飯田本など 2019年 作成 佐藤敏宏

 県立図書館 (書庫)501.6  11
飯田哲也著『北欧のエネルギーデモクラシー
 2000年3月15日刊行(新評論)


 はじめに
第一章 「風力電車」が走る!
☆風力電車が走る風景 ☆電力市場改革前 ☆スウエーデンの電力市場の歴史 ☆新しい電力市場の登場 ☆激変する国内電力市場 ☆電力市場統合へ向かう北欧 ☆緑の電力市場の出現 ☆電力市場改革の方向

第二章 「化石燃料ゼロ」宣言をした町
 −スウェーデンのローカルアジェンダー
☆北欧のローカルアジェンダー  ☆全288コミュニティが取り組む地域主導のローカルアジェンダ ☆政府と環境NGOによる支援  ☆ベクショーのローカルアジェンダ21 ☆「化石燃料ゼロ」宣言 ☆未来に挑戦するコミュニティ ☆大学町ルンドのローカルアジェンダ21 ☆ストックフォルムの都市再生への挑戦 ☆地域が創造する持続可能な未来

第三章 脱原発に挑戦するスウェーデン
☆原発閉鎖合意 ☆スウェーデンの原子力事情 ☆スウェーデンの原子力政策の歴史 ☆原子力開発期(〜1970年初頭) ☆反原発首相の誕生と原発国民投票前夜(1972年〜1979年) ☆原発国民投票からチェルノブイリ原発事故へ(1980年から1986年) ☆チェルノブイリ原発事故の余波(1987年〜1991年) ☆グローバリゼーションの時代へ (1987年〜1991年) ☆脱原発への社会の応答 ☆1999年11月30日

第四章 スウェーデンのエネルギーの未来
☆1997年エネルギー政策 ☆「非か化石化」の進むエネルギーシステム ☆エネルギートリレンマー経済成長とエネルギー成長の分離 ☆ダム開発の終焉 ☆倍増したバイオマスエネルギー ☆環境税 ☆エネルギー政策決定の流れ ☆脱原発から持続可能は未来へ

第五章 原発を拒否したデンマークのデモクラシー
☆デンマークの戦後 ☆新しい環境保護運動(NOAH) ☆対抗文化の二極 ☆原子力論争の幕開け ☆原発モラトリアムの決定 ☆原発のないエネルギーシナリオ ☆原子力政策の放棄 ☆多様な運動の登場 ☆00Aの今、そして・・・

第六章 デンマークのエネルギーの未来像
☆バラトンホテル ☆デンマークの「環境知性」 ☆第二の代替エネルギーシナリオ ☆「エネルギー2000」の衝撃 ☆エネルギー2000からエネルギー21へ ☆省エネルギーとエネルギー税 ☆未来へ、デンマークの挑戦 ☆より少ない消費の「豊かさ」へ

第七章 風車を共有する人々
☆ハヴェン風力協同組合 ☆風力協同組合の歴史 ☆風力発電ルールの形成へ ☆ 風力発電と電力会社 ☆風力発電と送電系統の接続 ☆コペンハーゲンに風車がやってくる

第八章 自然エネルギー自給をめざす島々
  アイネルネットと欧州の再生可能エネルギー戦略
☆サムソ島への道のり ☆デンマーク・サムソ島の挑戦 ☆「自然エネルギーアイランド」構想の背景 ☆サムソ島・エネルギー環境事務所 ☆スウェーデンの辺境からバルト海の中心へ ☆ゴットランドに吹く未来の風 ☆自然エネルギー100パーセントの夢を担う人々 ☆欧州自然エネルギーアイランド「アイルネット」 ☆アイルネットを支援するEUのエネルギー政策 ☆地域ネットワークとエネルギー政策

終章 不安の時代を超えて
   エコロジカルな民主化
☆1999年9月30日・・・☆「不安」が要請する新たなデモクラシー ☆原発紛争からコンセンサス会議へ ☆「エコロジカルな民主化」に向けて ☆原子力ムラを越えて

