役所の順にアッシー君をしていただく ありがたし。 午後1時過ぎ気仙沼市役所内のまちづくり課 水産課、復興課、用地課、道路か、土木課、議会事務局 記者クラブなどに100部ほどmy新聞を配布する 水産課の加藤さんと長いワイワイ 今後のことを指導いただく 

 2時ちょいすぎ市役所を出て とぼとぼ気仙沼駅に向かう カンカン暑い 高速バスにしようか?まよっていると 気仙沼市からコンサル業務を受けている農村計画の富田さん池田さんRPIの大島さんが目の前に現れたので幸縁来たり 奮発し新幹線で帰ることにし 駅前の喫茶店で1時間談義しはじめる
  電車新幹線の中で大島さんとだべりまくり 色色教えていただくことができた ありがたし 鮪立地域の人にいただいた サメのお守りの効果は絶大であると改めて想うのであった 会う必要の無い人々は意図せずも難を避けるかのように出会うことがない、 会いたい人には労せず会うことができる 

 my新聞 地域に影響を与える関係者に400部配布完了した 一段落 

1年5ヶ月つづいた鮪立地区内での多様なmy活動は おおむね終わった。これからは行政やそれぞれの担当専門家の人々の力量や運によって 事態が切り開かれて行くのか? 道が閉じていくのか?それらは不明である。 地域にとっての幸運を祈りながらセシウム都市で静かにしているしか方法がなくなった 

 あしたから は311前の平常な暮らしにもどし 仕事をした活動によって まりにたまった請求書や不払い金税金の支払いのためお金を稼ぐことにしよう 
 12年間お金を稼がず 遊び続けて生きて来たが によって積み上がった請求書の山をみて お金を稼がなければならなくなった自身のアホさを、おもい知る 哀れなり日本の活動
 千年に一度の大震災によってセシウム都市=福島市内であほらしい〜働く事の世界に再び身を浸してみよう ナイスなおねえたんに出会えるかもしれない


 8月22日  連日猛暑日をくりかえしそうにカンカン照り

■ 近頃はフェースブックに色色メモ的に書き込むようにし始めた 誰が読むか分かるからフェースブックでの書き方が気楽である。字数制限も無いし写真のデータ量制限も無いので便利だ。(my日記を含めた無料サイトは100mbまでと今では驚くほど小さな量だ)
 散々書く悪口は相手にきちんとfbだと伝わるのでおもしろい 悪口がきちんと伝わるwebツールは相手めがけて書き込める便利で都合がすこぶるよい

■庭の笹も枯れ気味か まるまてい 人手に似 おかしいのでデジル 
■誰でも 15%狙って原発続けようとの戦略は 察 しがついて戦略パブコだったが政治家の意図は甘かった こちらすっきり。20年掛けててゼロを目指す社会にかわりそうだぜ 公共放送のニュースでは 世調で原発ゼロ 46,7% 

風聞あり 共同通信によれば先のエネルギー戦略パブコメ8万9000通のうち7000通を分析したところ0%が9割だったとのこと。焦ってるだろうな〜。間とって15%で行くつもりが、衆議院解散前に結論出せないだろ、こりゃ。

■今月のふくしま 市議会だより(セシウム都市議会だりょり)を読むと my実家周辺の農家は あいかわらず「米の作付け制限地域
 中学生のとき「日本の農家は駄目になる」と思い実家の農家を捨てた。長男だった俺は親戚縁者一同から白眼視しつづけられ 古里に近寄ることを禁止していきているが(遠くで思うもの・笑) 何もすることが無くなったあろうy実家付近の農家の人々は生活の根幹を奪い取られ(文化もねこそぎ)茫然自失の態だろう。
 中学生時には「原発事故で農業がだめだめになる」とは思っていな...かったが政治選択によって(農協や政治によって) 駄目になるとは思っていた。そのように進展してきた
 しかし俺の家族は自民党に投票しつづける政治的なあほだった。だから 農業の縮減は自業自得、自分で選んだ道だったのだ  目の前に広がる田を眺め「米、作れない」実家周辺の農民たちは、何を自分の人生の支えに組み替えていくのだろうか? 古里捨てた俺でも少し気になる議会だよりの内容だった


 8月20日  朝夕涼しいも 日中カンカン照りの福島セシウム都市

この数日図面をかきつづけ検討するもいまいち まだまだ

★ 購読料が全く入らないmy新聞初稿が上がってくる 。地域紙の印刷会社へ依頼したが 色が鮮やかであるマンボウ解体時の漁師さんたちの紅潮した顔なかなかに いかいい感じだ と自画自賛する(左印刷所上がり紙面 右宮城大有志とみんなで作った紙面)



