竹山友陽(ともはる) 入門 1の1 2025・02・18 2へ | 作成:佐藤敏宏 | |
佐藤:もしもし、ダイジョブですか。 竹山:お願いします。咳をしている。 佐藤:おはようございます。風邪ひきましたか。 竹山:大丈夫です。 佐藤:画像いれますか。 竹山:なしでも大丈夫です。 佐藤:画像入れて、何コマか撮ります。画像解除になんでならないんだろう? 竹山:真ん中じゃないですかね。 佐藤:ビデオオンにできない。(カメラにシールを貼ったことに気づかず) 竹山:もう一回かけなおしてみますか。 佐藤:そうだね、ちょっとまってください。うまくいかない、スマフォでするか、ちょっとまってください。 竹山:はい 佐藤:スマフォで画像がでました、竹山さんはどうですか 竹山:お願いします。 佐藤:おはようございます。まずスクショをしておきます。もう一枚ね。お忙しいところすみません。 竹山:大丈夫です、午前中はゆったりしてますんで。 佐藤:そうですか、昨夜遅くまで仕事したんじゃないんですか? 竹山:昨日は10時ぐらいです。 (家族について) 佐藤:2025年から2年ぐらいかけて、竹山さんの話を聞く(入門)なので、ざっと目次はつくりましたけど、この通りの語り合いじゃなければ・・・というのはないので、思いつくままに話ていただければと思います。何から始めるか、といっても佐藤は竹山さんのことを知らないので、まず、家族のこと、兄弟のことから。両親はいるんですか? 竹山:居ますね。 佐藤:家族関係は複雑ですか? 竹山:そんなことないですよ。 佐藤:両親がいて、友陽さんは長男ですか。 竹山:長男で、姉が5才うえにいます。 佐藤:姉ちゃんがいて、友陽さんがいて、二人姉弟ですか。 竹山:はい。 佐藤:そうですか、5才違いの姉ちゃんがいると。辻さんの家でオンラインで聞いたときに、おじいちゃんの話がでました。お父さんのお父さんが、九州の宮崎でしたか?違いますか。 竹山:両親とも、浜松市です。 佐藤:じいちゃんから学費、支援してもらって海外留学したという話でしたが・・。 竹山:それは父かたの祖父で浜松です。 佐藤:そうなんだ、オンラインワイワイで酔っぱらっていたか、聞き間違えたんだな。 竹山:両親とも浜松で育ってますよ。どっちから話そうかな。 佐藤:友陽さんからお父さん、お母さんの話をしてもらって文字にはするけど、公開しなくてもいいので。後に、お父さん、お母さんの話も聞く機会を作ることにしましょう。両親が話すの嫌だということなら、それでもいいです。 竹山:ははははは。 佐藤:必ず予定どおり進めなければいけないわけでもないです。情報はいろんな角度からいれて、竹山友陽像を手に入れましょう。ほどんど各自の友陽像をもっていて、友陽さんが思っている友陽像、親兄弟でも各自各様で違う。自分自身のこともわかってない、それが一般的な像なので。あまり気にしなくって、いろいろな友陽像が各自に育っていればいい。平野敬一郎の分人主義ではないけど、いろんな友陽さんがいたほうがいいし、面白いので。筋金入りの友陽像ではつまらないので、変幻自在に1時間ごとに変わる。 それでもいいので、いろいろな情報を得て、最終的には佐藤が竹山友陽像を捏造しても・・・。2年間聞き続けたけども、分からんかったな・・・でもいい。分からない奴だという事が分かるだけでもいいんです。 ということでいきましょう。1985年生まれ、姉ちゃんが5才上だったと。浜松市のどこでうまれたんですか? 竹山:浜松市の駅から近いです、西伊場っていう所ですね。 佐藤:シティーボーイなんだね。 竹山:辻よりは町中のほうです。 佐藤:辻さんは山と扇状地の境の昔は辺鄙なところで生まれたが・・・。 竹山:母親は浜北の人なんです。 佐藤:辻さんの故郷、天竜市、とか二股城の山と扇状地の境に生まれた。 竹山:浜松市と浜北市に分かれていたんですよ。 佐藤:浜松市は巨大に!平成の大合併でどでかくなった、天竜の山奥のほうの事を役所の人は、地名も分からない、そう聞いたこともありますよ。 竹山:僕も北のほうは全然知らないですね。 佐藤:鈴木自動車の爺さんが強引に大合併させて公務員の人員削減する、悪い事例として聞いたことあります、本当か嘘かは確かめてないんだけどね。お父さんが町中で生まれた人なんだね。 竹山:ちょっと外れているんですけど。 佐藤:どうして、浜松駅の傍の町に住んでたの? 竹山:初めはアパートを借りていて、僕が何歳だったかな、1,2才の時に宮竹町という所があるんです。駅から車で10分ぐらいですね。 ![]() 佐藤:俺の家と福島駅ぐらいの距離だ。対して離れてないね、歩いても行けるね。 竹山:頑張ったら歩けますね。 佐藤:家はいわゆる核家族という族だね。両親がいて、姉と4人家族だね、爺ちゃんたちは同居していなかった? 竹山:宮竹の土地は父親が昔育った場所です。 