花田達朗          目次へ戻る 2018年9月14日 作成 佐藤敏宏

故・藤田博司さんの残したメール
  --〈日本版9.11〉4周年記念日に想う不可解さと違和感--

 1 今日は9月11日

 2001年9月11日は米国のいわゆる「同時多発テロ」が起こった日で、それから17年が経った。今日は17周年ということになる。それ以来、世界中の国家権力によって、その政権が右派であれ、左派であれ関係なく、国家権力に挑むもの、抗うもの、あるいは国家権力を脅かすものは、何でも「テロ」とレッテルを貼られるようになった。各国の国家権力、それを握る政権はお互い仲は悪いけれども、この点だけでは仲良く歩調を合わせている。日本を含めてどこの国でも「テロとの闘い」という“神聖な標語”(魔法の言葉)を用いて、政府が市民生活やジャーナリズム活動への監視と介入を強化してきた、それがこの17年間であったと言えよう。
 それを〈米国版9.11〉とするならば、〈日本版9.11〉というものがある。2014年9月11日の朝日新聞の木村伊量社長による記者会見によって生じた「朝日新聞原発『吉田調書』記事取り消し事件」である。これは4周年ということになる。それ以来、日本の「忖度」メディアは快進撃を続け、安倍晋三首相は縁故政治の森友学園・加計学園疑惑で多少揺さぶられたものの、証拠不十分で、めでたく自民党総裁3期目の座を手に入れようとしている。既定の選挙ルールを途中で変えて、政権保持の期間を長期化するやり方はロシアのプーチンやトルコのエルドランなどの権威主義政権と同じだ。そうした政府のもとで、日本の既成メディア=「マスコミ」は足の引っ張り合いはするが、権力監視の報道から撤退するという点では見事に歩調を合わせている。
 たまたま同じ日付を持つ、この2つの〈9.11〉は、ただそれだけの共通性であって、それ以外まったく無関係なものだろうか。私には、多くの事柄がそうであるように、この2つはどこかでつながっていて、それぞれの帰結において、21世紀という時代の、これからやってくる世界の暗い側面の共通性を名付け難く、しかし何らか暗示しているように思われる。
 さて、今日はその9月11日。「日本マスコミ」も〈米国版9.11〉17周年にちなんで、ちょっとした反応を記事などですることだろう。しかし、〈日本版9.11〉4周年については思い出しもしないであろう。遠くの権力の動向については関心を持って書いたとしても、近くの権力のことについては見ようとしないのが、この国の「マスコミ」の習性だからだ。権力の動向をチェックするよりも、絶え間ないスポーツ報道と横並び災害報道に忙しい。スポーツ・イベント(見世物)と悪天候・災害がなくなったら、一体何でニュースを埋めるのだろうか。私はそうした「マスコミ」の習性に抗って、〈日本版9.11〉をその4周年に思い起こしたいと思う。そこで、今日は今に残る一つの不可解さを取り上げてみたい。




 (藤田博司:絵ネットより)

■2014年09月12日公開記者会見・動画リンク
朝日新聞の木村伊量(ただかず)社長は都内・朝日新聞社東京本社で2014年9月11日、記者会見を開き、東京電力福島第一原発所長として3.11以後の事故対応にあたった吉田昌郎氏が政府事故調査・検証委員会の聞き取りに応じたいわゆる「吉田調書」に関し、本年5月20日に「所長命令に違反 原発撤退」の見出しの下で報じられた記事について誤りを認め、撤回・謝罪した

 2 藤田さんからの返信メール

 それは、故人となられたが、藤田博司さんに関わることである。2014年9月11日に朝日新聞のあの奇怪な事件は起こった。そして、藤田さんは10月5日、急逝された。その死を中心に置くと、その前後に、すなわち9月12日10月11日の2回、朝日新聞紙上に藤田さんの名前で文章が掲載された。それらはあの頃に注意深く問題の推移を追っていた人々にとっては、あの内容が藤田さんの見解であるとして記憶に残っているか、そういう印象で残っていることだろう。それらの文章は今日でも新聞記事データベースで検索して読むことができるし、もはや歴史の一部として客観化されていて、藤田さんのいわば「絶筆」ということになろう。すなわち彼の人生の一部であり、その終わりに置かれた表現物だということになる。
 仮に一般の人々にはそれでいいとしても、私にはそれでいいとは思われない。なぜなら、その二つの文書の文章は私の知っている藤田さんではないからである。私は藤田さんとは研究会をやったり、本を出したりと、たびたび一緒に仕事をしてきた。私より年長の藤田さんをこう評しては僭越ではあるけれども、日本の「マスコミ」出身者で大学の教員になった人は少なくないが、藤田さんは別格だった。ジャーナリストとしての矜持を持ちつつも、研究者と共通の論理で、普遍的な基準を語ることのできる、いわば例外的な人だった。それでも、藤田さんと私は、ジャーナリストであることと研究者であることのお互いの領分の違いをはっきりと意識し、決してその境界を取り外して「仲良く」なろうとはしなかった。そのような仕方でお付き合いしてきた、その藤田さんの文章であるということが、私には納得ができないのである。
 木村伊量朝日新聞社長の記者会見の翌日、9月12日の朝日新聞朝刊は特別編成の紙面を展開した。その紙面の中に藤田さんのコメント「『公正さ』を欠き、批判は免れない」を見たとき、私は「え、これ、本当に藤田さんが書いたの?」と思った。強烈な違和感を覚えた。その違和感を抱えたまま6日間を過ごし、9月18日になって私は思い立って藤田さんに疑問を呈するメールを午後2時7分に送った。すると、午後5時37分、つまり3時間30分後に藤田さんから返信のメールが届いた。コメントと返信メールの内容の間には大きなギャップがあり、私は驚いた。同時に、藤田さんの「真意」を直接知ったことで、少しほっとした気持ちになったことも確かである。そして、次に、藤田さん死後の10月11日、オピニオン欄に(私の視点)「朝日新聞の改革 『報道の公正』実践から」が掲載された。それを読んだとき、私は藤田さんからの返信メールとの間で大きなギャップがあるのを見て、「何だろう、これは?」と、また驚いたのである。


