2020年2月8日 小林宏一さんのこと  花田達朗

今日は15年前に86歳で亡くなった母の誕生日だ。あれから15年も経った。

このウェブサイト世話人の佐藤敏宏さんから「早稲田大学最終講義」から2年が経ったと指摘された。そう言えば、そうだ。あれから2年が経ったのだ。2周年ということになる。

その講義を終えて、街角に立ったとき、街の風景が一変して見えた。まるで風景が生まれ変わったように、新しいものに見えた。それまで見えていなかった風景の断片が目の中に入ってきた。風景全体の色艶が違った。その印象に突然襲われたことをよく覚えている。長年付き合ってきた大学というミリューから解放された、自由になった、その感慨が風景に付着していたゴミをきれいに洗い流したかのようだった。そして、心象風景においてもそれまでに溜まった種々のこだわりが色褪せて見えた。そうだ、この2月3日は解放記念日なのだ。

それから2年間何をやってきたかと言えば、「残務整理」をやってきたと言える。過去の記憶と資料に対する断捨離に時間を費やした。昨年9月10月の2ヶ月間の欧州旅行で心理的な区切りをつけ、その整理期間は終わった。

その旅行から戻ってすぐ、小林宏一さんの訃報が届いた。スマートフォンが鳴り、小林宏一と表示されていたので出たら、夫人からの声で小林さんが1週間前の11月15日に亡くなられたと知らされた。その日付は偶然にもちょうど1年前に私が小林さんに会って別れた日だった。享年76歳。

小林さんは群馬県嬬恋村の別荘に住んでいて、早稲田大学を定年退職後、「蛸足堂」というネット古書店を営んでいた。「おのれの足を食らう蛸」ということ。自分の蔵書を切り売りするところから、その名前を付けたそうだ。ただ、最近はガンを患っていて、抗がん剤治療を受けながら暮らしていた。

2018年11月14日、私は草津から草軽バスに乗って浅間山を過ぎ、北軽井沢の停留所で降りた。小林さんが車で迎えに来てくれていた。車で食品店を回って、お気に入りのラーメンやマスカルポーネなどを買ってから、別荘に着いた。懸案だった訪問が初めて成った。遅い昼食にラーメンを作ってくれて、夕方は車でまた出かけて、書庫を見せてくれた。バブル期に作られたリゾートマンションの部屋が安く売りに出されたとき、書庫用に買ったのだそうだ。もうほとんど住んでいる人はいないようだったが、エレベーターは動いていたし、共用スペースの電気は減らされていたが点いていた。廃屋になりつつあるリゾートマンションは草津でも散歩の途中で何棟も見た。夜は薪ストーブで暖を取りながら、夜通し話し続けた。翌日、小林さんは前日までに注文の入った3冊の本を郵便ポストに投げ込んだあと、私をバス停で見送ってくれた。それが最後となった。手を振る小林さんの顔が思い出される。元気にやっていけそうだった。夫人の電話でのお話によれば、昨年になってガンが転移し悪化したとのことだ。

小林さんはご自分の定年退職の前に私の研究室に来られて、もう読まないドイツ語の本をあげたいと言われた。そして、数日後、本が運び込まれた。ほとんどがズールカンプ社の本で、そこにはアドルノ全集22巻も含まれていた。そのときは時間がなかったので、そのままにしておいたが、最近それらの本を広げてみると、所々に鉛筆で小林さんの書き込みがしてある。単語の意味や注記などである。おそらく大学院生時代からそれらの本を集め、読んでおられたのであろう。小林さんが本当に研究したかったことの原風景がそこにあるような気がする。小林さんは私より5歳年長で、大学院生時代を68年運動とともに過ごした一人なのだ。

ずっと前のことだが、私が1986年に西ドイツから戻って財団法人電気通信総合研究所の研究員になったとき、どんな本があるのかと図書室の書庫に入ってみた。その書架にフランクフルト社会研究所の「年誌」を見つけて、驚いた。その頃小林さんはその研究所の専任研究員から成城大学教員へとすでに移っておられたが、研究所にも顔を出していて、そこで一緒に電気通信政策研究の仕事もした。「年誌」は小林さんが在籍中に図書室に購入させたものに違いなかった。

その後小林さんとは東京大学で、そして早稲田大学で同僚となった。しかし、小林さんとフランクフルト学派について話をすることはなかった。彼の書くものにその「精神」が生かされていたとしても、彼が直接フランクフルト学派について言及したシーンは記憶にない。薪ストーブのチロチロとした炎に二人の顔が照らされた、あの最後の夜にもそういう話にはならなかった。彼は古書店経営の好事家のように「蛸足堂」について楽しく語った。本の目利きであることを楽しんでいた。