佐藤:爺ちゃんが建てた家なんですね? 竹山:違います、父親がその土地をもらって、爺ちゃんの家は車で5分ぐらいの所、北側に引っ越していて。 佐藤:お父さんは地主、お屋敷あり!じゃないか・・・父ちゃんサラリーマンじゃないんですか? 竹山:父はね、学校の先生でした。 佐藤:何を教えていたんですか? 竹山;体育で、サッカーですね。 佐藤:やべー!サッカー王国静岡県のサッカーの先生の家に生まれてしまった。サッカーの先生って、あまり勉強しなくてもなれるのかな? 竹山:そうですよ、大学で学んでいるはずですが・・・(笑)。 佐藤:体、しごかれてばっかか?俺は体育の先生に対して好い印象ないね。クラブ活動の先生って俺の時代は、しごきとかもあり偉そうだった。竹山さんとは34才違うので、クラブ活動の先生も優しく変わっただろうけど。体育の先生は偉そうで、しごきしている先生ばっかりだったよ。1964年東京オリンピック後だったから、(参照:根性論)高校は特にひどかったな・・・高校の先生ですか? 竹山:中学です。 佐藤:中学はまだシゴキすくなかったかな。 竹山:けどね、先生は40歳すぎて辞めてるんですよ。 佐藤:その話は、父ちゃんに直に聞くことにしよう。で母ちゃんは高校の先生ですか? 竹山:浜松には河合楽器があるんです。そこが河合体育教室というのをやっているんです。幼稚園とか、小学校低学年に教える体育教室で、ぼくもやった。母は短大卒業してわりと長くやっていたと思います。 佐藤:河合楽器の社員だったんだね。 竹山:そうですね、社員です。 佐藤:そこで幼児に運動を教えていたと。楽器演奏も教えたのかな? 竹山:楽器はやっていなかったと思います。でも20年ちかくやっていた。 佐藤:両親のなれそめは両親から聞くとして。 竹山:僕が知っているかぎり、お見合いです。 佐藤:捏造して大恋愛の末の結婚だ、と言ってくれてもいいんだけど。 竹山:大笑いしている 佐藤:機会を作って両親から聞きましょう。お父さんは中学校の体育の先生だと。中学になると体育だけを教えるようになるんだね。 竹山:そうですね、みんなに教えていたと思いますね。この辺りは中学のクラス、数多いです。僕の時は6組まであって、親父が教えてたときは、大きいところは8組とか10組とかありましたよ。 佐藤:一クラス45人ぐらいですか?ならどちらもマンモス校だね。 竹山:小学校も大きかったし中学校も大きくって。 佐藤:父ちゃんはジャージ着て、竹刀をもって歩いていた感じでしたか? ■お父さん毎年海外でサッカー指導の勉強する 竹山:それね、勉強したんですよ。サッカーの指導をヨーロッパに行って。で、毎年外国に行って、割と転換期が早かったと思います。 佐藤:竹刀もってビシビシ、スパルタ教育をやめた父ちゃんだったと。ヨーロッパは竹刀で叩いてないから(笑) 竹山:やってないですね、僕がちっちゃい頃にはそういう感じじゃなかったし。 佐藤:それはよかったね。 竹山:それは(根性・指導)30何歳で終わっているはずです。 佐藤:父さんが何歳の時に生まれたんですか。お父さん何年生まれですか?知らないか、昭和でもいいよ。 竹山:PCで検索している、母親が30の時で、誕生日でてくるかね、 佐藤:父ちゃんの誕生日、あんがい知らないよね。興味ないから(笑) 竹山:今月誕生日のはずです。天皇誕生日と一緒なのはわかっている。あ、1952年2月です。 佐藤:俺と1才しか違わない。俺が生まれたのは1951年だもの、同学年だね。スパルタやめたのは30才ぐらいに大転換したわけですね。 竹山:30才すぎぐらいだと思いますね、今。僕は「みかわや」にいますけど、尾張町のある地域の学校も教えているんですよ。基本的には竹山先生の息子みたいな感じです。 佐藤:なるほど、いつになってもそのレッテルがはがれていかないのね? 竹山:それはずっとそうですね。 佐藤:言われがちだよね・・・。お母さんのレッテルは貼られなかったのかな? ■ひい爺ちゃんは元市長さん 竹山:母親の実家は浜北なので浜松から遠いので。 佐藤:電車で行けば30分位だから、近いよね。 竹山:年に何回か行くんです。割と記憶にあるんです、幼稚園、年少、年中ぐらいです。僕のひいおじいちゃんが浜北市長だったんですよ。 佐藤:お母さんは市長の孫ということですね。 竹山:そうですね。 佐藤:それはけっこう、めんどくさいね! 竹山:そう! 佐藤:俺の友達で50歳ぐらいで亡くなったけど、市長の息子で、彼の女姉妹、精神的に破綻してたよ。しっかりしろ圧が強すぎたんだろうけど、聞くも哀れだった。そういうの無ければいいけど。 竹山:母親の母(祖母)がけっこう苦労している人でした。病気になってずっと車椅子だったんですよ。 佐藤:そういう負の楔がはいると、人間性が豊かになるというか広まるというか。 