鮪立計画(2011/08/25〜28) 齋藤善之先生 講義録(文字起こし・文責:佐藤敏宏Home

 2011/08/25    

      「大規模イエ経営体・鈴木家の由緒と三陸地域社会

 (その01) 由緒  (その02 )居間の額をよむ  千石船  まとめ
              (その03)大規模イエ経営体 質疑応答 


    「鈴木君碑銘」 居間の額から15代勘右衛門(1819〜1893)一代の記録

 @君諱重寛 称勘右衛門、陸前本吉唐桑村人、生曰古舘、系出葛西家臣某、益?巨族也

「鈴木訓碑銘」というのとがタイトルなんですけども。丸の1番の処はまず概説で鈴木訓のいみなはしげひろ 称は勘右衛門 陸前本吉唐桑村の人であると。姓は鈴木という。また字名は古舘とも言う。

けいしゅつ、葛西家の臣それなにがしと書いてあるのは、これはちょっと他に無い情報で。祖先は葛西家の家臣でもあったということなんですね葛西っていうのは伊達家がこの地域を支配する以前に中世の後半から末期にかけて、宮城県から岩手県南部を支配していた豪族葛西家はやがて、伊達家の家臣の中に包摂されていく。伊達家に打ち負かされて滅ぼされたり、取り込まれたりしてくわけなんですけれども。中世ではこの地域の名族であります。

元々は源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼした後、奥州覇者だった藤原氏がいなくなって、支配者いなくなるんで。頼朝は関東の武士達を各地に送り込んで、「お前ここの領地やる」って分け与えるんですね。そのとき大量の人達がこの地域に入って来ます。この地域に今でも千葉さんとかって、多かったりするのは、みんなそのときに入ってきた千葉、から入ってきた人達なんですが。葛西もそうなんですね。

葛西はデエズニーランドが在る当たり。葛西という地名であるの知ってますか?江戸湾に面した東京都と千葉の境目当たりの一帯が葛西なんですけど。 あの地域を治めていた武士が、頼朝に「北上川流域の広い地域はお前にやるから」って言われて入って来て、支配者になる。向こうの地域は向こうの地域で、たぶんお兄さんが治めると「弟がお前こっちいってやれ」というような感じで。本家・分家ないしは本・分店みたいな感じでですね。この地域に入って来るんです。もちろん入って来て土着して東北の住民として戦国時代を生き抜いていくことになるんですが。その葛西の家臣であるということですね。これは可能性としては大いにあります。

 

A 曽祖諱常知、祖諱某、総称兵衛、養千葉周治、諱重廣、配其女以為嗣君、其長子也

でその後にまる2のところではお父さんのことについてもちょっと書いてあります。


B 少自負膽気、挙動不拘常度往従、干父怒、一旦幡然、自改、毅然振興家計之志

丸3が、この15代勘右衛門さんの少年時代に 短気を自負していうんで。かなり勝ち気っていうんですか。たん気っていうのは肝太いというか、かなり根性が座っているっていうんですかね。当初は挙動が じょうどおうじゅうに かかわらず って言うんで。ちょっと常識を突破ずれて収まらなかった。織田信長の若い頃みたいな感じ。で、父が怒ちゃうんですね。父の怒りに遭うんですが、それで目ざめて、一旦判然自らあたらむ、って言うんで。 父の怒りに接して態度を改めたと。そしてそれ以降は家計の志っていうんで、家の生業にがぜん志を立てて


 C雅好商、、備船楫、積海産物、南自仙台、相馬、銚子、北至南部、北海萬里往復為貿易、其心祝山海処坦途祁寒暑雨、未嘗少沮喪

、まる4 特に商売を好んだっていうんですね。そして船楫(かじ)を備えて。これは船とか回船ですね、をつくって船を造って海産物を積んで南は仙台から相馬、銚子まで、航海をする。北は南部。南部は盛岡藩領で、要するに岩手県沿岸域全体を言います。それに北海道、当時は北海道とは言いませんけども、北海まで万里を往復し貿易すんですね。その心は山海のところをだんとつなす、というんで。山や海ですら平らな道としか思わないと。そして寒さ暑さもまったく、その決心をそそうせしめなかったっていうんですね。挫くことがなかった。


 D天保中自相馬、航釜石、会風雨、○(口偏に毎)冥飄、蕩将覆、榜人大懼 欲投貨物、君不可曰、吾之祚尽、則在陸、?死予其処、命何強倡俚(船偏に欠く)操杓汲蓬底潟之、未タ至旦、未タ至旦処、繁三錨失、 其二其一将、絶而未也、既而風歇・波穏乃獲免

