花田達朗  全記事の目次へ

■2020年8月27日 電総研と私

 1986年春に西ドイツから日本に帰ってきて、私はシンクタンク研究員の職を得た。その時38歳だった。
 その前年4月に実施された電気通信制度改革(NTTの民営化、電気通信市場の自由化)を受けて、小松崎清介さんが常務理事として率いてきた財団法人電気通信総合研究所は財団法人電気通信総合研究所と株式会社情報通信総合研究所とに分割されていた。どちらかでの採用ということで、私は最初の2ヶ月間を後者で仕事した後、次に7月に前者に移り、そのままそこで正式に採用された。こうして日本で「シンクタンク研究員」の暮らしが始まった。シンクタンクの仕事は多くの場合、クライアントとの契約で提出期限の厳守がルールのため、時間との競争だった。締め切りに向かって日本語でものを書く生活が始まった。

 この電総研とはどのような組織だったのか。設立から今日に至る年史をまとめると、次のようになる。
 1967年(昭和42年)11月 (財)電気通信総合研究所設立
 1987年(昭和62年)1月29日 (財)電気通信政策総合研究所に組織改正
 1992年(平成4年)9月1日 (財)郵政国際協会に統合
 1997年(平成9年)4月1日 (財)国際通信経済研究所に組織改正
 2007年(平成19年)3月31日 (財)国際通信経済研究所、解散

 1990年(平成2年)2月2日 (財)テレコム高度利用推進センター設立
 1996年(平成8年)4月1日 (財)マルチメディア振興センターに名称変更
 2007年(平成19年)4月1日 (財)国際通信経済研究所の解散に伴い、その事業を継承
 2012年(平成24年)4月 (財)マルチメディア振興センターから一般財団法人マルチメディア振興センターに移行

 私がそこに勤めていたのは、1986年7月から89年3月までの間、2年9ヶ月間だった。

 その電総研にいた時には知らなかったのだが、のちに東京大学社会情報研究所に移った時に事務から過去の新聞研究所研究叢書を揃いで渡されて、知ったことがあった。その叢書の第8番目に『日本のシンクタンク』があった。そのようなテーマで研究が行われていたことを知って、驚いた。その本が出版されたのは私が電総研で仕事を始めた前年の85年のことだった。その本は今読んでもいろいろな意味で面白い。よくこういう調査が実行できたものだと思う。

 その本は、研究リーダーの高橋徹の「まえがき」によれば、「政策形成過程の社会学的研究」を共通課題にして、1979年(昭和54年)に結成された研究グループの成果だった。出版までに6年間をかけたわけである。同書の佐藤健二の論文「シンクタンクの歴史的展開」は時代区分を5つに分けた上で、その第W期(1966〜73年)について次のように書き出している。

「第W期を画するのは、昭和45(1970)年のいわゆる『シンクタンク元年』を頂点とする、シンクタンク・ブームである。第V期の『情報化』という社会的機運につづいて昭和43(1968)年頃から形成されてきた。このシンクタンク・ブームのきっかけは何であろうか。まず、このシンクタンクという言葉が、日本が戦後つねに目標としてきたアメリカから輸入されたものであるという事実を無視するわけには行かない。昭和44(1969)年のアポロ11号の月着陸は、科学技術時代の大きな事件であった。そして、その成功の背後にある研究開発体制が注目されるようになった。」(注1)

 電総研の設立は1967年だから、そのブームの前半に誕生したことになる。71年に大学を卒業して、日本新聞協会で放送と電気通信の分野の調査に携わっていた私は、確か米国の電気通信政策についてのシンポジウムで小松崎清介氏の颯爽とした姿を見たのをよく覚えている。80年代に行われた、その東大の共同研究でも電総研は調査対象となっていて、小松崎氏とプロジェクト・リーダーの小林宏一氏が面接インタービュを受けている。

