結核 に関する本 メモ 2021年 作成 佐藤敏宏
『結核の歴史』 青木正和著 講談社2003年2月5日刊行

目次
 第一章 理解しにくい病気
・いま結核につて論じる理由
・結核とはどういう病気か
・結核医学の歩み
・結核の起源

第二章 潜入、沈潜、蠢動(しゅんどう) 弥生から江戸
・人類最初の結核患者
・結核菌、日本列島へと渡る
・結核の蠢動 江戸時代の結核

第三章 爆発的蔓延 明治から昭和初期
・富国強兵と女工の結核
・結核の爆発的増加
・ロマンチックに美化された理由
結核菌の発見と予防策
・結核予防運動の隆盛 大正から昭和初期
・戦争と結核
・驚くべき発展をみせたわが国の結核病学

第四章 死病、そして沈静へ 敗戦から今日
・敗戦からの再出発
・結核予防の大改正 昭和20年代
・確立された近代対策 昭和30年代
・世界で最も速い患者数減少
・結核医療の発達を振り返る
・結核現象の鈍化 
・わが国の結核の現状
・わが国の結核の将来
・結核の根絶はいつ?

参考文献 
あとがき



青木正和 
1953年 東大医学部卒 インターン終了後
(財団法人)結核予防会結核研究所勤務 第二研究部長 副署長などをへて 
(財)結核予防会理事 2000年より会長
■いま結核について論じる理由
1953年(昭和28年)ようやく戦後の混乱から脱し、全国の保健所もおおむね整た。厚生省は日本人に何人の結核患者がいいるのか明らかにするために結核専門家を動員して、サンプルをとって5万人分の胸部レントゲン検査など必要な検査をした
 この結果全国の結核患者総数は実に292万人 津々浦々の老若男女の30人に一人が結核を発病していおり、その中でも78.4%は自分では病気に築いていなかったことが明らかになった

 結核予防法を再び改正 全国民に年一回の検査を義務とける強化に乗り出さざるをえなくなった

1958年第二回結核実態調査が行われ、減った結果がまたれたが、さらに増え全国で304万人と推測され 75%は結核にかかっていることを知らず、改善はまったくみられなかった 12

おおよそ50年後の2001年末には治療中の患者は36288人 1/84 になった29歳以下は1/200になった 結核は過去の病気と考えるのは当然のことだ

 現在は途上国の問題と考えるのも正しい 13(数字は頁を表す)
■毎年3万人の 35、489人患者が発生している (2019年結核死亡者2,088人 10マン人に対する罹患率は11.5% 2020年人口12、71万人→1万4千人)
・2001年 結核患者が多いのは高齢者 大都会の住所不定者 フリーター 外国人 抵抗力が弱っている人
日本は撮り合など旧ソ連の国々とともに、結核罹患率では最下位グループ 馴染みがおおい先進国の中では勘違いに結核が多い
■結核が結核菌感染によっておこる伝染病であると認識されたのは1882年(明治15年)ローベルト・コッホ(1843〜1910年)が結核菌を発見してからのこと

菌は発見されても全身にいろいろな臓器の結核があるし、経過も緩急様々で予後も数か月で死に至るものから自然治癒するmのまでいろいろなので一つの病気と理解するのは容易なことではなかった。17 全体像を正確に理解できたのは1920年代になってからのことである

古代ギリシャの医書にもではフチージズという病名でかなり正確に記載されている。英語ではコンサンプション と中国では肺労と呼ばれてきた(604年『病原候論に出て来る)』 日本ではエイド時代まで結核についての記述は見られない。
 フチージスは疲れ消耗・衰弱するという意味 肺労の労も疲れるという意味。肺結核を中心に「次第に消耗し、衰弱していく病気」と