 新聞出すも資金は回収できないのだが まだまだ続けないと多方向に目途が立たない状況である 被災地のあれこれ

★数日後の 防潮堤の勉強会で10分説明してほしいとの要請あり。ほとんど勉強会は興味が湧かない俺だが 
 鮪立の方が全体を語る方が好感が持たれると思う だが 役所任せで全て解決出来た時代に生きた人だけなので 俯瞰し時系列に整理し語る人が地域に存在しないのかもしれない。で受ける 事前に勉強会開きワイワイし後 他者に語れる人=地域の人がいたら その方にお任せしよう。練習し大人になろうと努力し続けるしかないのですから

  8月17日

my長男の家から 副鼻腔えんの手術をした仙台市内の病院にいく。鮪立での活動が重なり 1月遅れの定期検診となる 廊下の待合室は長蛇の列 予約をしておいたが 1時間半遅れで検診 粘膜は美しく再生しつづけているとのこと。にほいは分かるのだが まだ鼻汁が出ないので以前の鼻のようにもどっていない

■2012年7月11日河北新報に my長男の新聞記事を発見したので、コピーし持ち帰る

資料ネットの活動は阪神大震災時に神戸大学の奥村弘先生が始めた活動である

おれがこうして鮪立に関わる活動も奥村先生の1995年の時の活動を始めなければ無かったことだろう。
宮城資料ネットは宮城県中部地震をきっけに奥村先生の後押しで立ち上がった組織で有り、ym長男が永年事務局長をつとめている  親子の縁で始めた資料ネットとの連携活動は日本には前例がない活動に発展している my長男もやや困り気味であるけれど まだ止めてしまうわけにはいかない事態が続いている

■鮪立まちづくり会のコモンにされちゃった俺は(求められても契約婚はしなよ、内縁関係を言い張り続けている)コモンちゃんの愛称で呼ばれている。まちづくりコモンが統制出来ない多様な事象がずーっと起きている。代表的な例が防集の「5人集まれば誰でも協議会」もその一つである。市のミスリードであるが、そのことによって「まちづくり」や地域の自治会とは無縁に高台移転交渉をするはok!のお墨付きを市関係当局が印刷しばらまいてしまった。だから、おれには手に負えない状況が多発している

 また地主がバラバラで申請する基礎撤去もその類い(写真) ガバナンスできない。そして跡地利用のワイワイももてず。震災以前の記憶が次から次と何の理念もなく消し去らされていく

★防潮堤勉強会には参加する気分が湧かないのだが、これも自治会とは無縁に進展している事例。各地域の状況を「10分与えるから地域の状況や防潮堤に関する受け止め方などを説明せよ」との市からお達しがあって困った地域の人は俺に助けを求めてきた。「せつめいしてよコモン」の出動要請だ。地域の人に依頼されたら何でもコモンはすることにしているので行くことにした。行っても俺にはあまり意味は無い。防潮堤に対策については、一貫した態度ですすめよ!と3ヶ月前に指示したのでそこのこを変える必要は無い。
 鮪立地区の対応方法を発表し気仙沼市の人々がなるほどと思っていただける機会になれば好いだけだ。

★まずもって、my新聞「宿藤鮪報・おらほう」2号目が印刷は20日にゲラあがり 23日午後刷り上がりだ。で持参し、行政各関係に150部ばらまいて、地域の考え方の受け止められ方の様子を見る活動と説明会での発言は併走できるので 勉強会に参加するのも悪くは無いとの判断で行くことにした 

★自治会長から近況報告もあり 1日も早く来て欲しとのこと。多様なことが起きすぎてどうしたらいいのかお手上げ様とのこと 高台移転あれこれの関係者と自治会の関係をスムーズにすることは難しので コモンは地域の人人の助けを 求められない限り放置する 現段階で斡旋はしたけれど これいじょう税金の無駄遣いに手を貸すつもりはない

 8月16日
図面を書き続け 夕方仙台へ my長男ハウスで1泊する 鼻の手術後の定期検診のため 仙台は福島市内より涼しい

(メモ

市会議員などの政治家は311以降どのような活動をしているのか さっぱり目視することができないので 税金ドロボウじゃないと言う者まで現れている。ようやニュース見つけた三陸新報社の今日の記事 いずれ消えるのでコピペ>>
気仙沼市唐桑町の崎浜大漁唄込保存会(三浦仁会長)が、後継者育成や御崎地区の魚付き保安林保全などに役立てる基金を立ち上げた。かつて、長年の不漁にもめげずに豊漁の記録を打ち立てた先人たちの教えを継承すのが狙い。
 同町御崎地区には明治43年、定置網・仲網が5カ月で10万匹の本マグロを捕ったという記録が残っている。網元は前回の大漁から60年目に再び豊漁に恵まれるという祖父の教えを信じ、長年の不漁に堪え忍んだ結果の快挙だった。同地区の大漁祈念碑には、つらいことの後には必ず喜びが待つことを意味する「天運循環」の文字が刻まれ、周辺の土地には杉や松1000本が魚付き保安林として植えられた。
 海への感謝と大漁の願いを込めた唄込を継承してきた保存会は、東日本大震災で一時は存続が危ぶまれたが、昨年5月に活動を再開。しかし、会員20人の平均年齢は70歳を超えており、後継者育成が課題になっている。
 「天運循環基金」は1口1000円。後継者育成のほか、魚付き保安林の保全、松食い虫対策、遊歩道の整備などにあてる。同会では「震災復興への決意も込めて歌い継いでいきたい」と協力を呼び掛けている。問い合わせは事務局長の戸羽芳文さん(電話090・4045・0732)まで



