渡辺菊眞個展2019 目次へ  作成 文責 佐藤敏宏
 05   (335音源)  2019年12月4日 居酒屋の吾平で聞き取る
■ 高橋俊也さんによる感想

 建築をつくる空間構成

佐藤:名前をお願いします。web記録をつくるので、高橋なんて言う名前ですか。
高橋:高橋俊也です。
佐藤:菊眞展の感想など、お願いします。
高橋:僕はもう、づーっと昔から知っているんで。構造設計とかも、やっているので、菊眞さんの設計した建築を改めて観ました。
佐藤:学生時分の作品など、全部並べて観ると、印象など変わる、見え方が変わると思いますが、どうですか
高橋:卒業設計とか、最近やられた建築は見たことがなかったので。
佐藤:卒業設計の現物を見たことがなかったと。
高橋:はい、なかったです。あれもセットで改めて全部、アンビルトとビルトの作品を観させていただいて。さすが。

佐藤:さすがって、なんですか、予想外な展開ってことですか。
高橋:やっぱり、建築を造るための、形を作る構成というか。「何でそういう形になるか」そういうものを、プロセスを経て、ちゃんと設計しているんです。「そのための説明として、空間構成とかあるんだ」と思うんです。
 それが、非常に明快で分かり易いから「なるほどなと、こういう形になったんだな」と。全ての建築に、構成、組み立て方と、色んな要因を基にして、形、色んな要因。それが構成の要素になるんだと。そう思うんです。それが各プロジェクトで明快に観ることができました。
 例えば地域、町の形であったり、パッシブであったり、そういった要因は、いろいろある中で、これと、これと、これを抽出して、それを構成するためには、再構成するわけですよ。「で、ぼーんと形が出来るんだ」と思うんです。時期によって抽出しするものが、変わって来てる。
 最初は風景批評から始まったが、京都の都市の何か、だったり、要素だったりするんだけど。パッシブとか建築計画だったり、最後に異界とか、聖なる空間とか、地球とか。どんどんどんどん発展して来ていて「今は何を考えているのか」ですけど。
 その時、その時で、抽出するものの要素、それは変わっていくんですけど。最終的に、形になったとき、構成の仕方が、非常に明快で。出来たものは、はっきり言って恰好がいい。絵になる。「やっぱり凄いなー」と思いました。









1979年栃木県宇都宮市生まれ/2002年 京都大学工学部建築学科卒業/2005年 京都大学院工学研究科生活空間学修士課程修了/2009年 滋賀県立大学院環境科学研究科環境計画学専攻博士課程修了/2007年〜D環境造形システム研究所研究員/2014年 高橋俊也構造建築研究所設立
京都CDL: 長い京都大学での「修行」を終えるころ、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)という運動体を立ち上げることになった。その構想については『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(2000)、活動の詳細は『京都げのむ』(01〜06)(図H)他に譲るが、建築家(集団)が地域の環境を日常的にウォッチングし、ケアしていく仕組みの構築が目的であった。今日次第に定着している言葉で言えば、「コミュニティ・アーキテクト」制のシミュレーションである。コミッショナーが広原盛明先生僕が事務局長となったが、運営は全て若い諸君に委ねた。運営委員長を務めたのが渡辺菊真であり、その補佐役として事務局に住み込んだのが高橋俊也である。
(以上 布野修司著進撃の巨人より)




■   産泥神社がおもしろい

佐藤:実作とプロジェクトを対比して並べてあります。実作で何か、気に入られた建築はないですか、これはいいねー、建築ですけど
高橋:産泥神社(うぶどろ)
佐藤:水と土の芸術祭、新潟市の河原に造った神社ふう、建築ですね
高橋:そうです。今回の中でも「ああ、これは面白いな」最初、実作が土嚢だったじゃないですか。土嚢だけだったのが、単管を使い始めて、土嚢と単管を組み合わせて、何か形を造る。それの一番の出発点みたいなものだった。そういう発見ですかね。
 材料の発見とか、実作、現場で造るからこそ、出来る。菊眞さんが出来る建築の一つとして、今の金嶺神社とかにも通じる、自力建設ですから。すべて自力だから。
佐藤:ローコストで自力建設、設計施工のスターとだだから。