 ツベルクローシスということばが欧米で広まる 1839年 結核結節ができる病気津ベルクローゼとよぶことを提唱した
日本では1857年緒方洪庵が結核肺労と訳し最初に用いた たね(核)を結ぶ病気 塊ができる病気 
明治初期には結核という言葉はかなり普及していたと考えられる19
結核 人型結核菌におって起こる伝染病 牛型アフリカ型もある 重症患者は1日に 205億個のけっかく菌を出している。咳の中のしぶきに「しぶき」 を押さえる 冷暖房で空気がかき回されるお遠いところまで飛ぶ
 ・現在はDNA分析にょって 菌の菌株を確定できる 結核は会話をするほとの距離で接触したときに感染する
結核菌は肺の奥の気管支壁に繊毛がはいていないところまで到達しないと感染しない インfルエンザや麻疹に比べると感性はずーっと起こりにくい。 菌を出している人と接触しても感染しないのはこのためである

結核は全身病 肺結核が85%と多いく他人にうつす 全身病である 脳にも、胸膜炎13% 脊髄カリエス0.8% 膀胱結核にもなる。蝶結核が大腸にうつると治りにくい下痢を起こし全身状態は急速に悪化する。肺結核から咽頭結核腸結核を併発して食べられなくなり高熱下痢が現れると1、2ケ月数か月で死んでいくのが普通である
 脊髄が結核で侵されると骨は脆弱になり圧し潰される。身体を動かせば下苦痛が走るので仰臥したままとなる。

感染しても発病するのは20%ぐらい 結核という病気は感染と発病を分けて考えなければならない 年齢 社会・経済状態によって違う 人それぞれがもっている免疫力が働いていて菌の増殖を抑えるからである 感染しても80%の人は発病しない  発病しないのは共存あるいはお互い無視し20年以上もじっと生き延びている 糖尿病などで免永輝が衰弱すると突然結核菌が増殖しはじめて発病することがある ← 高齢者の結核発病 結核菌はしぶとい菌である
・エイズと複合感染すると急速にしに至  
 薬がなかったのに自然治癒する患者も珍しくなかった 

■結核医学の歩み
 古くはローマ時代から 転地療養 安静治療  
・近代的な大気、栄養、安静療法が確立したのは19世紀後半のことである。
・サナトリウム療法が始められたのは明治9年(1878年) 安静を中心とする療養所治療は1960年まえ100年のあいだ広く行われた。サナトリウム療法には伝染を防ぐという意味でh大きな効果があったが治療にはどれだけ効果があったか疑問である。
■治療薬 
ストレプトマイシンはウクライナからアメリカに移民したワックスマンによって1944年発見された パスのかいはつによって死なずにすむことが多くなった  1955年ごろからヒトラジット ストレプトマイシン スパの三剤併用療法が完成した。重症の一部の患者をのぞき死ななくってすむようになった
画期的な治療薬 リファンピジンが広くつかえるようになって状況が一変した 6か月から8カ月の化学療法で多くの患者を確実に治すことができるようになった39
■BCG接種
 カルメットとゲラン 二人の細菌学者によって13年かけて(BACILLUS CALMETTE et GUERIN)
・2003年からワクチンもよくなり、接種技術もすすみ感染をうける危険も少なくなったので乳児期に1回接種すればよいことに 

■■第二章 潜入、沈潜、蠢動(しゅんどう) 弥生から江戸
 エジプト アダイマ遺跡 脊椎カリエスの女性の骨 紀元前6500〜5100年 エジプト 中東、ヨーロッパでは紀元前から結核があるていど広がっていたことはたしかだろう 59 
・古代ローマ期にはあったサナトリウム療法 63 医師ガレウスが 
■結核菌日本へ
 天然痘 紀元前202〜紀元後220年 西方から中国ももちこまれ、日本には735年に筑紫にない 
 梅毒は1510年に広東方面から海賊によって琉球に持ちこまれ、琉球を経て伝来 1〜2年の家に近畿巻頭に拡がったと推定されている

・結核菌はポルトガル人の種子島漂着した1543年以後のこと
 ■結核の起源 1980年 岩崎龍郎(1907年〜1997年)に日本結核の歴史を報告を求めて来た 立案者は休止したためシンポジュームは開かれなかった 西岡順二郎(19097年〜1991年)研究がある
・人目を引きにくい 政治社会の問題となりにくいので記録が残っていない