まる5、天保年中っていうんですから、天保年間江戸時代の後半1840年代ですけれども。相馬から釜石に向けて航海をしていた時。おそらく米かなんかを積んでいたんじゃないかと思うですね。相馬領の米を積んで釜石方面にもって行こうと。風雨に遭いまして海がくつがえるほどの大波に遭い。ぼうじん 傍らの、つまりこの人も当然船長で船に乗ってたんでしょうけれども。船の乗組員達は大いに恐れて貨物を投げ捨てることを欲したというんですね。船をなんとか無事に活かせるために、嵐の中で、積荷を海に捨てて、そして船を少し軽くしてなんとか逃れようと、よく当時はやってたんだけど。

ところが君はそれを「不可」と言ったと。やってはならんと言って。このところはちょっと分からない部分もあるんですが。まあ頑張り通した結果ですね、そして船偏に欠けるっていう、後のところに、杓をあやつり想定すいかたを汲むっていうんで。水を汲み出したというんですね。そして錨を三つですね、海に投げ入れて、その二つまで失ったけれども一つがなんとか残っていた。そしてようやく風が静まり波が穏やかになって生き残ることが出来たと。命からがら助かったみたいな、そういう状況がここに記されています。


E而商業未盛也、唐桑之東端、曰先濱者、多金槍魚、乃設巨網漁之、称曰大網初漁業、干是者九人皆敗、人咸笑曰、?業献有古舘氏而已

商業は唐桑は商業いまだ盛んではなかったけれども、その崎浜はですね、非常にきんそうぎょう多くして、魚類が非常に豊富だった。そこで大きな網、漁網をですね設置して漁をした。その後、鈴木家はですね歴代この定置網を含めて様々な大きな漁業経営をしていきます。 ここらへんはから記録としては残って、載ってきます。そして大網の漁を始めたけれども、これまでそれをやって来た人は9人までが皆失敗していたと。人はそれを見て笑ったんだと。そんな漁業を大規模にやるなんて??ていうことでですね。古舘氏のみが、そんなことやっていうるんだと。やり始めてということで人々は笑ったんだけれども。


F君奮曰、予在第十人、若無效、豈献予之辱耶、乃百方経??、敗而君卜 少挫陽称有利指図、愈動事無細、大身銃口之卒獲漁利千金至、是為励精従事、爾来十有三季間、実有得而?失笑、於是家道曰興、資累巨萬、噫何其卓?、

まる7、君は奮い立って、じゃー俺がその10番目の人間になるぞ!ということですね。代10人になり。そしてまあ百方経とかですね、色々手だてをこうじだ結果ですね。漁獲千金を得る。大漁にあってですね、千金を得ることができ。爾来(じらい)十ゆう三年ですね。巨万の富を資を重ねたっていうんで。これによって巨万の富を獲得していったということです。


 君容貌偉、然言路疎率、善諧、而不虐、生平不好學、而穎悟過人、来姓醇撲、能事親丁憂衰毀、書禮待人、然諸商徳義

8番目 君の容貌ですけれども。これは意丈夫って言うんですから 偉い。それから言語とかですね色々と、人にはとても親切で、性格も温厚だったんだと。いうことです。


 H安政中大風洪水、君在里正、出金穀、以輔政於一方藩主伊達公賜物

さらに9番 安政年中これは江戸時代の終わりに近づいたんですが。ペリーが来た頃ですですけども。大風洪水が村を襲います。このとき君はですね、里正にあるっていうのは村長の役に在って、金穀を出して。自らの財産を投げ出してまして、そして村を救う。それによって伊達公から賜り物をいただく、ということですね


 I 於之明治三年崇歉、政府命君、任賑?事、則梢金七百円、相視各地、敦救貧、??境無一餓?者、君之居多、特賜禮服酒饌、六年皇城火、又献金、君干賜金杯、

10番 明治に入ります。明治に入ってからもですね。こんど新しい明治政府に対して700円っていう当時、今で言えば7億円ぐらいの金をですね出してですね。救貧ってあります貧しい者を救う。それから飢えた者を助けるようなことを色々やる。6年皇城火ってありますけども、明治6年に皇城ですから、江戸城、江戸で大火があったときに、また献金をして銀杯をいただくというようなことをやっています。


