鮪立計画(2011/08/25〜28) 齋藤善之先生 講義録(文字起こし・文責:佐藤敏宏Home

 2011/08/25    

      「大規模イエ経営体・鈴木家の由緒と三陸地域社会

 (その01) 由緒  (その02)居間の額を紐解く  千石船  まとめ
              (その03)大規模イエ経営体 質疑応答 

はじめに

佐藤:鮪立計画後半 最初の活動は 鈴木家の歴史を知るための講義を聴くことです。先生は近世史の研究者です。東北学院大学経営学部 齋藤善之先生です 海運の研究者でしたか?

齋藤
:はい。流通史と海運

佐藤:東回りとか北前船とか流通史を研究している先生です
齋藤:レジュメを配ってください 

佐藤お!レジュメあるんですか。
齋藤あるんです
佐藤:では、みなさんに配ってください 先生長〜目にお願いします 昼飯が1時なので2時間ありますので
齋藤:そういうお話なので、画像を付け加えることにしました。電子スライドをやることにしました。

佐藤:今日は まちづくり古建築測量の活動を始める前に、まずは教養編で、歴史を学ぶと。江戸時代から?それ以前かな。 おおざっぱな鮪立などの歴史の話していただきます。鈴木さんの屋敷の話とからめてしてもらいます。

 明日はもうすこし現代の漁業水産について 漁業のノウハウや現状などについての講義、を元水産高校先生の菅野先生にお願いします。漁業の細かい話に進む前に、この地域と鈴木家の歴史的 経過を みんなでお復習いをするということです。

 レジュメー配り終えたかなー。いいかなー。余ったら遅れてくる理科大の生徒さんにあげてください。あと15分ぐらいで来ると思いますので。では齋藤先生よろしくお願いします

齋藤:理科大の人達はいいんですね
佐藤:遅れてくるやつは 放っておくことで お願いします
 

                  講義 開始  


齋藤:はい、じゃ。御紹介いただきました東北学院大学の齋藤と申します。今日はみなさん遠くからお越しいただきましてありがとうございます。私はも〜う、かれこれ6年ぐらい前から。ここ 憩いの家にも、泊まって ふふふ 鈴木家の古文書の調査をやってまいりました。

鈴木家の御蔵の中にかっての古文書が膨大に眠っておりまして。もちろん調査はされてきたんですけれども。全面的な調査はされていなかったので、私共(宮城歴史資料ネット)が今回調査を させていただいてきたと。

まさかこんな地震(2011年3月11日)津波がやって来るとは想定せずにですね。楽しく調査をしていたんですが。今回 こういうことになりまして、改めて歴史資料を後世に残すことの重要さというものを認識しているということで。特に、今まであまり意識的に観てこなかった鈴木家の古文書の中でも、特に災害関係のものについてはこれから、ピックアップしていく必要を感じます

   

今日はですね。皆さんは建築関係なんですよね?

佐藤:まちづくりと都市計画系の修士と博士課程の学生さん主です

齋藤:都市計画とか、で私は経済学の分野。とくに経済の歴史を研究しているということなので畑違いではありますが。そういう畑違い同士が交流するということも意義があるだとうというので、やらさしていただきます。



資料をご覧ください「大規模イエ経営体・鈴木家の由緒と三陸地域社会」ということで話をさせていただきます。


 (序)

はじめにっていうことで。まずですね、我々がやる前に、ここの地域が誰によって研究されたのか?っていうことだけ簡単に触れておきたいと思います。神奈川大学に常民文化研究所というのが在りまして、戦後すぐからですね、漁業資料の調査を全国的展開しておりまして。この宇野脩平(ウノシュウヘイ)っていう人は実はその後、日本の総理大臣に一時期、ちょっと短い期間なる人でありますが。

この人も戦後直ぐの時期にここにやって来て、鈴木家の古文書を調査し、常民文化研究所の『陸前唐桑の史料・日本漁村史料』(常民文化研究第72)というものを刊行しております。