竹山:中学校ぐらいに病気になっちゃって、そこから自分のことを自分でやれなくなって、それは、よく聞きますねその話は。 佐藤:市長の娘でお金も名誉もあって、何も問題ない女性に近づきたくないよ。 竹山:僕のひい爺さんは、全部使っちゃって。 佐藤:いい爺さんだ、えらい!政治的・放蕩爺さんね。 竹山:山も全部売っちゃったらしく・・・。 佐藤:選挙に使って、むしり取られちゃったんじゃないのかな? 竹山:そう、選挙に使った。何も残ってない、って言ってましたね。 佐藤:井戸塀・政治家っていうもんね。みんなむしり取りに来るから。今は政党助成金という税金が所属政党から、あの資金が流れてきて、キックバックが常識になったけど。昔は自腹プロジェクト市長だったからな・・・・政治家に挑むと財産なくすよ。 竹山:政治をやれとは一回も言われたことないですよ。 佐藤:お金だけでもだめで、人望がないと市長にはなれないでしょうね。お父さんやりにくいね、市長の孫を嫁においでよ!しちゃったと。なかなかの組み合わせだね。その件は両親に聞くことにしましょう。話をしたくないひとかな? 竹山:こないだ、酔っぱらってちょっと言ってましたけどね。 ■竹山家はほほ笑み家族 佐藤:竹山さんがいつも笑っているのを見ているけど、家でわいわい笑って育ったんだろうね。 竹山:母親がめちゃくちゃ明るい人ですね。 佐藤:それはよかったね。一部、お父さんの暗い部位を引き継いだのね。 共に笑う 竹山:父ちゃんも外では明るい。 佐藤:外でサービス精神もりもりで、家に帰ってくるころには疲れ果ててしまう。 竹山:けっこうそうですね。よく言うのは、土日も他のサッカー指導しているじゃないですか。で、辻とか北野とか俺が居ないときにも呑みに行っていたらしくって、僕が外国にいたんで。で、お父ちゃんがふるまって、先に寝て、僕の母親と僕の友人たちが呑む機会があって、ぽろっと「私はサッカー未亡人だ」って言ったらしくって。 佐藤:そのキャッチ・コピーいいね、流行らせよう!「私はサッカー未亡人」。とうちゃんサッカーの指導ばかりしてて、妻をほったらかして、お父さんは死んだことにしている、と。 竹山:中学ごろ余裕ができて、僕のサッカー見ることがあったんです。それまでは僕がサッカーしているの観たことないし、けど中学3年から高校にかけては割とちょろちょろと見に来るようになってた。僕はすごい嬉しかった。お母さんはいつも見に来ていたんですよ。ずーっと。親父は自分で教えている所があるから来れない。それは喧嘩のネタになってましたね、人の家のことばかり先にして、自分の家のことは何も見ないと。その喧嘩は時々してましたね。 佐藤:息子にも教えろ、と。 竹山:息子じゃなくって他のことばっかりやっているんだなと。僕には言わなかったです。 佐藤:天皇家じゃないんだから夫婦は喧嘩するぜ。お母さんは「サッカー未亡人」いいキャッチコピーを思いついたけど、主張すればいいのに。あなた私をもっと大切にしなさい!と言えばいいのに・・・。 竹山:たしかにね。 佐藤:現代の20代、30代の女性は主張しそうな気がするけど、人によるかな。同世代だから主張しなかったかもね。友陽さんはママに可愛がって育てられた感じがするね。 竹山:そうすね、あんまり問題もなかった気がする。 佐藤:勉強しろ、とも言わなかったですか。 竹山:勉強もね、できたんですよね。 佐藤:できたような顔している(笑)。 |
![]() ![]() 2025年2月に知った系図(加筆修正要) 「自分とは何か」という問いは、他者との関係を築く上の基本です。私たちの社会は、「個人」(individual)という概念に基づき形成されていますが、講師は近年、更に小さな「分人」(dividual)という単位を導入して、アイデンティティとコミュニケーションについての新しい認識の必要を説いています。社会の多様性を実現するためには、その中で生きる一人一人が内的に多様である必要があります。さもなくば、コミュニケーションは成功しません。予測不能な未来を生きる新しいアイディアを考えます。 (以上動画案内文より) ![]() ![]() 『スポーツ根性論の誕生と変容』 1964年の東京オリンピックを契機とし、勝利至上主義や支配的なスポーツ観として現在も続く「根性論」とは何なのか。大松イズムや円谷幸吉の死を踏まえ、スポーツ界を超えたその影響を明らかにし、現代スポーツが抱える問題の解決への道筋を探る。 |
|