あとがき 
参考文献
索引 
p19スエーデンエコララベルう電気 水力発電(ダム発電は1995年いぜんのもおんだけ、小規模のもののみ対象) バイオマス発電(焼却灰をそのまま資源地に還元すること) 風力、太陽光発電 (地熱発電はないみたい)



 表紙 アルベート・ニーヘッテル紙にけいさいされた写真。奥に過去の象徴としての「ベツセベツク原発」手前に未来を象徴する「風力発電」 下:ゴットランドの風車群

「エコロジカルな民主化」に向けて」より
・198年代から始まっている、エコロジカルな近代化と呼ばれる転換があった
・持続可能は発展という概念の登場とともにおおきな転換が始まった
・環境NGOは専門化と国際化がはじまった。環境保全と経済成長の関係をポジティブなものとして捉える考え方が台頭してきた。エコロジカルな近代化と呼んだ
p241
1)持続可能な発展という社会目標への合意 2)経済成長と環境のポジティブな関係 3)アンチではなくステークホルダー(政治的当事者)による建設的な対話 4)経済的手法、合理的思考の適用

・欧州では政治的対立としての原子力問題を1970年代にほぼ解消したことと、その後のエネルギー政策の分野で具体的、専門的な手段を必要としたことが大きな要因であろう
・エネルギー政策では需要側の管理や統合資源計画、あるいは再生可能エネルギーといったNGOが専門家、国際化し、ビジネス化できるフィールドがあった

p242
エコロジカルな近代からエコロジカルな民主化へ発展しつつある

・原子力ムラという閉鎖的な共同体が日本の原子力政策を支えしはいsちえ来たことで、日本はエコロジカルな近代化と民主化がおおきく立ち遅れてしまった
・原子力ムラで非民主性を実感してきた
■原子力ムラを出て三つの本職という道を選んだ
1)自立した個として歩もうと挑戦した (『現代日本文化論4−仕事の創造』内橋克人共編 岩波1997年 「三つの本職ー市民としての仕事を捉え直す」に書いた
原子力推進・反対の対立を超え、原子力ムラを超えて、誠実な、そして成熟した対話が日本でも始まることを期待したい

参考文献
 『沈黙の春』新潮社1964年
『新版 せいのための学校ーデンマークで生まれたフリースクール「「フォルケホイスコーレ」の世界』新評論1996年
『ソフト・エネルギーパスー永続的平和への道』時事通信社1979年
『成長の限界ーローマクラブ「人類の危機」レポート』1972年ダイヤモンド社
『現代日本文化論4−仕事の創造』内橋克人共編 岩波1997年 
『ナチュラルチャレンジ』新評論1998年
『今エネルギー環境問題を考える』ダイヤモンド社1992年
音文字化 飯田・元電中研員 
 ■自然エネルギー牽引役へなぜ展開したのか
■京大卒 神戸製鋼に勤め 乾式キャスクを福一に収める

 私の原子力村の経歴です。「原子力ムラ」今で言うところの意味の「原子力ムラ」(私が)名付け親です。
 色んなところに書き散らしたり、話しているんです。京都大学の原子力を学んで。大学入ってみると(原子力)やだなーと思って。(幼い頃は)単純な理科少年でした。大学に入ると色んな経緯があって、工学部って産業と近い所ですね。その空気が嫌で山登りか酒を呑んでいるかしか学生時代していないんです。
 就職する時も御三家と言われる所には行きたいくないなーと思って。電力会社には行きたくないなーと思って。原子力材料という金属系のことやっていたんでで、原子力から半分抜けれるんじゃないかと思って、最近悪名高い、神戸製鋼に、大柳のあと平尾の前ぐらいに。丁度入社をして
その考えが非常に甘くって、ああいう大きな会社ではほとんど原子力の事をやっていない、ど真ん中原子力の事をやらされて。しかも御三家だったら、色んな部署が一杯あって、設計だけの人だとか、解析だけの人、製造だけの人だとか、その中でもまた細分化されているんですけど。小さなところだから何でもやらされて、製品開発から、製造現場まで、それは結果として、大企業の中でも物がどう作られるかというところは良いところと悪いところ、両方、見えたというところがよかったんですけど