これが事実上研究者が初めてこの地に入ったものだろうと思っています。

それが1949年の8月のことで。当時農林省 水産庁がですね。漁業制度をどう改革していくのか。とくに戦後改革の中で漁業のありかた、特に 漁業生産というのは人間の労働組織の問題が深く関わっていて、網元と網子というようなかたちで戦前展開してきた漁業生産のあり方を戦後いわゆる、どう民主化していくのか?っていうのとからめて、歴史が掘り起こされるということになったわけです。

そのなかで1949年10月に「唐桑の四家」と言われ この鈴木家がとくに唐桑のもっとも重要な四家。これは大網元四家頭と関係するだとと思っておりますが。 調査対象になっていくということになります。とくに「唐桑の四家」の筆頭であった古舘屋敷 鈴木国雄家文書。この国雄さんは現在の御当主のお父さんに当たりますが。 古文書が調査され始まったんです。が、宮城県史が始まるということで「そちらで調査したいから国の調査中止してくれ」っていう。なんか行政の縦割りのですね 良くないカタチだったようにも思いますが。 ということで国の調査は中断していくということになります。

ただ宮城県史はちゃんとこの後、 鈴木家文書調査しませんので。結局中止だけをさせておきながら、調査はしなかったという、あまりよくないですね。歴史がある。研究の歴史があります。



 (鈴木家の由緒)

 そこで明らかになってきたものをまずは受けて、我々今調査しているわけですけれども。まず鈴木家の由緒。みなさんがこれからご覧になる、すでにご覧になっている、この鈴木家ってどういう歴史をもっているのか?ということを分かっている限りお話してみたいと思います。


 これの話はですね、唐桑村風土記の「代数有之御百姓書上(だいすうこれあるのおひゃくしょうかきあげ)」 っていう古い記録と、「古舘家譜」と記録を合わせて合体しながら。さらに今日も含めて鈴木家 御当主から私が個人的に色々お話を聞いておりますので、それも加味して、鈴木家の歴史をお話させていただきます。


古い記録によりますと鈴木家の先祖がいつ頃からこの村に来たのかは、掃部以前名前代数ともあい知れず(かもんだいすうともあいじれず)と記録にありまして。掃部(かもん)というのは今からお話する江戸時代の最初の御当主、初代とされる方ですけれども。それ以前から実は居たんだけれども、それ以前はいつからこの村にいるのか分かんないぐらい古いと。いうふうに、当時の記録に書かれております。

ただですね、鈴木家御当主の聞き取りでのお話によりますと、そもそも鈴木という姓はこれはよく知られていることですけれども。紀州、和歌山県の熊野を発祥の地とする、そしてそこから全国に分かれ散って行く姓であると言われておりまして。とくに熊野の信仰ですね。熊野山信仰というのは熊野神社から全国各地に分布しておりますけれども、分布させていったのがこの熊野本宮大社から分かれて 「熊おし」とも呼ばれているけれども、そういう宗教者でもあり、商人でもありマルチな存在であった、そういう。ときには海賊でもあったと言われていますが。

そういう海の民ですね。熊野の海の民が太平洋の荒波に乗って、ここ東北にまで到り、そして鈴木家の御当主のお話によると「この地が故郷の熊野のリアス式の風景と非常に似ている」ということで、落ち着かれて。お兄さんは室根山に籠もって現在に至る室根の修験信仰の拠点を築いていく、宗教者である。 弟さんの方がこの古舘の鈴木家の元になっていくのではないか、と言われておりまして、確かにそういう歴史がありそうだなと私も思っています


