浅野翔さん篇  2026年8月21日夜 浅野さんの自宅にて 作成:佐藤敏宏

(その02)

■国際芸術祭「あいち2025」について。

浅野:国際芸術祭「あいち2025」が始まった、翌々週がDEだったので、オープニングだけ済まして「大阪に行ってきます!」と5日間、家も空けました。どでかい会場は久しぶりでしたけど、大盛況でした。(会場:北加賀屋のクリエイティブセンター:名村造船所跡地)

佐藤:DEは広い会場もあり、大阪圏でデザインなどの情報も得られる所は少ないから、リアルな場でDEのようなイベントを開かないと、関西圏の若い人は足下の生な情報を得る機会は無くなってしまうよね。

浅野:そこに集まった学生たちはかってのDEの事を知らないし、大人たちの同窓会みたいな感じになるのは詰まらない・・・なんて話も出て。主催者サイドの僕らは同窓会のような部分もあるけれど、若い人たちが来てくれたり、原田さんの発案で中学生以下の子供は無料にした。子供たちもデザインに触れる機会を作りましょうと。そういう面ではオープンにしてました。

佐藤:岡田先生のDE評はDE開催前の古い関西系のデザイナーから、新しい若いデザイナーが知られる、新旧入れ替わりの機会を作って画期的だったと評価していました。でも岡田先生は京都から脱出してしまった(笑)。

浅野:逆に佐藤さんとか誰かが先生に会いに行っている投稿を見て岡田先生まだ元気なんだなと知る。

佐藤:6月2日に博多で会いました。博多と福岡の違いの町づくり、それからまた、あからさまな帝国主義の時代が始まったので、秀吉が朝鮮出兵のために築いた名護屋城などを観に行ったんです。テンション上がる場所に築いた城跡でした。あの城の材料は唐津城など築造にリサイクルしたという話も知りました。思うところあって岡田先生の聞き取りはしなかったんです。

浅野:それをしに行ってたと思った。

佐藤:機会を改めて聞き取ります。今回は古来からの国際都市である博多と福岡の地形を体験したかった。遣唐使などや外国からの使者がやってくる基地(鴻臚館最復元中)にもなっているし。瀬戸内とも、大阪とも、つながっている起点のような地形を観に行ったんです。

上町大地にあった大阪の難波宮(なにわのみや)跡と奈良の関係は見ていたけど、大陸からの入り口である博多の地形は体験してなかったので、行ったんです。足を伸ばして大宰府政庁跡にも体験しました。政治的な地形を見たかった。

岡田栄造先生に会わず戻っては寂しいので連絡して、時間を合わせ6月2日夕刻から屋台などで呑みながら近況を語り合いました。本格的な福岡逃避なのか?その裏話は次回、京都か福岡で聞き取ることにしました(笑)。

浅野さんの語りは大学で会ってから途切れている。博多漫遊していて、「活動しながら死んでいきなさい!」とmy長女に背中を押されんです。それもそうなので、中京圏は朝日新聞社勤めの友達が名古屋勤務のとき、彼のマンションに1週間泊まり町歩きしました。中部大学まで自転車で川沿いを登りました(笑)。それ以外に名古屋圏は体験してないんです。

浅野さんのその後を聞き取りすることから、後期ことば悦覧活動を始めることにしました。浅野さんのFBには有松の仕事に関係した投稿しているので少し見ていました。で、トヨタが牽引しているだろう名古屋市に来てみたくなったんです。それから辻さんと一緒に「あいち2025」芸術祭も参加されていましたし、いろいろ話はありそうなので浅野さんに聞き取らせてとメッセージしました。

浅野:あいち2025では僕はラーニング部門のコーディネーターでした。辻さんはキュレター。

佐藤:辻さんは記録集を送ってくれました。誰が作ったんですか。
浅野:編集は僕がやってました。印刷とデザインは阿部航太さんという人。土佐にいるグラフィックデザイナー、面白い人にお願いしてました。僕らラーニング部門と全体のサインのデザインもやっていました。愛トレの2016かな?そこにいたボスが「あいちトリエンナーレ」のグラフィック全般を請け負っていたんです。阿部さんは独立してから初めて自分の単独でデザイン、その仲間になりました。