・天武天皇 についての岩崎論文 天武天皇は慢性の疾患にり患していた 軽快悪化を繰り返していた 精神の衰えなく死亡している 皇子も病弱で20歳で死亡している ことなどから結核の疑いありとしている

・鈴木隆雄の研究 故人の骨を2000体以上検索した 5体の脊髄カリエスと考えられる骨を確認 3体は古墳時代のもので千葉県小見川町城山古墳から出土した腰椎結核をみとめる壮年男性(6世紀)宮崎県旭台地下式横穴の熟年男性の胸腰椎結核 6世紀 大田区 50歳女性 6〜7世紀 
・鳥取青谷 5000体
をこえる大量の人骨 弥生代後期 縄文時代には一例も発見されていない 脊髄カリエスは弥生後期そして古墳時代から 
年間1000人以上の渡来人は稲作文化 などの進んだ大陸文化をもたらしただろう

・諸葛孔明 233年 結核であったと言われている 中国では5、6世紀にはかなり拡がっていたことはまちがいない72
・日本で結核死亡率がもっとも高かったのは1918年(大正7年)で10万人にたいして257.1人だった 73
 江戸時代の結核  結核が一つの病気として統一的に理解されあんは1916年 (大正5年)になってから
 ・元禄の頃は労咳の病を患う者いいく 若い女性の肺結核の症状が記載されている 87
 川柳にも詠まれるようになる 白拍子(遊女)で性的に不満を解消するなどの余裕のある家庭の子女が結核になることがおおかった 原因は遺伝 感染、性的不満 あるいは過多 心労の四つと考えるのが一般的だった90
・仕事をやりぬこうとする精神力 激痛ではなどとは違う、意識は明瞭。
 
富国強兵と女工の結核
1868年明治維新 1873年藩籍奉還 1871年廃藩置県 1873年徴兵制公布 1873年地租改正
・おして1872年10月富岡製糸場 フランスの技師を招いて開業 産業革命の第一歩 
・1880年から民間に払い下げら始めた 資本主義の経済育成が強力に進められた
 明治36年までの26年間での達成率 綿糸産業 391.7倍に 米麦の指数は1.5倍 または0.9にとどまった 農村はむしろ活力を失った この結果貧しい農村から産業革命の担い手として労働力 特に若い女性労働者が多く容易に得られることとなり その上にたってわが国の近代化、富国強兵が推進された 

・民営化によて悪化した労働条件
 士族の子女を中心に決してわるくない労働条件で働かせていたが、1880年の官業払いさげ以降 働く人の労働条件は急速に悪化していった 女工哀史の始まり 賃金は安く 見らない身分はほとんど賃金を渡さない 女工の70%が狭い寄宿舎に収容され12時間労働のため昼夜交代で働かされ、同じ布団を使う  女工の1%は12歳未満  7.5%は14歳未満 およ60%が20歳未満 労働に耐えられず、病気になって帰郷するものが少なくなかった。 1年以内に退職するもの40%を占めるほど  
・食事も満足に与えられず  朝菜汁 香香 昼そら豆 香香 夕焼き豆腐 香香 という献立が毎日づづいた (101

・体重は減り 消化器病 脚気 感冒で休むもの、受診するものがてえることがない 

どこの国でも結核は産業革命とともに爆発的に拡がった 農村の若い出稼ぎ女工を中心に工業化が薦められた
日本では都市部だけではなく 農村部も巻き込んで結核が蔓延した 103


■結核がほぼいまのかたちで報告されるようになったのは1999年(明治33年)からである 1883年から1918年の15年間で 10万人あたり80人から253.2人へと3倍以上に上昇した。国の近代化が進められ産業革命が進展すると30年の間に爆発的に拡がった さらに女性の結核死亡率が高かった どの国でもいつの時代でも男性の方の死亡率が高いのだが 
東京 大阪、京都などの大都市をのぞくと 石川、福井、滋賀、富山県などの出稼ぎ者を多く出した県で女性、とくに15〜19歳の女性の結核死亡率が高かったのである。 若い女性での結核での著しく高い結核死亡率の原因は産業革命の結果蔓延、「女工の結核」であったことは言うまでもない。108