 ちなみに、神戸製鋼で同期はあの刺殺された村井君。加古川製鉄所で三直4交代で何度か一緒になった。それ以降は縁んが無かった。テレビみたら刺されていたと。

 神戸製鋼でやった仕事は使用済み燃料、核燃料を運んだり貯蔵したりする、100トン級の金属の塊、キャスクの設計とか、許認可とかをやっていたんです。
これも歴史の偶然というか、まったく個人的ななんですが、福島第一原発には日本原電の東海とならんで「試験的なキャスク」使用済み燃料貯蔵のキャスク、それは私がやった仕事なんです。
 あの当時4号炉プール、水で冷やしているプールが停電すると冷やせなくなるので凄く危うかった時があるんですが、この乾式キャスクは水の中におかず、空冷だし、深さ200mの海の中に落ちても、高い所から落ちても大丈夫という。津波を浴びてもそこは大丈夫だったキャスクです。というので個人的にも縁を感じた訳です。

電力中央研究所へ

 神戸製鋼の話に戻ると、いわゆる御三家ではないけれども、いわゆる日本の宴視力産業界に身を置いて、そこのある種の実態が分かって。そこから電力中央研究所という所に3年間出向というかたちで行って。電力中央研究所いうのがいかにも日本的な組織でですね。電力会社の売り上げの0.2%で運営されている、予算300億ぐらいの、日本最大の予算のシンクタンク。内容はともかく。

 それは寄付というかたちで運営されているので、電力会社からは中立だという建前です。だから国の、電力会社を規制するルールを規制側の委員に電力会社の人が電力中央研究所に入っている。
 実態は電力中央研究所の経営陣はみんな電力会社から(出て)来るということで、電力会社に奉仕するために研究をやっている。ぬゑのような二つの顔を持つ。要は電力会社のためのことはやっているだけど、規制が中立を装って、規制を変える側の役割というのに私はスポット入って。
 上司が二人いて、片方の上司は当時あった科学技術庁の、どちらかと言うと原子力を規制する側の官庁から天下りで来た人で、その人の下で国の審議会の内の原子力安全委員会の一部、一つのセッションの、私は20代後半のぺいぺいですから。書類持ちと議事録とりぐらいから始めたんですが。そのうちだんだん・・。
 あの人たちって仕事しないんでですね、結局私がだんだん書類を作るようになって、最後は全部、私が仕切るようになって。審議会の先生って本当に勉強しないんだなーとよく分かりました。ははは。原子力を規制側の人たちの、官僚の人たちの、当時、私は霞が関文学という言葉があるです。

霞が関文学、いかにグレーゾーンの中で色んなものを読み込むかとか、AとマイナスAと相反するものをいかにスムーズにつなぐかという、言葉のアクロバティック、アクロバットですが。若干20代のうちに霞が関文学を学んで、一応書けるようになって。それは使用済み燃料、核燃料とか、プルトニウムとか危険なものを世界中運んで行く事ができるルール、日本版の法律。法律まで行かない技術基準ですね。それの原子力安全委員会の報告の文章を全部私が書いて。

 あの人たち非常に真面目なんだけれども、規制側の人たちは、今の原子力規制委員会に通じる。凄く真面目なんだけども、秩序を重んじるというか。情報公開して一般の人でオープンに議論しようということではなくって、一般の人が、とりわけ原子力批判側の人が騒がないようにどうするかという。

 一方、もう一人私の上司は八戸の漁師の出身の人で浪花節の人で「俺たちは電力の金で食っているから電力に奉仕しないといかんのだ」と言って。昼間は科学技術庁に審議会の事務局して、夜は赤坂か六本木でそこに電事連とか東電の人たちと悪巧みではないけど、原子力の核燃料サイクルをすすめるような話とかしてて。