『国際芸術祭「あいち2025」ラーニング ドキュメントブック』 2026年3月刊行




■愛トレと有松の町づくり そして 個人事業主

佐藤:愛知県は若い人たちに任せているんですね。
浅野:今回はそうでしたね。辻さんに話が行って、2022が有松も愛トレの会場だったんです。僕はその時はオフィシャルに関わっていなく、地元の展示会場はどこにする、そんな話をキュレターとか、色々な人が見て回るときに、地元のお爺ちゃんたちは、やれ文化財だ、やれ古民家だ、それしか言わないんです。

現代美術家の人達にしてみれば、そんな所に展示してもなー?そういう意識になるから、もっと場所はないんですか、という話になりました。お爺ちゃんたちから、4〜50代の人達に話が行き、その世代は仕事で忙しいから、そういうことには関わっている暇はない。そこで浅野はふらふらしとるから、あいつに行って話聞いて来い、と。そんな感じで回ってきたんです。

僕はその頃、有松で活動し始めて6年ぐらい経っていた。で、「いいすよ」みたいな感じで係わりました。例えば「ここの工場は半分使われていないよ」と情報を流し、中を見せてもらって。「ここだったら、こんな事できるな・・・」と、候補地を10ヶ所ぐらい回りました。


 絵:パンフレット 重要伝統的建造物保存地区・町並み保存地区 有松の町並みより


佐藤:浅野さんはすっかり有松町おこしのための外部への顔になってたんですね。

浅野:顔というか、その時は有松の町とアーテストの繋ぎ役ですかね。で、上手く空き工場の所有者の人達も僕のことを知ってくれているので、「来たな・・・」みたいな感じで案内できてたんです。
佐藤:町の人から嫌われていないってことですね。

浅野:ちょっとですけど、まあそうですね
佐藤:地元の人にも好かれて、外部の人も招き入れてもらえる、繋ぎ役になれる人になるのは難しいから、誰にでもできる仕事ではない。

浅野
:僕らが活動している町の長老たちからは50才以上の方が、地域の文嶺講(ぶんれいこう)があるです。そこの総代将をやっていた方でした。その代将の庇護の下に町の人たちには、「あの人が言っているから、浅野は変な奴じゃないだろう・・・。」と認められ。

佐藤:その文嶺講は何のための講組織ですか?講なのでお金をみなで平等に出し合う組織だと思うんだけど。

浅野:神社、有松天満社があります。藤原道真の天満宮系列です。その神社を管理している人達がいます。有松に1608年に出来ているのでもうちょっとで420年になります。
天満社と文嶺講があって、有松は直径1kmに入り、そこに町が三つあるんです。西町、中町、東町と言います。に京都じゃないけどそれぞれ山車があります。年に何回か神事と祭事があり、それを取りまとめるのが文嶺講です。

佐藤
:有松の伝統行事をとりおこなうために講を作って維持継承しつつ運営しているんだね。年間にお祭りは何回ですか

浅野:大きいお祭りは秋の秋季大祭です。この時は3台の山車が運航して、東から西まで曳いて、神様にお参りする。で、有松は絞りで有名な町で、伝統工芸があるから、糸へんなので火事が起きないように、秋葉山とか色んな神様と繋がっていて、それらを全部お参りして、商売繁盛とか家内安全とかを祈るお祭りしているんです。

 有松の旧東海道などを山車がねり歩く様子が分かる

佐藤:災いが降りかからないように、たくさん祀り、巡り歩くお祭りを実施していると、伝統が残っている町でいいじゃないですか。
浅野:糸へんの町だから、昔大火事が起きてしまい、皆財産焼け焦げちゃったそうです。古い町ですけど漆喰づくりだったり、防火壁の卯建(うだつ)でいろいろ対策して頑張っているエリアなんです。その総代将は絞り関係のかたが多いです。地元の名士ですね。

佐藤:浅野さんは文嶺講の総代将さんとその仲間たち含め知り合いになり、浅野はいい奴だと歓迎されている。町のいろいろな所に入っていきやすくなってきたと。めでたい!