 高橋らの研究は社会学的エンピリカル・スタディーズで、第1に総合研究開発機構(NIRA)が発行する『シンクタンク年報1980/81』の研究者ガイド欄に掲載されている研究員のすべて、総数870名を対象とした意識調査(回収率46.2%)。第2にシンクタンクの所長、理事長、役職者、主任研究員などリーダー50名を対象とした面接調査。第3に同じ年報所収のシンクタンク機関リストに掲載されているシンクタンクの組織社会学的調査。これら3つによって構成されていた。

 本の冒頭の論文で高橋徹はその研究の立場を、「われわれの思念する『政策研究の自己反省社会学』は、この(みずからの理論装置に向けられた)自己反省の契機を内蔵した社会学なのである」(注2)と、決然と宣言している。そして、アメリカ社会学の先行研究を細かく参照し、利用価値で取捨選択しつつ、研究対象として据えたシンクタンクを次のように定義した。

「クライアントとの契約という基本枠組によって拘束された『組織のなかの専門職』(organizational profession)が、『政策分析』(policy analysis)の方法によって、『政策・イデオロギー・計画』(policy, ideology and plans、略してPIP)を生産する組織である。」(注3)

 この定義は、「組織のなかの専門職」「政策分析」「政策・イデオロギー・計画」の3つの要素で構成されている。つまりシンクタンクを組織であると定義して、それがどのような組織かを行為主体、方法、生産物の3つでもって定義しているわけである。そして、その3つに分けて議論を進めていっている。

 私にとって特に興味深かったのは3番目の要素に関連している。高橋は、「・・・確認しておきたいことは、シンクタンク内の専門職が『研究』に帰因するコンフリクトを内臓したアンビヴァレントな存在だ」(注4)とした上で、グールドナーの「新階級論」(専門職を生産労働者階級とは区別して捉える見方)に言及しつつ、「プロフェッショナリズム」のイデオロギーと「批判的談合文化」(culture of critical discourse)との矛盾、あるいはそれらの統合可能性について議論を進めて、次のように言っている。

「・・・後者が『自己反省性』の理念を内蔵しているのに対して、前者は『プラグマティック・ニヒリズム」への傾斜を保有している。ということは、対立する2つの統合中心ということであり、将来においてもこの階級的統合がけっして容易ではないことを意味している。したがって、ここでもまた、内部にさまざまな矛盾や葛藤を内包したアンビヴァレントな階級ということを繰り返すにとどめておこう。」(注5)

 すなわち、未決だということである。それは「シンクタンク研究員」を経験した私自身の感覚とも一致している。

 私は西ドイツでもシンクタンクで仕事していた。西ドイツにはそのような言葉はアメリカから輸入されてはいなかったが、高橋の定義に合致する組織は存在した。私が在籍したのは、社団法人ミュンヘン・コミュニケーション共同研究所(Arbeitsgemeinschaft fur Kommunikationsforschung e.V., AfK)だ。それはドイツ語圏にある、ドイツのミュンヘン、アウグスブルク、スイスのチューリヒ、オーストリアのザルツブルクの各大学のコミュニケーション研究所が合同で設立した研究所であり、シンクタンクであった。クライアントはほとんどがドイツ語圏の各国政府であり、コミュニケーション政策の分析と提言を任務としていた。政府側にとって、それまでになかった新しい政策分野の登場の中で政策立案をサポートするエージェントが必要であり、そのニーズが高まっていたのである。それに応えるべく、大学が、つまりアカデミズムが大学とは別に新しい組織を作り出したのであった。これは、「政策研究の自己反省社会学」を一歩進めて、その自己反省を内蔵した政策研究遂行の実践組織そのものを立ち上げたということを意味しているだろう。日本でシンクタンク・ブームのあった70年代、その初頭の時期に立ち上がったAfKは、大きな成果をあげながらも、しかし、80年代半ばに解散することになる。