 J凡建学校、病院、広庁、輙、賛助之親威故、旧処??必有以済之故、鄰近待君、而挙火者数十人、咸歎曰、古舘勤倹約義、而利己人如斯、可謂真有徳者矣、蓋君始祖以来、廟祀菅公時雖、閲咸衰然、十世一心守之、不移其徳之所由積可知也

11番 学校を建てたり病院を作ったり、それから公的な機関、建物を造るっていうようなことを色々やられていると。近隣の者は君を頼む、みんな頼みにしていたと、いうことで、ありますが。  2行目のところにあるように古舘勤倹しゅを守るっていうことで、勤倹を守るということで、人には施しをしたり地域開発とか様々な事業を手がけるんだけども、自らは勤倹ですから。もう身を慎み贅沢は一切しないと。いうことですね。です。己のためではなく、人のために尽くす。と、いうことで、非常に徳のある人間だったと。


 K 17年7月18日病没、年76才、越数日葬、唐桑亀谷山地福寺堂域四方会葬者?3000人 余人、皆哀惜如喪至、剰云配熊谷氏男名禎次、承祀不墜家声、頃者立碑、先濱遣取、余文以掲先徳余、於外甥、少被鞠育恩義、不得辞、乃為之銘曰

12番 17年って書いてある、これ間違って27年なんですが。1月18日に亡くなられる。年は76だと。3000人が会葬に参加、地域の人が3000人もやって来てその死を悼んだというようなことですね。そう書いてあります。こうして最後は非常に豪傑で奮然として立つけれども、非常に性格は穏やかで大らかでもあったと、いうようなことを書いてあります。

このことがですねこの鈴木家の居間に掲げられてる額にありまして、これは15代目さん、左側の15代勘右衛門さん時代の記録ということになります。ここにあるように、海運業へ進出していると。さらに海運を梃子に漁業家への転身を図っていくっていうことです。この海運業、15代目さんがやっていたのが、だいたい江戸時代の後半から明治初年ぐらいの海運ということで、この時期は千石船って呼ばれる船ですね。で海運流通をやっていた時代です。で、そのイメージをですね少し御紹介しようと思いますので、画像の方を。


    千石船 


(回船の画像調整はじめる)

江戸時代後半の鈴木家が商売をやられていた時期の船。鈴木家も当然こういう船を所有されたはずです。ここ(鮪立湾)の沖合に千石船を浮かべてたこの船は商船でして、漁船ではありません。魚を捕るんじゃなくって貨物船として。ここで捕った魚を積み込んで。おそらく江戸とか銚子とか。ないしは逆に北海道とかに航海をして、荷物を運んで儲ける船です。

江戸時代後半の船。沢山当時記録がありますけれども。だいたい基本的にはこの弁才(べざい)と言いますが、別名「千石船」っていうのが通称ですけれども。

 機関は当然有りませんから風帆船ですから、胴体一杯荷物を積み込んで。だいたい船乗り10人から15〜6人程度で運行しておりました。完全な木造船です。ですから、大工が造ります。船大工です。ここら辺で少し建築とちょっと接近してくるんですけれども。江戸時代後半はですね木造船のの技術が最高度に達しておりまして、巨大な風帆船、和船が作られた時代であります。

こういう図解するとこういう、イメージになります。構造はこういうふうに。構造なんかも分かっています。

それをですね最近になって復元した船があります。これは青森県の陸奥漁船資料館が復元した陸奥丸。今日本海各地の港を航海した船です。

武藤:この前 金沢に来たんで乗ってきました (右絵:ネットより)

齋藤:そうです。 これ陸奥丸ですよね。だいたいちょうと千石級の船です。日本海を行き交った千石船を「北前船」って言いますけれども。船の上に乗るとこんな感じになります。これは錨です。舳先に乗るとこういう感じです。

これは新潟のですね「白山丸」という別な復元船で、佐渡の小木(おぎ)で作られた船です。収蔵庫も木造で立派に作られて、バブル期の最後の頃で。まだ金があったんで。こういうことが出来た時代でありました。この船も大変立派な船です。かなり大きい船で。柱起こしを昔は完全人力だけでやっていたはずですけども、今はクレーンで安直にやっちゃってますが。帆を立てまして。こういう復元船なんかも有るということで。

                  

それからこの近くではですね、気仙丸、大船渡湾に今もある船で。まさに気仙丸は地元の気仙大工が、10年ほど前に造ってた船です。ちょっとサイズが小さくって350石サイズの。千石船の中では小型のタイプを復元してますけれども。こういうイメージになります。