浅野:
そうです。で、有松で活動しているです。しかも、大学院を出て名古屋に戻ってきた時に、建築家の人達が有松でファッションと展示していて、それをやっているうちに次期社長、若たちですね。絞り屋さん、染色屋さん工場の若たちが、当時は30才ぐらいでした。「私はこれから職人としても腕を磨かなければいけないし、100年ぐらい続く工場なので、町の事もやらなければいけない。社長だから経営のこともやらなくちゃいけない。」それをやるのは大変じゃないですか。で、誰かいい人いないかな?と相談していたときに、たまたま、そのタイミングで僕が戻ってきたんです。浅野という変な奴がいると。一応京都工繊大のデザイン経営を学んでいる(微笑)。町づくりのこともやっているから、そんな人達がいるから会いますか?と声かけられました。
そこで、2014年かな。工場見に行きましょうとなり、工場のお手伝いとかを行いました、週に3回でした。その時からデザインリサーチャーという肩書の名の下にいきなりフリーランスに僕はなってしまいました。

佐藤:どこのサラリーマンにもならず、いきなり自営業の社長!になった、いいじゃないですか。
浅野:個人事業主です。週に3度そこに行きました。そうしていると染色工場や有松を取り巻く経済圏だったり、ネットワークが見えてきます。
こういう人達が作ったり、やってきたりするんだと。名だたる製品を生産しているチームの人達が有松に来ていたり、地元の組合員さんたちの関係だったり、地元のおばちゃんたちが体験しに来る。いろいろの皆さんに会って、有松はなるほどな〜と思いました。

そうこうしている内に、総代将の人もその工場に仕事をだしていたので、そこで初めて出会いまして、最初はどこのどいつか分からないけど・・・、デザインリサーチャーという怪しい肩書の奴がこの工場におるらしいぞ!デザイナーでさえ怪しいし、リサーチャーはもっと怪しい奴だと(笑)。

工場には面白い物が一杯あるんです。めちゃくちゃ凄いんです。100年も続いている物もあるし。社長がめちゃアーティスト気質の人で、いろいろ変な物を作って、変わったデザイナーとつながってもいたんです。だから、凄く面白いんです。このオモシロさが伝わって来てない。そう思ったから僕は最初工場を掃除しますと。そこらじゅに生地とか作りかけの物が一杯置いてある。それを掃除して整理して、これは何だと言えるようにしましょうと。
佐藤:賢い初期対応です!

浅野:で、その後にデザイナーが有松絞を発注しようと思っていても、難しくって絞りのことを分からないんですよ。だから絞りの工場に来てもらうことが凄い重要だから、工場に来てもらうように情報をだす。染色工場だけど、ここはコミュニケーションのための場所です。そういう整理をしてそこで会社案内を作り直したりしました。
見せたり話をするための段取りとかをやって、人が工場に入れるように、工場のここは手入れたほうがいいよね・・・とか。そういう事をやったのが1年目です。


■何がどう面白いのか言語化する仕事

佐藤:混乱している乱雑な場は掃除から始め整理して情報を発信し人を招く。賢い手順です。この会社内にはどのような品々があり、それを作り出す技術もある。それらがゴミのように渾然一体に乱れ紛れているから、整理したんだと。賢い。で整えてからデザイナーの人達を工場に招いたと。浅野さんが入り整理するまでは、工場の人たちは誰も考えていなかった。

浅野:皆さん作るのに精いっぱい働いているし。彼らからしてみれば作った物は当たり前の物だから、何がどう面白いのか、それを言語化しないんです。守秘義務もあるから、見せることも出来ない。いろいな実験した破片のような物が一杯あるんです。面白いこれは、と思って、これなんですかと聞いて、書いたりして会社案内作りました。

そうこうしている内に大学院時代の研究テーマが障害者就労支援施設だったんです。そこに物づくりの機械とか設備が入っていったときに働き方とか働く空間がどういうふうに変化していくのか、それを追っかけてました。

それは奈良県のたんぽぽの家という組織がありました。そこの人達が今度は原田さんとかと一緒にグットジョブプロジェクトをやりますと。福祉の人たちも同じように分からない面白い物から、よく分からなさ過ぎる物までいろいろ作りあるんです。

そういう創造的な試みをグットジョブと名付けて、それが全国各地にあるんだったら、全国各地の施設と伝統工芸をくっつけて、何かできなかなーと。 


その3へ続く



 有松自慢の一つ 山車にのる人形が 文字を書く 

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