■2001年9月11日 2分ごろから、ニューヨーク実況中継動画・リンク
3 藤田さんの12日コメントと18日返信メールの間のギャップ

 藤田さんからの返信メールによって、私は以下の点を確認することができた。必要なら、読者は資料の原典と対照して確認していただきたい。

■ コメントは社会部からの電話取材によるものであり、藤田さんが執筆したものではなかった。藤田さんはそれでも全責任は負うと言っている。

■吉田調書の初報について私(藤田さん)が「公正さに欠ける」と断定したような文章になっていることに第一の違和感がある。

■ 「公正さを欠いた」というのは、吉田調書報道のことではなく、むしろ慰安婦報道についての指摘だった。

■ジャーナリズムの原則である公正さがどこまで守られたのかという視点で吉田調書報道も検証すべきだ。

■ 取材は社長記者会見の数時間前で、「コメントの前提になる重要な事実関係」については何も知らされていなかった。すなわち、記事取り消しなどの社長の決定内容、コメントと同じ紙面に検証記事が出るということ自体、そしてその検証記事の内容について知らなかった。

■ したがって、社長が会見において吉田調書報道で誤報を認めたり、記事取り消しを発表したりするとは、まったく予想していなかった。

■ 5月20日の紙面では、特に見出しと本文のずれについて当初から疑問を持っていたが、吉田調書報道を「誤報」と決めつけたり、記事取り消しに相当するような過誤のあるものとは思っていない。したがって、社長記者会見での発表内容には反対である。記事の筆者らに対する処分の動きにも反対である。

■ 私(藤田さん)のコメントがあたかも社側の対応を是認しているかに読み取られることに不快感を持っている。この点についての考えを朝日の編集幹部に伝え、編集幹部からは社会部の現場に伝えるとの返答をもらった。
 
 以上で、藤田さんの新聞掲載のコメントと私宛ての返信メールの間にある大きな隔たりの背景や理由がわかり、藤田さんの「本当の」の主張は何であるかも明らかだろう。
 社長記者会見は午後7時30分から始まった。記者会見録画ビデオ(添付資料参照)の冒頭、会見場の壁のデジタル時計がその時刻を表示している。藤田さんは返信メールで、「社会部記者の取材を受けたのは会見の数時間前」と述べているので、午後2時か3時ごろということだろう。そうすると、社会部では当事者たる記事執筆記者や取材班に知らせることもなく、蚊帳の外において、遅くとも午後2時か3時には翌日の全面展開の紙面作りが本格的に始まっていたということになる。方針が決まり、指示が出されたのは、当然もっと前の時刻だろう。
 ここで何よりも重要なのは、藤田さんへのコメント取材は「フェアー」に行われたのかということである。取材の基本にかなっていたのかということである。取材の倫理から外れていたのではないかということである。そうなると、何とおぞましくも皮肉なことであろうか。藤田さんのコメントに付けられた見出しは「『公正さ』を欠き、批判は免れない」だったのだ。まさにこの見出しの文言は、このコメントの製造過程そのものに、それを遂行した人々自身に向けられるべきものではないか。報道活動においてフェアーであることを、公正さを常に求め、その基準点から現状を批判してきた藤田さんが、フェアーでない取り扱いを自らに受けてしまった、自らが支持した規範に裏切られたということになるのではないか。