■サッカー少年団 竹山:笑)でも、小学校4年生ぐらいから、サッカーばっかりやっていたんですよ。最後のスパルタみたいな少年団にいて、それも嫌だったんです、殴られるから。最後の今はダメだと言われている指導法が全部OKだった時代の最後でした。静岡でも強かったんです。静岡県で強いと全国で強いんで。 佐藤:サッカー大国の時代でしょうから。 竹山:少年団はあって、その他に選抜チームみたいなのが始まるんですよ。浜松市の中で選ばれて、オーディションではないですけれど、200人ぐらいから始めて、3年かけて20人ぐらいになるんです、それも最後まで残っていた。20人から30人で全国大会に行くんです。 佐藤:補欠は何人なんですか 竹山:小学校の時は10人ぐらいです。それがあるから、少年団の練習は4時から6時。火曜日だけ休みだったような気がする。で、7時から9時も行くんですよ。それを3回やるんですよ。 佐藤:すごい、働きすぎだね、子供虐待だな・・・。 竹山:そうすると休む日が一回もなくって。 佐藤:疲れちゃうね、それは過密、運動、し過ぎだよ。 竹山:だから皆小学校の時にサッカー漬け、僕がまだサッカー好きでいるのが不思議ですよ。 佐藤:ドラえもんにお願いしてサッカーと関係ない異空間作って逃げ込みたくなるね。 竹山:雨の日は逃げることができたんですよ。雨が降ると嬉しかったです。 |
![]() 小学6年生か 雨の日はサッカーから逃げられた 竹山友陽さん自己紹介web頁より |
|
■小学6年生でイタリア短期留学 佐藤:楽しいというよりは辛い思いが多いんだね? 竹山:それは、やめてもいいかな・・・というのはあったんです。みんなやめなかったので。そこから6年生の最後に・・・・父親が知り合いけっこういるので、イタリアに小学校6年生の時に、卒業するときに15人ぐらいで2週間ぐらい短期留学みたいな、それに行ってこい、と言われて。それで、けっこう人生変わっちゃったんです、中学生になる前にイタリアに行って、こんなに楽しくっていいんだというのと、教えかたも面白かったし。 佐藤:イタリア世界を見て体験しちゃったんだ。 竹山:環境もいいし。イタリア人かっこつけるので、練習の後は着替えて整えて、香水つけて。ご飯をみんなで長くしゃべりながら。試合も生で観て。その時の感動みたいなものが、だから、中学校の記憶はあまりないんですね。こっから離れたい、ぐらいしか思ってなかった。 佐藤:なるほど、どこでもドアが要る中学生だったんだ。外国へ行って日本とは異なる、いい世界を知ってしまったのね。 竹山:高校に入って大学の話とか、東京に出るとか、何するかっていう話をしているんですけど、憧れがずっと海外にあったんで・・・。 佐藤:それでは隣の高校生とは話は通じないね。だまっているしかないよね。こいつら外国に行ったことないし、浜松しか知らない奴らだと。話は合わないよね。 竹山:だからどこか心あらず。 佐藤:分かります。 竹山:外国のサッカーをずっと観てたし。 佐藤:隣の高校生と真面目に、真剣に対話できないね。 竹山:引き込んではいましたけどね、お前これを観ろと。 佐藤:そうかそうか、それは明るい活動、「世界のサッカーを観ろ」と引き込む。Jリーグ見ているばあいじゃないよ、Jリーグ始まってなかった? 竹山:はじまっていた。 佐藤:一流というか、イタリア人かっこつけて、香水付けてでかけ食事する。メリハリ付けて暮らしている、儀式というか礼儀というか、生活習慣があって、だらだら続けない。外に出るときはカッコつける、びしっと。 竹山:小学校の時にイタリアで、日本では練習終わって蛇口で洗うじゃないですか。それをやっていたら、下品な事はやめろ。シャワーがあって、バスローブもあるんですよ。向こうでは子供用のバスローブあるんですよ。 佐藤;それはいいね。 竹山:きっちり紳士である、みたいな。全部衝撃でしたね。 佐藤:巨大なローマ帝国の末裔の人々だから、地中海世界を制覇してたから、ジェントルマンとは言わないんだろうけど。イタリア人はなんていうんだろう。 竹山:イタリアは、ジェンティーレと言うんです。イタリア人って適当みたいなイメージあるじゃないですか、けど、几帳面な人が多くって。ベットメーキングとか、めちゃやるんですよ。 佐藤:ぱっぱらぱーで女の尻を付いて歩く、イメージがあったと、でたらめ情報か。イタリア映画は家族との愛情豊だけどね。情愛が深い作品は多いよね。 竹山:時間は守らないですけど、綺麗好きな人が多い。でもきっちりルーティーンが有る人が多くって。あれはイタリアに行って、適当だと思ってたけど違うんだな・・その後イタリアに行くんですけどね。 佐藤:ルーティーンワークをちゃんとできるようになるのは、実に重要だよね。老人になっても老人男は家事をやらない人多いけど。ルーティンできない、座布団に座っているだけ、置物みたいな男が多かった。馬鹿じゃねーか。掃除やったり飯作れと思うけど。何もできずに寂しい老後を送っている男性が身近にも多い、で早死にするね。 竹山:確かにそうですね。 |
佐藤が時々DVDで観るイタリア映画 『ニュー・シネマパラダイス』 |
|
佐藤が時々DVDで観るイタリア映画 第二次世界大戦下のイタリア女性の悲劇と少年の成長を描いた傑作 『Malena 』 |
||