 8月15日   

朝夕 秋めいてきた 図面をしこしこ書く まだ正解が現れていないものの ずいぶん練り込めてきた あと1週間あれば模型制作にはいれそう 嬉しい

■終戦記念日という名の敗戦日 6年間連合軍に占領されつづけ ようやく独立できたのは俺が生まれた1951年。敗戦の原因もかたらず責任も問わずは、失われた20年や格差社会を発生させた政治家への政治的責任を問わない、現在と変わらない
 原発事故だって誰も責任とらず 放射能をまき散らした会社は現在も手厚く税金を投入し守られている、増税だそうだ、料金値上げだそうだ。
 いつ収まるともわからない福島原発事故の処理作業は今日もつづいていている、今後の作業員の確保さえ不明と方々の記事に書いてある。原発事故後の廃炉処理技術も無ければたんなる目標でこれから40年ほど処理するという。 廃炉から出た廃棄物はどこへ、最終処分場も決まっていない、めちゃくちゃな話 が続いている。
 福島県内の処分場はなし崩し的に原発事故に関わる核廃棄物の最終処分の地となることは間違いない

俺が暮らす福島盆地に降り積もった放射線の害が消えるまで15〜30年ほどと俺の生きている間には放射線害のあれこれから解放され平安な暮らしは戻って来ない 原発に取り組みドクまみれとなったこの地の敗戦処理はだれがどのよう行うのだろう、明確な答えをだれも出していない。この1年数ヶ月県紙は絆だ安全だ安心だのオンパレード 県民をあほ扱いし続ける。例のやらせ公聴会・行政の広報官のようだ


 8月14日 

設計依頼を受けて まだ図面が出来てない 建築の図面をひたすら手描きでかきまくる まだまだ甘いので今週は図面かく よ
 鼻の手術ごの病院検診に行く時間がとれてないのだが今週金曜日は万難を排して 病院に行くよ と自分に言い聞かせる

■ 鮪立4区は漁協集落のモデル事業から外されている と区長さんが語っている問題を検証しまくる 関係者の声をまとめると そのような事実は無い ばりばり事業化に向け計画中なのだそうだ 疑心暗鬼の闇に落ち良好な関係を構築している 市や県の関係者と仲間割れしないよう、細心の注意を怠るなと 地域に網を張り巡らしておいた

■竹内先生の機転の効いた連絡で、防潮堤のアンケート結果が マスメディアに流れるのを阻止することが出来た。ほっ 地域の人は純朴で全体の流れとベクトルが理解出来ていないので、不意に逆噴射的な想定外の行動をすることがある。悪意はないのだ。 短期決戦なので 仲間割れしない策を会長に伝授

■関係者を当たるついでに 鮪立湾の領域も 魚集のモデル事業に加えるようお願いした 良好な返答あり。1年数ヶ月の活動の結末をみる。それは復興事業のあれこれが実現に近づいただけで、鮪立の まちづくりの道を歩み始めたわけではない まだまだその道は見えず なのだ


 8月13日  蒸し暑し 

出歩いててたまっている各種請求書など雑事を整理し財布も貯金も空になる。しばらく活動はお休みせねば 活動のために借金が増えるだけ

 my新聞「おらほう・宿藤鮪報」原稿を印刷屋に渡すも 担当者がお盆休みにて 1刷りは20日頃になるとのこと 。世間はお盆なのであった。my新聞は発行するたびに赤字、広告費を集めている時間もないので自腹が増えるだけの見本となっていきそう。印刷費を安くしてもらうためには待つのはしかたがない。

 鮪立の色々は書ききってないので3号目もその後も継続し記事を書くことはできるのだが、my新聞は赤字でるだけなので 発表媒体を変えていくほうが 多様な人に読まれる可能性が高く 地域外の人々には役立つかもしれない

ぼんやりとしてる間はないので 読み残した本とdvdを鑑賞してしまおう。 明日からは図面をかくことにして積み残した課題解消につとめよう


 8月12日  蒸し暑い 放射線量も多い福島盆地 3時過ぎ雨

 放射線量の多い、そして内部被曝の確率が高く続くであろう土地、福島市に暮らし続ける動機は様々に考えつくが 行くところやここしか、や働く場のえることができない、作れない弱者は過酷な精神的負荷の中で生きている。外部から支援にやってくる人々も、見た目では何も変わらない?放射線の地に来て戸惑うことも多いだろうし、他者のために役立ちたいと思う欲望が自らを苦しめる自業自得の壺にはまり悩みつづけるという、複雑な状況が放射線半減期がつづく30〜40年も続くのだから 夏の暑さの中でも凍えるような状況が目の前に広がっている。放射線被災状況は津波に遭った現地のように目には見えないわかりにくさが人々を苦しめ続けている。五感では知り得ないから気楽に暮らしている者もいるかもしれない。

