中山英之建築・入門帳 01:目次を立てる | 2019年 作成 佐藤敏宏 | ||||||
中山英之展へ 講演会場 目次をつくる 懇親会 |
(2019年10月末に書きだす。 今年の秋は曇って寒い日が多いように感じる) | ||||||
今日、2019年10月14日は仙台市内で「中山英之展、and then」が開かれている。別会場では、中山さんの講演もおこなわれる。「広大な渦を持ち、強力極まる台風で、広範囲に被害をもたらす」と予報のあった19号が通過したばかりで、ときおり強い風が吹いている。模型や図面を観るだけでなく、講演も聞きたい。10年の間に抱えた<中山建築の謎>を解明したい。いつもの朝より早起きし福島の家を出た。 阿武隈川沿いに暮らす多くのひとびとに、甚大な被害をもたらし、福島県内でも20人ほどの死者がでた。その事は2日後の新聞で知った。福島駅に着くと改札の掲示板には、在来線は多種多様な被害を受け「全線運休」の表示が立っていた。高架を走り抜け「水害には強い」とみられる、新幹線だけが運行している。本数は少ないよう思えたが「仙台に行ける。」 福島駅がこんな状況でも、都内は電車が動ているのだろうか。中山さんは東京を出発していて、講演会は開かれるのだろうか。開催されるが聴衆は集まるのだろうか。そんな想いを抱え、講演する本人でもない、主催者でもないのに気がもめ、落ち着かなかった。 中山英之さんの設計による京都に在る岡田邸は、2009年10月に竣工している。縁あって、この10年の間に岡田邸に関わった人々を聞き取りweb記録をまとめていた。しかし中山さんの奥深い建築への意志や、発想に関し多くの謎を抱えたままだった。「今日こそは!聞き尽くそう」そんな想いが強かった。 新幹線を降りると仙台駅周辺は風はやみ、駅前デッキは多くの人が行きかっていた。仙台駅から西へ10分ほど歩くと、作品展の会場である東北工業大学一番町ロビーに着いた。向かって右窓は、黒い暗幕が引いてありガラスには中山監督・映画のポスターが貼られていた。左窓のガラス奥に、受付を行っている東北工業大の学生さんたちと、関係者が行き来するのが見える。中山英之さんの個展は開かれていた。 「これで、東京で見逃してしまった、中山監督作品の『and then』、一時間ほどの映画を存分に鑑賞できる」そう思った。映画を観れば仙台に来た目的はほぼ達成したようなものだ。「さー、観るぞー」と勇んで会場に入った。 これから観る映画は、中山さんがこの15年ほどの間に造った建築実作を、中山さんの撮影ではなく、それぞれの建築の使手・住手が、思い思いの手法を用い、彼らの建築での日々の暮らしなどを撮影し、お気に入りの音を付け、編集をおこなった。そういう施主制作品を5本束ねたものだ。中山さんがそれらを50分にまとめた、オムニバス仕立ての映画として上映する。建築家自身による自身の建築に関する珍しい映画だ。発注者と設計者の豊かな関係の奇跡を提示していて、この世で初めて上映される労作で、現在の建築の一端を顕す貴重な映画と言える。 岡田栄造さんの家に関する映像は東京のギャラリー間で観たのだが、他の4本は観る間が無くって見過ごしていた。なんだか秘密めいた謎に迫れる思いで胸が躍る、何度も観たい、隅々まで観たい、そう思っていた。 その会場、にわか作りの小さな映画館には、受付が設えてあり、本が数冊並べられていた。受付の後ろは見やすさを配慮した専用の台があり、完成模型やコンセプト模型が所せましと並んでいる。壁にはスケッチ、図面も展示してある。来場者の中には小さなお子さんをお腹に抱えた、若いお母さんの姿も見える。若い男女の学生さんも多数いて賑やかだ。 展覧の会場に着いたのは午前10時半ごろ。「映画は最初から観たい」ので上映までの時間を使い、ロビーに展示してある作品群を鑑賞したり、記録を作るための写真を撮ったり。映画を頭から観るため時間調整は30分しかない。遠くから観たり、じーっと観たり、接近して見てまた写真を撮ったり。それを繰り返していると予定の30分では取材時間は少なすぎるのだった。中山さんの講演は仙台メディアテークで午後1時から始まる。展覧会の会場から歩いて30分ほどに在る。 頭から観るため、11時丁度に映画館に入った。男・女数人が思い思いに二列に並んでいる。映画は始まったが、あっというまに1時間がすぎてしまった。一度だけでは観足りない。分からない点も残るし、もう1度確認したい場面もある。「しまった!もう講演会場に行かねばならない時刻だ」と思ったのだが、ふたたび上映が始まり12時20分まで見続けた。「まだまだ観たい」後ろ髪引かれるが仙台メディアテークを目指し歩きだすしかなかった。(註:1)
