本 『建築家と建築士─ 法と住宅をめぐる百年』 速水清孝著 東京大学出版会2011年8月28日 7800円+税 県立図書館LA525.9 H1─1 |
2023年5月 作成 佐藤敏宏 | |
目次 第一章 序論 1 はじめに 2 本書の構成 第二章 士法の議会、行政の士法 1戦前の建築士法案 上程に向けて 近代日本の設計者と住宅 日本建築士会の結成と戦前の建築士法制定運動 周辺分野・関連団体の反応 変質する法案 骨抜き法案へ 2議会と士師法案 議会と士師法案 建議案から法律案へ 3帝国議会で問われたこと 第56会議の議論 称号か業務か 4建築士法案と計理士法 意識された他の士師法 計理士法の抱えた問題 法律はなぜ変わらなかったのか 5行政が建築士法にたくしたもの 内務省の態度とその変化 建築行政協会 建築行政を取り巻く現実 『建築行政』に見る建築士法 6戦前の建築士法案と成立した建築士法 戦前の法案と成立した法 建築士の帝国議会、行政の建築士法 |
■ | 2021年建築学会賞記事へ 速水清孝略歴 1967年栃木県に生まれる 1990年千葉大学工学部建築工学科卒業 1992年同先行修士課程終了 郵政省大臣官房建築部等を経て 2003年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了 20007年東京大学大学院工学系研究科建築専攻博士課程修了 東京大学生産技術研究所研究員、建築設計事務所主宰を経て 現在 日本大学王学部准教授 博士(工学)、一級建築士 |
第三章 建築士法の制定と建築代理士 1建築代願人の誕生 建築代願人とは 日本建築士会の通達 規制の概要と申請の実態 2代書屋から建築技術者へ 試験に見る変化 代書屋から建築技術者へ 人数に見る消長 3建築代理士条例 規制から条例へ 条例共通化と建築代理士法の要望 4建築士法の制定と建築代理士 建築士法への請願 建築代理士条例への中央の態度 建築士の選考 建築士でなければ設計監理することができない範囲の決定 住宅と建築代理士 行政書士法の制定と土地家屋調査士法の改正 士法の昭和30年改正 5建築代理士から建築士へ 都市建築研究会の結成 建築士事務所の団体へ |
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第四章 内藤亮一と建築士法と住宅 1庶民住宅へ 内藤亮一とは誰か 『20世紀の形態の問題』 住宅問題との出会い 大阪と建築士法 大連市建築規制に依る主任技術者検定規則への注目 1級・2級、発案者は誰か 住宅問題の技術的解決策としての建築士法 2建築士法の制定 建築士制度の試み 内藤亮一の神奈川県 建築士法草案 建築士制度の試み 小宮賢一の青島 本格化する立案 炭鉱住宅課を経て指導課へ 諸外国の法規は? 基準法が先か、士法が先か 3建築行政指導からの転身 都市計画、そして住宅へ 建築指導課長からの転身 横浜、接収解除地の戦後復興 建築のプロデューサーとして 零点の土地改正策に抗する 4晩年 退官、そして技術士 行方しれずの自伝 |
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第5章 建設業法の主任技術者と建築士 1請負業取締規制の発生と技術者 「建築士を設計・工事監理者と見る誤」とは 請負い業取締り規制と技術者 2伊藤憲太郎と主任技術者と建築士 東京の廃止と、その他の廃止 戦前、行政が建築士の業務と考えたもの 主任技術者という発想の胚胎 建設業法の成立に見る主任技術者 曖昧なものへ |
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第6章 市浦健と建築家法 1抜本改正に向けて 建築士の活用を、事務所の法を、設計施工の分離を 専門分化にどう応えるか 2市浦健と建築家法 個人か組織か 新法案に至まで 日本建築家協会と市浦健 建築家法(市浦私案) 市浦私案の形成 建築生産計画家 市浦健 3 21世紀へ 昭和58年改正に向けて 昭和58年改正 制定から60年を超えて あとがき |
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参照文献 年表 33頁にわたる充実した年表 図表一覧 |
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絵 :このWEB頁より |
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■近隣住区 『現代建築─社会を映し出す建築の100年史』 山崎泰寛・本橋仁編著 2022年3月刊行 78頁より 都市化の弊害が顕在化した20世紀初頭には、田園都市運動やニュータウンの建設が盛んになり、広いオープンスペースと住宅地内の人間的なつながりをいかにして取り戻すかが問われていた。そのなかで、ラッセル・セージ財団の職員であったクラレンス・アーサー・ペリーが1924年に提唱した「近隣住区論」は、建築家たちの実践と社会運動とをつなぐ架け橋としての役割を果たした。 近隣住区論では、小学校が近隣社会の中心に据えられ、近隣住区から通過交通を締め出して内部交通と区別するおと、さらにショッピングセンターを交差点もまとめ、一定以上のオープンスペースや近隣公園を設置することが目指される。この計画は、都市化と工業化の波によって失われつつあった直接民主主義の再建という精神のもとに構想された。ペリーは住民間の接触を高め、コミュニティー意識を強化し、住民の行政参加を促すような、工夫を凝らしたのであった。 とはいえ批判もある。リチャード・デューイは、異質のものが絶えず葛藤する現代社会において、村落コミュニティーのような近隣住区を復活させるのが望ましいことかと疑問を呈し、のちにジェーン・ジェイコブス自給自足の閉鎖的なコミュニティーを支持した。しかしながら近隣住区の考え方は、ニュージャージー州のラドバーン計画をはじめ、のち日本のニュータウン計画でも参照される強い影響力をもったのである。 |
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■市浦健(つよし)と千里ニュータウン 170頁 大阪府豊中市・千里ニュータウンの建設は、日本で初めての巨大住宅地開発であったといわれる。千里は「機能主義都市モデル」の先駆けとなり、住宅を他の用途から分離する単一用途ゾーニングが採用されるだけでなく、イギリスのマークTニュータウンの近隣住区システムが参照された。当時都市計画を専門とする民間コンサルタントはほとんどおらず、抜擢されたのは市浦健率いる市浦ハウジング&プランニングであった。市浦は戦前から住宅や別荘の設計を手がけ、住宅営団で研究部企画課長をつとめたのち、戦後には戦災復興院や鹿島建設などを転々とした。東京大学の同級生であった前川國男とは対照的に、学友の高山英華や西山卯三の影響を受けながら、公共住宅の工法や標準部品の開発など「建築生産の合理化」を追求したのであった。そして1952年に事務所を開設後、千里ニュータウン、多摩ニュータウンから幕張ベイタウンに至るまで、20以上のニュータウン開発に携わった。 ところで千里ニュータウンの対象地となった三島群山田村、豊能群新田村は、従来農民たちが米やタケノコや桃などの果実を栽培し生活を営んできた地域であり、そこに理想的な生活環境を造成しようとする大阪府の試みは、さまざまな抵抗を伴った。1958年からはじまった用地買収は「土地保全会」や「不買同盟」を結成する農民たちの組織的な抵抗にあって、1968年まで長引くことになった。最終的に農民たちが竹やりをもち、人糞や農薬を散布して測量隊を困らせる戦術までとられた。さらに入居が始まると、新しい住民たちは水道料値下げや保育所設置要求運動を起こした。ニュータウンの黎明期は、様々な住民運動と共に始まったといえる。 |
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