建築の社会で永年いて きたので職業柄、移動が常の俺。 旅の中そのものが家であり渡り職人の末裔であうる建築系の仲間は、仕事のある場所や快適な土地を求め移動することに、精神的な負担を感じることはないだろう。仕事や好き環境を求め、愛する者を伴い移動していく。

■ 10日宮城大の巨大な製図室=キャド室と竹内研の有志のイラレ能力を存分に借用し(盗むように・支援していただき)鮪立地区にターゲットリーダーを絞った新聞「宿藤鮪報おらほう」編集を続けた。学生を私物化しキャド室を我が物のように使い続ける俺はドロボウと似た行為をしているんだと自覚している
 たぶん先生が訴えればそのような判決が下るだろう。許可があるのでそのように展開しないだけだ
  
 自治会長からの連絡によると三陸新報で新聞「おらほう」を取材をしたいとの申し入れがあるそうだ。
 朝日新聞が読売新聞を取材するような滑稽な事態を新聞者は控えたほうが身のためだろう。なんとも悲しい、お寒いメディア状況であることよと。花田達朗教授と縁が出来て10数年だ。先生が主宰している早稲田大学ジャーナリズム教育研究所は多数の記者を有名メディアなどに送り続けている日本に数少ない記者の実践教育を行う教育の場である。研究所とも永年付き合いつづけている。 きせずしてジャーナリズムとは何か?を花田先生との付き合いのなかで学び続けている 「おいおい、お前の仕事が行き届かないから、赤字で〜俺が新聞つくるしか 情報を共有する方法がないんだぜ」とは思うのだ。こまったもんだ。

■ 11日の早朝まで編集作業はかかり 宮城大生の女川育ちの遠藤誠也さんの家に泊めていだいた。7時頃テレビ局の車が迎えに来た 唐桑番屋に向かう。宮城大の面々は鮪立にある廃材に似た材料をつかい唐桑番屋を作ったのでTV局が生放送をするという お気楽な番組に付き合えと竹内先生が言う 。一人でCD室に居てもすることがないので 鮪立の自治会の人に会えるのでついて行く。

 10時半過ぎに鮪立に着く。海岸では養殖ホタテの種とりの仕掛けを作っている。自治会長とも合流し石屋のお母さんにアイスなどをいただく。

テレビ取材の現場を離れ、4区自治会長の家にいき現況や意見交換をする。「4区は漁業集落モデル事業でなくなった」と水産課に言われたと語っている。
 政治圧または国交省と水産庁の権力争うに巻き込まれ事業が消えたのかもしれない謎である。行政マンも地域の人人もそのたびに右往左往するのだろうか。

まちづくりとはそのような外部の状況にいちいち一喜一憂をもってはならない。たんたんと目指すべき未来の時空を北辰と定め 現在を活動し生きることなのだと伝える。 現世御利益が第一と考える人々には解せない話だろう

「部屋に布団まで設えてまってるのに日帰り?なの」と尋ね歩く家々の方から声を掛けていただいた。ありがたいのだが 俺の鮪立での仕事はほぼ終わってしまったのだ。ここからは地域の人人が乱れず活動し続ければ今世紀型の地域社会は出現する。

■午後上沢家に集まり 防災集団移転の協議会と自治会の乱れを調整するための会議をする。事態が急変したので「何かあったな?」と推測したが不明だった。 地田浜別家のお父さんが調整に乗り出し、意見を語ってこのような事態の進展になったんだとご本人から聞き取った。お父さんは記録を丁寧に大学ノートに執っている唯一の鮪立人である。自分の記憶の不確かさを自覚している大人なであり、心強い まちづくりの仲間であるる。色色提案して別れる

夕方 宮城大に戻り 遠藤さんをこき使い新聞作業を続ける。竹内先生は体調不良にて 早々に家に帰った。今日で仕上げるぞと檄を飛ばし続ける。終電ぎりぎりまで作業をつづけ 印刷屋に渡せるデーターまで作り込んだ 

まだまた 新聞作りに時間を費やさなければならないが my新聞「宿藤鮪報・おらほう」の学生さんに係わっていただける段階はここまで。印刷費を安くしていただき 前回から続く赤字の額を少しでも減らさないと。借金だけが増えていく年金暮らしの、お馬鹿な糞じじいとなじられること必至
 