高橋:適材適所の材料を使って、自分たちの空間にも、何を使えばいいのか。コストも当然で、現実的に造ることも含めて、いろいろ考えられていっている。
佐藤:嫌みな言い方だと、技術力がないから、単純な素材で作っているんでないの。ホームセンター単管と板で、誰でも出来る工法で造る。そういう見方、言われ方も出来ないことはない。
高橋:それは、人によって使い方というのはいろいろあると思います。
佐藤:現状の建築業界からは、評価されないかもしれませんよ。残念だけども。
高橋:それは、法に則っとってないとか、いろいろあると思います。出来た実際の形として、建築として問われるので。
佐藤:出来てる建築の勝負だと。あまりにも、シンプル、だから強さも引き立つ
高橋:「単管を使ったから」と言って「ああいう建築が、みんな出来るか」と言うと、そうじゃないと思う。菊眞さんの使い方があって、ああいう形になるんだし、土嚢と単管を組み合わせるのも大変だと思いますから。

佐藤:サラダが来たのでいったん、中断しましょう。旅に出ると、俺高知でも野菜不足になりますね
高橋:ふふふふ

 さとう サラダをぱくぱく喰らう (音源 336)

佐藤:再開しましょう。菊眞氏には昨日(2019年12月3日) 45分ぐらい、聞き取りまして、文字にしてweb記録を作ります。その記録の中に「遠くからやって来ただろう観客や、お友達のみなさんの意見、感想も綴ってしまおう」ということなんです。
お、高橋さんから逆インタビューですか。





2012年6月産泥神社制作記録へ

2013年7月産泥神社制作記録へ




 水と土の芸術祭2012年@新潟





■ 佐藤はどう思うのか (返し技質問)

高橋:佐藤さんが「地方で建築をやる」と心に決めて、建築をやると。うまく行っていたのか、いかなかったのか「あんまりうまく行かなかった」という話なですけど。菊眞さん、今こうして、色んな所を転々として、高知という場所に来ている。高知でしか出来ない、高知だからこそできる建築を考え。
 それでアンビルドの最後の方なんですが高知の建築だったです。高知の建築といいうのを追及している、そういうような、菊眞さんの事についてどう思われますか

佐藤:柔軟に対応してる、能力高いと思います。彼は高知、日本のもっとも高齢化率高そうで、人口少なそうな、新聞の発行部数は減る一方、大変な落ち込み方をしている土地で建築を造らされた。「その環境は菊眞氏にとっては技を磨く洗練されるためには、よかったのではないか」と思います。
 なぜかと言うと、菊眞以前の普通の建築家のプロセスから言うと、名を馳せて巨大な建築を造って雑誌に載せてスター建築家に成って行く。近代末期の建築家像をなぞってしまこともできた。そこで、偉そう建築家を演ずる。そういうコースも彼にはあったと思うけど、彼はそれを許されない社会、あるいは現在の社会問題とダイレクトに結びついてしまい、アクチュアルな社会の状況と、がっぷり四つに組んで「これしか建築では出来ない」そのことをきちんと建築にしてしまった。それも自力で造って表象し、魅せている。そういう点は、京都に居続けたとしたら、今時の浮かれた建築家になったかも知れない。
 が、そういう事を彼自身が、許さない。または古都や大都市を、彼が選んでないかもしれない。近代末期のそういう浮かれた建築家像は彼自身も好きではないかもしれない。
 で、自分は何も出来なような場所に来て、彼自身の建築を再発見、再構築している。そういう意味ではいい場所に選ばれていて、呼ばれて、そこに来て、根源的建築に磨きが掛かったように見えます。
 金も無いし、人も居ないし、どうにもならない、かのような場所で建築を造りだす。でも「ここでも建築はできる」と、そこを示した点は、大いに評価しています。いい仕事していますし、もしかすると現在日本の最先端問題を建築で造って照射しているように俺には見えますね。バブル経済発生前、おれが福島で建築をつくりだしたあの状況とは比べることができませんが。社会状況に柔軟に応答できていて磨き掛かってます。
 都会で華々しく、お洒落な衣服を身に着けて、お洒落なお酒をいただいて、いかす建築家ではないんだけど、菊眞氏の方が、庶民というか大衆から支持される、ブッタ的建築家とは言い過ぎなので、言いませんが、何かを拓いている。建築のベクトルで芽吹いていると思います。
 自邸のプロジェクトの経過にも、それが現れていて、最初はRCのいかつい建築からスタートして、6年間の時を経る、と力が抜けて、軽やか、しなやか洗練され、木造にかわって、大地に着地する。やりたいことしか出来なかった、そのように見えるんだけど、現在の社会ときちんと組み合って、身の回りの社会状況から鍛え上げられて、菊眞的建築的な正解を発見している、発明している。
 建築家がやるべきことではなくって、建築家が今発見しなければいけない、建築を生みだしている。体形や顔の造作からくる印象とは真逆に、軽やかな姿なっているのは、10年前の聞き取り時よりは、印象深い建築家になっている。そう思います。

