本 
長崎出島ー蘇るオランダ商館』2008年6月5日初版 同成社

著者:山口美由紀 1969年長崎生まれ
長崎市文化観光部出島復元整備室学芸員
・古賀朋緒、奥由紀子、下田幹子、豊田亜貴子の5人の女性パワーで発掘調査
に取り組んだ 
2024年 作成 佐藤敏宏
目次

T国際交流の舞台出島

 1出島築造の背景 2世界史における位置づけ 3港町長崎 4出島の歴史的変遷

U蘇る出島
 1港湾の整備と失われた出島 2出島復元整備計画 3現在の整備状況 4これからの整備予定

V発掘調査と復元整備
 1出島の発掘調査経緯 2オランダ商館の建造物 3生活空間としての出島 4見えてきた商館の構造

W出島の輪郭と構造
 1西側護岸石垣の調査 2南側護岸石垣東側調査 3南側護岸石垣西側・中央部の調査 4護岸石垣の修復
 6調査結果と問題点

X世界を語る出土資料
 1土地利用と遺物の出土状況 2出島の貿易@輸出品 3出島の貿易A輸入品 4遺物が語るで出島の生活
 4出島から見える世界と長崎文化

Y出島をめぐる諸問題出島をめぐる
 1現存する膨大な資料 2長崎市中の発掘調査 3他都市のオランダ商館との比較 4問題点の現れた成果 5成果の還元

Z これからの整備と課題 
 1学びの場と観光 2ふたたび国際交流の舞台へ 2遺跡ネットワーク 
 
 参考文献 あとがき

生活空間としての出島
 便宜上生活遺構としてまとめる ・管理柵、管理棟、 鐘楼、用水池、水溜
、道路排水溝 庭園、菜園、飼育場など
 (一)生活用水と排水設備
 発掘調査によって絵図では描かれない詳細な構造が分かった
掘と管跡
 v字 U字をなし 管くだは孟宗竹であった可能性が考えられる
 絵図では江戸町から江戸町にかける水樋に竹管が用いたことが記されている
 出島では飲み水は市中から購入 炭酸水も持ち込んでいた
 生活全般に使用するための上水設備
水溜 
 竹管によって張り巡らされた 石桝に集められ汲み上げる4間×1間深さ1.1m
排水溝
 カピタン部屋東部(トイレ跡あり)から 中央通路端の側溝につながる
 便槽であった可能性が高い甕2基検出 乙名部屋(日本の役人)トイレ?
 カピタン部屋東外側列石 ハト小屋 鐘楼跡(数年で変更された)
 旗竿跡(高さ30m木造船マスとと同長さ)明治期に北側が削平された遺構無
道路
 時代的な変遷がある 寛政の大火ごの他か砂利による舗装蛇紋岩
 西側の道路は2間半だったが火災後3.5間に拡張された
道路の排水溝
 石製、丸瓦製 三角溝
庭園と菜園
 出土した牛の骨 植物残滓という認識 牛痘法の一例か
 動物の飼育小屋あり

     
 4遺物が語るで出島の生活
貿易の取引経過で残存と居住者が取捨選択し日常生活で消費したし品
日本人用の筆記用具、女性が使用する紅皿
出島に暮らす人びと
・オランダ商館員─毎年6月から7月に長崎に来航1799年
オランダ東インド会社が解散するまで雇用された社員、妻子を伴うことは許されず
男性のみ単身赴任  12〜15人ほど 船員は帆船のなかで寝泊り
バタビアからバタビアへ(10月から11月) 10数名の商館員が滞在
商館員と同数の身分の低い使用人がいたが実態不明
(日本人)
乙名などの役人、万人、通詞、出島町人が出島の詰め所に寝泊りしながら業務
商館員が必要とする品物を手配した仲買人、日雇い人夫、雇われ調理人
大工、出入りが許された女性、遊女も求めに応じ長期滞在した

