鮪立計画 2011/08/25〜28日 home 2011/08/26日 菅野栄喜先生 水産業とは 講義録 その01 その02 その03 質疑応答 (その02) 菅野:明治の初期から、大正初期になって発動機が、静岡県当たりの中古発動機船を買って始まったみたいですね。 それを使って漁業をし始めたようです。それで、鰹の漁が主体だったと思います。当然。鰹漁が1600年から1700年。1800年〜1900年代入ってまで延々と鰹で食べてたってような気仙沼地方ですね。鮪立はもちろんのこと、気仙沼地方は鰹漁業で生活をしていたと言っても過言ではないと思います。鰹の漁船漁業に頼った経済基盤だったんですね。 昭和25年当たりから、鰹漁というのはね、一定の陰りが出てきた。捕れなくなった。その契機になったのが昭和20年代の初め頃に鰹船が大型化したんですよ。おっきい300トンとか、400トンという大型化した鰹船を建造しだしたんですね。 それに乗って、静岡県当たり、三重県、向こうの人達が大きい船で冷凍設備を備えた船を使ったものだから、気仙沼の水産たちもおっきい鰹船を作り始めて。 それが直接的には原因になったかどうかは、分かりませんけどね。資源的に難しい面がありますけれども。捕りすぎたっていうことは無いと思いますけれども。鰹の生態系にもよるんだと思いますけども。昭和25年当たりから鰹漁業っていうが陰りをみせだしてきたと。 (鮪延縄漁業 まぐろ はえなわぎょぎょう ) で良、不漁の波が非常に大きくなったと。それに代わって出てきたのが何かというと、それじゃ安定的な漁獲を出る鮪延縄漁業をやろうというふうな機運が昭和30年代に入って出てきます。鮪延縄漁業が。その前に昭和27年っていうのが一つの日本が独立した年ですよね。その頃からですね。 本当は南の漁場というのがマッカーサーラインが、引かれてまして。それ以上は絶対行くなと、日本の船は。日本の漁船は閉め出されたんです。だから昭和27年になってから、鮪延縄漁業がインド洋とか南方の海域に進出するようになったんですね。 佐藤:延縄っていうのはなんですか? 菅野:延縄っていうのはね、図書かないと分からないか。(黒板の準備をする会場) これは旗ですね。瓶玉一杯あるでしょう。瓶玉って。瓶の丸い編んだやつ。旗の下に瓶玉を付けて旗を立てるわけ。ここに重しをすれば立つわけです。 こういうのがずーっとね続いているですけどね。これは25mがひとはちって言われているんです。今はね、そういうのは有りませんから。今は全変わっていますから。 だいたい25mぐらいが、ひとはちって言いましてね。ここにだいたい4,5本針を付けるんですけどね。そして鮪が遊泳くると 針に餌が掛かっていますんで、この餌に食いついてくるわけです。 餌は色々です、鰯、スルメ、鯖、鰺 それから今は人工餌と使っています。なぜ人工餌使うかというと、脱線してしまうけども。 今アメリカの規制が厳しいんでね。あほー鳥とか、そういうのを捕ってしまうから駄目だっていうふうに言われてるんですよ。 鮪に仕掛けに食いつくんですよ。それで殺してなんかしてしまっているんで。そういうのが非常に問題になっています。とりこぽーるって言うんですけど。鳥防止の、色んなものが出ているんです。人工餌っていうのは。 魚を捕ってここで船で上げて。これは今は一本だって。ここもてんぐすになってしまいまいして。透明化してしまって、なるべ透過率が高めるというふうな方法採られてますけどね。これが全体の長さは だいたい120〜130kmこれがずーっと延々と続く 佐藤:1200mじゃなくって120km 1.2kmですか? 菅野:120km 100kmでは小さいので。この延縄の長さが。端から端まで、ここ(鮪立)から仙台まで。実際にこういうのは全部沈みますから。 佐藤:仕掛けは沈むから船は引っ掛けないんだ。 (どのぐらいの深さで釣るのか) 桑田:その横の縄はどのぐらいの水深に有るものなんですか。 菅野:いい質問なんですね。専門的に言いますと。鮪が食いつく場所っていうの。深さが非常に・微妙に関係してくるんです。鮪が遊泳してくる、それから生息している場所それが、この長さによってね、調節することは出来るんですけども。この長さを長くすればするほとこれが沈んでいく、ず〜っと。 だからだいたい 中心部当たり一番最深部当たりが一番食いがいいと言われてます。時間帯にもよるんですけどもね。 今はね相当水産庁あたりでも研究して、非常に。昔は朝方投縄して夜揚げていたんですけども。今はね昼縄、昼入れて昼に上げてしまうというような。 