 彼は最初、アフリカに土嚢建築を造ってみたり、ヨルダンに石の建築を造ったりしていた。自分を分っているかのように、辺境の地に身を置く。お父さんは『地底建築論』(1981年8月 明現社刊)『離島寒村の構図ー森と海のコスモロジー』(1992年4月 住まいの図書館出版局)も刊行されて、日本国内の辺境の地で建築を手に入れているんだけど、息子の方は地球規模に、さらに日時計=太陽の動きと一体になる建築そして、宇宙へと拡大しています。父建築のコストもずーっと安価で、構想は宇宙と連動してて、父建築よりはるかに軽快です。
 何もない、技術も無いにない場所に身を置いて建築を始めた、そこで建築を造り出して見せた。そういう、背水の陣に身を置きスタートしていて、10年でここまで来た。ご苦労さまと。
 お父さんは近代的、従来的建築家であったけれども、息子さんの方は、それを乗り越えて、21世紀的建築家として立っている、そのことを確認できた展覧会でした。
 これからの地域社会、世界にとっても必要な建築を造り、だし始めている。脱パパしてしまっている。私は京大に入った菊眞氏を見てるので「凄い、たいへんだったろうなー」としみじみと、思います。

高橋:それは嬉しいですね
佐藤:脱父建築になっていますが、皆、誤解していることが多いんじゃないかな。父ちゃん建築の残像や影を見ている、そういう人も多いように思う。
高橋:そういうの、ありますかね、僕はないですけど。

佐藤:似ている点も多くあるし、一般的には、父建築フィルターを通して見てしまうじゃないですか。「そこは気の毒だ」と俺は思います。アフリカ建築を見て、オッパイハウス見てしまうように。建築と太陽のつながりで思考する点なども似てるし、取り入れ方が違うし、今後比較研究する必要があります。似てるけど違う点を知る必要はあります。父と違う時空を生きているんだと。
高橋:菊眞さんはそうじゃなくって、独自。そのやり方を自分で追及してやっている。
佐藤:そうですね。俺の今回の役割は「父をなぞる、そういう人ではなかったよ」と。その事を知らせるために記録をつくっているようです。

高橋:ここに来た人は皆分っていると思います。来ないと分からないから。

佐藤:それは記録で読んでもらって、理解してもらえれば、望外のことだと考えてます。
 10年前、奈良の菊眞氏の家に行って、聞き取りしたんですよ。インタビューの肉声のまま、web記録を作った。5年ごとにこつこつ聞き取る予定だったんですけど、3・11と福島原発事故などの諸事情が起きてしまい、5年ごとの菊眞氏を聞き取っていなかったです。10年前の記録の続きを、つくるために高知に来たんです。
 菊眞氏は好い場所に来ていた。招き入れられてたんでしょう、存分に彼の才能を発揮していた。才能磨いてるなーなと。
 俺のように従来建築に縛られている人間ではない。従来建築に縛られてしまった近代建築の悲劇が、菊眞氏には無くっていた。そこも、なかなかいいなーと思いました。

高橋:いやいや、ありがとうございます
佐藤:聞きとり、立場が逆になってしまいました。こんな感じでいいですか
高橋:はい












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