明治末期に把握された 女工の結核の実態
 石原修(18885〜1947) 『衛生学上ヨリ見タル女工ノ現況』
 ・婦女および14歳未満の者の夜間労働禁止 など労働条件の改善要求を貴族院、衆議院の議員全員に送付した
・女工の結核問題 家族、同僚、経営者、故郷の人々にとっても重大問題だった
・男子工員の結核
・軍隊の結核 
・都市の結核問題も決して小さくはなかった 熟練工から若い人への感染

・軍隊での集団感染  徴兵制が結核を全国に広げた 112 集団感染という概念はなかった、打診でレントゲンもない 故郷に帰っても療養する施設がないので二次患者の発生もさけられず 

・都市の貧困層を中心に蔓延した 113
1902年の都道府県別結核死亡率
 東京は10万人に対して 337.5人 最も高い 秋田 76.2人がもっとも低い
 大阪 319.6 京都312.4 福井252.9 滋賀 242.8人 
・都会の貧困層の人々の生活の様相は 『日本の下層社会』横山源之助著 に詳しい
 同居家族は5〜6人FR6帖の一部屋で生活しているのが普通だった コレラ天然痘 赤痢などの急性伝染病の発生も続いた

結核の犠牲は小児  1903年 の結核死亡率を見ると0〜4歳の結核性髄膜炎死亡するは実に2538人にのぼっており 死亡率は10万対42.4という高い値であった  感染率8% 15歳までにおよそ70%が結核に感染し他人への感染源となる 罹患率は10万対440人と推測される 当時の人口は4600万人だったのD、全国には患者が約20万人いたことになる 115 

■夭折した才能群 
 斎藤緑雨 37歳 正岡子規 35歳 高山樗牛 31歳 国木田独歩37歳 樋口一葉 24歳 長塚節 36歳 青木茂20歳 石川啄木26歳 
 医学的いには充分明らかでないが 背の高い痩せた人の方が病巣ができやすい。 動脈圧が低くて結核に対する抵抗力が弱い事と関係しているようである  背が高くやせ型、121

 若い男女が家族、社会から突然切り離されて、将来に不安をもちながらいちまで続くか分らない孤独な療養生活を送る 消灯時間になると家族を想い、健康だった時の毎日を思い出して涙ぐむ患者を何人もみただろう(著者) 退院したあとの社会復帰 、再発不安をもちながら1日も早く退院できる日をねがってひたすら安静に励む毎日 


?ね・デュボス ジーン・デュボス著 『白い闘病 』結核はロマンのひとかけらもない 苦悩と悲惨をはぐぐんでいた 124
■わが国初の結核療養所  1889年(明治22年)須磨浦寮病院 鶴崎平三郎によって接立された 127 1万坪の敷地に病床46  入院費平均1月80円 非常に裕福な子女だけが入院できて 看護婦の給料3〜6円 
・1892年 明治25年には鎌倉病院も開設された

■早速とりよせられたツベルクリン 1891年3月わずか2グラム 回復する患者もあったが副作用もかなりつよかった 官立府立病院に限って使用許可 成績の報告をもとめた  

