「地方」、「現場」、そして当事者―地方紙とフクシマ 花田達朗   HOME 
 

日本の現場
  
- 地方紙で読む2012















    2010年10月01日 旬報社 
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 3.11と責任

 2011年は特別な年となった。1945年以降の戦後史で最大のエポックとなるかもしれない。いや、そうならないかもしれない。それはまだ見通せないし、決着はまだついていないと言うべきだろう。3.11の経験から日本社会がどのような帰結を引き出すかは、一年以上が過ぎた今でもなお人々のこれからのひとつひとつの選択と行為にかかっている。

 3.11は三陸沖のマグニチュード9.0の大地震、大津波、東京電力福島第一原子力発電所のメルトダウンと爆発、放射能汚染の4つから成り立っているが、そこから生じた災禍の中身はそのどれをとっても過去における、そして進行中の現在のその時その時における人間の認識、判断、行為によって規定されている。その意味でこれらすべての災禍は、自然災害を引き金にして起こった人災である。人災というのは、人間の側に不足や欠陥や失敗があったということだ。それを仕方なかったことだと諦めるのか、あるいはその原因がどこにあったのかを追跡して責任を問うのか、そのどちらを採るのか。それをこの国の文化や伝統の問題だと見なしてしまうと、前者へと譲歩することになるだろう。後者へと立ち向かうことはエネルギーを要することだが、これはデモクラシーの問題だと捉えることで持ち堪えなければならないのではないか。

 大津波は広範な地域で多数の人々の命を奪い、人々の生活と生業の基盤を破壊した。そこからの復興と再生は、政府組織や社会組織が有効かつ迅速に仕事をする能力があるかという問題はもちろん無視できないとしても、長期的にはそこで生きる人々の力にかかっている。しかし、原子力災害のほうはそうはいかない。国策で作られた施設の壊滅によって放射能に汚染された土地から政府の指示で退避した人々は、生活基盤を失い、将来にわたって放射線被害に脅かされ、先行きの展望も立てられず、途方に暮れるしかなかった。

 原子力災害発生後の政府の「場当たり的な」対応は、この国の人々に政府の発表する情報への不信を高め、政府の情報操作を疑わせ、政府の無能さに強い失望感を呼び起こした。同時に、人々は政府の発表や記者会見を無批判的に中継ぎするだけの伝達機関と化したマスメディアへも不信感を高め、ほかのどこかにあるはずの「正しい情報」「正確な情報」を求めてさまよい、探しまわった。統治機構もメディア機関も人々の信頼の対象だったとは言えない。



 露呈した権力構造

 しかし、事態が少し落ち着いてくると、メディアの内部の志ある人々が、「どうしてこういうことになったのか」という問いに向き合い、調査と解明に乗り出していった。かれらの仕事から私たちが知り得たことは、戦後日本の原子力政策(「平和利用」、「安全神話」、潜在的核保有能力)、原発立地政策(「電源三法」、交付金)、政治家・政党と高級官僚と電力会社の関係(政治献金、族議員、天下り、利権マネージメント)、電気事業法(地域独占、「総括原価方式」によりすべての費用を消費者へと転化できる仕組みと電力会社の利益の法定確保)、原発立地地方自治体と電力会社の関係(税収、寄付金、雇用、やらせメールで動員した公聴会)、原発施設の規制・管理の制度と仕組み(プレーヤーが審判も務める競技場)、規制基準の策定・運用と原子力科学者の関係(審議会、委員会、研究寄付金、「原子力村」)これらすべてが日本の権力関係の実態のひとつひとつであり、それらすべてが権力構造へと行き着くということである。原発の政治経済システムとそれを取り込んだ権力構造は電力消費者の支払う電気料金によって賄われてきたということ、その金がシステムと構造の中を血液のように循環してその仕組みが成立し生存してきたということがはっきりしてしまった。

 東電福島第一原発の爆発は、この権力関係が失敗をしたこと、ミスをしたことを意味する。それは権力にとっては不測の「事故」(アクシデント)であった。それは日本の既存の権力構造に甚大なダメージを与えることになった。そのダメージとは単に権力構造が毀損したことだけではない。むしろ、隠蔽されてきた権力構造があからさまな姿をさらけ出し、その手品のからくりと関係する人間たちの網の目が可視化され、その無能力かつ無責任な性能が人々の前に証明されてしまったことである。