佐藤:日々のルーティンワークできる人は長生きできるような気がする。山形市の映画祭で観たんだけど、アルゼンチンのドキュメンタリー映画、この老人いいなと思った。プロのフラメンコダンサーで若い時、世界をまわり名が高い、独身老人なんだけど。喰えなくなって、シャツの縫製・仕立て直しをする職人になっている。夕方、自分で縫ったシャツをアイロンを掛けて、ズボンにもびしーっとアイロン当てて、出かける。といっても傍にある路地に行くんだけど、路上で、石投げて当てる賭け事して賑やかに遊んでいる。ぼろぼろ洋服では出かけない、かっこいいわけですよ。 女性のお客さん来るとね、おばさんにでも女性だと声かけて、「20年後に結婚しよう」と言う。この爺さんかっこいいこと言える老人だな・・。20年後に結婚しようといって笑いを誘う技を知らなかったから、これは頂。若い女性に今すぐ結婚しよう、と言ったら変人だけど、20年後に結婚する、プロポーズだから誰も本気にしない。ほほ笑みを誘う、社交できるってのはどういうことか。 アルゼンチンはイタリア移民が多いのかも。 竹山:多いですよ。スペイン語ですけど、発音はイタリアっぽいですよ。 佐藤:アルゼンチンが金融破綻して大不況になると、働く場所がなくなるから、孫などが母国イタリアに行って働く、そういうドキュメンタリー映画。このお爺さんかっいいなーと思って記憶に残ってしまいました。イタリア人ルーティン・ワークきちっとやっている、という話を聞いて思い出しました。女性も口説いたりもするでしょう。 竹山:基本的にそのモチベーションで動いているはずですよ。 佐藤:礼儀、女性をいじめるわけじゃないから、いい気持ちにさせて仲良くなりたいと。よい文化だよね。ローマ市民は戦争時いがいは遊んで飲んで社交してた、戦争になって海外派兵にあったら、奥さんに浮気されないように女性を気持ちよくさせている文化なのかな、それはいいよね。 竹山:イタリア人はキャラクター濃いです。ロンドンでもイタリア人の何人かと仲良くなったんです。ロンドンに来ているイタリア人はキャラクターは薄くなっちゃっているので、面白くなかったですよ。ロンドンに適応してく。喋るんですけどロンドンにいるやつは面白くねーなと。(笑) 佐藤:イギリスは寒そう。昔ジャガイモ食って生き延びたんだろうから、北海道より北でしょう、土地開発は遅れていただろうからね。地中海、ギリシャ、イタリア、スペインなんかが盛り上がって宗教改革でオランダ、イギリスが隆盛する順だから。イタリアは海につつまれ、海産物も果物も美味そうなきがするな。 竹山:イタリアはよかったですよ、食べたことない美味しい皿がたくさんありました。こんなに美味いんだ。イタリアだと天気がいいんで、野菜とかよく育っているから味が濃いんですよ。いじらずにそのまま食べて美味しかった。 佐藤:娘がそう言っている、北部の国は日照が少ないから果物野菜は味が落ちるって。缶詰がたくさんあるって言ってたな。タコの缶詰あってたこ焼きパーティーするときに使えると言ってた。食い物の話は盛り上がるよね。イタリア人のルーティーン、けじめをつけてカッコつける処、みならっちゃったら、人生変わるよね。 竹山:変わりましたね!そのときは小学生だから言葉にできない。なんであれが好かったんだろう。 佐藤:体で知ってしまったから言葉は要らない。 竹山:だから中学校の時は、日本の教育にもう一回押し付けられる。で、また学校環境はすごく悪かったので。不良もたくさんいる時代で、割と最後。 |
![]() イタリア系アルゼンチン人 リオネル・メッシュなど |
|
佐藤:学級崩壊はしてないでしょう? 竹山:3年生の時はそれです。 佐藤:尾崎豊の歌にあるような、盗んだバイクでどうこうっていうのあるね。 竹山:本当にそうですよ、バイクで入って来るし。 佐藤:中学校でそれかよ。(笑) 竹山:それは本当に、なんで、俺はこいつらと付き合わなきゃいけないんだろう? 佐藤:それは思うでしょう、学級崩壊しているんだから。 竹山:だけどサッカーが上手だったから、悪い奴らと対等に喋れる。小学校までの貯金があるから・・・。 佐藤:なるほど。 竹山:先生などもグループを作るときに、そいつらと一緒にさせられるんですよ。どうにかしろ!みたいな感じで。修学旅行にグループ入れられて。そいつらはどこか喧嘩しに行くので。早くこっから出たいと思ってました。 佐藤:よく、登校拒否しなかったね。すでに登校拒否はあったよね。 竹山:ありましたね。 佐藤:父ちゃんと1才しか違わないんだけど、俺、結婚したの21才だから。子供は友陽さより10才上。子供たちの学校にも学級崩壊あったな。不登校児もいたな。竹山さんは学校いかねー・・・と言わなかったね。 竹山:でも、サッカーの苦しい小学校までの体験は終わっているんで、楽なんですよ。負荷が一気に減ってた。 佐藤:中学生ぐらいだと、頭よくてへらへらしてても誰も信用してくれないだろうけど、サッカーして一発シュート決めれば、よし!みたいな感じだったかな。サッカー上手いとなると不良どもも静かになる。 竹山:そうそう。 佐藤:身体能力高いと圧かけ易いんだね、いいね。不良からも一目置かれている中学生だったんだ。 |