 このAfKでの仕事の経験を踏まえながら、私は東大に移った翌年の1993年1月に「放送制度と社会科学の間」を執筆した。私の「政策研究の自己反省社会学」を書いたと言えるだろう。それが収録された社会情報研究所研究叢書が刊行されたのは94年3月だった。私にとっては、独日のシンクタンクに勤めた経験と葛藤が「自己反省性」の契機を養い、高橋の言う「アンビヴァレントな階級」の階級意識についての熟慮を可能にしたということができるだろう。

 ところで、電総研での仕事のタイプは3つあった。第1はクライアントからの委託研究である。その多くは当時の郵政省からだった。研究課題について文献調査をしたり、社会調査(アンケート調査や市場調査など)をしたりして報告書を作成する。研究スキームはこちらが作って進める。

 第2は郵政省からではあるが、会議の事務委託というものである。これは言ってみれば、各種の審議会や委員会の「裏方」である。これを電総研は当時、野村総研、三菱総研、富士総研などの営利企業との競争入札で競って獲得していた。それは総務部長の仕事だ。研究員の仕事の内容は、郵政省の担当者と話し合い、その指示のもとに調査を行い、資料を作成し、会議の運営をサポートし、審議会などが報告書を作って終了するまでを伴走する。やる側として私にとって、これはあまり面白い仕事ではなかった。シンクタンクの専門職にとっての「相対的自立性」がほとんどないからである。郵政省の下請けのような感じがした。いや、まさにそうだった。

 その仕事で見た、審議会や委員会の委員たちの実態というか、生態はおぞましいものだった。彼ら・彼女らは「有識者」と呼ばれ、ほとんどが大学教授で、そこに業界団体の代表とタレントが加わって構成されていた。たまに申し訳程度に女性が入っていて、ほとんどはネクタイにスーツの男性だ。会議のシナリオや落とし所や報告書草案は、役所の官僚によって(シンクタンク研究員のサポートもあって)作られていた。会議では官僚と裏方が作成した多くの資料が配布されて、「有識者」たちはその土俵の上で思いつきを喋って、知識のひけらかし(ドイツ語で Besserwisserei)に自分の持ち時間を費やし、定刻が来ると会議はお開きとなった。「有識者」たちは情報いっぱいの資料をカバンに入れて持ち帰るのである。その情報をありがたがる「有識者」たちもいた。官僚たちは目的合理性に立って台本と台詞を書くという点ではきわめて有能で、「有識者」たちはその駒にすぎなかった。官僚たちは駒として使える大学教授を最初からセレクトして任用していた。私には「有識者」たちは腹話術の人形のように見えた。大学教授たちは役所から「有識者」として認定されたことを喜び、「有識者」コミュニティの一員になったことに、またそれであり続けることに満足していた。官僚たちはその「有識者」たちから「お墨付き」をもらった形を作って、自分の政策を省内で、そして政府内で、またメディアに対してプレゼンテーションして予算を獲得するのであった。同時に、法律改正案や新しい法案を作って内閣に提出するのであった。あるいは、行政指導という名の、法律に基づかない不透明な手段で、業界や民間に対する行政権力の行使へと向かうのだった。

 そこでは官僚と「有識者」たちの間でうまい交換関係が、つまりギブ・アンド・テイクの関係が成立しているのである。その関係の中では、当該の政策の是非についての責任という項目は蒸発してしまう。官僚は個人として責任を取ることはない。官僚とはポストであり、個人としてはいわば匿名だ。「有識者」たちは形の上では個人だが、当該政策の責任主体という自覚は持っていないし、責任を問われるとは考えてもいない。ただおしゃべりをしてきただけと思っている。とにかく「みんな」で決めたことなのだから、誰も責任を取る必要はない、ということになるのだ。もちろん政治家も責任を取らない。審議会が決めたことなのだから---。そこにあるのは「和をもって貴しと為す」のヤマトの風土そのものであり、その実態の一典型であろう。