 つまり、それが日本の権力構造の「中心」の実態なのである。中央集権体制、官僚制、疑似市場主義で固められたその「中央」は、政治的・社会的責任を担う責任主体の束で詰まった「中心」なのではなく、誰一人として責任をとらない、とらなくてもよい匿名性のプールなのである。このことが露出したこと自体、「事故」は「中央」にとっての敗北であった。しかし、問題は匿名集団がそれを敗北として承認し、そこから帰結を引き出すかどうかである。同時に、この悲しい現実がこの権力構造の存在を許してきたことの結果なのだということを権力構造の被害者が悟るかどうかである。妥当な帰結とはまずは一旦、この敗北した構造が無力化されることではないだろうか。

 それは人々の認識の力とその認識を具体化していく闘いにかかっている。権力が「事故」からの自己修復をはかり、露呈した部分を再び隠そうと懸命に努力している中で、人々の認識にエネルギーを与えるものが事実であり、ファクトにほかならない。それを誰が突き止めて、人々に供給するのか。ファクトを発見し、入手し、評価し、編集し、公表することを誰がするのか。それには、それをする人間の意志と「視点」が必要だ。その「視点」をもった者こそがジャーナリストと呼ばれる。

 では、「中央―地方」の強固なシステムの中で、地方紙は3.11以降、どのような「視点」で、どのような闘いをしてきたのか。そこにはどのような可能性があるのか。原発問題こそは日本の権力構造と「中央―地方」の階層システムを顕著に体現した問題であることが誰の目にもはっきりしてきた中で、地方紙は原発問題にどう取り組んでいるのかを見ていきたい。



 原発事故と当事者意識

 3.11以降に福島県で起こったこと、そこの住民=読者や産業・経済が被った現実が、「他人事ではなく」「我が事として」感じられるはずなのは少なくとも原発が立地する「地元」をかかえる地方紙ではなかろうか。どの新聞社であろうか。泊原発3基のある北海道新聞、東通原発1基と大間原発(建設中)のある東奥日報、女川原発3基のある河北新報、福島第一5〜6号機の2基(1〜4号機は廃止)、第二原発4基のある福島民報と福島民友、東海第二1基のある茨城新聞、柏崎刈羽原発7基のある新潟日報、浜岡原発3〜5号機の3基(1〜2号機は廃止)のある静岡新聞、志賀原発2基のある北國新聞、敦賀原発2基、美浜原発3基、大飯原発4基、高浜原発4基と「もんじゅ」のある福井新聞、島根原発2基のある山陰中央新報、伊方原発3基のある愛媛新聞、玄海原発4基のある佐賀新聞、川内原発2基のある南日本新聞である。2012年5月5日に泊原発3号機が定期検査のため停止されれば、現在全国にある商業用原発50基すべてが停止状態になる。これらの原発は地震や定期検査によって停止しているわけだが、再稼働に入るとすれば、最終的に地元自治体の同意が必要だ。その際、「地元紙」が原発問題にどのように向き合うかは地域の世論形成に大きく影響するだろう。注意すべきは、原発立地県だけが当事者となるわけではないということだ。放射能汚染は県の形に広がるわけではないし、福島での住民立ち入り禁止区域が原発から半径20キロだったことを考えれば、原発立地隣接県の地方紙にとっても他人事ではない。

 これらの地方紙は「中央―地方」の階層的な権力構造に対してどのような視点をもっているのであろうか。また、これらの地方紙は「中央」の作り出す権力構造の中に置かれている「地方」の権力に対して、どのような視点をもっているだろうか。さらに何よりも、かれらの新聞を購読している読者=地域住民に対して、どのような視点から何を提供しようとしているだろうか。新聞が読者のものだとするなら、各地方紙は読者からの信頼をどのような形で得ようとしているだろうか(注1)。

 本書に収録されているのは、上記の新聞のうち河北新報、福島民報、茨城新聞、静岡新
聞、福井新聞、佐賀新聞の記事である。福島民報は地元の県紙であり、河北新報は福島総局をもっているので、これも地元発である。ほかの地方紙では記者を福島に派遣して取材しているところも少なくない。



