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2025年9月の日記 ![]() ![]() ![]() ![]() |
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![]() 9月12日 ![]() ■画像処理したデータを子供たちの年譜に貼り付けて1970年代はこんな感じかな・・。明日から1980年代をまとめていきたい。2,3年かけて完成予定なので、無理せず気長に作成しよう。 ■FB投稿 子供たちの1970年代、並んだならんだ画像! 各自の画像を整理し並べた。よど号ハイジャック事件で社会人スタート、ニクソンショックに、二度のオイルショック、ロッキード事件などもあるが、1ドル360円が240円になり大騒ぎとなり、2025年のドル安誘導でも大騒ぎなのでまたかって感じだ。プラザ合意後1ドル85円もあったので、円安誘導したい、ドル安誘導したい日米相互の気分はわかる。 1970年代より貧しくなっている俺・・それも確認できた。食い物は今より危機感なかったよ!トイレットペーパー買いあさったおばさんはいたけど。今回は、米不足にはじまり、すでに穀物はすべて輸入にたよるしかなくなっているので、飢え死にしないようにしたものだが。戦争おっぱじめると「餓死するな」。経済活動に参加していないので、貧しくなったのは自業自得と言い換えるべきなのかな・・まあどっちでもいいや。世界を代表する穀倉地帯で戦争長引いているし、食い物の奪い合いもうじきはじまりそう。。 |
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![]() 9月12日 朝方雨 1日ぐずついた空模様 ■子供たちのweb版個人史作成しつづける。主に画像処理していた。 |
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![]() 9月11日 早朝まで雨だったが ![]() ■子供たちのweb版個人史をコツコツ作成している。my長男分小学校入学までなんとなく揃えた。知らないこと多し。ネガフィルムや紙焼き無くなって片方だけも多い。 ■FB投稿 それぞれの「自分史」1970年代の8割了かも。 隙間時間にこつこつ5人分の「自分史web版作成中」。1970年代は8割できたかも。 5人は奇跡的に家族になった。これはたいへんい不思議で奇跡の出会いで家族になった・・としかいいようがない。そこでいろいろ時々の意見の違い記憶の違いなどを解明しようと思い、5人分の自分史を勝手に作成しはじめた。 子たちは自身で「10歳までの自分史」を制作していた。なるほど、強くのこっている記憶はそういうことか、と今頃、理解する。 ●家族は分かり合えないのか、理解し合うための対話が不足しているのか、わかり合うための手法がないのか・・・生きていた時空は各自異なるので、分かり合えないのは当たり前だな、と。それぞれを家族という共感の生まれる場や時空を再確認してみよう。など隙間時間を活用中。 ●家族のことも理解しないで他人は理解できないもしかすると、他者は一生理解し合えない、という前提が肝心のようだ。スマフォ社会はさらに孤独化は進んでいる。精神疾患者、おおくなってるようなきがするが違っているならいいけれど・・。 ●アートの面白い点は作家が自身を無意識、あるいは意識し探求しているように見え、それが直接制作品となり他者と共有しやすくなるてんだから面白くてしょうがない。制作作品を介して作者の個人史が透けてみえる、と愛さずにはいられない。 |