しかし、いまアドルノ全集への彼の書き込みを眺めるとき、彼との関係が新しく生まれ替わったごとくに見え、その事実をも眺めているような気持ちになる。彼の印象が立体的に膨らみ、彼との関係の奥行きが深まったような心象が見えてくる。もっと早くその風景に気が付けばよかったのかもしれない。と言って、それでどうなるというものでもなかったかもしれない。

小林さんが亡くなられてから「蛸足堂」と入力して、サイトを検索してみた。「蛸足堂諸事断層ー浅間山麓より」というブログが出てきた。そこには記事が4回だけアップされていた。最後の記事の掲載は2018年2月8日18時21分で、タイトルは「花田さん、ご苦労様でした」。何と私の最終講義のことが書かれていた。最後の行を読むとき、私にはそのとき小林さんが『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー/アドルノ)を思い出しているように聞こえるのである。
http://shousokudoh.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
これを書くにあたり、今日クリックしてみたら、ブログはまだ残っていた。いずれご遺族によってブログが削除されるかもしれないので、脚注にその文章を再掲しておきたい。

成城石井・高田馬場店で買ったマスカルポーネをバゲットに塗って、小林さんを思い出しつつ、ワインを飲む。15年前に65歳で亡くなった林利隆さん、そして小林さんと私の3人でグラスを傾け、談話を楽しんだ日々が目に浮かぶ。「思い出すこと」(Erinnerung)とは生きることの重要な一部であり、現在の人生の構成要素にほかならない。



 備 考 欄





最終講義風景■2018年2月3日最終講義録へ


岩波書店『世界』2018年6月号掲載「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」PDFへ





 絵:webより小林宏一さん
略歴
1942年5月新潟県柏崎市生まれ。1975年3月早稲田大学大学院文学研究科博士課程社会学専攻 単位取得満期退学。1971年4月(財)電気通信総合研究所 専任研究員。1984年4月成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科 助教授→教授。1992年4月 東京大学社会情報研究所 教授 。2003年4月 東洋大学社会学部メディアコミュニケーション学科 教授 。2005年10月 早稲田大学大学院政治経済学研究科 客員教授(非常勤扱) 。2006年4月 同 教授



小林宏一さんが営んだ 蛸足堂プロフィールより
大学教員渡世から足を洗い(文字通りいくつかの大学を渡り渡り歩いた故の表現にてご容赦)、浅間山北麓、嬬恋村にほぼ常住する境遇にあり。後々、家人のお荷物になるということをよく聞く蔵書をいまのうちに整理すべく、おのれの足を食らう蛸になぞらえた仮想店舗をネット上に構え、これまで「購った」書を一転「商う」毎日。喜寿も間近となるなか賀状を打ち止めとするかわりに、「心にうつりゆくよしなし事」をブログすることに決した次第。だが75歳の手習い、果たしてどこまで?



 花田達朗全集は最終講義に合わせ第2巻が刊行された
第1巻と第2巻2冊で先着順 3セット 消費税込み 5000円 販売中 taf★ biglobe.jp へお知らせください
 (★=@
(注)
花田さん、ご苦労様でした。
2018/02/08 18:21

去る2月3日、早稲田大学にて、花田達朗早大教育・総合科学学術院教授の最終講義があった。長年にわたり知遇を得てきた者の一人として、立錐の余地のない教室で、「公共圏、アンタゴニズム、そしてジャーナリズム」と題する講義、彼自身の敷衍によれば「公共圏におけるアンタゴニスティックな文化的実践としてのジャーナリズム」をテーマとする講義を聞かせてもらうことが出来た。

花田氏は、2006年4月、東京大学より早稲田大学に移られたのだが、それは、当時、早稲田大学では、 Columbia School of Journalism, Annenberg School of Communication and Journalism といったアメリカのジャーナリズム・スクールをモデルとする、独立した教育組織の設立機運が醸成されつつあり、この運動の中核的存在でありながら、志なかばで斃れた畏友H教授の遺志を継承する役割を担ってのことであった。その後、この動きそのものは、様々な紆余曲折があって実現することはなかったが、そのなかにあって、花田さんは、早稲田大学総合研究機構のもとに早稲田大学ジャーナリズム研究所を立ち上げ、ここをベースとして、今日までジャーナリズム教育・批判的啓発活動を精力的に推進することで「H教授の遺志を継承する役割」を見事に果たしてこられたといえ、ここに深い敬意を表したい。

しかし、花田さんの講義にもあったように、現代日本のジャーナリズム機構は「アンタゴニスティックな文化的実践」を志して現場に散った多くの若者を遠からずして挫折させてしまう大勢にあり、また、そもそも、そのような実践に気概を抱く学生が激減している(具体的には彼の講義のここ数年における受講者激減)とすれば、1970年代初めに語られた「三無(無気力・無関心・無責任)主義」が、今日、完膚なきまでに浸透しきったということなのであろうか。


 (絵:2018年2月3日 花田達朗教授最終講義の様子)

   








 (花田達朗教授最終講義中)