 福島の中のフクシマ

 福島民報の連載「3.11からの福島/原発大難―放射能との戦い」、連載「原発崩壊/フクシマからの報告」は一読に値する。福島県以外に住む、日本全国の人々にとってこそ一読に値する。福島の人々に何が起こっているのか。それは福島の当事者の問題のみならず、全国の、とりわけ原発立地地域の潜在的当事者の問題である。そして、「地元紙」は当事者としてフクシマにどう向き合っているのか。二つの連載は徹底して具体的現場の当事者に寄り添って記事を書く態度で貫かれている。避難指示をめぐる政府の対応に翻弄される原発立地自治体の長の誰、避難指示の出し方に「全く一貫性がない」と政府の対応に不信感を強める村長の誰、「政府の指示は唐突で遅く、市町村には責任を課すだけだ」と批判する

 市長公室長の誰、学校の年間20ミリシーベルトの安全基準への疑念と政府への不信、「いったい安全なのか、危険なのか」と途方に暮れる母親の誰、「国の対応をいつまでも待っていられない」と校庭の表土除去をいち早く決めた郡山市長の誰、工場が相馬にあることで注文がこなくなる中、原発事故を起こした東京電力への怒り、工場が原発近くにある現実、そこにむなしさを募らせる社長の誰、といったように、実名の誰かに具体的に寄り添う。そこにあるのは、戸惑いと不信感と怒りとむなしさの中で途方に暮れる「現場」の当事者の姿である。そして、記者もまたそこで当事者と一緒になって途方に暮れている。それ以上でも以下でもない。「中央」を批判する記者の意見は出されない。しかし、当事者の不条理な姿を具体的に描けば描くほど、本来その事態を制御すべき責任にある「中央」の無能と無策ぶりが炙り出されるのだ。この国は何と機能の低い、質の悪い、無責任な政府=統治機構をもっているのか、と思わずにはいられない。



 フクシマから「地方」へ

 静岡新聞は「未曾有の原発事故に直面した今、未来に向けて浜岡原発の選択があらためて問われている。それは国や中電だけに任せず、われわれ一人一人が責めを負うべき選択でもある」という姿勢を明らかにして、連載を開始している。福井新聞は地元県における「電源三法交付金」や電力会社の寄付金などの「原発マネー」への依存構造を明らかにしている。佐賀新聞は連載「原子力防災の行方」で、福島原発事故後に住民立ち入り禁止区域が20キロに、屋内退避指示の区域が30キロにと国の防災指針の規定した範囲を大きく越えた現実を前にして、EPZ(防災対策重点実施区域)の20キロへの拡大の議論とその実施の影響について追っている。その際の視点は、「原子力防災はこれまで国が独占してきたが、これからは地方も口を出す」「立地県として“国任せ”から脱却し、独自の知見で見直せるところから主体的に手を付けなければ、県民の『安全・安心』はない」である。

 同紙のもうひとつの連載「再検証 玄海原子力発電所―原発と暮らすということ 『玄海町』」は当事者の町の葛藤を掘り下げている。ここでも原発による雇用機会と原発マネーを不可欠とするようになった町の現実がテーマで、住民は実名ではなく匿名で登場する。自営業の男性(52)は山口県上関町の町長選挙で原発推進派の現職が当選したことについて言う。「当選は当然。原発はそれだけのものを持ってきてくれる。貧しい町に住んだ人間じゃないとわからない」。この言葉は諦めなのか、事実確認なのか、居直りなのか。しかし、「貧しい町」の財政は豊かになったとしても人々の生活は豊かになったのか、「貧しさ」から救われたと言えるのか。別のものに隷属することになったのではないか。福島を訪れた玄海町の住職(48)は事故でふるさとを追われた住民のことを思い出して言う。「危険と引き換えに受け取る原発マネーは、原発から抜け出せない新たな構造を作り出す。次の世代のためにも、原発を受け入れた私たち大人が、それに気づくべきではないでしょうか」。記者の意見が出されるわけではない。人に語らせ、その発言を引用し、提示することによって、「視点」を提供しているのである。



