花田達朗  「私の装具自慢」    2024年3月14日

『ポリオの会ニュース』の2024年1号に「私の装具自慢」と題する一文を寄稿しました。2024年2月1日発行、増刊通巻6012号、35-37頁。それをここに転載します。「装具は私の身体の一部だ」と述べています。



私の装具自慢

                           花田達朗

 昨年の2023年11月12日開催の「ポリオの会」定例会に初めて参加し、高木聡医師のご講演「ポリオ外来での指導内容のまとめ」を伺いました。私は一昨年の2022年9月から東京慈恵医科大学のリハビリテーション科で高木先生のポストポリオ検診を定期的に受けるようになりましたが、先生のまとまったお話を伺うのは初めてのことでした。ご講演で私が受け取ったメッセージは「無理をしないこと」。中庸を守れということですね。私は調子が良い時に限って「調子に乗って」頑張りすぎて、逆に調子を崩すことがたまにありますので、「無理をしないこと」をいつも頭の中に置いておこうと思いました。心身は微妙なバランスの上に乗っていることを肝に銘じて、そのバランスを大切に保っていきたいと思っています。

 「ポリオの会」に入会後、新人として初めて参加した定例会では思いがけない展開が待っていました。会の代表の小山万里子さんが「花田さんが素晴らしい装具を持っていらっしゃるので、見せていただきましょう」と呼びかけられ、私の自慢の装具を皆さんにご披露することになったのです。小山さんは慈恵医大で私の装具をご覧になっていました。みなさんに囲まれた輪の真ん中で、みなさんの注目の視線を集めるなかで、私は装具を外して、みなさんにご覧に入れ、説明をしました。いくつものご質問をいただきました。みなさんも装具への思い入れは強く、「どうにかならないか」という問題点も抱え、改善の要望も多くお持ちだと感じました。

 現在私が装着している装具は、右足の短下肢装具とCBブレースが一体化したものです。左右の脚長差が8センチあって、短下肢装具はそれを補正しつつ足首を固定するもので、いわばハイヒールのような構造になっています。素材はカーボンファイバーです。鉄よりも10倍強く、鉄の4分の1の軽さといわれる炭素繊維です。飛行機の機体や宇宙ロケットの胴体に使われています。他方、CBブレースは通常は膝関節の保護と機能向上のために使われるようですが、私の場合、CBブレース装着の以前は足を横に放り出して腰の回転力で前方に振るような歩き方になっていたところ、CBブレースを着けることで足がぶれずに真っ直ぐ前に出るようになりました。以前は人が自分の右側を並んで歩く時、その人に右の靴をぶっつけることがよくありましたが、今となっては過去のことです。この装具を着けて、市販の左右同じサイズのスニーカーを履いています。現在の装具は、昨年2023年にアライヴワーク鰍フ曽我敏雄さんに製作していただきました。

 この装具には、実は幸運な歴史があります。現在の新作は先代の「そっくりさん」として作られています。その先代を製作されたのは沖縄県の轄イ喜眞義肢の佐喜眞保さんでした。2014年夏に沖縄を旅行していた時に、佐喜眞さんと偶然出会いました。今から10年前のことです。山口県に住む叔父と沖縄を旅行して、沖縄県に住む叔父の知人の運転でドライブしていた時のことでした。その頃エスカレーターのない駅で階段を登る時に右足がひとつ上の段まで上がり切らなくなり、筋力の低下と装具の重さに危機感を抱き始め、何か革新的な装具を作ってくれる装具士さんがどこかにいないかと探していました。これはと思う装具士さんを直接訪ねたこともあります。が、その方は義足が専門で、短下肢装具は作られませんでした。そんな話を車の中でしたら、叔父の知人が「沖縄にいい装具士さんがいるよ」と言うのです。そして彼は名護市あたりを走っていた車をそのまま金武町の佐喜眞義肢製作所へと走らせました。叔父の知人は佐喜眞さんと親しい知り合いのようでした。あれよ、あれよという間に製作所に到着し、佐喜眞さんにお目にかかり、「もっと軽い装具ができないものか」という私の悩みを訴えました。佐喜眞さんはにこやかに笑って、「やってみましょう」と応じられました。ご自分の腕への信頼というか、仕事への熱いものを感じました。私は直感でこの方に任せたいと思いました。

 これは最近になって知ったことですが、叔父の知り合いの伊波盛武さんは沖縄でコンサルティングの会社を経営されていて、2008年頃、「ギンバル地区」の米軍基地返還予定地への企業誘致計画で金武町が設置したタスクフォース「チーム未来」の委員長をされていました。応募のあったプロジェクトの中から佐喜眞さんの事業計画と経営姿勢が高い評価を受けて、誘致に選定されたそうです。その結果、今、佐喜眞義肢製作所は金武町に建っているわけです。その2008年以来、伊波さんは佐喜眞さんのお仕事と人柄に注目してこられたとのことです。お二人のお付き合いの始まりは叔父との沖縄旅行よりもわずか6年前からのことでしかありません。今こういう時系列を思う時、私は単に偶然というよりも、奇跡の巡り合わせだったとしか思えないのです。