4 藤田さんの18日返信メールと10月11日(私の視点)の間のギャップ

 (私の視点)「朝日新聞の改革 『報道の公正』実践から」は、おそらく藤田さんから「不快感」の苦言を受けた編集幹部が藤田さんに再論の機会を与えるように現場に話して実現したのではないかと推察される。
 しかし、この文章でも18日返信メールとのギャップが目に着く。何よりも、12日コメントと同様にこの(私の視点)も、「あたかも社側の対応を是認しているかに読み取られる」のである。内容的に見れば、12日コメントと10月11日(私の視点)とはスムーズに連続しており、18日返信メールの視点や主張はほとんど反映されていない。藤田さんは何のためにこれを書いたのだろうか。非常に不可解である。そのことをもう藤田さんに尋ねることはできないのだ。
 私は、このような微妙な問題に関わる文章をその問題の当事者である新聞がその執筆者の死後に掲載することにいささかの疑問を禁じ得ない。なぜなら、「本物」かどうか検証できないからである。その検証なり証明なりができるのは、今やその執筆者の遺族か、それを掲載した新聞社しかなく、第三者は本物と信じるしかない。何よりも、執筆者=死者には物理的にみて証明の能力はなく、仮に内容がずれたものになっていたとしても「苦言」を述べる機会はない。それはフェアーだろうか、公正だろうか。フェアーであるためにはどうしたらいいだろうか。
 だから、私はその同じ理由で、藤田さんのNiftyアドレスで発信されたメールの全文を資料としてここに添付している。私は、これが本物であることは現物を提示することで誰にでもいつでも証明することができる。
 2つの文書の間に見られる不一致の具体例を一つだけ、挙げておこう。10月11日(私の視点)には、「9月12日付紙面の吉田調書に関する『経緯報告』も検証としては拙速で不十分だ。どちらも、第三者委員会での徹底した公正な調査を期待したい」という文章がある。私は、藤田さんは「9月12日付紙面の吉田調書に関する『経緯報告』」について「拙速で不十分だ」というような“程度の問題”として考えていたのではなく、フェアーではない、公正ではないと考えていたと察する。彼の原理・原則からするなら、そういうことだ。そして、実際には、その第三者委員会(報道と人権委員会:PRC)(本来は記事での名誉毀損など人権侵害について社外からの苦情を処理する機関のはずだった)は社長からの委託でいわば“社内法廷”を開催して、3名の委員(新聞ジャーナリストは一人もいなかった)はその「見解」によって、記者たちに“有罪判決”を言い渡したのだった。その「見解」の発表を受けて、会社は記者への処分を執行した。 
 しかし、藤田さんは私宛の18日返信メールでは、第三者委員会について別のことを述べている。すなわち、「報道と人権委員会が吉田調書報道を検証することになっていますが、取材班の言い分を十分に聞くような検証になるかどうかも、疑問です」と述べて、第三者委員会への期待などは述べていない。藤田さんはかつてその委員を務めていたから、この発言にはほかの人よりも重みがある。そもそも第三者委員会への評価とは重要な争点であり、そう簡単に見方が揺れるようなものではないはずだ。二つの文書における、この不一致はどう説明できるのだろうか。
 10月11日(私の視点)の藤田原稿を疑う私の気持ちは、その内容的な不一致(私の信じる18日返信メールとの不一致)によるもののほか、私の経験知にもよる。私は朝日新聞のオピニオン欄(私の視点)に過去に3回執筆した。自分から投稿したことはなく、担当記者からの寄稿の依頼によって書いた。そこで、私はほかの新聞での寄稿依頼の原稿執筆では決して経験しないことを経験した。それは担当記者がどんどん原稿に手を入れて修正してくるということである。まるでデスクが自社の記者の原稿に手を入れるように----。私は社員ではない。手を入れる理由は「読者への分かり易さ」だ。しかし、その修正によって会社のスタイルや路線への適応が図られているのは明らかだ。鋭角は削られて丸められていく。担当記者との間で「調整」がつかないと、「上司へのお伺い」という手続きが入ってきて、「調整」が貫徹されていく。
 一度、私はこの「調整」そのものに嫌気がさして、原稿が「上司へのお伺い」を挟んでほぼ調整済みになった最終段階で顔写真の提供を求められたとき、顔写真を掲載したくないとの難題を出して、折り合いがつかず、「上司へのお伺い」を経て最終的に原稿がボツになったことがある。原稿よりも顔写真を掲載するという掟のほうが重要なのだということがわかった。掟に従わない執筆者の原稿は要らないということを私は知らされた。面白いロジックだと思った。したがって、オピニオン欄(私の視点)に掲載されたのは実際には2回である。3回の経験を通して私は、オピニオン欄の担当記者は執筆者と朝日新聞が協同して最終的に原稿を仕上げ、それを執筆者の名前で掲載しているのだという意識を持っているのではないかという印象を抱いた。
 私の疑いは、生者の原稿もあれだけ修正しようとするのだから、ましてや死者の原稿は「読者への分かり易さ」のためにもっと大胆に修正するのではないかということである。もちろん私には藤田原稿についての疑いを証明する証拠はないが、しかし、この疑いに何も根拠がないと言えるだろうか。

 5 藤田さんの一貫性

 これまで藤田さんの三つの文書を比較しつつ、そこにギャップの存在を見てきたが、他方ではそこに一つの一貫性を認めることができる。それは、あの状況の中で、朝日新聞を社として擁護するという態度である。
 藤田さんは私への返信メールの中で、12日コメントの作られ方に「不快感」を示しつつも、「ただこの件についてはこれ以上、議論を荒立てるつもりはわたしの側にはありません。それをすれば、週刊誌などの朝日攻撃に利用される懸念が大きいからです」と書いている。また、(私の視点)では、「慰安婦報道と吉田調書報道をめぐる批判を浴びて、朝日新聞が満身創痍(まんしんそうい)になっている。しかしここで社全体が意気消沈してもらっては読者として困る。ジャーナリズム全体にとってもいいことではない」と、書き出している。本当に藤田さんがそう書いたとして、この文章は「社全体」という視点に立とうとしている。「朝日攻撃」の中で、たとえ朝日新聞の何かに批判すべき点があったとしても、今はそれを強調すべきではなく、「満身創痍」の朝日新聞の側に立つことがジャーナリズム全体のために必要なのだ、という考え方がうかがわれる。その頃、朝日新聞社の社内に出ていた、全社一丸となってこの危機を乗り切ろう、社外のみなさんも危機にある朝日新聞を応援してくださいという雰囲気にとっては、それは歓迎すべき論調であったであろう。
 その考え方と態度の選択は状況論的にまったく理解できないわけではない。12月13日夕刊掲載の「惜別」のような視点から、その選択を「藤田さんらしいなあ」と思わざるを得ないところもある。しかし、「満身創痍」の朝日新聞をこれだけ慮った藤田さんに対して、またその発言に対して、経営・編集幹部は、そして記者諸氏は果たしてどれだけ誠実に応えたのであろうか。私は、藤田さんには申し訳ないけれども、片想いだったような気がする。
 あえて私の感想を述べよう。朝日新聞の経営・編集幹部および記者諸氏のやり方は、執筆者やその発言に対して、そしておおやけに書くという行為、意見を表明するという行為の重さに対して実に軽く考えているのではないか、そういう習慣化したものに支配されているのではないか。粗悪な羽毛布団から漏れてくる、一片の羽毛ほどにも軽いように思われる。そうだとすると、それは相手を駒としてしか、手段としてしか見ていないことを意味するのではないだだろうか。