■1902年秋田(明治35年)北里柴三郎  もっとも苦心して闘わなければならなのは肺結核、レプラ、梅毒のみっつ。北里はこッホのもとでけんきゅうし 破傷風菌の培養に成功 ジフテリアの抗毒療法を開発 135
■ 1938年 昭和13年 結核死亡率は年間15万人をこえますます厳しくなる 
  厚生省 保険所、療養所などが整ってきたので 
 1939年(昭和14年 皇后陛下から結核予防と治療の施設資金」として50蔓延(2003年で2億2500万円)が下賜(かし)されいっそう結核予防に努力するように令旨(れいし)がくだされ 財団法人結核予防去会を設立し
・結核予防対策の調査研究 ・適正な予防の基準案提出 ・啓蒙と普及・ 結核予防の模範区域の設・定
・昭和14年小児結核保養所の設置
・同年 結核予防生活指導要綱の発表
・昭和15年国民体力管理制度の発足 (15歳以下の男子に毎年体力検査 とツベルクリン検査およびx戦検査も
・昭和17年結核対策要綱の閣議決定 
・昭和18年 死亡者数は増加をつづけ 奨健寮の建設  
昭和19年 全国保健所の運用開始 公立健康相談所 簡易保険健康相談所 小児結核予防所が統合
■BCG接種の有効確認
 1925年 大正14年 志賀潔がフランスからbcgを持ち帰って 動物実験が行われた
・bcgは動物に進行性病変をつくらず 人にも安全出結核ワクチンのなかでは最も優れたものであるが 結核免疫は本来絶対てきなもおんではなく、結核細菌による免疫より弱いので、BCGの効果には限界がある

本格研究は昭和13年から 1938年 全国から34名の委員に委任して研究が行われた
・1942年(昭和17年10月から国民学校終了後 就職する者を対象にしてBCG接種が始められた 以後次第に接種対象が広げられた。
   
結核と闘った天才達』昭和24年4月1日 泊林社発行 全221頁 
著者 村上忠雄
 目次 
・序
・再版序
・諸言
・結核の歴史
・結核と文学
・結核と運命
・結核と闘った天才達
・日本における闘病者の群
・支邦に於ける闘病者の群
・イギリス フランス イタリア アメリカ ロシア ポーランド オランダ
 デンマーク ハンガリー ベルギー すえっる ユーゴスラビヤ 
・主要文献  
福島県立図書館 493.8 U2
■序 昭和14年(1939年)12月1日 式場隆三郎

 病弱な天才が多いところから、天才というものは一種片輪者だという見方がある。身体的にも精神的にも片輪者ほど天才の素質に富んでいるというのだが、こうした見方は、今日では科学的には認められない。天才にもそういった偏った者があるというにすぎないのであって、不具や疾病から天才が生まれるのではない。
・・・・病患とか片輪とかが必ずしも天才の原因ではないことは言うまでもない
・・・天才 文学者など天才の人たちの体格を想像すると、いかにも虚弱な、無力型、俗にいえば細長型、やせ型というのが非常に多い、このような人は医学の方から言うと腺病質な、虚弱型ということになる。したがってそういう人は結核に冒されやすいのである
・・頭のいい人は無力型が多いが、そうかといって、結核に罹ったからといって必ずしも頭がよくなるものではない・・・・結核に冒されると身体的なことはあきらめねばならぬために、精神的な意気込みは一段と燃えさかることは事実である。身体的は段々蝕まれる、寿命がもういくばくもない、ということを自覚した場合、病者の頭は非常に鋭敏になり、生への執着にしろ、人生との闘いにしろ、悲壮なまでに熱中的になることによって、自分の仕事が輝かしく立派に成るということは事実である。しかしそのためにかえって自己の体を一層傷つけ、生命を犠牲にしてしまう結果におちいりやすい・・・・生命と仕事をとりかえっこしたということになる・・・結核に罹ったために、罹病前とその仕事の出来栄えが各段の差を示したということは明瞭に認められる。特に芸術家などにおいて、その表現が繊細になったり、感受性が鋭くなったり、身体の影響が、その人の作品に現れたり、仕事に現れたり、することは否定できない事実である

 石川啄木の歌

・・・ひたむきに病気に抵抗するために天才が自らの寿命を縮める場合が多い・・・しかし現代の進歩した医学および医療施設からいえば、そういう天才たちも決して仕事のために寿命を縮める危険を冒さなくっても、充分治療の傍ら才能を伸ばすことができるだけの設備と治療法の進歩をみたことは隔世の感が深