 (初代)伊達家の家臣騎馬武者

そういう古い歴史を持つ家だということで。世にまで、間違いなく遡っていきます。ではっきりした歴史が分かるのが、ここに初代と書いた方で 掃部、かもんと読みますけれども。慶長五年1600年に「白石御陣に騎馬にて御供の由」 という記録が残っていまして、白石御陣というのは、この地域では有名なことなんですが。この地域全体を支配したのは伊達政宗になりますが。伊達家の家臣として、関ヶ原の戦いのときにですね。伊達家はですね、関ヶ原には行かずにですね、この東北で上杉と小競り合いの戦闘をくりひろげます。でその大名上杉と伊達家の闘いが白石城の攻防戦というカタチで行われるわけです。これは有名な話です。

白石御陣で騎馬にて御供したっていうのは、まさに伊達家の家臣として、白石城攻防戦に騎馬で参加したと、こういうことを言っておりまして。ということはこの段階までは伊達家の家臣、騎馬武者としてですね、武士的な存在でもあったと。中世にはこういう地域に土着していながら家臣であるということは普通にある存在ですので。武士、としての要素を強く持っていたということが分かっております。伊達政宗の家臣として、騎馬武者であったのがこの鈴木家の御先祖であるということになります。

 しかしその後ですね慶長年中。ちょっと後ぐらいの記録になりますと「唐桑村肝入、唐桑三ヶ村に任命される」とありまして。その後、寛永年中まで勤めていくというのがこの初代になると。肝入というのは村の代表ですが、あくまで身分は百姓になってきます。

ですからこの「兵農分離」って聞いたことあると思うんですけども。江戸時代の最初に武士か農民かをしっかり分けている。それ以前は「兵農未分離」で、ときには武士でありときには農民であり、ときには漁民であるというのも、認められていたわけです。江戸時代に入ると、身分制社会の締め付けの中で武士になるのか?農民になるのか?をはっきりさせなければいけないという状況の中で、鈴木家は代々この地にあって漁業を中心に農民的な身分に いたわけですから。その中で慶長5年の戦いまでは武士としての側面も合わせ持っていて、出陣もしていたけれども。その後平和な時代になるときには、どちらかというと、武士として仕官するのはやめて、このゆかりのある、鮪立の地に土着されることを選ぶ。

土着されるといことは当然農民の身分を選択する、ということになったんだということで。農民身分っていっても、まずは唐桑村全体をまとめる村の代表である主導者である肝入。さらには唐桑村を含む三ヶ村の大肝入であるということで、地域連合の中心的人物ということですから。地域リーダーになったということは間違いありません。これが鈴木家の江戸時代の最初の初代の歩んだ道ということになります。

 (2代目

さらに、二代目はその道を踏襲しまして、簡右衛門さん 簡(かん)の字が違ってましたが一応表記どおり。 寛永三年(1626年)から肝入や大肝入就任をすると。さらに寛永19年(1642年)に同村御崎山御林(どうそんおさきやまのおはやし)自分植立てにより代々御山守(だいだいおんやまもり)に任命と。これちょっと注目されるんですが、「御崎」っていうのはこの唐桑半島の先っぽの方の地域で、そこで御林、「おん」が付くのは藩の、藩有林といことになりますが。藩の持っている、仙台藩の御林に自分植えでてすから、自己費用で植林行為を行った結果、山守人に任命された、山の管理人ですね。でこれはですね身分的にもかなり村落の上層でないとなれない身分でして、山守というのはですね。山の統括を行う。で、これ後からちょっとお話しますが、漁民でありながら山と関わるというのは非常に重要な意味を持ているということ。後でちょっとお話していきます。

 (3代から7代)

3代から7代まではちょっと記録が薄くなりまして。江戸時代の前半ぐらいになりますが、三代目清作さんという方は47年もの間肝入をやっていたということですから、相変わらず村の指導者を勤めていたわけですが。その後四代から7代目はちょっと記録が薄くなります。