 6 藤田さんと私の視点の違い

 この事件についての私の最初の見解は、早稲田大学ジャーナリズム研究所ウェブサイトの「所長の伝言」欄に10月5日、「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」というタイトルで掲載した。9月11日の社長記者会見をテレビで見て、翌朝の朝日紙面を見て、それ以来のモヤモヤしたものをそのままにしないで、整序した上で書き留めておいたほうがよいと考え、前日の4日に書いた。しかし、何とそれが掲載された日に藤田さんは他界された。もしもその不幸がなければ、私は藤田さんにその掲載サイトのURLをメールで送っていただろう。そうすれば、再びすぐに返信をくださったであろう。今、私は、それを藤田さんに読んでいただけなかったこと、それへのご感想を伺えなかったこと、そのことが残念でならない。
 私にとって、そしてより一層藤田さんにとって残念なのは、12日の全面展開の紙面の構造的特色が「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」で私が分析したようなものであったとき、藤田さんのコメントがその紙面の真ん中に一つの重要なパーツとして埋め込まれていることなのである。そして、藤田さん自身が、「12日の紙面のわたしのコメントがあたかも社側の対応を是認しているかに読み取られることには不快感を持っています」と、私宛の返信メールで言われるように、そのコメントはその内容においてもその存在感においても特別編成の紙面全体が作り出している文脈の中で会社支持の役割を一翼として担わされていたのである。
 私は次に、10月14日、ジャーナリズム研究所「所長の伝言」欄に「弁別する理性」を掲載した。それは、その時にはすでに亡き藤田さんの(私の視点)が朝日新聞に掲載された3日後のことだった。恐らくは、その頃の様々な発言や動向を見て、カウンターとして書いておかなければと、私は考えたのだろうと思う。様々な発言の中に藤田さんの(私の視点)も含まれていただろう。私はその文章で、外部からの「朝日攻撃」現象においても、また「朝日新聞」内部の問題においても、細かな弁別が必要だということを主張している。後者において、藤田さんとは違う考え方を私は採っている。冒頭で、「朝日新聞とよく一言で言うけれども、実際には朝日新聞は一体ではない。少なくとも社長を含めた会社執行部(経営)、編集局、取材記者の区別、つまり立場と機能の違いによる区別をすべきである。朝日新聞を批判するのであれば、朝日新聞の何を、誰を、どこを批判するのかを明確に意識すべきであろう」と述べ、それは「朝日新聞を支援する、守るという場合も同様」だと述べている。私は、藤田さんのように「社全体」とか「ジャーナリズム全体」とか、捉えることはしない。そして、会社という組織の内部を弁別した上で、「会社から切り捨てられようとしている取材記者」の側に立つと述べ、「重要なのは記者たちの当事者意識なのだ。記者集団が自分たちの問題として自分たちで決着をつけるべきではないだろうか」と、問い掛けている。ジャーナリストなら第三者機関にゲタを預けて傍観するな、自分たちで引き受けて、議論で立ち上がれ、ということである。この点は、9月18日および19日の、私の藤田さん宛のメールでも明言していることだ。
 この立場からは、朝日新聞の社長をトップにした経営・編集幹部を厳しく批判することになり、確かに「満身創痍」の朝日新聞を批判することになる。しかし、私はそれが外部からの「朝日攻撃」にも答える道であり、ジャーナリズムの第一当事者であるジャーナリストを救い出す道でもあると考えるのである。そのことについて藤田さんともっと意見を交わしたかったが、その機会がもはや決して訪れないことを私は残念に思う。
 仮にそういう機会があったとしたなら、ひょっとすると議論が論争になったかもしれない。それ自体は二人とも受け入れるだろうし、何ら問題ではないし、残念なことでもない。私は、「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」の最後で強調して書いているように、〈日本版9.11〉事件の本質とは、「戦後最大級の経営による編集への介入であり、その介入に論拠を与える日本新聞協会『編集権声明』の問題であり、したがって『内部的メディアの自由』、すなわち『ジャーナリストの自由と自律』が侵害されたという事件なのである。決して『朝日新聞吉田調書誤報問題』ではない」と、考えてきた。当時も今もそれは変わらない。そこが、私がこの事件を観察する基準点である。藤田さんと私の間には観察の基準点なり着目の次元なりで違いはあるだろう。ただ、たとえ違っていたとしても、「ジャーナリズムは何のためのあるのか」「ジャーナリストとはどのような職業か」という問いに向き合う点において、すなわちジャーナリズムの目的とジャーナリストの使命、アカウンタビリティとミッションに正面から向き合う点において違いはなかったように思われる。

 さて、以上が2018年9月11日、〈日本版9.11〉4周年記念日の日に、私が残しておきたいと思う、私の感慨である。そして、その感慨のもとになった材料である証拠もここにまとめて残しておきたい。

 やがて、来月5日、藤田さんの命日が訪れる。ご冥福をお祈りしたい。

 ◆日誌

2014年
9月11日19時30分 木村伊量朝日新聞社長が記者会見

9月12日 朝日新聞朝刊紙面、藤田博司さんのコメント「『公正さ』を欠き、批判は免れない」を掲載【資料1】【藤田コメント】

9月18日14時7分 花田が藤田さんへメールを送信【資料2
同日17時37分 藤田さんが花田へ返信【資料3】【藤田返信メール】

9月19日15時12分 花田が藤田さんへ返信【資料4

10月4日 花田は早稲田大学ジャーナリズム研究所ウェブサイトの「所長の伝言」に「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」を執筆し、翌日5日から掲載【資料5