 こういう責任の所在のはっきりしない形で政策形成過程に関わることは、ドイツの大学教授たちの場合にはほとんど見られない。彼ら彼女らのやり方は鑑定書( Gutachten)を執筆するというやり方である。鑑定書と訳されるが、意見書でもいい。要するに、職能的かつ知的に資格のある人間が、依頼者からの注文と委託に応じて、専門的知見に基づいて見解を表明する文書を独立して作成して、提出するのである。個人のみならずシンクタンクも鑑定書の提出を依頼される。いろいろな場面で使われるが、裁判の過程でもあるし、政策形成の過程でもある。意見の責任の所在が明確なのである。だから、異なった見解を集めて、優劣を競争させ、決定側は判断するための材料を得ることができる。

 上記のような日本の審議会行政の実態が、「日本最大のシンクタンクは霞ヶ関の官僚機構」と言われる現実を生み出しているのである。しかし、その擬似「シンクタンク」は高橋のシンクタンクの定義のどの要素をも満たしてはいない。

 私は、大学に移った後で役所からお声がかかっても決して「有識者」にはならなかった。裏の仕組みを知っていたからである。私だけでなく、シンクタンク研究員から大学教員になった人で「有識者」となる人はほとんど見られない。「自己反省性」の契機が働いているのではないかと思われる。

 第3は自主研究である。研究部のミーティングでテーマを決め、そのテーマの報告書を作成する。それらの報告書は年度末に会員社に会員サービスとして配布される。毎年の定番は『欧米諸国における情報通信の動向』の各年度版で、私はその中の西ドイツ篇を書いていた。そのほかにその時々のアクチュアルなテーマで研究を行い、報告書を作成した。この自主研究では多少ではあるが、「プラグマティック・ニヒリズム」を忍び込ませることができた。

 私のシンクタンクのイメージに照らせば、第1と第3の仕事はそれにほぼ合致していた。その2つの間の違いは、第1は特定のクライアントとの契約、第3は会費で組織をサポートしている、特定多数のクライアントへのサービスという違いだ。第2の仕事はシンクタンクからは外れていると思われた。

 その電総研は今はない。その名前は1992年に姿を消した。私が東大に移った年だ。高橋徹らの共同研究が意識調査を行ったのは81年終わりであり、研究成果が叢書として刊行されたのは85年だった。その時点で、佐藤健二は前述の論文の終わりで、「歴史をふりかえって、制度的・構造的にもっとも問題になるのは研究主体の動機づけという点ではないだろうか」(注6)と抽出し、結語の一文で、「この『動機づけ』の危機をどう制度的に解決するかは、今後の発展において重要であるといえるだろう」(注7)と述べている。研究行為主体から見て、自分が何のために政策研究をしているのかという意味づけの問題、組織ではなく個人としての理念や欲求の自己調達の問題だと言える。そこに佐藤は「危機」を見ていた。私はどうだったのだろうか。私に動機づけはあっただろうか。私は日本のシステムの中でのシンクタンクに幻想は持っていなかった。ただレポートをデザインして執筆することに小さな満足を見い出していただけだったと言えるかもしれない。

 私が電総研を辞めたのは89年だった。それから時は経ち、2020年の今、シンクタンクという言葉はあまり聞かれなくなったような気がする。代わりに、20年以上前から言語的に繁栄しているのはコンサルタント会社(コンサル)だ。この変遷には何が隠されているのだろうか。当時、佐藤が摘出した研究主体の「動機づけ」の危機は乗り越えられずに、「動機づけ」は「制度的に」溶解してしまったのではないだろうか。

*注
(1) 佐藤健二「シンクタンクの歴史的展開」東京大学新聞研究所編『日本のシンクタンク』(東京大学新聞研究所研究叢書G)、東京大学出版会、1985年、48〜49頁。
(2) 高橋徹、渡辺秀樹「問題意識と調査設計」、前掲書、2〜3頁。
(3) 前掲論文、3頁。
(4) 前掲論文、12頁。
(5) 前掲論文、14頁。
(6) 佐藤健二、前掲論文、63頁。
(7) 前掲論文、65頁。