 こうして私は翌年2015年3月に再び沖縄を訪問し、佐喜眞さんに装具を作っていただくことになりました。ギプス取りから始まって仮合わせを挟んで完成までに何と1週間の超スピードで、カーボンファイバー製の短下肢装具が完成しました。装着して、製作所のフロアを歩いて、私がその軽さに驚いていると、佐喜眞さんは「さあ、靴を買いに行きましょう」と、すぐに私を車に乗せて出発。靴の量販店に着いて、「靴のサイズはいくつですか?」と佐喜眞さん。が、それまでずっと靴型装具でしたから、私は市販の靴を買った経験がなく、サイズを知りませんでした。そして驚いたことに、出来立ての装具は健常な左足と同じサイズの右足スニーカーに見事にスポッと入ったのです。感動しました。この瞬間、私はそれまでのプラスチック短下肢装具と靴型装具の二つの重量から解放されたのです。短下肢装具は細くスマートになり、チョー軽量化されました。そして重い靴型装具はもう要らなくなったのです。佐喜眞さんが最初から靴型装具は要らなくなると考えておられたことは後になってわかりました。私は新しい短下肢装具を着けて、市販のスニーカーを履いて、軽やかな足取りで沖縄を発って東京に帰ってきました。私の後ろからそよ風が吹いているかのようでした。満1歳の時にポリオ(私の身体障害者手帳には「脊髄性小児麻痺」と表記されています)になって、後遺症のために常に装具とともに歩む人生を送ってきました。その時沖縄で経験したことは長い装具人生の中で実に画期的で、劇的な出来事だったのです。

 私は計量器で測ってみました。それまでのプラスチック短下肢装具+靴型装具の重さとカーボンファイバー短下肢装具+市販スニカーの重さを比較すると、40%軽くなっていました。この軽量化は効果覿面で、駅の階段を上がれるようになりました。私のQ O Lは40%上がったと言っていいでしょう。

 さて、費用と手続きのことを書いておきましょう。その時の佐喜眞第1号は試作品のような形で作り、自治体の補装具費支給制度を通さずに作りましたので、自費で支払いました。翌年2016年再び沖縄で本格的に改良を加えた短下肢装具を作りました。その費用は当時在職中だったので健康保険組合に支給を申請しました。が、「申請された装具は治療用ではなく日常生活用と認められます」という理由で却下されました。従って自費となりました。翌年2017年にCBブレースを装着しました。佐喜眞さんが開発された素晴らしい膝関節用の装具です。CBとはセンターブリッジ(中央の橋)の略で、膝の裏側にあって、膝に触れることなく丸く湾曲して膝の両側を橋渡ししつつ、宙に浮いて自在に動く、まさに可動の橋のようなものを指しています。この装具の発明は2005年に経済産業省主催の第1回「ものづくり日本大賞」で経済産業大臣賞を受賞しています(注*)。その時佐喜眞さんは53歳。それは私が佐喜眞さんと知り合うより9年も前のことだったわけです。もっと早く出会えればよかったのにと思います。膝はまだ大丈夫と私は思っていたのですが、実際にCBブレースを装着してみると、歩き方が前よりも格段と安定するようになりました。何とも不思議な装具です。これを装着したまま坐禅の結跏で座ることもできます。その費用は健康保険組合に申請して、この時は給付金として支給されました。同じ健康保険組合なのにこの対応の違いはどこから来るのでしょうか。私はその時々の医師の「証明書」の書き方の違い、ひいては医師の見識と力量の違いにあったであろうと推測しています。私たちは事前に情報を集めて、私たちの味方になってくれる、つまり私たちにとって正しい医師を選ぶという積極的な心がけが必要だということを教訓として私は得たのでした。

 次に、長い間自治体の補装具費支給制度を利用していなかったので(3年に一度申請可能と聞いています)、それを利用することでさらなる改良版を作ろうと考えて、2018年に短下肢装具と膝装具(CBブレース)の支給申請を自治体の障害者福祉課に提出しました。製作に取りかかる前に申請することが必須です。その時、以前の装具とは仕様が違うので、新しく「補装具適合判定」を受ける必要があるということで、東京都心身障害者センターに行き、判定を受けました。担当者にその時に装着していた短下肢装具とCBブレースを見せました。その結果、その二つが記載された、新しい「体幹・下肢装具マスターカード」を取得しました。その時点で私が実際に使用しているものを追認したということだったのだろうと思います。こうして第3代目が作られることになりました。この時の改良点は、短下肢装具とCBブレースの一体化です。それまで二つはそれぞれ独立したものでしたが、今回短下肢装具の一番上のマジックバンドとCBブレースの下のマジックバンドを兼用することで、バンドが1本減るとともに両者が連結されて一体化されました。短下肢装具の本体自体もより軽くなり、ともかく軽く、軽くという工夫が加えられていきました。こうして現在の完成形に到達したわけです。