10月5日 藤田さんが急性心臓死のためご逝去。享年77歳 

10月6日 朝日新聞朝刊紙面、藤田さんの死亡記事掲載【資料6

10月7日 研究所「所長の伝言」、花田の「藤田博司さんのご逝去を悼む」を掲載【資料7

10月8日 藤田さんの葬儀

10月11日 朝日新聞朝刊オピニオン欄、藤田さんの(私の視点)「朝日新聞の改革 『報道の公正』実践から」を掲載【資料8】【藤田(私の視点)】

10月14日 研究所「所長の伝言」、花田の「弁別する理性」を掲載【資料9

12月13日 朝日新聞夕刊紙面、藤田さんへの「惜別」を掲載【資料10


 ◆資料:時系列順

【資料1】2014年9月12日 朝日新聞朝刊紙面 【藤田コメント】

「公正さ」を欠き、批判は免れない 藤田博司氏 吉田調書をめぐる朝日新聞社報道 
 ◇元共同通信論説副委員長
 5月20日の吉田調書の初報を読んだとき、引用されていた吉田さんの言葉と「命令違反」「撤退」という見出しや記事のニュアンスに違和感を覚えた。記事には、所員らが第二原発に退避したことを、吉田さんが「しょうがないな」と語った言葉もある。読者の視線でみれば、あの見出しは行きすぎだった。
 調書では「2F(第二原発)に行った方がはるかに正しいと思った」と吉田さんは語っており、その点を記事に書き込んでいなかったことは公正さに欠けていた。批判は免れない。
 政府は当初、公開を望まないという吉田さんの上申書を理由に公表しなかった。だが、原発事故の再発防止の上でも、彼の発言の中に重要な教訓が含まれている。公共の利益のために政府としていち早く出すべきだった。
 8月になって産経新聞、読売新聞、共同通信と報道が続いた。吉田調書を入手し、朝日への批判を報じ始めたが、朝日の初報から3カ月にわたり公開に持っていけなかった点はメディアの力不足、熱意が足りなかった。
 吉田調書や慰安婦報道には、共通点がある。それはジャーナリズムの基本原則である「公正さ」を失っていることだ。
 取材して編集する、新聞や放送で情報を送り届ける。すべての過程において公正さが求められる。誰に対しても説明できる取材方法か、取材者に予断や偏見・思い込みはないか、自分の信念や問題意識に沿って都合のよい話を書いていないか、そうした点をすべて排除し、注意を払って正確に事実を伝える最大限の努力をしてきたか。それが今、問われている。
 朝日新聞が、吉田調書を特報した点は評価されていい。それがなければ、吉田調書やそのほかの調書の中身が闇に葬られかねなかった。しかし、あの最初の記事は公正の原則が守られていたのか。今回の一件は、朝日新聞がその原則を実践できていなかったがための過ちだと思う。大事なことを付け加えておけば、これは朝日だけの問題ではない。
 読者のために公正の原則を守って取材に努め、それを証明できれば、立ち直りのきっかけは作れると考える。
     *
 ふじた・ひろし 元共同通信社記者。ワシントン支局長、論説副委員長を歴任、退社後は上智大教授などを務めた。2006年〜今年3月、朝日新聞社報道と人権委員会委員。




資料2】2014年9月18日14時7分48秒 花田が藤田さんへメールを送信

藤田博司様、

花田です。大変ご無沙汰をしております。お元気でお過ごしでしょうか。

朝日新聞報道をめぐるメディア界の大バトルは目を覆うばかりです。自己崩壊していくのではないかという気がします。

藤田先生のご見解は9月12日付け『朝日新聞』第3面に拝見しました。実は、そのとき「えっ」と思いました。本当に藤田先生の見解なのだろうか、とちょっと違和感を禁じ得なかったことを思い出します。

私はジャーナリストではありません。しかし、今回の「吉田調書」報道問題は徹頭徹尾、取材者・執筆者の側から考えるべき、見るべきではないかと思っています。私にとって理由は2つあります。
第一は、「吉田調書」報道を行った記者たちは「未熟な記者」だというストリーが作り出されていますが、彼らは決して「未熟な記者」ではないと私は思います。木村英昭さんにも宮ア知己さんにも輝かしいジャーナリズムの実績があります。私は石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞の審査委員(昨年度をもって退任しましたが)として、それを見る機会がありました。
第二に、今日の日本で第一級の記者たちが書いた記事には彼らの論拠と正当性があるはずです。私にはそうとしか思えません。批判されたならば、記事を弁護し、防衛する用意があるはずだと思います。ところが、9月12日付け紙面に掲載された木村伊量社長の謝罪文では「思い込みや記事チェック不足」が原因とされ、記者たちに、つまり執筆当事者たちに紙面で批判に対する弁明の機会、反論の機会は与えられておりません。これは理解できません。

私はメディアの内部の現場をよく知りませんし、今回の事件の内部事情もよくわかりませんが、外部からの観察者として少なくとも上記の2点から私にとって浮かび上がってくるものは、記者個人を封じ込め、犠牲にして、組織がみずからの何らかの利益を守ろうとしているのではないかということです。もしそうだとすれば、これはジャーナリストの自律の問題であり、広くは「内部的メディアの自由」の問題ではないのか、と思われるのです。

以上は具体的な情報に疎い私の見方ですから、間違っているかもしれません。ただ、私はジャーナリズム研究者の端くれとして、今回、記事を書いた当事者に寄り添って考えてみたいのです。

紙面で見る限り、藤田先生はすでにPRCの委員を退任されていますね。社長は「吉田調書」問題でPRCに審理を申し立てる、関係者の「処罰」をする、と述べていますが、これらがどうなるのか、見守りたいと思います。

花田達朗




資料32014年9月18日17時37分 藤田さんが花田へ返信【藤田返信メール】

花田先生

ご指摘の点、ごもっともです。コメントをした本人もあの日の紙面でのコメントの扱いに「違和感」を持ったくらいですから。

あのコメントそのものは、社会部からの電話取材に対して30分余り私がしゃべり、記者がまとめて後で電話口で読み上げ、確認したものです。吉田調書の初報について私が「公正さに欠ける」と断定したような文章になっていることに第一の違和感がありましたが、これはわたしが電話を通して読まれた文章を「確認」したことになっているので、全責任は私が負うべきだと思っています。(わたしの指摘したのは、ジャーナリズムの原則である公正さがどこまで守られたかという視点で吉田調書報道も検証すべきだということでした。公正さを欠いた、というのはむしろ慰安婦報道についての指摘でした)。

もう一つの違和感は、あの日の紙面でのコメント扱いでした。おそらく読者一般は、あのコメントは社長の記者会見、その場で発表された内容、当日の紙面2面に掲載された「経緯報告」の中身などをすべて踏まえたうえでなされたものと理解したと思われます。しかし実際は社会部記者の取材を受けたのは会見の数時間前、社長がそのときすでに決定していたと思われる記事の取り消しなどの決定内容については、当方は知らされておらず、紙面で併用される予定の長文の検証記事の内容についても、検証記事が出ること自体も知らされてはいませんでした。要するに、本来ならコメントの前提になる重要な事実関係については何も知らされないまま、コメントをしていたわけです。