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![]() 9月10日 ![]() ■my次男の年譜作成するためweb頁用の画像整理をする1日。 ■FB投稿 〆「デザイン・イースト 2025」は9月19〜21日始まる。 開催場所:大阪市住之江区北加賀屋4-1-55。 バブル経済の破綻、阪神淡路大震災、加えて東京一極集中が加速し2000年に入ると、「大阪に暮らす知り合いたちは、一気に元気がなくなった・・・ように感じた。」洋書店を営み若者を励まし続ける、自主勉協会を開いていた友達の大島哲三さんが亡くなったことの影響も大きかった。大島さんの弟子ともいえたデザイナーの柳原照弘さんは見込みがあったので、我が家に呼んでレクチャーしていただいたり、翌年は彼の尻を叩きに大阪にでかけた。そのときは柳原さんに紹介していただき大阪若者の言葉を聞き取り記録を公開した(大阪ことば悦覧)。柳原さんが推薦した若者たちの事務所を一緒に回った。柳原さんのハートに火が付いたようで、気に入った仲間とともに「デザイン・イースト00」派手に開催した大盛会だった。「古い体質の古参たちは一掃され、大阪のデザイン界は一気に若返りってしまった!、革命的だった。」と九大に移った岡田栄造先生は後に語っている。 ■9年ぶりに」第10回のデザインイーストが開催されお仕舞・・。」のようだ。(数年前に柳原さんに催促にいったら彼はそう語っていた。やはり元気な大阪若者は消えてしまうのだろうか?(柳原、家成さんなどにつづく後継者を知らないのは俺だけなのかもしれないが・・」スマフォ画面を捨てよ、リアルの場で出会いはじめよ) |
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![]() 9月9日 ![]() ■今日も一日画像データ整理をする。 ■ FB投稿 俺が高等学校で建築についての講演をしたことがある この絵は2001年・進学校の「福島高等学校」で講演した時のもの。新聞に掲載されていたので、4校だったかわすれたが呼ばれた。ギャラは高いのだ。教え子の話を聞くなんて、まっぴらごめんだと言い合っていたのだろう、母校の母校である福島工業高等学校からは声がかからなかった。福島高校の先生には住宅設計をたのまれた、。(数年後完成したが雑誌に発表していない) ●見てすぐわかったので、「この中には建築家になれる人はいない」と〆た。後日とある大学で講演に呼ばれたとき、あの時の講演を聞いていた若者が「俺は絶対あんたより有名な建築家になってみせる!」と吐き捨てるように抗議しに来た、若者その勢いよし!だが、元気だけで建築家と呼ばれる者にはなれないのを知らないのだった。彼はその後雑誌にも登場しない、たんなる人になったのかもしれない、県内では歴史ある地域の若者だったので幸せに暮らしていてほしい。 ●終活はじめる。デジカメデータの整理。 2000年以降デジカメに切り替わり、面白がって撮りすぎている。で、デジカメデータをばっさばっさ捨てまくる。「デジカメが使われだしてパートナーの裸などを撮る人が激増した」、とデジタル・デザイナー(専門家)は語っていた。今もそうなのかZ世代にも聞いてみよう。都心で春画展が開かれると大勢の御婦人方が来館するとも聞いた。春画はデジカメエロ画像より美しい。抽象化が巧みだし日本の近世期の世界一位の芸術絵画だから当然だろう。歌麿のような腕をもつ現代作家がいても春画には踏み込まないような気がする。デジカメのグロさを求める者が多すぎて、商売にはならないかも。 ●my写真データ量多すぎて外付け1TBのHDDからあふれた。原因を見つけた。211年東日本大震災で撮影した動画のデータ量が膨大で・・・ユーチューブにアップしてるんだけど、元データを捨てるのなんだな。後の人には無意味なデータでも終活データ処理はじめると思うようは進まない。原発事故も起きたし、歴史上の大事件があった年だから当然だろう ● 取材源の秘匿について教えられた殺害事件 取材源を秘匿できない者は取材する記者になる資格はない。 地下鉄サリン事件に遇った被害者への聞き取り記録、村上春樹著『アンダーグランド』を日々数頁、ふたたび読み続けている。坂本弁護士一家殺害事件も教団の仕業だったけど、教壇に取材源をもらしてしまった人がいて痛ましいい事件が起きてしまった、ので記憶から消えない。遺体発見から30年のニュースあり。 |