今なお結核に召されたようにに見える天才もたくさんあるが、しかし、その逆に充分治療されたり、救われている人たちの方がずっと数が多いのである。要するに結核は不治のものである、何をしても治らない、という絶望感が一番よくない。結核に限らなず治りにくい病気は無数にあるのだが、それに一々絶望を感じていたら、人生は実に食らいつまらないものになってしまう。・・・どんな病気に対してもけっして絶望せず、どこまでも、治療の方法の限りをつくしていきてゆかねばならぬ。結核は治りにくいからと言っても治療に絶望を抱かず無茶な仕事をやって、ますます身体をそこねるということはまことに愚かなことである。

 現代生活における結核患者の悲劇は、予防法が徹底していないというくらいでは済まないのである。すでに病気に罹っている人が、生活のためになお働き続けなければならないという事実こそ、一層大きな問題である。精魂尽きて病気に倒れてしまってからでは既に働く能力も失い果たしたあとのこととて、どうしても治療力が充分でない。罹患した初期の治療力の高いときに治療するならば、結核などはそれほど恐るべき病気でないと考えられるのである。


古今東西の天才をみても、結核に冒された人々は二十代三十代にたおれてしまったのが多い。そういう若い時に冒された結核は進行の速度も早いので、余ほど警戒しなければならない。ところが芸術家などは、その天分を発揮するのが二十代、あたりが一番おおいので、そのために仕事に熱中しすぎることのよって、病気の進行を否応なしに激しくするのである

結核はまだまだ人類を蝕みつづけていくことだろう。医学者は血みどろになって日夜これと闘っている。しかし、数多くの患者は一日も早くその感性の日の来るらんことを念じながら、病気と闘っている。その日の来るまでは、患者も医者も決して希望を失ってはならなぬ。患者は闘病と治療に専心し、仕事を持つ者は、それが身体の安静を害ねない程度で、静かにいそしむのがよい。

 この本は同病者たちをどんなに励まし、力づけ、希望を託すことであろう。
 ともによき生活をつくるよすがとせられんことをひたすら念じてやまない。
(立原道造 3月29日永眠 24歳8か月)
■再版 序  上村忠雄  昭和23年 11月 

■緒言 
結核は古代より王の病といて民族の敵であって、不治という言葉はその合言葉でさえあった。現在の治療法では明白に生へへの希望を輝かすにいたった。富士に変わる易治をもってする概念さえしょうじた。・・・ この病気に対する不当な恐怖心は現今なお病者の心底に存在し予防治療に多くの障碍を露呈していないであろうか。これを理解するには結核の歴史および文学の背景を明らかにしなくてはならぬ
 この病気は更に近世では詩人病としてとうじょうした、
結核の歴史 
 ドイツのハイデルベルヒで掘り出された石器時代の人骨 脊髄が定期的に破壊されていて、そのため脊髄が湾曲していた 結核菌の殺人的活動を一万年以上の間隔をおいて示している

ナイル川のダガー 初期王朝の 脊椎カリエス・・・集められて埋葬したのか?不規則な骨塊に固まっていた

西暦千年以上前の古代インド労症 または王病という言葉がみいだされている 肺労がいかに国民的煩悶の対象であったかが分る
結婚法中には「結婚の際妻を求めるには不健康なる家族、例えば肺労。消化不良、白癬けの系統のないものを選ぶべき」と述べている

肺労の古典的記述はヒポクラテス (西暦前60−377)でピポクラテス全書に記載されている。

肺労は一種の家族病で
 肺労 結核の旧称


26 日本では肺結核を労咳というのは・・
日本人の編纂した最古の医書は丹彼康頼(912−995)の医心方である

徳川の中世 香川修庵出 行余医言 

肺結核の伝染説を主張したのはイタリアのフラカストロ(81483−1533)
療養生活を書いた 久米正雄の月よりの使者 富士見高原療養所の様子をうつしている
トーマス・マンの大作 魔の山 マンは3週間夫人の肺尖かたるをみまった観察から出来た

 46 結核と運命
最近の大阪毎日新聞にみられた大雑把な統計に「我が国では毎年13万人の同胞を結核の犠牲とする。患者総数は130万人、50人に一人、10戸に一人結核患者を出している勘定となる・・人口1万人に対する死亡率が19.3%