取材を受けた段階で前提になる事実が何か、をいま思えば確かめてからコメントすべきでしたが、慰安婦報道について謝罪するのは想定内ではあったものの、吉田調書報道で誤報を認めたり記事の取り消しを発表するとは、まったく予想していませんでした。もし吉田調書報道についてあのような決定がなされていることを知っていれば、当然私のコメントも異なるものになっていたと思われますが、結果的には、12日の紙面で花田先生に違和感を与えるような不本意なものになってしまった次第です。

わたしは(5月20日の紙面=特に見出しと本文のずれ=については当初から疑問を持っていましたが)この報道を「誤報」と決めつけたり、記事取り消しに相当するような過誤のあるものとは思っていません。したがって、社長会見での発表内容には反対です。記事の筆者らに対する処分の動きにも反対です。12日の紙面のわたしのコメントがあたかも社側の対応を是認しているかに読み取られることには不快感を持っています。この点についての私の考えは先日、朝日の編集幹部に伝え、幹部から社会部の現場に伝える、との返答をもらいました。

ただこの件についてはこれ以上、議論を荒立てるつもりはわたしの側にはありません。それをすれば、週刊誌などの朝日攻撃に利用される懸念が大きいからです。週刊誌の一つから私のところにも取材がありましたが、丁重に断りました。

社長会見のあと、外向けにはともかく、社内ではいろいろな動きがあると聞きます。社内の報道現場が萎縮する懸念は小さくありませんし、特に特別報道部を中心とした調査報道態勢が見直される(解体される)心配が多分にあります。報道と人権委員会が吉田調書報道を検証することになっていますが、取材班の言い分を十分に聞くような検証になるかどうかも、疑問です。

取材班が社内で孤立する心配もあります。なんとか支援する手立てはないものかと思案はしていますが、有効な方策は思いつきません。花田先生からお知恵があればぜひお聞かせください。

いただいたご指摘への十分な回答になっているかどうかわかりませんが、以上がさしあたってのわたしの説明です。

ご意見をいただいたお礼まで。

藤田博司




【資料42014年9月19日15時12分50秒 花田が藤田さんへ返信

藤田先生、

ご返事をありがとうございます。
先生がおっしゃるように、私も会社が記事の一部訂正ではなく記事そのものを取り消したこと、関係者(つまり執筆者)を処罰するとしていることに反対です。異常なやり方だと思います。

記者をどうしたら守れるのか。ジャーナリストたちの間から連帯の声が挙がることではないかと思います。

また、いずれかの機会にお目にかかりたいと思います。

花田達朗




資料52014年10月5日 早稲田大学ジャーナリズム研究所ウェブサイトの「所長の伝言」

「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」

出来事の名前は重要である。発生した出来事にどのような名前を与えるか。命名の仕方はその出来事の意味の解釈および定義付けを含んでいる。そして、重要なのは、その出来事はその名前ととともに歴史に記録され、人々に記憶されるということである。権力側の視点から命名され、メディアもそれを受け入れた「外務省機密漏洩事件」という名前が「沖縄返還密約事件」に修正されるのに何年を要したことか。

さて、2014年9月11日夜の朝日新聞社の木村伊量社長の記者会見、そして同紙の翌日朝刊の謝罪紙面はどのように見ればよいだろうか。大きな出来事であったことに間違いはない。

9月12日の1面には、次のような見出しが並んでいる。
@ 吉田調書「命令違反し撤退」報道
  本社、記事取り消し謝罪
A 慰安婦巡る記事 撤回遅れを謝罪
B 池上氏連載判断 「責任を痛感」

見出しは@が特大で、AからBへと小さくなっていく。この順番と比重の違いは社長記者会見の構成と筋書きを忠実に反映している。謝罪の記者会見はこの3部構成および軽重の付け方であった。質疑応答で社長自身が述べたように、それは@のための謝罪会見であり、それがメインと位置づけられていた。社長が@のときだけ起立して頭を深く下げたことにもそれは示されていた。

では、その@はどのような理由で謝罪が行われたのだろうか。紙面掲載の社長のお詫び文から引用しよう。「(・・・)吉田調書を読み解く過程で評価を誤り、『命令違反で撤退』という表現を使ったため、多くの東電社員の方々がその場から逃げ出したかのような印象を与える間違った記事になったと判断しました。」 そこで記事を取り消し、お詫びするというのである。

つまり間違ったのは資料の「読み解き」と記事の「表現」だと言っているのである。そうであるのならば、訂正記事を出せばよく、記事のすべてを取り消す必要はないのではないだろうか。ましてや社長が謝罪記者会見を開く問題ではないだろう。記事の「表現」という問題で、そのようなことをした新聞社があっただろうか。

この不可解さを読み解くためには3部構成のシナリオに戻らなければならない。その関係性の中で見なければならない。それぞれの謝罪の原因と中身が異なっていることに注意しつつ、その比重を吟味してみると、事の重大さからして、順位は逆転して、B、A、@となるのではないか。つまりBは明確な経営による編集への介入事件であり、そこでの非を認めたということである。「編集と経営の分離」は朝日新聞社が長く維持してきた原則であり、それが木村社長のもとで崩れたということである。ほかの全国紙と変わらなくなってしまったということである。コラム原稿の掲載を復活させたからといって、それで済む問題ではない。それは編集局の記者たちにとっても同様であって、かれらは掲載された時点で満足したのだろうか。かれらに「編集と経営の分離」原則への理解と問題意識はあるのだろうか。

このように見てくると、BとAを小さく見せるために@を無理矢理、強引に大きく仕立て上げたのではないかという推測と疑念が生まれる。この工作によって、朝日新聞社執行部(経営)は新たな大きな過ちを犯してしまったと言えるのではないか。つまり、執筆した記者たちに記事の論拠と正当性についての弁明の機会を紙面で与えることもなく、「思い込みや記事のチェック不足」と断罪し、かれらを切り捨てたのである。これも「編集と経営の分離」が一応守られていた時代には考えられない事態であろう。そして、このことをBで上層部への批判の声を挙げた編集局の記者たちはどう考えるのだろうか。