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![]() 9月8日 ![]() ■データ整理をし続けて1日おわる。まだまだ整理ついてないけど、大枠は見えてきたような気がする。フォルダ名の付け方がまずい、頭の悪さを痛感している。 ■FB投稿 雑誌社の記者から取材されていた。いよいよ記事公開かも。 サンチャイルド像に関してはすっかり忘れてしまった人々も市民も多いだろう。数年前から時々取材を受けていた。福島市長選挙が年末あるので記事にするとのこと。現市長にとっては黒歴史なので「さわらんといて」。なのだろうけど、記者は書くようだ。福島原発事故の端緒は佐藤知事が(白黒家族写真)原発誘致をしたことに始まる。それもよもっと前に大竹知事が奥只見電源開発に成功したことに源がある。実際誘致ゴーゴーは贈収賄で捕まって知事の座を降りた木村知事だ。サンチャイルド像は原発事故と直接関係はないのだけれど、どさくさに紛れて大総騒動になった。だれがどこまで知っていて、市の財産・サンチャイルド像を福島市民は今後どうするのか問われてもいる市長選挙になれば面白い。旧県庁舎は多額の資金援助を電力各社からえて建設された、現役の庁舎だってことも知ってほしい。電力県ふくしまは、次にどうなるのか、描けているわけではない、混迷沈没過程にみえる。 |
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![]() 9月7日 ![]() 朝から25年前の記録にリンクを張っていたけどチェックしたりwebアップして公開した。午後はのんびりすごした。渡辺豊和さんのお別れ会に参加して、一区切りついてほっとした。 ここから渡辺さんはどのように記憶継承されていくのか?人々の記憶から消えさってしまうのか、観察続けていくことにする。 ![]() ■FB投稿 25年間塩漬しちゃっていたが初公開。 2000年、渡辺豊和さんと「建築あそび」講演録。 渡辺豊和さんのお別れ会に際しmy記録を作成していた。次男の菊眞さんから「あの記録読んでましたよ!」とメッセージが入って、「なんかな?そうだ16頁中4頁しか公開してなかった!講演録があった。」ときづいた。俺が先に亡く なっていたら永遠に塩漬けとなっただろう、2000年11月25日我が家で呑みながら講演していただいた記録。 このような場は大好きだいつもの三倍スライド持参したよ、と語りだして6時間ほどの自作の解説。渡辺さんが酔ったので俺が代役、入れ替わり6時間ほどの講義というかワイワイ。その後のみ駄弁り合う(その分は無い)充実の12時間だった。 ようやく読者への配慮無の全頁公開しました。ザビ付いた画像がいい味だ(当時はサーバー容量10MBの制限あったので4頁だけ公開した)菊眞さんの挨拶、建築の垂直へ無限追及という建築家の思いと実践が明確にわかる。さらに都市計画、首都機能移転が話題になっていたとき共に公報活動した「新都白河についても http://fullchin.jp/00big/tw/twp01/twp1.htm 建築家の垂直への意思 広大な都市計画へ。テック主本主義に蝕まれていない建築家の姿は明解で人をうつだろう。リーマンショック以降、後期主本主義の世では役立たずとも言うだろう。 安藤さんが挨拶に立ち 生涯、渡辺さんは「あんたの建物はおもしろない!」と言い続けた。・・・そのことで渡辺さんには生きる力をいただいたような気がする・・・と参加たちに伝えていた。「安藤さんの建築おもろない」と本人に言っていたのは磯崎さんと渡辺さんだけだっただろう。他は俺がしらないだけか 佐藤が渡辺さんに会い泊まりに行ったのは1991年で自作の家も、たの建築もほぼ作り終えて、そろそろ建築設計とおさらばしようとしていた時期だったから、渡辺さんの影響はほとんど受けていないゼネコン設計部員あがりの、野良犬なので。渡辺さんの巨大公共建築が出来上がるのを腹を抱えて見てた観客だったかもしれない。渡辺さんはゼネコンの使い方が巧みだった。つまりゼネコンたらしの建築家とでもいうんだろうか、施工業者は魅せられちゃうわけです。あんたは巧いと思った。所員の方々は全く理解してなかった、その点も面白い方だった。ゼネコンの魅せ方なんて所員におしえないよな |