 8月09日  すずしくなりしのぎやすし
 
 宮城大学へ向かい11時半頃着く。 宮城大は地下鉄泉中央駅からバスで30分ほどの距離にあるので 福島からでも新幹線をつかっても2時間弱を要した 遠くて不便な場所に大学を設置しているのはなぜか 用地があったからだろうか。

竹内研の本馬さん千葉さん 加賀屋さん さ紀さんにイラレ編集をてつだっいただき割り付けや イラストを作っていただく鮪立地区専用地域紙 宿藤鮪報・おらほうの2号目の編集作業すすめる。 6時まで作業を行い 7時から仙台の町中のビアガーデンにて新入生歓迎会があり 竹内先生に招待されビールをごちそうになる 貧しいおいらはどこへ行ってもごちそうしていただく知人友人があり ありがたし。
 少しは現金を稼げる仕事をしたいのだが、まだ鮪立地区のまちづくりに関する雑事が終わらず金欠はつづくのである。生活のための資金を得る活動ができない、どちらが先かは決めかねるが あらまし終わるまで金欠生活を続ける予定だ

 新聞不慣れにて 手間取る事多し。新聞割り付けと文字の配置 慣れていないので 感が働かずぴしりと決まらず。 多く書きすぎたりして 作業をスムーズに割り振ることが出来なずむやみに時間が消えて行く気配あり。ど素人が新聞を作っているわけで仕方がないが、絵の貼り付けが先か 文字が先か と全体の構成を考えてからじゃないと どちらも手に付かなくなるという 建築の構成を決めなければ作業が進まないときに似ているようだ すこしずつあぶり出されるように仕上がっていくのが分かる 明日頑張ればおおかた見通しが付くだろう


 8月08日  道路の無人販売所であかつきという品種の桃を買う 粒は小さいがあじはまあまあ カンカン照り効果

■鮪立の新聞の割り付けを行い 記事に必要な文字起こしをし 1日が終わる 誰に依頼されて新聞を発行しているわけでもないけれど きちんとした記録を残すにはまだまだ先になるのだが 地域の人人と共有すべき内容をなるべく多く書き入れたいのだが 多すぎると読みにくくなるし 難しい

■大漁唄い込み会長から写真が届く 夜電話し様子をうかがう いろいを問題のありが分かる

自治会長からは高台移転の図面各種宅配されてくる この先の進め方は難しいのだが 放置してもなりの 仕事が現れるので 放置しても よいのだが

4区区長さんに電話し意見を伺う 地域の構図が浮かび上がる 





 8月07日  風あり 夕方から少し気温がさがりありがたし

ずーっと1日。これだけ。 鮪立地区で配布するための新聞の頁割をし続ける ページ割が決まらないと原稿の量を決めることが出来ないからだ コンビのコピーしまくり貼りまくり。 この「宿藤鮪報 おらほう」は宮城県立図書館に震災時の資料として永久保存されるので しっかり悪事も含め 鮪立地区の震災時の不正と復興要望に足を引っ張る人の実名を書き 歴史の記憶として後生の鮪立ちの若者が読んでも 参考になる内容にする予定だ

■ 割り付け開始。鮪立地区の現在を知るための新聞 「宿藤鮪報・おらほう」の頁割りをはじめた 主なテーマを絞り込む作業中 書くネタ 多すぎて 困る 紙面は限られているし 予算も無い広告費集めている時間も無い 地域の人苦情の電話あり (四面楚歌ならぬ六面楚歌・笑) 

 女子会で話題になった主なテーマ 

1)老老介護あれこれが現物支給の仕事となる 
2)被災時に送られて集まった支援物資の分配方法の不正と配給独占疑念が今も語られ問題 
3)流失した魚具を集め個人の所有物にしている者は泥棒だ...
問題
4)被災者が非被災者を区別視 し追い対話をしない問題
5)夫・家・仕事などを全て失い言葉も無くした女性への対応をどうするか問題 
6)高台移転と空き屋になるぞ問題 
列挙するときりがない
★2号目の新聞では震災時に起きた「泥棒問題2つ」をとり上げる「震災地ドロボウに揺れ収まらぬ鮪立」とし 1面に掲載することにした。それらは顔見知りの地域の人人の不満と人間不信を生み出している源だからだ。解決の糸口はあるのでその内容を提示し共有することが出来れば人間不信問題の解決の1歩踏み出せる。
 死ぬか?生きるか?の時空に置かれた人々の行動は動物的であり人間てきであり同時に自らが持つ・生きる・つくった・社会の制度を信用仕切れない哀れさも現してしまっている  

 311によって沈没が加速され固定し始めた 自治会長より連絡にて 防集協議会の混乱をどう納めたらよいか?とのワイワイ。昨年からダッチロールし続ける移転希望者と、まとめる役割を受けた者 混乱を極めている。で4月に発足した、更新した仮称まちづくりのコモンとして斡旋案を提示しつづけているのだが 無視されつづけていた 