で古舘の鈴木家は江戸時代後半 こういう千石船を持って遠隔地交易にも乗り出していたっていうことです。






   まとめ


次にですね資料の方は4頁の方へ移っていきたいと思うのですが。今までのこところを簡単にまとめてみたんですけども。一番上の 4頁上のところです。

少なくても400年以上にわたりまして、連綿と続く大規模なイエ経営体であるということです。大規模っていうのは要するに、家なんですけども。 小家族である家族中心にしながらもですね、家の中に多数の使用人であるとかを包摂しています。さらにはですね、今は分かれてますが、下の方に港が在って漁民達が一杯暮らしてます。実はあの漁民をも大きく言えば包摂していて、漁民達は網子そして古舘は網主・網元というかたちで 理性的な大きな意味での家。大家族的な集団を形成していた。その繋がりっていうものをもって、海っていうのをもって考えるべきです。

鈴木家は武士から農民へ。農民もそのなかの上層、指導者、村役人でありますけれども。さらには家業としては海運業、水産業、醸造業。そして近代になってからはホテル経営。時代によって主たる生業を絡めながら、しかし400年連綿とこの地域に存在してるという、時代に合わせた業態をとることで。

山守)

ここで考えてみたいのが地域資源の開発というものに対して、この大規模なイエ経営体のもっていた意味合いということです。

 先ほどもちょって言いかけて、ここでもう一回確認したいんですが、実はですね、鈴木家は山守をやっていた。ということと。それから網元とか漁業生産をやっていたということは非常に重要な意味を持つっています。

ていうのは、要するに例えば塩を造るこれは海の仕事ですよね。製塩。ところがそれをやるためには薪を大量に燃して塩を造っていかなければいけないっていうようなことで言うと、山の生産物である薪をどれだけ獲得し、準備出来るかが塩の生産に密接に関わって来る。つまり海で仕事をするためには、山の管理生産というもをキチント掌握しなければいけないということ。

どうもですね、最近は海は海だけで 見ちゃう、山は山だけで見ちゃうという感じが強い。最近では畠山さんなどもね、ようやく「海は山の恋人、山は海の恋人」っていうことで両者の(会場 森は海の恋人)両者の繋がりを改めて指摘されてますけれども。すでに鈴木家は何代も前からですね山と海とを両方を統括しすることによって、海の開発も行う、山の開発も行っていると。こういう関係を持っていたっていうことです。

例えば漁場とか定置網ということを考えてみても、そこには大量の材木とかですね。そういうもので筏を組むとかですね。色んな山の生産物を使って海での生産を造っていくと、こういう関係にあるんだということになります。

海運業これは先ほど言ったように船一艘造るのに膨大な木材が要るわけなんですね。これ家数軒分。しかも上等な材料が要るっていうふうに言われまして。この材料はおそらく地域の良い材料だったんだろうということで。山から切り出した木でもって船大工が千石船などを建造し、それを使って、他地域と繋がっていくと。こういう地域資源をどう使っていくのかとこういう問題と深く関わっているということです。

(地域密着しながら他地域と交流する)

もうひとつは、この鈴木家を観ていると地域に密着しながらも地域だけに完結してないということなんですね。非常に他地域との大きな交流を一方で持っているそのことが地域開発を可能にさせる。この二つの両面っていうんですかね。これが非常に重要だと。

海運業とか遠洋漁業とか、地域だけではなくって地域から大きく飛び出しいって、他地域と深く繋がるということが、逆にこの地域に色々な冨をもたらしているし、地域の冨を他地域にもたらして、その両者の動きの中でこの地域の生業の循環が成り立っていくと。こういう関係ですね

そして大規模イエ経営体をもっていているんですけども。鈴木家自身が地域の核となってそういう個々のね、小さな家では持ち得ないような他地域の交流手段である船とかね。山の開発とか大規模な生産設備。そういうもを持ち得ることによって、大網とね。

そうすることによって、この地域全体の周辺住民を雇用し、それを束ねながら全員が生存していく、生活していく。そういう一つの生存態、生活共同体というものを鈴木家を核として作りだしていく というのが、この地域の中で鈴木家が持っていた大規模イエ経営体の意味ではなかろうかというふうに考えるということです。


次が3番に入りますちょっと理屈っぽくなりますけれども我慢してお付き合いください


 その03へ