 20代のうちに、京都大学のアカデミズムの中の原子力と、原子力産業界の立場としての原子力とを半ば電力会社の立場と、規制側の立場を一通り経験して。
 非常に閉鎖的なある種の原子力コミュニティで、マフィアと私は呼ばないのは、目に見える責任をとる人が誰も居ないですよね。

 日本の非常に、私は山口のすごい山の中の出身なんですが。日本の古い、べたべたしたコミュニティというのか、いわゆる村社会に非常によく似ているなーと思って。で、だれも責任をとらない。誰も本当に確信をもって原子力を進め、いいことだと思って進めている人は、悪い事だとももちろん思っていないんですが、哲学をもって進めている人は居ない。ただひたすら自分たちの、その場所から進めることだけを盲目的にというか、進めている。

 かつ日本人組織によくありがちなんですが、ある種の空気が支配するんですね。空気と、「この人はちょっと違うな」と言う人はすぐ排除されます。たぶん電中研の中にも、京都大学の有名な、かすや7人衆(熊取6人組)小出(裕章)さんはじめとする。京都大学はまだ緩いから、そんなに露骨に排除はされていない。ただ出世でき以ないだけですけど。電中研の中でいわゆる、労働組合とかをやりつつ、原子力に批判的な人たちもごく一部居て。それは徹底的に排除されますよね。電力会社とか、産業界はもっとキツイですよ。ちょっとした言葉のはしばしで、この人は「やばい奴だ」と言うと排除される、非常に強烈な村八分的な論理が。

 高木任三郎さんも昔東芝に勤めてて、辞めて大学に転じられましたけれども、ある要素そういう、排除の論理向かって、・・そこが凄く嫌でですね。もちろん原子力推進批判とか推進という、そんな大それたことどころかですね。当時は使用済み燃料、今もそうなんですけども、使用済み燃料再処理と言って、六ケ所村にあって。ぶった切って、溶かしてプルトニウムを回収すると。国策なんですが、当時は国策に書かれた事以外を一言たりとも、電力中央研究所出す研究論文に書いてはいけなかったんですね。

 今でも一番、現実的は手段は使用済み燃料は日本全体で1万7000トン有って。福島第一原発事故の時に、見られたように、これ自体が非常に危険な存在なので。たまたまですけれども、私がやっていた仕事の空冷保管する貯蔵に早く持っていた方がいいんですが。当時は全ての核燃料を再処理する、ということが国是なので、それとちょっとでも違うことを、例えば使用済み燃料を貯蔵する、ということを一言でも書いたら、研究所もしくは、研究員としては駄目のレッテルを貼られて。なんていうかと言うと、柔軟に管理をするとか言い換えるですよ。いかにも戦前的というか、今の安倍政権かも知れませんが言葉の言い換えで現実を糊塗するんですよね。
 霞が関文学を、私は器用だったので、霞が関文学は分るけれども、そこまで行ったら、現実とまるで違う事を、国策8として)を押し付ける、あまりにもおかしいよね。と思って電力中央研究所の出向が終わる時に、ここまで観てしまったら、なにか真面目な技術者にもう戻れないなーと思って。これは原子力、原子力ムラからちょっと出ようと。

■北欧・スエーデンから原子力ムラを観る

 かと言って、今すぐ日本で自分が出来ること、普通に転職することではなくって、自分がこれまで大学院で学び、産業界とか国の裏側を見て来た、この原子力というものを、外から、もうちょっと広いエネルギーとか環境という、バックグリーンから自分がやってきた原子力と、そして自分が経験してきた、あまりにも異様な原子力コミュニティを日本の外から観てみようということで北欧、当時スエーデン、国民投票で原発をやめる、と決めて、まだ止めてないんですが。決めて、色んな意味で、存在感のあるスエーデンにとりあえず飛び出てみようと。