  突如 今日 まちづくり会が提案した斡旋案でしか移転は認めないと市からの通告があったそうだ。 コモンとしては自ら動いた斡旋案採択ではあるけれど 市の今日の提案にも協力せ...ず!の態度で当座はすすめるようにとアドバイスした。

 この地域の防集に関する工事一切を行わせない案が 最も日本の将来と地域の将来にとって好い選択であると確信したからだ。自らの案もゴミ箱に捨てることにした (理由を書く時期が来たら詳細に書くことにする 

拙速な対応の連続だ 今はもめ続けているので 無駄な工事を止めることの方を優先させることにした。地域の力がここまで無いとは 昨年4月にかかわってときに想定してなかった。やれやれ 
 日本の政治も被災地福島市に暮らす俺にはほとんど役立たずで酷い状況だ。そして各地の 地域の人人も政治状況と対応するかのように無様に協働して何かを薦めることが出来ぬ おじいさんとおばあさんばかりの酷い様。その地域を どのように改善し将来への筋道をたて 北辰のように動かぬ目標を提示し まちづくりの総体を稼働させるのか これからの課題となった

 とうぶん 足抜け出来ないかも〜沈下しつづける港湾施設のように海の藻屑と消えていく結果となっても 悔いも無い あとは野となれ山となれ的肩に力を入れず実行するのが最も よき対処姿勢なので実践し続けている 目的合理生きしか存在しない日本の現在を軽快に生き抜くには 無目的主義の生き方がよい 

 8月06日 昼頃雷雨あり

■ 本を買いに町に出たが雷雨に遭い電車で戻る。駅付近でmy長男に偶然会う。福島歴史資料ネットの依頼で講演とのこと。講演終了後my家に来てワイワイ 防災科学国際研究所の仕事は多忙のようだ

■先日調査した登米市米山町の土蔵に関する記録。ざっとしたスケッチをこしらえておいたので渡す。鮪立の三井商店所有の金屏風、2双6曲の屏風の写真を渡し絵画専門家に観て調査してもらえるかどうか 依頼する。古文書や掛軸の調査依頼も多いが 絵画関係の調査依頼も311以降増えている

■我が家では自動的に建築と歴史系のコラボ会議になってしまうのだが、現実の地域社会と学問領域では文理癒合のワイワイはイメージ通りに展開していないのが現実だと 思う。 文理癒合活動は石巻本間家土蔵を切っ掛けに日本に初だろうが できあがって工事が進行していることは刮目すべき事例なのだが、無理解な人多し
土蔵の持ち主である石巻市の門脇二丁目に暮らす 本間英一さんは東北地方で唯一 私利私欲が少ない、自らの被災地での活動も家財産全て流された者とは思えないほどの明るさと前向きさと垣根の低さで どこにも見当たらない 模範的豪商の末裔であり そのような人物をもつ石巻市門脇町は幸いなることこの上ない 。311以降他地域からのやっていくる人との交流が素晴らしい 7月中頃からフェースブックでその様子を公開しはじめたの、克明に交流の様子が伝わってくる。そのような21世紀が目指すべき人間に 活動の一番最初2011年4月に出会ってしまった幸運と不幸をかみしめることが出来る

■自治会長からの連絡によると、鮪立地区の防集に関する市用地課からの説明があったそうだ。先日自治会長と上沢の忠勝さんと用地課に説明にいったが、その要望に添った案なのだそうだ。図面が送られてきていないので判断出来ないが 憩の家でコンサル(伊戸川)さんとワイワイした要望、それぞれが 投影されているようだ 

 さて自治会と協議会のぎくしゃくをどのように解決すべきなのか 溝を深くしつづけ事に当たる方が地域の歴史に則しているようにも思うのだが、俺が歴史を作ってはとても拙いので、地田浜別家のお父さんに電話し意見を聞く。
 協議会は一本化されておらずバラバラの様相をていし続けている。(うまくやっていると自画自賛しているのだが 酷すぎる。会議ごとの記録さえつくらず 自治会にさえ報告無し。もちろん移転希望者にだって報告していない、単に場当たり的に右往左往しているだけだ。60才過ぎた大人の仕事とは思えない) 迷惑をこうむっているのは自治会長をはじめ 真に鮪立湾に面した土地の高台への移転を希望している被災者のなかの資金力の無い方々なのだが、救いの手をさしのべてる余裕さえ無い。そのような者を持った地域は哀れなり。

■myビッグローブ10mbとしかないので サーバ容量オーバーした。削除の優劣・必要順序を検討している時間が無いので 手っ取り早い処置ができ画像データが極端に大きくなっている 今年の日記を一部削除する

 5日 新聞作成のため 資料整理と 資料読み込む1日 

 8月04日  カンカン照り

 須賀川に行き 縄張りをし発注者に説明する  目印のパネルを置く
  

 
12年ぐらいだろうか「エア建築家」を続けていたのだが・・馬鹿やろーな、よんどころのない事情があり、しゃーないので時々建築家(実建築士)にもどることとなり 建築設計の仕事をする気がおきないのであるが、まんずは建築士にもどることになった。