 「地方」からフクシマへ

 以上は、「当事者に寄り添う」という原則にそったものだ。ただ、それは受動的な寄り添いと言えないだろうか。少し別のアプローチを見ることができる。中国新聞と熊本日日新聞の取り組みである。ともに原発のない県の新聞であるが、ともにフクシマと向き合った。中国新聞はヒロシマの当事者としてフクシマへ、熊本日日新聞はミナマタの当事者としてフクシマへ向き合った。ともに長年にわたってそれぞれの「地元」の問題と格闘し、それを普遍的な問題にまで高める努力をしてきた新聞だ。その経験と蓄積を踏まえて、記者を福島に派遣し、フクシマを捉えた連載を掲載している。そこには明確な「視点」を見て取ることができる。

 中国新聞の連載はまさに「フクシマとヒロシマ」と名付けられており、被爆と被曝の連続性/非連続性をテーマ化している。核兵器廃絶を世界に向けて訴えてきた被爆者団体が原子力=核の「平和利用」については意見を表明してこなかった過去が、今、3.11のあと、変わりつつある状況を捉えている。被爆証言活動をしてきて、3.11のあとにもニューヨークの高校で生徒に語った田中稔子(72)の言葉を引用している。「原発の問題から目を背けたままの証言活動ならば、もはや世界で説得力を持たないのではないか」。

 熊本日日新聞の連載も「水俣から福島へ」と銘打っている。「原発事故で放出される放射
能と水俣病の原因物質の有機水銀。健康被害への表れ方は異なるが、共通点の一つは微量であっても子どもや胎児が大人より影響を受けやすいことだ」。共通点となってはならないのは、水俣における「行政が初動で被害の全容を把握しようとしなかったために、被害者救済に半世紀を費やしている」という経験だ。ミナマタと同じことを繰り返してはならないとフクシマへ警鐘を鳴らしている。



 「地方」と「地方」の直結 

 地域の名前が漢字からカタカナに転換するとき、その土地に起こった出来事をそこの人々が背負いつつ、その体験が経験へと昇華され、普遍性を孕んだ問題構制となったということを表現している。敵陣に入った将棋の駒が裏返されて赤いカタカナに成るように、カタカナに転換することで問題の所在を名指しているのだ。ヒロシマもナガサキもミナマタも、そしてオキナワもそのような認識と言葉の歴史を歩んできた。そこにフクシマが加わろうとしている。カタカナに変身することを権力は好まない。「中央」はそれを決して受け入れたくない。土地の名前が意味転換することで、状況に対する批判的視点の存在を告げられ、権力批判の潜在的力(ポテンシャル)に脅かされるからである。

 「中央」が恐れることは、情報と認識の流れ、その生産と流通を「中央」が管理できなくなることである。その管理こそが「中央」の権力の源泉だからだ。それは国民から徴収した税金の管理と分配におけるのと変わらない。何事も「中央」に集めて、「中央」の意志と決定を経由して地方に配分する。したがって、何よりも恐れるのは、「中央」を経由しないで、地方と地方が直接につながることである。それはフラットな構造が生まれることを意味する。地方紙が「当事者性」を拠り所にして、お互いの情報と認識を直接に交換し始めたら、「中央」にとっては悪夢である。逆に、「中央―地方」の階層システムを組み替えていく上では、それは重要な第一歩である。原発事故から生まれたフクシマは、その一歩を踏み出させるのに十分な理由と力を持っていたし、上記の地方紙はそれを受け止めたと言える。

 ところで、ひとつ疑問も記しておきたい。震災後、海外メディアには「日本人」の我慢強さ、秩序維持、助け合いという「美風」を強調する報道が見られ、それをニュースとして報道した日本の新聞も見受けられた。それは苦難の中で「日本人」を気持ちよくさせたかもしれない。しかし、実際には被災地では避難住宅や工場での窃盗の被害が甚大で、自警団が組まれるほどだ。福島県から他県へと避難した子どもの中にはいじめられて福島へ戻った子どももいた。どこに「日本人の美風」があるのだろうか。むしろ日本の新聞が自分の国の問題としてもっと取り上げるべきなのは、この権力構造の被害者であり当事者である人々の抵抗と抗議の動きではないか。それは見ようとしなければ、見えない。聞こうとしなければ、聞こえない。人々はこの災禍の中で受け身であるだけではないはずだ。匿名の権力にものが言えるのは実名の当事者だ。その当事者を捜さなければならない。