 一昨年2022年に改良を加えたい点があって第4代目を作ろうと、佐喜眞さんに連絡を取ったところ、「もう沖縄まで来なくても大丈夫」と言われ、佐喜眞さんから「ポリオの会」の小山さんとともにアライヴワークの曽我さんを紹介されました。私は「ポリオの会」に入会し、送られてきた会報を読み、そして小山さんのお勧めで慈恵医大のポストポリオ外来を受診するようにもなりました。今回も障害者福祉課支援係に出向いて担当の職員の方とお話しして、補装具費支給の申請を提出しました。もちろん製作に取りかかる前に、です。すでにマスターカードがあるので、スムーズに承認されました。慈恵医大で曽我さんにお目にかかってお話しし、要望を述べ、ギブス取りをしていただきました。曽我さんは見事に「そっくりさん」を作ってくださり、さらに踵の底上げを高く、高くという従来の私の発想を修正して、逆に高さを少し低くするという改良を加えられました。これによって今の体の状態により適合した装具となり、腰にかかる負担が軽くなりました。


 思えば、長い、長い旅路でした。この間私は多くの装具士さんに出会って、お世話になりました。私はいつも装具士さんと話し合いました。ああしてほしいとか、こうしてほしいとか、注文を付けました。私は装具士さんとコミュニケーションを取るのが好きです。というよりも、それは必要不可欠なことだと思っています。これまでを振り返れば、装具士の方々の弛まぬ創意工夫がありました。他方で前例踏襲と現状維持の停滞もありました。技術や素材の進歩発展もありました。それは目覚ましいものでした。子どもの頃、青年の頃の装具は本当に脆く、弱かったです。よく壊れました。その度に修理を繰り返しました。歩いていると、「バキッ」と音がして、足首がフニャとなり、歩けなくなります。短下肢装具の軽合金の支柱が折れたのです。装具も足もかわいそうで、泣けてきました。20代後半に西ドイツに移り住み、そこで初めて壊れない頑丈な短下肢装具にお目にかかり、それを手に入れました。素材はプラスチックで、軽合金の支柱はありませんでした。

 装具は私の身体の一部です。だから、いいものがほしいと、こだわるのです。私は装具のユーザーとして、いいものを求め続けてきました。そして今、最高のものを手に入れることができました。いや、足の一部にすることができました。

 「装具は私の身体の一部だ」という捉え方は重要だと思います。と同時に、当然のことではないかと思います。人は誰でもそれぞれに個性を持った身体のユーザーですが、その身体に不足分がある場合、それを補うものを導入して身体の機能を復元しようとします。装具もそのようなものです。装具を身体に装着することで、そして装具が身体と統合されることで、私たちの身体は全体として一定程度復元します。その時、〈身体+装具〉が私たちの新しい身体となります。その意味で、装具は物ではなく、私たちの身体の一部であり、身体そのものです。これは私たち装具ユーザーの、当事者としての実感であり、現実ではないでしょうか。この実感は当事者でなければ理解できないものかもしれません。しかし、「装具は物ではなく、私の身体の一部である」という風に言葉にすれば、当事者以外の人々にも伝わり、理解が可能な現実となるのではないでしょうか。そうなってほしいと思います。この理解が私たちを含めた限りなく多くの人々の間で広く共有され、相互のコミュニケーションが取れるようになることを希望します。

 私はこれまでの私の装具人生の中でさまざまの装具を、つまり私の身体の一部を作ってくださった装具士の方々のお顔をお一人お一人思い出すことができます。そのすべての装具士さんに、とりわけ佐喜眞さんと曽我さんには感謝の言葉もありません。いずれ沖縄で佐喜眞さんと泡盛でまた一杯やれる日が来ればいいなあと思っております。



(注*) 経済産業省のウェブサイトの該当ページへ 


                   (2024年1月22日に記す)




(花田達朗・サキノハカ 目次














































絵:佐喜眞保さん 経済産業省のWEB頁より






























































花田達朗さんの右足最新装具



■ 『琉球新報』2015年3月31日付け、第13面の紙面。

2015年3月佐喜眞義肢製作所で、私にとっての「佐喜眞第1号」の製作に取り掛かった。その時、たまたま『琉球新報』の記者・呉俐君さんと写真の仲本文子さんが佐喜眞さんの取材にやってきた。仕事中の写真を撮ってもいいですかと聞かれて、撮られたのが紙面中央の写真である。右が佐喜眞保さんで、左に私も映り込んでいる。まだ最初の工程で、装具の原型となるモデルの確定を行なっているところだ。私の顔の下、奥の方にはその時まで使ってきた先代の装具が写っている。