それは何かというと鮪の生態が徐々に今解りつつあるんですね。そういうことで今は色んな、昔の一つ覚えてやっていたんでは捕れない。我々も解らない。 延縄は100kmぐらいの長さ、100km以上あるんですけど。100kmぐらいの長さでもってだいたい今はですよこのくらいやっても1トン捕れるか。1日で。昔はね一回で10トン インド洋当たりに行ったときは 佐藤:マッカーサーラインは突破してドンドン行っちゃったってことですか 菅野:海外の進出が始まった。100km鮪自体捕り方は昔からこれです。これは台湾の漁船であろうと、中国の漁船であとうと、インドネシアの漁船であろうと、延縄を使ってですね。技術はみな日本から盗みました。機械も盗みました。盗んだという表現は悪いけどね。 佐藤:教えてやったとね 菅野:そういうふうなカタチで鮪を捕るわけです。 (水揚げ量は) 桑田:昔の水揚げはどのぐらいだったんですか。 菅野:昔はね、一回の操業で今の10倍から20倍あったそうです。インド洋当たりだともう20回も使うと満船になってもう直ぐ帰ってきた。今は酷い、その漁期も、最初は2ヶ月ぐらいの航海だったんです。漁場が遠いってせいもありますよ。漁場が遠いんだけれども。ちょうか率つも悪くなってきたということがあります。2ヶ月になって、今でも2ヶ月から1ヶ月、近海の鮪船っていうのはあるんですけどね。この2ヶ月が、3ヶ月になって6ヶ月になって。1年になって。1年半になって。3年も帰って来ないと。 かいじょうへえー!!3年も帰ってこない! 菅野:だから漁業は苛酷な3Kどころか6kの世界だっていうふうに言われていた。要するに子、供が出来るでしょう0才。帰ってくるときには話をして立って歩いている。お父さんが帰ってくとき。 佐藤:子供が泣くよね〜そりゃ〜変な叔父さん家に来て住み着いちゃったってもんでね〜 菅野:そういうふうな苛酷な生活環境の中で労働してたんで、そういことは若者が憧れる職業ではなくなってきた。我々が現場で「よし掃除をしたら船に乗るんだぞ」というふうなことをいくら教えてもね。社会(生活)環境が悪くなると、誰も6ヶ月も海の上で生活するとね、今どこに行っても喰えるような時代なのにそういうのに乗りませんよね。 この辺の人達は漁師魂が有るからそれでもなおかつずーと乗り続けていたんですけどね。 3年くらいになると何処かでっていう日本の鰹鮪協会で所属している、もっている一旦荷物を揚げてまた操業するっていう。3年ぐらいになるとね。 (妻子は乗せない 日本の魂 ) 佐藤:奥さん乗せて子供も乗せてとかはしないんですか? 菅野:それはロシア船はそれしてます。 佐藤:日本人はなんで出来ないんですか? 菅野:だって日本の魂でしょう 佐藤:日本の魂 ロシアは家族乗せて操業しているんだ 菅野:やっぱり 日本人です ( 200海里排他的経済水域 ) 桑田:今の船の大きさはどのぐらいなんですか。 菅野:350トンかな〜300トンから400トンぐらいまで。それが昭和26,7年頃から、徐々に鮪漁業が海外に進出し始めたんですね。そこで鮪漁業っていいますけども。 それからあっという間にですね、昭和52年になりますと。海洋法条約で200海里問題が出て、アメリカがいち早く宣言したんですけども。200海里排他的経済水域ということで。宣言しますよね。戦前にもトールーマン大統領が実は大陸棚宣言しようじゃないかというような話があって。そしてトルーマン大統領の理論をね、ずーっと引き摺って海洋法会議なんかで強引に押し通したっていう経緯があります。それまでは、領海。 領海っていうのは皆さん御存知ですよね。今領海何海里だと思います? (下絵:太田浩史先生は留学生のために同時通訳をされていました) 石田:12海里 菅野:12海里ですね。で昭和34年、その頃に実は海洋法会議っていうのは開かれてたんです。、三海里。領海がそれまで決まっているようで、決まってなかったんですよ。 国際的には。だいたい慣例で3海里だというふうになっていたんです。三海里だったから、じゃー世界の慣習は三海里だから、3海里にしようということだったんですけども、日本が頑強に反対したんです。なぜかというと三海里を決めてもらうと、外国の三海里に入って漁が出来なくなるでしょう。そのとき日本が反対したために、昭和52年になって、領海12海里っていうような設定がなされてしまった。そのときに決めてしまえば、本当に世界的にも領海は3海里だ。というふうに決まったんだと思います。3海里で押し通すことが出来たと思うんです。 