Yutaka Ozaki A Night at 15 Eng Sub (1983年) |
|
■分人できた場所 斎藤君の家 竹山:けど隣の家、一軒挟んで、斎藤君がいて、彼は喘息持ちで学校も時々休んでしまうし、体も凄い小っちゃかった。で、弟のようにずっとくっ付いて来てて、それの面倒を見て。そっちは三兄弟でお兄ちゃんいて、斎藤君の家が割とたまり場になるんです。そこは自分にとって何でもない場所だった。雨になるとそこに遊びに行けて。 佐藤:斎藤君の家は子供同士でもヒエラルキーが無くって対等に遊べたんだ。 竹山:それはありがたかったなーと。要するに斎藤君の家に集まるのは卓球部で、あまり元気がない、というか。 佐藤:地味なスポーツだったからね。今はTV放映され中国人選手を負かすと目立つ、スポーツになったけど。 竹山:みんなアニメ好きだった。ゲームが好きな奴が多かったので、そこに集まっていた。そこの奴らとつるむのも、雨の日だけ行けて楽しかったなーという記憶が。 佐藤:サッカー離れて子供らしい、遊ぶ分人になった友陽さんだね。それができた斎藤さんの家ね。学校はヒエラルキーがあって校則もあって、当然サッカーにもそれあるから、解放できないね。 竹山:そうね、ヒエラルキーでいくと、(齊藤君の家に集まる仲間は)全然関係なく接してくれたのは有難かった。 佐藤:家にいても父ちゃん母ちゃんヒエラルキーあるし、ノンビリできないよね。好きにさしてくれないし、困ったもんだよ日本の家庭や社会は(笑)。喘息持ちで体が小さくて弱いっていう人格と付き合うのもなかなかいい感じだよね。 竹山:そうそう、気は使いましたよ。 佐藤:友達だと弱者の能力に合わせて遊ぶ、それがいいんだよね。俺一週間前かな、映画『大きな家』というドキュメンタリー観たんだ。児童養護施設の子供を撮ったノンフィクション観た。最後に何をさせるかと言うと、登山だよ。7人ぐらいで、3泊4日だったかな、先生付いていかないんだよ。これがすごいいいんだよ。人生と一緒だよ。天気も変わるし、体力もそれぞれ違うし、廻りの山の起伏もドンドン変わるのでヘタレちゃうやつも出る。みなでおんぶして登るわけにいかないから、弱者に合わせて歩く、そうして登るしかない。 竹山:それはそうだ。 佐藤:竹山さんの話を聞いていると、強いやつだけ集まっていて、弱者が居ない、見えないというのは、バランスが悪いし、そういう強い者だけの社会はバランスが悪いよね。世は弱い人のほうが多いからね。小学校は天候に合わせては斎藤家の仲間に分人できる、いい環境で育ったじゃないか。それが無いと自己崩壊するね。 竹山:そうね、だから。親父がそこで育ったのも大きかったかもしれませんね。廻りも知り合いだし、今だとなかなか近所付き合いないけど。その時は斎藤君の家の隣の家の人も良くしてくれてた。そっちにも遊びに行ってましたね。そこは叔父さんおばさんしか居ないんです。宮竹ステンレス、ステンレス屋さんでした。齊藤君のうちはお父さんがサラリーマンの家でした。 ■遠州大念仏が練り歩く じいちゃんの家と地域 佐藤:浜松市には元気な個人経営者もいたんだ、「みかわや」も元気だった頃だろうから。 竹山:(笑)元気でしたねたぶん。 佐藤:ちょうど95年あたりだから。地方の個人経営が成り立たなくなり、彼らの子供たちが派遣社員に置き換わる世が始まったばかり、だから、個人経営の名残があったんだ。 お母さんが市長さんの孫で北のほうに生まれたというのも、校外というか田舎に移動できて、時空が変わるから、いいよね。 竹山:確かにね、そっちに行ったら別世界でしたね。 佐藤:おじいちゃんの家には、偉そうな政治家しか来ないんじゃないの? 竹山:ひい爺ちゃんは亡くなっていたし、爺ちゃんは自分で農家と、浜松は糸が盛んなんですよ。 佐藤:木綿糸、生糸どちらですか。人絹という化学製品の糸?(漁網の糸か) 竹山:化学製品じゃない、たぶんそれをずっと工場でやり始めて、政治はぜんぜやっていなかった。 佐藤:お母さんは生糸工場で生まれ育った、そうですか。 竹山:農家もやってましたね。 佐藤;江戸時代は米は年貢だけど、農家の副業には税金掛けてないから、副業が盛んになってた。農家やりながら他の仕事するのは一般的だった。副業を盛んにやっていた。福島はお蚕さんを飼って、生糸を撚る。江戸時代は家内工業だから家族のつながりが強くなる、家族がちゃんとし、連帯感強めなければいけないから、お墓も○●家の墓が出現する。江戸の家内工業が盛んになる前はそういう墓は無かったそうだ。