■原子力ムラと名付けた頃

 スエーデンに行った後、今廃刊になった朝日の『論座』という雑誌があって、その時に暴走する原子力村の人々という、公開・雑誌に初めて書いた文章がそれです。(1997年R onza 月刊「論座」2月1日)それが今の意味での原子力ムラの一号に出た。


 (絵:web検索頁より)

■原子力ムラってなんなの 決別してスエーデンに

 スエーデンで、エネルギーというよりもエネルギープラス、それを進める人たちとか、社会とか。そちらの方に関心が。私が経験した日本の原子力ムラというのはファシズム的な感覚を自分としては受けていたので、そうじゃない部分で、日本と対比をしながら、スエーデンとデンマークが戦後、その二つに国はどちらも原子力をやろうとして8原子力)あるんですけど、スエーデンにいたっては核武装もしようとしていて。そういった国々が、デンマークはそもそも原子力を入れないという決断をし、スエーデンは一端は入れたけど、やめるという国民的判断をし、そしてどちらもエネルギーとか、再生可能エネルギー,自然エネルギーを中心に,しかも、プラス省エネルギーですか。
 しかも,それを取り組む人たちが地域分散型、地域に根ざした人たちが、非常に輝いて、生き生きと取り組んでいるです。今日本でもだいぶ有名になりました。デンマークのサンソ島自然100%の名乗りを挙げて、当時はまだチャレンジ始めたばかりでした。スエーデンのデクショーの人たちは地域で木質バイオマスでエネルギーを全部自給しようと、いうような人たちですね。歴史をさぐり、歴史を色々学びながら、それを整理しつつ、今フロントラインで、本当に最前線でチャレンジしているのは地域の人たちなんだといいうことが新鮮な発見でしたね。 

■それは1990年代の始めから半ばぐらいで、皆さんご覧になったモルゲンに出て来た人ほとんど知っているんです

 ドイツで本当に地域でシェナもそうですし、フライドルもそうですし。地域でやっていた試みが全国に広がり世界に広まっていったんですけど。ヨーロッパの、とくに環境とかエネルギーというと、ドイツはヨーロッパにおける環境エネルギーの盟主国、大きな国ですけど。国が多きだけに変わるのにちょっと時間が掛かるんですよね。それを取り巻く周辺のデンマーク、スエーデン、オーストリア、オランダと言った国々が。ドイツで言うと州程度の大きさの国々が、面白い事を一歩進んでやって。それが国レベルで形になって、ドイツが重い腰を上げて、ぐーっと動くという。
それが歴史的に起きていますね。
 ちょうど私が行った頃(90年代初頭)というのは、新しい 原発といって70年代も一つの環境革命の時代、原子力論争を中心とする環境革命の時代で、それと同じことが当てはまるスエーデン、90年代同じようなことが起きていて
 ドイツ映画に出て来た2000年から自然エネルギーを高く買い取る制度を・・尽力して導入して、日本はさらに2011年にそれが入って。

 ドイツの2000年に入ったEEGという買取制度の元は何かというと1990年にドイツの超党派でCDU側もSBDも両方が合流、協力して作った自然エネルギーの固定価格(買取)制度の第一弾というのがあって。それは電気料金の90%の風力と水力と太陽光買いますと。そういう、実は小水力で儲けたい人たちがですね、風力と太陽光を隠れ蓑にして導入したのが90年だった。それでドイツは90年代風力も伸び始めるんですけど。

 そのルーツは実はデンマークの風力協同組合がその10年前に電力会社と国と風力協同組合が電気料金の85%で風力発電の電気を買いますよと、なんで85%かと言うと、送電線の利用料金が30%なんだけど、それを半額にまけてあげますよということで、電気料金に85%ということで。それを90%に四捨五入したのがドイツ。 