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![]() 9月6日 ![]() ■朝から画像整理をしつづけた。だいぶ見通しがついてきた気がする。 ■FB投稿 1997年開館の青森県三沢市にある寺山修司記念館。発掘 鴨飛んで フェンス一重の 国境 寺山修司記念館に行った日は初冬だった。その時に詠んだmy俳句。2000頃だったかな行った。青森には世界最強の米空軍基地がある、フェンス一枚の向こうは米国で、日本人は許可なく立ち入ることはできない。野鳥はすいすい無断侵入!米兵の家族が遊んでいるのが見える。三沢米軍基地を、見学に行った人は少ないような気がする。皮肉なことに、悪意さえ感じた・・・寺山修司記念館は六ケ所村と米軍基地(三沢空港)にサンドイッチされている。■今日は一日中画像整理していた、整理がヘタクソで25年もたっているのでわけわからんかったが、だいぶ見通しがついた。その時発掘したのは寺山修司記念館の絵 山 |
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![]() 9月5日 午前中やや強い雨 午後雨あがる ■わが家での渡辺豊和さんと建築あそびの講演記録、16頁すべてに目を通す。おもしろくって懐かしい。渡辺さんの楽しみ方がいい。こんなに喜ばれるとは思っていなかったので、会場も盛り上がった。 ■渡辺菊眞さんからお別れ会の体験記読んだと連絡がある。忙しいなか申し訳ない。 ■午後、福島市内の雑誌社から電話あった、サンチャイルド像の記事を書くとか・・どんな切り口になるのだろうか・・。一点だけ守っていただければ俺の名を書いてもよいと伝えた。 ■FB投稿 25年間、塩漬け記録の見直し済んだ。 酔っぱらって解説し合っている内容で面白いったらないよ。なんで塩漬けにしちゃったのか、思い出せない。2000年の「建築あそび」の講師は渡辺さん、植田実さん、山中新太郎さん八重樫直人さんの4人だった。 渡辺さん最後の公共建築。北海道の上湧別町の「資料館のポスター欲しいんですが・・・」と町に連絡したらポスターを郵送してくれた。で25年前サインをお願いした。酔っぱらった渡辺さん大胆にかかず、もっと太いマジックにすべきだった。サイン会はたぶん初めてだったんじゃないかな・・だから希な一品です。(俺しか持てないだろう)渡辺さんの晩年建築の外観はどうも、「いいかげんにせよ、問題だ」と俺が渡辺さんにさんざん言い放っていっているだが、一転、内部は天井20m平屋で高い天井から光の取り入れ方が巧みで、北方民族の魂を揺さぶるような幻影・幽玄を通り越して崇高な気持ちを抱かせるレベルに到達している。(体験してないので、想像しているだった)21世紀に踏み込む前年、近代の合理性などへの喝破という渡辺さんの建築的態度は興味深いし、大胆孤独の道の到達点に至っていて面白い。コルビュジェ越えたというのが口癖だった。アアルトとコルビュジェ建築を合体した初期計画案には至ってない。この建築の外観をアアルト建築が包んだいたら、世界で唯一の建築として評価されて賑わっただろう。 |
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![]() 9月4日 ![]() ■渡辺豊和さんのお別れ会体験録を読み直しして公開した。FBに投稿し、関係者の教えたほうがいいのか、それは分からない。後々、読まれ渡辺豊和さんとは何かを語り合う機会ができれば嬉しいのだが。 ■午後町にでて用事をする。遊びにいくような場所もないので戻る。30年前ならたまり場あったのだが今は何もなくなって、通過するだけの町になったんじゃないかな。散策してないので、わからないだけかな。 ■戻って、25年間塩漬けにしていた、渡辺豊和さんによるわが家での講演録を見直して、いる。今日は龍神村民体育館について間違いを最小限修正した。涼しいひだったので、昼寝は気持ちよくできる。コオロギが盛んに鳴いてるので夜になると秋。日中は猛暑に迫るような気温がこのごろ多い。 ■FB投稿 2025年8月23日開かれた渡辺豊和さんのお別れ会。 体験記をまとめweb頁をつくった。葬式やお別れ会に参加すると亡くなった人との在りし日の体験が起きてとめどない思い出が湧くものだ。だから感情のまま、当日の事と思い出話を併記した体裁にした。