家族みんなで肩組んでお金を稼ごうぜとなり、墓も大名家をモデルに立派になっていく。今はそれが消滅し始めた世だ。お墓を継ぐ人が居なくなってる。お母かたのほうはまだ生糸を撚って工場してたと。お墓も立派でしょうね。 竹山:ことあるごとに、両親は実家には連れて行ってくれていた。 佐藤:村的な社会と町の社会を、行き来できるのはいいよね。 竹山:母親の実家のほうは田舎だな、と思います。隣保とかいうんですけど、近所も多いし、遠州大念仏と言って、初盆の時に近所を練り歩く、伝統があるんですよ。あれも去年いきました、まだ続いてやっている、わりとすごい集まります。 佐藤:宗教はなに宗なんだろうね。 竹山:遠州大念仏。辻も呼んだんで一緒に見てますよ。 佐藤:念仏で練り歩くって初耳です。何宗かな。 竹山:検索している。何宗かは書いてないですね。 佐藤:珍しいね。南無阿弥陀仏じゃないんだ。 竹山:これを観てください。 佐藤:俺の実家は曹洞宗だから座禅系だね、南無阿弥陀仏だ。人が死ぬと毎晩念仏で数珠回していたよ、108回かな。 動画を観始める、 本格的だね、これで練り歩くんだ、いいね、若い人多いし。笛は爺さんが吹いているけど鐘もあり太鼓もあり、いい行事があるね。 竹山:辻が住んでいるところの文化なんで、やろうかな、と言ってました。 佐藤:いい文化があるね、なるほど。誰か亡くなってやってあげたんだ。 竹山:僕の叔父がなくなって、母親の兄弟です。それで行ったんです。 佐藤:竹山さんの話を聞いていると、俺や辻さんより圧倒的に地球人という感がするね。 竹山:ははははは 佐藤:遠州大念仏も、メキシコでポール建てもしてるし、世界各地の文化を堪能していい感じやん。好い事ありすりて困ってしまう感じはする。 |
||
■路頭に迷い浜松に戻る 竹山:はははっは。浜松に帰って来たのは人生の路頭に迷っていた時期なんですよ。 佐藤:遅かったねそれは、35才でしょう。 竹山:そうですよ、10年おそい。サッカーチームをロンドンで作って、3人で立ち上げて。それを今でも、6才から18才までのチームを作って。ミックスもいるし、ロンドンで侍というサッカークラブを作った。大人まで作ったんです。ずっと休みなく働いていて。7,8年目ぐらいのときに、ビザの更新で日本に帰って来てた。その時にはぼろぼろになっていた。 佐藤:手を広げ過ぎた? 竹山:そう、ダメかも、といって病院にも行って。それで、どうしようかな、みたいな。ロンドンには3ヶ月休みます、と言って。年明けて、2019年で帰ってきたので、20年かな。1月ぐらいに、もう一回自分でやるか、となって。その時は一番何もうまくいかないし。当時ロンドンに居て結婚するので彼女も日本から呼んでいたんですよ。そのことも終わっていた。それも一個ある。 佐藤:女の子と破綻したのは、次にゆっくり長く聞きましょう。 竹山:それもダメで。ロンドンで大学院にも行ってたんですよ。大学院も最後の最後で論文が通らずに、大学院も上手くいかなくって、仕事もいろいろあったし。ダメだな俺となって。 佐藤:いろいろやり過ぎただけだろうに、別にだめじゃないんじゃない。一気に結果だそうとしてた、ただけでしょう。 竹山:33,4,5位の時は本当にうまくいかねーな。 佐藤:その年代は体力あるから何でもやってしまうんだよね。 竹山:そう。で、お酒もよく呑んでいたし。 佐藤:俺も30代初めは酒をたくさん飲んでたけど、、あれはいかんね。酒飲み過ぎると、どうしても無駄な時間と体力を消耗する。ストレスあるから酒のむんだろうけど逆効果だ。やけ酒だよね、体調も心も崩れるよね。人間は体が健康じゃないと頭も健康にならないから。 竹山:ほんとう、だから、今は、こっから学ばないとね、と思いつつ、あんまり大きな手を打ってないです。 佐藤:俺は第三者で話聞いてて思うんだけど、何でもできるという思いが間違っているよ。何もできないと思って日々ルーティンをやる。そのうちに何かできていた!そんな感じだと思うんだけど。 昨日北校で有名人いないかなと思って、検索した。上原ひろみというジャズピアニスト。彼女は無駄な努力してないよね。それだけみたいな感じであっというまに没頭して集中し弾いているね。無駄なことしてない感じ、フリージャズピアノだけど、なんでも弾けるけど、フリージャズがもっともひろみには合っている。すごいよね。演奏しているときのエモーショナルな集中は神がかっていて人間らしいね。理屈じゃない、脳で弾いてない、体が先に動いてルーティーンでしかないけど、感情は会場に入って変わるから、ルーティーンに見えない。 竹山:高校の時に英語の先生かな、上原さんを教えてたんです。 佐藤:上原ひろみに英語を教えた英語教師がまだ北校にいた、と。 竹山:バークレー、アメリカの大学出ているんです。そこに行ってるんだと語って、このこはすごい有名になるから、と。その話してて。 佐藤:あれは有名になるよ、高校生でも有名だったんじゃないかな。彼女にとっては普通のことなんだけど、他の人は頭で弾くからできない。彼女に野心はないぞあれは、やってしまうんだ。いろいろ考えて弾く人はひろみには届かないよね。 竹山:そうね。 佐藤:没頭出来てしまう、やつがいるんだよ。それを自分で見つけてしまう。竹山さんはいろいろ見つけて手を広げてしまう、それだけ環境が良かったんだ、と思う。 竹山:そうね。 佐藤:自分で獲得した環境ではなかったから、破綻して知ったと。うのぼれて何でもできると思い込んでいた。くたびれて、やっと自分に戻った。(笑) 竹山:本当にそうです。 |