最後に再び、「朝日新聞吉田調書記事取り消し事件」と名付けられ記録されるべき、この出来事の本質とは何であろうか。それは、戦後最大級の経営による編集への介入であり、その介入に論拠を与える日本新聞協会「編集権声明」の問題であり、したがって「内部的メディアの自由」、すなわち「ジャーナリストの自由と自律」が侵害されたという事件なのである。決して「朝日新聞吉田調書誤報問題」ではない。




資料62014年10月6日 朝日新聞朝刊紙面 藤田さんの死亡記事掲載

藤田博司さん死去 元共同通信論説副委員長
 元共同通信論説副委員長で、上智大学や早稲田大学などで学生にジャーナリズム論や米国政治を教えた藤田博司(ふじた・ひろし)さんが5日、急性心臓死で死去した。77歳だった。通夜は7日午後6時、葬儀は8日午前10時30分から埼玉県所沢市東狭山ケ丘1の2の1のセレモニー狭山ケ丘ホールで。喪主は妻文子(ふみこ)さん。
 1961年に共同通信社に入り、ニューヨーク、ワシントンの両支局長、論説副委員長などを歴任。上智大学教授や早稲田大学大学院客員教授なども務めた。
 2006年から今年3月まで、朝日新聞社の第三者機関「報道と人権委員会」(PRC)の委員。




資料72014年10月7日 早稲田大学ジャーナリズム研究所ウェブサイトの「所長の伝言」

「藤田博司さんのご逝去を悼む」

10月5日の日曜日、藤田博司さんが亡くなられた。東北の山を登って下山直後に急性心不全を発症して、帰らぬ人となった。享年77歳。
ここに心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りしたい。

藤田さんは本研究所編『エンサイクロペディア現代ジャーナリズム』(早稲田大学出版部、2013年)の共著者として23項目を執筆された。そのうちのひとつ、「戦争とジャーナリズム」の項目で、その最後に次のように書かれている。

「戦争、紛争の報道に際しては、ジャーナリズムは必ず、自分の帰属する国の国益に向き合うことを迫られる。真実を伝えることが国益に反することはないか。仮に両者の間に矛盾がある場合、いずれを犠牲にするのか。単純な解答はない。しかし政治や経済、社会のグローバルな関係が深まりを見せる中で、より普遍的な正義や平和を追求するのがジャーナリズムの役割だとすれば、最終的な選択肢は真実をとる以外にないだろう。」(299頁)

「国益」の言葉が跋扈するようになった今日、その状況が若者や中年に浸透してきた今日、藤田さんはこの言葉を残して他界された。




【資料8】2014年10月11日 朝日新聞朝刊オピニオン欄【藤田(私の視点)】

(私の視点)朝日新聞の改革 「報道の公正」実践から  藤田博司
 慰安婦報道と吉田調書報道をめぐる批判を浴びて、朝日新聞が満身創痍(まんしんそうい)になっている。しかしここで社全体が意気消沈してもらっては読者として困る。ジャーナリズム全体にとってもいいことではない。批判は謙虚に受け止めて再出発するほかない。その第一歩は、問題になった慰安婦報道と吉田調書報道の検証をしっかり行うことだ。8月に紙面で公表された慰安婦報道の特集は、虚偽情報に基づく報道を訂正するまでになぜ長期間を要したのか、などを含め疑問が解明されてはいない。9月12日付紙面の吉田調書に関する「経緯報告」も検証としては拙速で不十分だ。どちらも、第三者委員会での徹底した公正な調査を期待したい。
 再出発にあたって大事なことは、これからの報道の仕事にどう取り組んでいくか、社としての基本方針を明確に打ち出すことだ。今回朝日が受けた一連の厳しい批判で、報道の現場が萎縮する心配が多分にある。とりわけ朝日がここ数年力を入れてきた調査報道がこれまで通り続けられるのかどうかが気にかかる。そうした心配を打ち払う、積極的な取材・報道を守る方針をぜひ示してほしい。
 むろん改めなければならないことはある。最大の課題は、現場で報道の公正さを守る原則を徹底することだ。そのために、報道のすべての過程で守らねばならない基本動作がある。取材にあたって予断や偏見を除くこと、情報の確認・検証を入念に行うこと、誤りは速やかに訂正することなどなど。これらの仕事の基本は理屈のうえでは記者のだれもが知っている。が、日々の仕事でどれほど厳密に実践されているかとなると疑わしい。それを現場に根付かせることがまず改革の入り口になる。
 さらに大切なことは、こうした地道な改革を可能にするための職場環境を確保すること、言い換えれば、自由に議論できる空気を育てていくことだ。「誤報」の原因の一つに意思疎通の欠如が指摘されていた。池上彰氏のコラムが一時掲載見合わせになったとき、これに反対する声が社内からわきあがった。現場が上層部の決定を批判する自由が残っていたことには救われる思いがした。その自由をさらに広げ、確かなものにしてほしい。民主主義を支える柱の一つにジャーナリズムの多様性がある。すべての新聞が同じ言葉でニュースを伝えるようになってはジャーナリズムの死を意味する。無責任な批判を恐れることなく良質の報道を守り、再生への歩みを進めることを期待する。
 (ふじたひろし 元共同通信論説副委員長)

 ◇藤田さんは5日亡くなられました。ご冥福をお祈りします。




資料92014年10月14日 早稲田大学ジャーナリズム研究所ウェブサイトの「所長の伝言」

「弁別する理性」

今日の朝日新聞をめぐる現象の特色は何か。雪崩現象の中でさまざまの側面が渾然一体として取り扱われていることである。渾然一体化は生産的な議論を生まないし、危険でさえあり、落とし穴が待っている。そこで、弁別することが必要だ。この現象は大きく分けて二つに区別して観察し、弁別して考える必要がある。