 ドイツの中でも90%の値段だと北の風力は伸びたけど、ほかの太陽光とか全然普及しなかった。風力も他の地域で普及しなかったので、アーヘンという町で、今度は電気料金に地方税を1%乗せて、それを原資として太陽光は電気料金の2倍、風力は1.5倍で買いますよと、アーヘンが始めて、それが 各地で、どんどんどんどん広がったところに緑の党が政権に入って、それを国の制作としての。各地に広がったところで緑の党が政権に入って、それを久野に制度にしたのが、結局・地域の誰か一人が、新しいアイディアをちょっと進めたものがドイツの地方レベルとか、北欧とかがやったのが段々伝わって広がっていったと。非常に流れというのが面白いっていうか、歴史的に見て、ひとりひとりがやる、その時には馬鹿にされたり、相手にされなかたりする。事が非常に広まっていくのが分かります。


■地方分権 一人一人が自然 エネルギーをつくりだした ■

 日本の経験で、原子力コミュニティの内側、あるいは内側の人たちに対しても凄くファシズム的な言論弾圧的なところがあるというふうに、原子力が地域に対してもやっていることも、凄く金と権力の力で、どんどん異論を排していくっていう、そういう、原子力の内と外について、そこの矛盾を観ながら。
 北欧で90年代に目の当たりにした事というのは、本にまとめて、『北欧のエネルギーデモクラシー』とい本にまとめたんですが。
 それは地域でエネルギーを作る人たちそのものの、参加型民主主義であるとか、あるいはスエーデンやデンマーク、もちろんドイツもそうなですけども、エネルギー政策は民主主義の質がそまま問われているいうことを、学べば学ぶほど、現場を知れば知るほど、そういう人たち、直接かかわっている人たちの経験を知れば知るほど実感できることだなーと。


■自然エネルギーはボトムアップ、原子力はトップダウン型■
  自然エネルギーを紹介したときに困難

 ある部分は向こうでの経験が、長期的には本質的には向こうでの経験が生きていると思うんですが。一方で通用しない困難、両方があったと。

 長期的には私は楽観、世界全体は完全に自然エネルギー100%の世界に向かっていて、とんでもない今の日本のまだ原子力をやろうとしているこの政府でさえ、今年の7月に閣議決定された、新しい基本計画で再生可能エネルギーの主力電源活用 やっていることはぜんぜんまだそうじゃないんですけど、キーワードとしては言わざるを得なくなっている。それほどに世界の自然エネルギーが動かしているので、結果として遅かれ早かれっていうか、遅ければ遅いほど、損してしまう、地域にも負けてしまうと思うけれども。

その事態には楽観的、ただ、すそ野を、その方向にまだまだ日本は全体としてのコンセンサスなり、まだまだ原子力とかに固執をし過ぎていたり、石炭火力とか既存の電力とか、そこに向けて乗り越えていく壁が非常に大きくって。そこはそれこそ民主主義の質というか、ありかたとか。一人一人は本当に違いのないんですけれども、結果としては凄く大きくな部分があって。いつも、その違いはなんなんだろーなーと。

 ヘリまんしぇーあーというドイツでエネルギ変換を強力に推し進めた方、あの二人は、1968年の時の反核運動から入って来ているですよね。戦争責任と反核運動とそして脱原発そして自然エネルギー 一気通貫でつながっている訳ですが。日本はそこがなかなか、全部、分断されているとか。


■分断化されているとか■
 例えば福島原発事故の直後から1年半から2年ぐらいは、日本の人たちの、日本だけで観ると、福島の前と後では根底から変わっている。それは最新の世論調査でみても、福島原発事故の前は原子力容認もしくは、原子力本当にどこまで理解して容認していかは分りませんけども、エネルギーは今もままでいいんではないかという人が7割か8割、結果としては原発擁護。
 原子力を意識的にやめたほうがいい、たぶん15%程度なんですが。それが311の後、原子力を進めたい、維持もしくは進めた方がいいというのは、なんと去年の世論調査で1.5%ぐらいになっていますよ。6割から7割の人は原発を今すぐ止めるか、ちょっと使うか、いずれ止めた方がいいというのが60〜70%。そこは大転換をしている。ただあたか、もそこで若干分断されているのは、とくに経済界とか、要は原子力を多少使っていから止めた方がいいんじゃないかなーと、再稼働だけの一点になると、これはもう、今でも再稼働しないほうがいいという人が一応過半数ではあるんだけども、若干、そこがあたかも推進と二分のように誤解されているところがあるわけです。意図的に混乱させられているところがあるので。
 ただ、日本人の意識は福島原発事故で大転換をしましたし。そこは凄く大きなところなんですが。