||
■「みかわや」と出会う 佐藤:地に足がついたから、ここから竹山友陽は始まるんじゃないかな。俺は結婚したのが早かったから、うのぼれしてる暇がなく、稼いだからね。飯食わせなければいけないからね、学校に上げなければ大学に通わせなければいけないからね。うのぼれてる暇はなかったな。 竹山:(笑)そうか。 佐藤:学費稼ぎ出さないと、下宿、小遣い、などあげないと、博士課程まで届かないからね。子供育てて一人前になるまで支援しないと、どうにもならないからね。 竹山:たしかに、うのぼれてましたね。 佐藤:40才前に挫折、節が入ってよかったよ、これからだよ。40で気が付き生活も安定しだしたのはいいんじゃない、ここれからが楽しみだよ。 竹山:そうか。「みかわや」は5年経つんです。僕にとっては初めはリハビリみたいな感じだったんですよ。掃除していくのがリハビリみたいだった。自分の居場所を作る。稼ぐ、ゼロだった。誰かの会社に入るの嫌だな、と思って。自分でもう一回仕事作って、やっていけないかな・・・みたいな事で、覚えている。ちょうど5年前の辻の同僚の 彌田 (徹)、分かりますか? 佐藤:知らないけど辻さんから名前だけは聞いただけ。そういう人FBにいるけど何も更新してないから分からない。 竹山: 彌田が、僕が迷っているときに403の事務所に行ってた。辻も居ないし。いつも 彌田だけいて。 彌田にああだこうだ言われて夜中までしゃべって。コロナの前だったから、アメリカの大学に授業を教えにいくんで、英語を教えてくれ、と言われて。英語はお前に教えたくないよ、と。けどやりかたを、こういうことを勉強して、とずっとやっていた。このテキスト使って、このテスト受けろ!それを説明し終わったら、2月ぐらいに、これサッカー選手にもできる、と思いついて。その1週間後ぐらいにはもう一回これでやろうと決めて。 それと同時に「みかわや」。辻のお父さん、あの辺に会社の持っている、貸しアパートがあるから、あそこ見ておいで、と言われて。そしたら訳あり物件だ、と言われて。前の人が亡くなったから、ちょつといいですねと言って。次の日ぐらいに村上亜沙美さんとかが、掃除しているから。そこに顔出しに行って、そしたら、ここでいいやと決めちゃって。その日に、おれここで頑張るんやと。掃除始めて、自分の作業スペースだけ作ろうと思って。それで体も動かし、一人で壊して。帰って建築のやつらにここどうしたらいいんだ、と言って。それ楽しかったですね、自分でいろいろ、床天井抜いて壊して。 佐藤:俺の勝手な解釈だけど、竹山友陽の古い家を叩き壊して新しい家に作り替えている感じ、再生と解体がパラレルになって起きていたんだよね。 竹山:うん、それは、。自分の場所を作ると同時に自分の仕事をそこで始めて。 佐藤:それまでは世界中めぐりあるいて、散らかし歩いてた、ということだな。ゴミをほうぼうに散らかして、掃除もせずに生きてきた、と今言ったんだけど。 竹山:本当にそう、で、コロナが始まったじゃないですか。 佐藤:ロック・ダウンで外国に出ていけない。 竹山:それもデカかったです。もしコロナが無かったら、浜松から居なくなっていた可能性もあります。 佐藤:地球上が一斉に閉じてしまったから。 竹山:あれは行くところがなかった。いろんな人に会って謝んないといけないという思いもずっとあったんですよ。ロンドンの人たちに謝りたい。 佐藤:後片付け、掃除もせずにロンドンからとんづらしたからね。 竹山:それも、一端コロナだから行かなくっていい、そうなっていたから、それもよかったです。 佐藤:気が楽に・・・なれたんだ。 竹山:気が楽になり、もう一回ここで頑張ればいいか!と。 佐藤:コロナで一回休んだのがよかったんだね。 竹山:それは本当にそうです。向こうも求めないし。 佐藤:それは外国人のいい点だよね。日本人だと死んでももっと働け、補助金ださねーよだったからね。弱者をさらに鞭打つ感じはあった。外国人は能力に合わせて認める。なるほど、そうですか。 竹山:コロナ禍以降、この5年の記憶は一番ある。得難いですね。 02へ続く |
||
![]() |
■ | ![]() |