(商館員の住まい)
大量の長崎の町やで使われていた同じ瓦と煉瓦が出土 
十字文字をあしらった瓦 煉瓦が長崎で造られ、はじまたのは1857年
長崎製鉄所の建造に際し製法をつたえた、各所から持ち込まれた煉瓦も
台湾、オランダ

(商館員の食事) 
日々の食事はジャガイモを中心とした簡単なもの、わずかに鶏肉、エビ
年に数回パーティーでは豪華な料理が食卓を飾る
調理法は文献に残されている、オランダ人と日本人料理人でつくる
17世紀末、自国の食器
18世紀中ごろ、肥前磁器や中国磁器、景徳鎮窯のを愛用
19世紀中ごろオランダのプリントウェアー たくさんのガラス製酒ボトル
フランスのマルゴー産のワイン、ジンのボトル、オランダ製ビール
ベネチアグラスなど 他のは壷や甕なども
(調理道具)
擂鉢17〜19世紀代のもの、瓶類ほとんど国産 
水、油、調味料の甕は唐津製
貝─カキ、アワビ、ホラガイ、アサリ、ハマグリ、カキの豊漁な漁場だった

(商館員の使った道具)
クレーパイプ、17世紀中ごろから木製のパイプ製造年代が確定できる
ボタン、歯ブラシ、現在の歯ブラシと同形で牛の骨
(日本人の残したもの)
硯、水滴、記録と帳簿、オランダ人は羽ペンとインクを使用
銅製の煙管火入れや灰落としなどの喫煙用具、陶器製の燈明具、

遊女の足跡)P138
遊女は唯一出島に出入りが許された女性たち 長崎丸山町、寄合町の遊女
商館長や商館員に請われて出島に趣きカピタン部屋に寝泊りすることもあった
商館長は商館員との間に子供も生まれていて
、数え7才まで出島に滞在することが許された


遊女が使用した遺物
簪、指輪、中国製ガラスでつくられたもの、紅皿、碗は波佐見焼、紅は大阪製
遊女と子供の遊びの道具、サイコロ、碁石、泥面子、ミニチュア土人形、土鈴、
(出島の動物)
牛、豚、見世物用動物、犬、猫、出島東側はどう物園のようだった
牛の骨が一番多く出土東アジアからオランダ船で運ばれたインド牛飼育小屋で
秋まで太らせたその後調理、水牛の骨もみつかる、豚山羊、羊、ウサギ、など
鶏、キジ、鴨、などの食用 インコやオウムなどの観賞用、様々な犬もいた
魚─真鯛、エイ、サメ、マグロと近海で釣れる魚

(生活遺物の特徴)
日常品でも多国籍、不自由な狭い島での暮らしを彩る様々な出会いと催し
趣味、嗜好があった

(出島から見える世界と長崎文化)

肥前磁器 伊万里、古伊万里、『長崎のオランダ商館─堺のなかの鎖国日本』
インドネシアやイスラムコ港へ
西欧の権力者が柿右衛門式の磁器を
様式銃

他都市にはみられない文物が集まりここから日本国内に広まった
「長崎ことはじ}
   
     
 3他都市のオランダ商館との比較 166p

国ごとにころなる商館がつくられた歴史的経緯 寄稿、商館員と現地人の関係
宗教、文化などの違い。住環境の相違 
特徴を浮き彫りにすることによってその国の権力構造と外国人に対する考え方
宗教観、当時の国内産物からうかがえる嗜好と国のありかたを見る
それらの中に凝縮された日本が見えてくる それが発掘調査の醍醐味でもある
平戸のオランダ商館跡 2008年は日蘭通商条約150周年
1642年台湾の商館、中国広州の外国人居留地 マカオ広州と長崎との比較

タイのアユタヤ1608年 ベトナム1636年トンキンに商館、ホイアン遺跡
インドネシアのジャカルタオランダ商館現存

オランダ本国には東インド会社関連都市(アムステルダム、ロッテルダム、
ホールン、エクハイゼン、ゼーラド、デルフト)関連施設が現存
VOCの本社が残り、アムステルダム大学として使われる、
博物館と復元されたアムステルダム号、ゾイデル海博物館として街並みまま保存