 (8、9代目
そして8代目)、太右衛門(たごえもん)という方になって。また肝入就任。 9代目勘右衛門さんこの頃からまた記録が濃く見えて来るようになります。

まず9代目の勘右衛門さんで大きな事件というのが延享3年(1746年)ちょうど江戸時代の半ばぐらいですけれども、肝入に就任した上で明和元年(1764年)でですね8月16日当代藩主奥筋ご出馬 御寓相勤御目見(おんぐうあいつとめおみみえ)。ということで仙台藩の藩主がですね、自分の領地を見回るというんですか。巡見をする。そして地域の有力な家でお昼で休憩したり夜泊まったりということを繰り返しながら、ぐるーっと自分の領地を見て回るということを時折りやってます。

そのときにですね、鈴木家は仙台藩主のお昼休憩所としてお勤めをし、そのときにですね、献上物として手酒両樽。手作り、この頃からどうも鈴木家は酒造やっていたことで有名なんですが。この頃もしかするとやり始めていたのかも知れませんが。

酒を樽、樽詰めの。おそらく角樽みたいな儀礼的なものに入れたものを藩主に差上る。その他に富士山型の盆石。分かります?趣味な世界ですけどね。それから砂利五色。海辺で綺麗な砂利を五色。色んな白青とか赤っての集めて。それをまあ、献上した。海草麺一箱。素麺なんてすけど、海草を入れているんですかね。そういったものも、このとき殿様に差し上げていると。いうことで、地域の有力者としての格をですね、藩主から認められるようなこういう儀礼的な場に登場してきているということが言えます。

ちょっと微妙なんですけれども、おそらくはこの8代さんぐらいの時期、その前かな〜。7代か8代だと思うんですが。ここの入り口の処に石碑あったの御存知?、観ました? この家の入り口の路から入ったところに最近作られた石碑。あれはこの鈴木勘右衛門家が紀州の漁民を受け入れてこの地に鰹一本釣り漁法を定着させたことを記念して建てられた石碑です。観てない人はあとでゆっくり観てください。

その年号が延宝三年って書いてありまして。だいたいここから観ると7代から8代目さんがその当主になったと思うんですが。勘右衛門さんって書いてありますが、ここではおそらく太作さん太吾右衛門さんということになるんですが。襲名代々勘右衛門さんでいいんだろうと思うんですが。

紀州の漁民紀伊半島から船に乗って出漁してきた漁業開拓ですね。新たな漁場開拓にやって来た漁民達、70名余りを鈴木家では受け入れます。そして、その彼らの漁業活動基地として自宅をおそらく提供される。と同時に逆に彼らから先進的な紀州の漁法をですね、学び取る、そしてこの地域に定着させていく。こういうことをやっていくということになります。で石碑にも書いてあるように、紀州漁民を受け入れることに対しては地元民は反対であったと。しかし鈴木家はその反対を押し切って受け入れていったんだ、ということですね。

結果的にはこの地に鰹の一本釣り 紀州の漁法が伝わり定着しまして、この地域の地域発展に貢献することになっていくわけです。 当初はね、地元民にとってみれば地先のところでバンバン「鰹捕られてしまう」っていうことで。地元民にとっては資源を持っていかれるんじゃないかと、いうような心配から当然反対も出て来ていたわけです。それを押し切って受け入れる。和歌山県の進んだ技術を受け入れていくそれを定着させていく。

これは実はその後の鈴木家に繋がってくる非常に重要な基本的な要素にもなりますし。ある意味現在我々が直面しているようなこういう事態(大震災)、危機をどう打開していくのか?地域の危機をどう打開していくのか?というときに、地域だけではなく色んな地域との人達とのコラボレーション、受け入れていくということをね。既にですね、江戸時代の300年も前に鈴木家はやっていたんだということを皆さんにも知っていただきたいと思っております


 (10代目)