 ジャーナリズムにとって「現場」とは何か

 ジャーナリズムのミッション(使命)とは「公権力の監視」と「弱者への寄り添い」だと言われる。ジャーナリズムはビジネスではないとも言われる。これらはスローガンや標語でしかなく、問題はその血肉化であり、その具体的な実践であり、その中身と作用と結果だ。

 二つのミッションは連動している。公権力(国家=政府・議会・裁判所)は強い。その強さが正しく使われればよいが、誤った使われ方をすることが多いことは歴史と現実が教えるところだ。だから誰かが監視しなければならない。誤った使われ方をしたときに被害を被るのは社会の中の「弱者」だ。「弱者」とは権力構造・社会構造の中で権力と資源を持たないが故に弱い立場に置かれている人々のことだ。だから誰かが「弱者」の側に立ってその声に耳を傾け、証人となり、その声を社会一般と国家へ伝えなければならない。

 両方のミッションの「現場」とはどこか。第一では公権力の行使過程の現場にあり、第二では生活者の生きる現場にある。「寄り添う」とはその生活の現場で当事者に寄り添うということだ。当事者の言葉をその現場で聞き、その言葉の背後にある歴史的・社会的文脈とともに理解することだ。優れた地方紙の記者はその視点と方法を身につけている。理論化され言語化されているのではなく、思想化され身体化されているのである。それは技(わざ)と芸(げい)の世界だと言ってもよい。職人芸という古い言葉が思い出される。ドイツ語で言えば、Kunst(クンスト)である。これには芸術という意味がある。

 その技は現場での人間的な葛藤の中から生み出される。「地方」こそは、その現場の宝庫である。ここで、「地方」という言葉を再考しておくべきだろう。日本の「中央―地方」という序列概念から「地方」という言葉を解放する必要がある。英語のローカルとは、中央に対する地方とか、都会に対する田舎とかいう意味はない。その場所の、その土地の、現地の、地元の、という意味である。この理解からすれば、「地方」とは社会的営みと生活の現場ということであり、「地方紙」とは「現場の新聞」ということである。

 したがって、地方紙とは田舎の新聞ではなく、新聞の中の新聞であり、単に新聞なのである。地方紙の記者とは、同様に単に記者であり、社会の現場の当事者に寄り添う「典型的な」な記者なのだ。その点で、むしろ問われるのは日本の「全国紙」であり、「中央紙」である。これは新聞という存在からすれば、ある意味不思議な存在だと言わなければならない。かれらにとっての現場とはどこにあるのか。公権力の行使過程の現場か、生活者の生きる現場か。「公権力の監視」と「弱者への寄り添い」において優れた仕事はむしろ例外 に属する。しかも、それはメインストリームではなく、周辺ストリームから生み出されている(注2)。

 公正を期して言えば、地方紙が単なる新聞として二つのミッションを十分に果たしているかと言えば、首を縦に振ることはできない。当事者への寄り添いにおいて「強み」を発揮するとしても、それが受動的な寄り添いに留まっており、能動的な寄り添いへと次元を上げなければならないのではないか。それは中国新聞や熊本日日新聞の連載に見られるように、寄り添いだけでなく、そこを通じて読者に「視点」を提供することである。と同時に、どうして当事者がそのような事態や境遇になったのか、あるのかを非当事者の立場から解明する「視点」も必要だろう。さらに、地元の権力構造(もちろん中央権力とつながっている地元権力)への監視機能をもっと果たす必要がある。それは地方紙のむしろ「弱み」だった。それを克服した優れた仕事はここでも例外に属する。(注3



 現場主義が日本システムの構造を組み替える

 今私はこれをベルリンで書いている。ベルリンはドイツ連邦共和国の首都である。そこには連邦議会と連邦政府が置かれている。連邦憲法裁判所は遠いライン河畔のカールスルーエにある。ベルリンには東京のような「中央」という意識がまったくない。この共和国は16のLandから構成されているが、このLandは通常「州」と訳されるので誤解を生むかもしれない。「州」というよりも独立した国家なのだ。それらの小さな国家が集まって、連邦を組んでいる。だから、それぞれの小さな国家(「州」)が中心なのであって、首都が中心なのではない。ここには連邦議会と連邦政府の機能があるだけなのだ。さまざまの営みと決定の「現場」は「州」の方にある。