 キャドの使い方を忘れてしまったので、「まっすぐなワンルームとローカーだけ建築」なら 老いぼれじじいだって、あのキャド使いを思い起こせるだろう。キャドを覚えながら図面を書くとができるだろう??とそんなプランにした住宅。その建築の縄張りをした。カンカン照りのなか 熱射病で倒れる〜のではと思うほど暑い怠け者のカンカン照り仕事! 縄張りを終え即!隣の母屋のぬるま湯シャワーを借り頭からかぶり冷やし 昼飯にノンアルコールビールを頂く その後目印に枠を置き 発注者にもゾーンが理解できるようにし 敷地内に立ち説明する。

 なかなかよい感じにの建築君に造り上がる気配あり、と自画自賛 それにしても隠居小屋ベッソウとしてでかすぎじゃないか 庵を越えてしまった。
 
 時々建築家なんだけど 自分で型枠組んで施行もできるよう単純図面にする。?素人でも作ることが可能な建築としていきたい 確認申請とらないと作っていけないんだったかな?申請は外注してしまおう。

 3坪以内にしバラバラにつくり脱法するっててもあるな〜 アネハ事件以降、日本の建築基準法合わせて作る気が湧かない俺 管理建築士でもあり違反の薦めをする 時々建築家でもありたい 

 それにしても建築設計って面白いけど おもしろくないね(変な言い方だ)なんでこんなに面白くないのだろう? 10代から建築に係わって設計を生業とし 子どもを3人育てながら 生きて来た銭の元建築設計が われながら今現在  おもろくないよと思う お金を稼ぐ気が起きないからだろう趣味の世界に生き続けているというほうが他者には理解が早いかもしれない。 その俺が自身の存在が不思議である(可愛いお姉ちゃんを おおぜい知りすぎだのが その因であろう)続きを読む


 8月03日  曇ときどき 
 
鮪立湾の中央にある台の越も霧が掛かったり晴れたり 防集 高台移転協議会の騒動に似ている 正面の小さな森が 台の越 右側の欅の隙間から見えるのが鮪立の港  
   

平成24年鮪立自治会だりょり 4月16日に発行。その内容を読むと提案要件はすべて承認されましたとある、復興委員会を更に発展解消し、「仮称・鮪立の今後のまちづくりを考える会」を発足させてはどうか?のといかけに出席者のほとんどが賛成した 委任状を合わせると199名の人が賛成したことになっている 

だが災害公営住宅や高台移転の協議会は自治会長の提案やまちづくりコモンのなった俺の提案にも 余計なお世話とまでは言わぬも 逆らい続ける様は 逆噴射し抵抗続けていると同じ効果を現すだろう。被災者の高台移転はやがて期限切れとなると予想している 移転住宅が一軒も造らぬという選択も よい案の一つだと思う 

そんな背景があったので 高台移転を希望する人を訪ね意見を午前9時から聞き取ってみた会長の考えに振り回されてしまい被災者の声がまとまらない常態である。と同時に 自治会が議決した 「まちづくりを考える会」の存在すら無視している無責任さにあきれ果てたのだが聞き続けておいた(地域の被災した人は誰の話も理解していないのである)自治会で決めた賛成内容も理解せず バラバラな意見を言う様にあきれ果てもせず聞き入った。被災者が自ら高台移転のための各種愛の手を払いのけ 自滅しつづける路を歩んでいた。

鮪立わんに面した魚集のマスタープランづくりのために 最後の最後に仕上げようとし数ヶ月前に仕込んでおいた 案件を解決した 感通りの反応。的確な仕込みと判断であった。地域のにいただいた「サメ神様のお守り」効果絶大である

水平の路を計画しているのだが 出口の土地を持つカメラマンが あれこれ問題を提起しているで カメラマンに会い じゅっくり話を聞き込む 過去の争い と自らは高台へ地力で移転したのに 路は要らないと言い路の無い処に家を建てた者を甘やかしてはならないと言い張る。 理屈は分かるが 多様な人々のための路なので カメラマンの話だけ聞き入れるわけにもいかない 多様な人々の受益効果をあげることが路をつくるための1つの効果なのだが ・・・言い張っている 路肩を使用する案については賛成とのこと

1じ自治会長と唄い込み会長と今後の対策を練りあげた。そこまでが 今回の鮪立活動の目的だったので全て終えた。仕事で参加できなかった 浩平さんには 自治会長から伝えていただくことにした。