(誤字などまちがいおおい情報量も多いような気がしますのでご注意ください) http://fullchin.jp/etu25/20250823w0/ts/Twatanabe-0t.html 投稿絵は宮城県白石市にある渡辺さん最後の作品「現代イワクラ」の内部と外部を撮り公開した動画の扉絵です。豊和さん推しの13建築は11体験していて、島根の加茂町ホールと北海道の湧別の建築2つは未体験だ。一度観に行ってみたいと思うようになった。加茂町より北海道の建築がいいように感じるが、二つ体験してみないと決められない。渡辺さんに興味のあるかたは、兵庫県西脇市にある古窯陶芸館を体験することが肝心です。 |
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![]() 9月3日 午前中強い雨、午後 ![]() ■1日中、お別れ会体験記をしあげていた。 ■FB投稿 渡辺豊和さんのお別れ会体験記 読み直しすすむ 23日以降渡辺豊和さん三昧のていだ。なぜたか分からないが日本の敗戦期を通過した渡辺豊和さんと寺山修司さんの著書は感じ入り共感する点が多いのだ。 原因は解明できていない。強いていえば抑圧された者の文学・言葉のような気がする。渡辺さんは母親から愛され、寺山修司は母に捨てられても愛憎は互いに共有し合っていた。 お互い体制への、衆生への「反抗魂」は貫かれている、この点が共通する気がする。北東北三県こそ東北魂の故郷だ。現在はあの魂があるのか、ないのか知らない。 |
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![]() ![]() ■食材買い出しと銀行に行く、その他は半地下に籠りお別れ会の体験記をかいていた。記憶が薄れているので、書きすすめると思い出し資料を引っ張り出しては考えては書いている。大筋は出来た気がする。 ■FB投稿 わが家で開いた建築あそび古記録を公開し始める。 http://fullchin.jp/00big/tw/twp05/twp5.htm 2000年から25年間も!塩漬けしたまま忘れていた。この絵は渡辺さん最後の住宅建築で『神殿住居地球庵』となづけられている。甲陽園駅そばの崖の上に建っている。こういう建築が作られる関西パワーは歓迎してしまうよ、東京にも福島にもない不思議な人々のパワーが投影されている。 2000年11月25日に我が家で開いた「建築あそび」で講師は渡辺豊和さん。その公演記録4頁までは公開していたが、続編は10web頁ほどあり未公開のまま25年が経った。お別れ会の記録をつくっていて、フト思い出して再読した。佐藤にはどの頁も面白いすぎた。で少しずつ公開していく予定。 画像はサーバーに制限がかかり粗いのだが、はっきり理解させないような絵ばかりで、それが時間の経過をともなって幻想のような雰囲気がうかびあがっている気分だ。(忘れる能力に感謝しする、再発見の気分を味わえる) |
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![]() 9月1日 ![]() ■午前中は花田達朗先生のweb頁訂正と 渡辺菊眞さんによるお別れ会での挨拶web頁を修正する。 修正の過程で2000年わが家で開いた渡辺豊和さんとの建築あそびの記録を掘り出し、リンクを張る。菊眞さんに好評とのこと。 ■FB投稿 渡辺豊和さんのお別れ会 渡辺菊眞さんの挨拶全文公開。 記録は佐藤が作成し菊眞さんに目を通していていただき修正した内容を公開しています。タイトルにお別れ会の「会」が表示されませんが、なぜか佐藤にはわかりません。●2000年11月25日、我が家で開いた渡辺豊和さんと「建築あそび」12時間の語り、その一部を2000年に公開していますので参考にと思い紹介しリンクを張ってます。で、人間・渡辺豊和さんを本当に知りたい方は目を通してください。全14頁記録はできていますが4頁の公開のみで、続きの公開を忘れていました。今年中には全14頁公開するよう努力してみようと思います(お待ちください) |
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