ところが脱原発団体の人たちが、憲法はもっと顕著ですが、公共施設を借りようとしたら、中立性を損なうといって借りられない、借りねないケースだとか、国民世論は脱原発なのに、公共というか、公の部分とか、商工会議所とか青年会議所とか商業団体は、上からの流されていった中で、311から1年半から2年ぐらいは公部分も脱原発が、いわば正論だったんですけど、今はそうじゃなくなっている。完全に転換が起きている。
 幾つか自治体とか国ももちろん、国で言っていい言葉は脱温暖化なんですよ。脱原発っていうのは、例えば経産省はもってのほかですけど、環境省とか、農水とか国の中でオフィシャルには使えない言葉になっています。福島の自治体と我々が国際会議をやったり他にも、やりますが、よほど分かっている所でないと、脱原発という言葉は向こうのチェックが入って、脱温暖化はいいんだけど、脱原発はチェックが入っています。

 役所の流れ官僚から自治体への流れとか商工会議所青年会議所の流れというので、そこの公に出る言葉はひっくり返されちゃっている、この数年間でも起きていいます。おそらく同じことがかって敗戦後を終戦後にすり替えられちゃって、いわば平和という言葉は中立じゃないとか、・・そういうことにもなって。
 たぶんその違いなんだと思うんですね。ドイツと日本は。その違いはなんなんだろうかと突き詰めると私は一人一人の本のささやかな勇気なんじゃないかと。なんかおかしいよなーと思うことを黙って放っておくのか、おかしいんじゃないのって、そこで声を上げるか、というのですね。日本人は割と同調主義というか、まあまあ黙っておこうかなーと。そこをとると、ドイツとか北欧の人はおかしいものはおかしいでしょうとか。日本人は空気を配慮して、おかしい事でも、偉い人が言っているから黙って置こうかっていう、そこの本当にささやかな違いが、ものすごく大きな違いに結果としてはなっているような、そんな気がします。

■一人一人の勇気で踏み出すか
 ヘイトとか、LGBTとか女性、とくにヘイトなんかはアンチヘイト出て来て、東京でも反ヘイト条例が出来たりとか、ネトウヨとか変な人たちが、むちゃくちゃな事をやっていたのが。ネット空間はまだだめですけど、押し返しが出来てるじゃないですか。それをもうちょっと踏み出して、同じことがエネルギーとか原発とか平和とかそちらの方まで押し返せれば、いいのかなーと。

■楽観してますか
 長期的には楽観をしていますけど、韓国とか台湾とかに呼ばれて行くんですが、台湾と韓国は自分たちの力で政治を変えたという自信が凄く輝いているし羨ましいんですよね。まだ我々はそんな実感が持てないなーというところがあって。そこを経れば、日本も自立をして、自分たちで開かれた形で政策を、自分たちみんなで作っていくということが出来れば。それも地域からやるしかないのかなーと思いますけどね。

 自然エネルギーが民主主義の指標になるし、同時に自然エネルギーを自分たちがみんなで作っていくこと自身がそれを強化していく、っていうか。ブーメランのように自分たちも自立できない意識を高めていく。両方の方からですね
2018年10月06日公開動画より






飯田哲也著『北欧のエネルギーデモクラシー』2000年3月15日刊行(新評論)
表紙には ついに、バルセベック原発が閉鎖された。その背後にあるスエェーデンとデンマークが辿ってきたエネルギー政策と市民の関わりを、眺めていくと、「地球温暖化防止」という名目で原発20基増設を上から押しつける日本政府とは対極にある、自由で環境保全出来たなエネルギー分権型社会を実現してきた北欧社会の姿が浮かび上がってくる

とある