気仙沼駅まで自治会長におくっていただき バスと電車を乗り継いで福島に戻る。気仙沼は遠い。福島は夏祭り真っ盛りだった

■仕事場に戻り 図面を書き 縄張りのさめの作業図をまとめる まとめる 

 8月02日 昨日今日福島から鮪立
 
9時から、地田浜別家の浩平さんの家にいき 鮪立湾の運営委員の浩平さんを取材をする 子どもの頃から 辛いことも含おおかたを聞き取る。味わいふかい内容の記事に仕上げたい。昼飯もごちそうになる。地域紙「宿藤鮪報・おらほうに」の2号目の主なる記事にする予定。

 行政の窓口であり地域の人々と港を親しむために作った組織、鮪立親港会の会長さんでもある浩平さんは漁協の問題も地域の問題も知る 要の人である。人生の苦労話も少しおりまぜながら 聞く。家族の方々は漁業をついでいない。漁業の盛衰を生きている人生だ。
   
 
今日午後の鮪立活動 午前に引き続きmy新聞「宿藤鮪報・おらほう」の鮪立地区では基礎の解体がはじまった。午後は記事集めをした 。ブランケット版4頁オールカラーを埋め尽くす記事は既にあるのだが 時間のある限り歩く。厚みのある、長い時間を生き抜く 311以降の問題を被災地以外の人々も被災時の知恵として共有することが記録に似た記事内容にしようと 鮪立地区を南から北まで行き来する。セシウムがある盆地福島市の気候より海風山風が吹き活動しやすい。

 面白すぎる記事にすることもできるけど 将来この鮪立に.争い事とか他者不信が起きないような援護記事にしようかと考えながらあるく。

 取材していると、「記事見せろ」いう被取材者がいるのだが 日本国憲法違反をせよと迫る内容なので 記事を新聞で読んでいただき 原稿を見せることは一切しませんと断る。(ここがとても肝心かなめの記事を書く者の態度なのだ。信頼性を獲得するに記事を書く者として許してはいけない基本の樹。建築雑誌を含め建築系の雑誌記事は糞なので かならず被取材者に原稿をチェックさせ印刷している。だから記事として社会性を価値を認めることができない身内のピーアール機能しかはたしていない。そのようなが常態を放置しつづけ その肝心要を自覚し編集している建築系専門家は皆無である

俺に記事をかかれ内容が嫌と思うなら取材を断ればいいだけなのでえす 嫌なら 取材拒否してみるがよい 一層しつこくネタを集めて書くことだろう (名誉毀損にならない内容でだが)
 
■記事取材を終え 問題が噴出するしている 人々を一人ずつ訪ね話合う 午後8時でかかり まわりきる 処理できない内容は 次回 お盆過ぎに来てワイワイしようと提案する 鮪立地区もきめ細かにワイワイ進む 家を出るときに想った活動目標以上に まとめた気分がする 
■ 8月01日のことあれこれ。昨日の午前高速バスを乗り継いで(片道2800円)鮪立へ 気仙沼駅に自治会長さんが車で迎えにきていただいたので 鮪立までは自家用車移動

 車の中でその後の騒動内容を聞く 起きるべきしてわき上がる争乱 自治会のこもん依頼を受けたので しびだちコモンと呼んでくれるようお願いする 契約婚にならぬよう話合う その後 地域の争乱や問題を題を解決するための要の人に会い ワイワイし必要な手当を俺が即行う。午後5時半までの2時間走り回る うまいこと方針がまとまる、途中4区の区長さんの娘さんが飯を作ってくれたのでかきこむ。

午後6時より鮪立憩の家で 女子会27名参加。男性は新コモンを含め3名参加、夜飯を食う暇もなく走り回った前回とは違い 今夜はビールなどの差し入れがある。2時間話合う 。前半は復興要望市に提出した概要を説明し 女子会のは復興ワイワイじゃなく地域の福祉をいかに手当てするかではないのと議題を設定したい旨提案する 

女性部と表記する部会が自治会の下部組織としてあるので 女子会はいらないのでは?など 色々な疑問が提案された 一つ一つ話合い 女子会という名で偶数月の第一土曜日午後7時から定例会にしようと 全員がまとまる 次回鮪立女子会は10月6日午後7時開催に決まる まとまりの悪い男たちとはことなり女子会は話が早く要点を語りあうので時間も掛からない。次回会合は飯つくりと後片付けを手伝わない男ばかりなので 片付けし後参加の女性したいので 6時開催は体がきついので 7時にたいとの提案を受ける もっと遅く開催してもよいのだが 漁業の朝は早いので何度か会を重ねて調整していくことになる 

散会後 5区のもっとも離れている家お誘いがあり 生ビールを頂戴し3杯飲みながらワイワイする 越路地区の話をきちんと聞く時間がなかったので よいはなし合いになった。

 境界に暮らす人々の視線は客観的なのでないの?と思った。被災地の被災地で後々まで残る争いの基が何か知ったような気がする 難しい被災地の人と人のあり方 解決方法はないのだが 日頃の人々の交流と正しい情報を共有するための不断の情報発信と更新に尽きると思った

上沢さんの家を今回も活動拠点にし 使わせていただく。