ただその外に200海里っていう幅が出来たから。果たしてそういうことも出来なくなったのかなーというふうに思いますけども。漁業自体は領海が3海里であればある程度、ほかの国の近くに行っても魚を捕れたと。それ以後の鮪漁業は三海里まで行って捕っていたのが200海里のおかげで、入れなくなったわけですね。 入れなくなったから、後発国ではじゃ日本から入漁料を取って。漁をさせる代わりに料金をいただくと。ただで捕っていたんだから。それからは入漁料を支払って漁業をするようになった。そうすると経費もかさみますね。当然、鮪漁業の経営が圧迫されて来た。そして200海里の問題。昭和52年(1977年)200海里が完全に施行されて、そして日本も昭和52年に200海里宣言したという。 面白い話があるんです。領海の話、雑談になりますけれども。領海3海里になぜなったのかっていうな、議論があるんですけども。オランダのね、バンケルズフックっていうオランダの法学者がいるんですけども、その人が提唱したみたいなんですけどね。実に面白い話です。その人が当時の大砲の玉が届く範囲が3海里だから、それぐらいとっておけば、外国からの侵略は無いだろうと。いうことで、3海里に、そのような嘘のような本当の話があります。 で昭和52年当たりから徐々に徐々に(遠洋の)鮪漁業が停滞始めて、そして平成に入り、さらに深刻化して。こんどは鮪船の乗組員が少なくなっている。そうすると外国人を。インドネシアとかそういう所から中堅職員だっていうことで採って。日本に来てもらって、研修生に来てもらって。その人たちを労働力に頼ったわけです。 安いですよこれは、あんまり大きな声では言えませんけど。漁業者の人が居るから。はははははは。実に安い(賃金)です。信じられないような安さです。 そういうことで鮪漁業。衰退してしまったっていうふうなことがあります。 現代では、後継者は居ない。経営が成り立たない。ということで、今は国から省エネ船みたいなのを作ってもらってね。それで実験したりなんかもしてますけれども、何せ将来を担う若者が乗らないということで。 佐藤:外国人の研修生ももう乗らないんですか? 菅野:それは続いてます。だからそういうことで経費を節約して、何とかやっているという状態です。今は青息吐息の状態ですね。本当に。 この気仙沼、唐桑の人達はその鰹船、それから鮪船に乗って、日本の鮪漁業、鰹漁業をリードしてきた人達がこのOBの人達が一杯居るんです。そして、まあ漁船の場合は船長よりも、船頭さんっていうのが漁労長っていうのがエラですよね。漁労長が漁の一切の責任をもって、漁をするわけです。実際に現場で漁労長やった人達も、一杯この唐桑地区にはいます、立派な船頭さんが居ます。 佐藤:その方船頭さんたちは何歳ぐらいなんですか 菅野:今はね、80、うちの兄貴だって昭和8年生まれだからね。80近い人達。もっと上の人達いる、うちのオヤジだって90だからな。まだ船頭やっているからな。うん、90過ぎた人から今40代50代ぐらいまで。それがいわゆるさっき話した許可漁業、漁船漁業の気仙沼の大まかな歴史です。 ( 鮪立に15経営者! ) それでもう一回鮪立湾に戻りますと、鮪立湾では漁業経営者がいました。鰹漁業、鮪漁業の経営者がですね。15経営者ぐらい居たんです。ここの湾でですよ。湾でそのくらいの船を経営してた人達がいたんです。古舘さんはじめね、伸太郎さんの家から始まってあそこの端っこの、一番奥の県会議長の畠山さんの家まで。 鰹、当初は鰹漁船を経営していた。それから漁業の変遷で話したように鮪漁業に切り上げてね。北洋の鮭鱒漁業に行った船もあるし、それからサンマ漁業をした人もある。おうめ流し網をした人もあるし。それから烏賊釣りっていうのは、ほとんどちっちゃい船。小型船は烏賊釣りしてましたけどね。 そういうふうな形態で鮪漁業鰹漁業の衰退とともに経営もおかしくなった。今は一経営体に。この地域に一つの船主さんしか居ません。あとは全部 やめたか倒産したか。色々ですけれど。 佐藤:働いてた人はどうなっちゃったんですか? 菅野:働いていた人は他の気仙沼の所属する船に乗ったり。はい。鰹漁業と鮪漁業は業務者にとって負担掛けないで切り替わって行きましたからね。 雇用者、うんぬんというようなことはないですけどね。ただ鰹船が鮪船に代わったったというだけですからね。 だからこの鮪立の港は鰹船の1600年から現代までね。そうい鰹漁業と鮪漁業で生きてきた町なんです。 若干 あとは触れないといけないのは養殖漁業のことをちょっと話しますかね その03へ |