@ 朝日新聞バッシング
これは匿名ネット発信、個人ジャーナリズム、組織ジャーナリズム、首相官邸などによる朝日新聞外部からの朝日新聞に対する批判・攻撃の波という現象である。ここで注目されるのは3点。

・ 他の新聞が朝日新聞を「国益」を損ねたと批判する事態とは、すなわち「国益」を軸に新聞界が分断される時代に入ったということ、つまりジャーナリズムの原則に関わる共通基盤が消滅したということである。「国益」という言葉を使いたいのなら、内に向かってではなく、外に向かって使ってほしいものである。たとえば、日本国に最も強い影響力をもつ国、米国に向かって。
・ この朝日新聞バッシング現象において官邸の情報操作、政権の関与が広く疑われているが、それに対する調査報道によるスクープがいまだ出ないことである。
・ 会社への攻撃と記者個人への攻撃が同時に行われていること、つまり会社と個人を区別しない攻撃が行われる時代、記者が個人攻撃される時代に入ったということである。記者個人を攻撃するというのはロシア、中国などジャーナリズムの後進国で行われており、日本もついにその仲間に入ったということを意味する。

A 朝日新聞本体問題
ここでも区別する必要がある。

・ 朝日新聞とよく一言で言うけれども、実際には朝日新聞は一体ではない。少なくとも社長を含めた会社執行部(経営)、編集局、取材記者の区別、つまり立場と機能の違いによる区別をすべきである。朝日新聞を批判するのであれば、朝日新聞の何を、誰を、どこを批判するのかを明確に意識すべきであろう。そこに批判者の視点や立脚点が現れる。朝日新聞を支援する、守るという場合も同様であって、朝日新聞内部における区別を明確に意識する必要がある。何を守るべきかと言えば、それは朝日新聞の社長でも組織でもないだろう。その組織の官僚的体質でも、構成員のエリート意識でも事なかれ主義でもないだろう。それは今回、具体的に言って、右翼からの攻撃に晒されている元記者であり、会社から切り捨てられようとしている取材記者である。「個としてのジャーナリスト」として立ってきた記者個人をこそ守るべきなのだ。
・ 社長がまとめて謝罪した3つの事項、原発の吉田調書記事の取り消し、従軍慰安婦報道検証特集での謝罪不足、コラム不掲載問題はそれぞれ内容的にも質的にも違うものであり、その違いをはっきりと識別すべきである。3項目の中で社長が謝罪し、即刻責任を取るべきだったのは自身のとった行動に対してであり、すなわち3番目のコラム不掲載の決定という「編集への介入」に対してである。つまり社長と取締役編集担当によって「編集への介入」が行われたということこそが重大なのである。
・ 朝日新聞バッシングの中で、この「編集への介入」が一切テーマとならないのは、どうしたことであろうか。おそらく朝日を批判するメディア企業においては「編集への介入」が空気のように当たり前のことであり、問題とは映らないからであろう。また、朝日新聞編集局の記者たちの間でも「編集への介入」という問題の捉え方がされたとは聞こえてこないが、そのような問題意識はもうないのだろうか。重要なのは記者たちの当事者意識なのだ。記者集団が自分たちの問題として自分たちで決着をつけるべきではないだろうか。第三者に預けるべきではないし、第三者委員会などという会社仕掛けの工作に乗せられるべきでもない。

総じて言えば、弁別する理性が求められるということである。理性をバカにすべきではない。理性という洋風の言葉がお嫌いであれば、道理と言い換えても同じことである。




資料102014年12月13日 朝日新聞夕刊紙面 「惜別」欄に掲載

(惜別)元共同通信論説副委員長・藤田博司さん メディアに求め続けた高潔さ
 ふじた・ひろし 10月5日死去(急性心臓死)77歳 10月8日葬儀
 海外特派員や論説委員などとして30年以上を共同通信で過ごした後、上智大学教授なども務め、ジャーナリストに欠かせない資質を説き続けた。
 その一つが、「integrity」。英語で、高潔さや正直さなどを意味する。葬儀の日に発刊された遺著「ジャーナリズムよ」を読むと、私が大学時代に聴いた講義がよみがえってくる。
 原点は30代前半、ベトナム戦争時のサイゴン(現ホーチミン)で自らも戦火の下での取材を経験し、米国メディアの徹底した報道姿勢を目の当たりにした。米国駐在時は、この戦争の過ちをえぐった「ペンタゴン・ペーパーズ」やニクソン政権崩壊をもたらした「ウォーターゲート事件」に直面し、真実に迫る報道への思いを深めていく。
 現役を退いてから書き続けたジャーナリズム批評で、メディア界から注目された。遺著は、業界向けの会報に寄せた180本以上の原稿をまとめた。繰り返される誤報のふがいなさに、厳しい指摘を重ねた文脈には、凜(りん)とした哲学が貫かれている。
 子どものころ、実家の八百屋が倒産し、家財道具を差し押さえられた。その記憶は消えず、進んだ記者への道。権力監視の役割と併せ、真実をただす洞察力を常に磨こうとした。昨秋に訪れた北朝鮮でも、20分ほどの「散歩」で見たから揚げ屋の女性たちの表情まで、細かく記録に残した。ときに油絵の筆を手に風景画を描いたのは、観察眼を研ぎ澄ますためだったのか。
 急逝する8日前、上智時代の教え子が開いた喜寿の祝いの席での講演が、「最終講義」となった。「いまのジャーナリズムの現場は事なかれ主義。おとなしい記事を書いているだけが、いい仕事と思われつつある」。しばらく授業をしていないと照れながら、変わらぬ批評を投げかけた。(伊藤裕香子)

 【写真説明】
おっとりした語り口ながら、メディア界への提言は頑固なまでに厳しかった。その原点となったベトナムで=1968年3月、遺族提供


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