 ベルリンという都市はそのうちの一つの小さな「州」に過ぎない。ドイツでは中心が一つではなく分散化されているのであり、どこでもが中心なのである。その構造の中で議論と選挙が積み上げられて、首都ベルリンの連邦議会と連邦政府にまで上がってくる。では、機動性がないかと言えば、そうではない。福島第一原発の爆発後、連邦政府首相メルケルが短期間のうちに既定方針を転換して、脱原発へと舵を切ったのを思い起こせば足りる。それは統治機構の機能の高さの問題だけではなく、原発の政治経済システムが日本ほど権力構造に深く埋め込まれていなかったことを物語っている。同時に、世論形成過程と政策決定過程が日本ほど乖離していないことも示している。新聞はそのような世論形成に少なからず影響力をもっているが、首都ベルリンで政治的意識のある人々が読むのは、地元紙のほかに、フランクフルター・アルゲマイネ新聞(本社フランクフルト)や南ドイツ新聞(本社ミュンヘン)である。それでもそれらを「全国紙」と呼ぶことはない。

 日本は確かに連邦制国家でもないし、共和国でもない。きわめて中央集権化された国家
であり、立憲君主制国家である。そこで3.11は起こった。それをこの国家はマネージすることができたか。答えは明らかに否である。逆に、統治システムの欠陥をさらけ出し、カバーのかけられてきた権力構造を明るみに出した。それを見たくない人もいるだろう。それを曖昧にしておきたい人もいるだろう。しかし、それでは東日本大震災とそこから生じた犠牲と災禍と苦難から何も学んだことにはならない。

 犠牲者を悼み、生活と生業の復興および再建を進め、同じ苦難を将来再び招かないために、日本社会が変わらないといけないとするならば、日本の新聞も変わらなければならない。いや、一歩先に変わらなければならない。「中央―地方」の序列システムのなかで、能力と責任の主体が集中しているべきはずだった「中心」が無能力で、無責任であることが分かった以上、この構造の中を流れる意識と決定の方向を逆転させ、当事者、現場、地方にこそ主導権をもたせるべきであろう。それには、当事者に向き合う現場主義に立って、一般社会に新たな「視点」を提示する報道活動が行われることだ。その際、新聞そのものがそれを実践する主体であるという当事者意識をもつことこそ強調されるべきだろう。それが促進される中で、新聞人の意識構造も新聞の市場構造も変わらなければならない。この国の至る所に現場と読者をもって散らばっている新聞と新聞記者の力が問われている。








注1)河北新報社『河北新報のいちばん長い日―震災下の地元紙』文藝春秋、2011年からは、「新聞は読者のものだ」という考え方が全社に浸透している様子をリアルに読み取ることができる。地方紙(県紙、ブロック紙)よりも小さい「地域紙」の中にも「現場の新聞」として読者に向き合っている新聞がある。三陸河北新報社『ともに生きた 伝えた―地域紙『石巻かほく』の一年』早稲大学出版部、2012年。

 では、両紙は大震災後、実際にどのような紙面を作っていたのか。人々の体験と記憶を取材して記録として伝えた記事、それらをまとめた書籍二点が刊行されている。河北新報社編集局『再び、立ち上がる!―河北新報社、東日本大震災の記録』筑摩書房、2012年。三陸河北新報社「石巻かほく」編集局編『津波からの生還―東日本大震災・石巻地方100人の証言』旬報社、2012年。



注2)朝日新聞特別報道部『プロメテウスの罠―明かされなかった福島原発事故の真実』学研、2012年。依光隆明「プロメテウスの罠とは何か―異端の集団が紡ぐ新聞の実験」『Journalism』、2012年4月号、通巻263号、朝日新聞出版、16-23頁も参照のこと。

そこで、確信的で核心的な言葉は、「読者が知りたい情報を、読者のために書く。当たり前
のことだが、実際はそれほど単純でもない」というところにあるだろう。



注3)その例外とは、高知新聞による2000年3月からの高知県庁闇融資、および2003年7月からの高知県警裏金作りの調査報道、そして北海道新聞による2003年11月からの北海道警察裏金作りの調査報道などである。これらは地方紙が地方権力への監視機能を発揮し、ジャーナリズムの本分を果たした事例である。これは対象が遠い権力ではなく、目の前の地元権力であるだけに一層のこと、相当な覚悟と力量が要る調査報道だと言えよう。