さて、9代目の藩主との関係。10代目勘右衛門江戸時代の半ば頃ぐらいになります。先代さんが藩主との付き合いを始めた、厚くやったことも含めてなんですが。最初には父の肝入役を継承就任したっていうこと、当然としてあるわけです。その他に、肝入村方手当(きもいりむらかたてあて)よろしく御褒美金2両を頂戴するということで。藩から、お褒め 褒美としてですね金2両を頂くような。理由は肝入として村方の扱いが極めてよろしいと、いうことで、御褒美を頂戴したり。

さらには同じ頃に苗字帯刀麻裃御免(みょうじたいとうあさかみしもごめん) ということで。農民には許されていなかった苗字を名乗ること。それから帯刀ですね。刀を差すこと。そして麻裃 麻の裃を着用することこういったことを藩から許される。特に苗字永代御免(みょうじえいだいごめん)ということで。苗字だけは末代まで御免ということは、苗字以外のものについては一代かぎり御免ということだったと思います。こういう藩からの様々な特権を与えられながら地域の中で、地域支配、地域の行政を担うような存在になっているというのが分かるわけですす。

 (11代目)

 11代目勘右衛門さん。この人はあまり きじが分かっていません。まあ生没年は分かっていますけれども。丁度江戸時代半ば頃、寛政年間(1794年)に亡くなっています。江戸時代で言うと歴史を学んだ人は寛政の改革とかね、あの頃に生きた人です。

 (12代目)

12代 想右衛門さん。 これは勘右衛門とも書かれとります。この人で注目したのが分家をかなり多数送出しているということですね。奥さんは大島村の方なんですね。舘盛さんという、ちょっと後から出てくるんですが。長男さんの良介さんは当然本家の家督、この古舘の家督を相続された訳ですけれども。次男さんが小鯖とかですね。三男四男とみな分家をしていくということで、一族の血をこの地に増やしということで。

丁度この時期っていうのはですね経済のありかたが、江戸時代の半ばで変わって来まして。要するに分家結合っていうものを出していきながら、地域の中でですね大きな意味を持つ、地域開発なんかも関係してくるんですけれども。そういう動きがですね見えてくる時期で。

もう一つここのは書きませんでしたけれども、 分家を出し始める時期というのは鈴木家だけではなくって、割と全国的にも見られる動向です

もう一つ注目されるのがみなさんがよく知っているお墓の石塔。何々家の墓。ああいうものを作り始めるのがこの時期です。この時期以前っていうのは 家の墓というのは庶民レベルではほとんど見られません。それがこの時期にから急速に見られるようになっていった。家というものを民衆が色んなかたちで意識し始めて、それがお墓の作り方にも反映してくる。このことが言えるわけです。江戸時代の後半です。

 (13・14代目)

そして13代良助さんですね。14代が周司さん。この人は入り婿で千葉周司っていいます。名前がですね、千葉周作となると一文字違いですが。あながち無関係とも言えなくって。実は千葉周作は北辰一刀流。江戸ですね、道場を開いて多くの門弟を育てた剣豪の千葉周作はですね高田出身だと言われています。陸前高田の出身。かなり近いんですね。でそういう千葉家一統との関係もどうも考えられます。

 (15代目) 

それから15代目 勘右衛門さん 。 この人は江戸時代の後半です文政2年(1819年)に生まれて明治26年(1893年)に亡くなっていますから。明治動乱期を乗り越えていく人ということになります。この15代さんについてはですね、レジメの右側に鈴木家の居間の長押の上の天井に近い方にですね。今でもこの立派なが掲げられております。今でもありますよね?(伸太郎さんに聞く)でこの額はみなさん「はぁ〜」見るだけなんですが。一応私は写真撮って全部読みました。で何が書いてあるのか?を見たところ、この15代勘右衛門の一生をほぼ描いたものだということが分かりました。漢文なんでけっこう読みにくいことは読みにくいんですけど、意味はとれます。



でザットですけれども、せっかくですから鈴木家の居間に掲げられた鈴木家の歴史、タイムカプセルのように掲げられている(額の中の)歴史をちょっと紐解きます

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