台風が去り在来線が止まっているので、一番町に在るアーケード街には日頃の賑わいがない。その中を仙台市役所を目指し北上した。定禅寺通を渡り切り左に折れる。ケヤキ並木のもとでは、市民が作品を持ち寄って開いている、思い思いの展覧会のよう催し物が見えている。台風にもまけず、仙台市民の勢いある姿を感じながら、仙台メディアテークに着いた。 1階ロビーには講演会の受付カウンターが設えてあり、3人の男子学生たちが受付確認作業をしていた。受け付けてみて分かったのだが、俺がネット申請一番最初の者だった。爺さん聞く気満々と分ったのだろうか、そう言ったら受付の学生さんたちは笑って応じ資料を差し出した。 中山さんの講演会は、事前申込制で、web上に専用フォーマットがあり、必要事項を書いて送信する仕組みだった。送信したはずなのだが、返信メールが当日になっても来ていない。満席なのか、受付になっているのか、聞く気満々のお爺さんの俺は、会場に入れるだろうか、ここにも不安があった。しかし、一番最初に申込発信で受付番号がNO1だった。「俺、NO1だったか〜」と喜んでしまい、「次回からは返信あり、のフォーマットに変えてほしい」と伝えるのを忘れてしまった。 メディアテークの会場には、オレンジ色のプラ椅子が並べられていた。客はほとんど来ていない。中山さんの姿も見えない。15分前なのに一番のりようだ。このまま、会場はガラガラで公演開始なのか。台風の通過後だし、町中の会場まで公共交通に乗ってやってくるの「は難しいんだろうなー」と思った。 中山さんが来仙しているのなら、たとえ聴講者が俺一人と関係者だけでも、講演は開始してほしい。「始まるよ」根拠のない自信はあった。万が一講演会が中止となれば、一番町の展覧会場に戻り、映画を何度も何度も見続けるつもりで、新幹線に飛び乗ったので、開演の時間前につけてホットしていた。 あたりを見回しても会場にテーブルは無い。講演が始まる前準備は、聞き取りやすい椅子の位置を探す。メモをしまくっても、隣の聴講者に迷惑を掛けない、右側に客席がない、そのような椅子を探す。ちょうどメディアテーク独特の籠状柱があり、右側に席のない椅子を見つけ確保した。 メディアテーク一階は、今日はホールと講演会場に仕切りがない仕様のようだ。この講演を目的にしていない館内利用者や、定禅寺通りの通行人からも、中山さんの講演の様子は、偶然にであっても見える。路上の延長上の奥まった場所にもうけられた演壇に立つ者の姿を想像してもらえばいい。拝聴しながらメモを執る俺に、やや不便な点はテーブルが無いことだ。テーブルが配置されている席がない。多数聴講者を招き入れるためには仕方のないことだが、一部そういう席も欲しいものだ。 取材したり一生懸命勉強するノートを執ったする若い人のためにも、小さくても机のような物が備えてあるといいのだが。だからと言って、3人掛けのテーブルを設えると入場者数が制限されるし、後片付にも手間が要る。片付けも簡単な丁度いいちいさなテーブル付き椅子をメディアテークは備えてないのだろか。そういうときは自分の腿が机がわりだ。これはあんがい不便な机だ。向う脛が短いので、前のめりのメモ台となる。近頃、白内障の悪化が進んだ老人には、スクリーンの映像を際立たせるために照度をさげているので、うすぼんやりしていると自分の書いたメモだって見えにくい。「専用スポットライトを備えろ」とも言えない。年をとり色んな講義を受けようとするとると、会場によって、何かと工夫が要る。そういう点にも脳味噌を回転させなけいとイケナイ。その点もボケ防止には役立つと思う。だから興味が湧いた各種講演会には暇を見つけては出向いている。俺に悪条件の会場でも回数をこなしていれば、状況応能力がつき、その場に合わせた自身の聴講スタイル作りが上手になる。よくメモ用具などを落とすので、落とした物を拾いやすく、その時に前後の客に迷惑にならないよう、ゆったり拾える場所を探して座ればいいだけだ。 開演5分ほど前に、薄黄色のシャツを着た中山さんが姿をあらわした。講演会は予定通り始まるのだ。椅子探しをしている間に会場には、若い学生さんたちが大勢あつまっていた。台風の悪天候にもめげず勉強熱心の若者が多い。 いよいよ講演会は始まるようで静まっている。司会の福屋先生が東北工業大学の主催であることや、学科長が出張で挨拶できない旨を説明され、中山英之さんの簡潔なプロフィ−ルが紹介される。 いよいよ中山英之さんの講演が始まる。ほっと一息ついてみる。 「メモしまくるぞー」と気合をいれる、老眼が進んでいるのでノートを見続けないとメモを執れない。スクリーンはちらちら観るだけとし、2時間ほどメモを執った。 中山さんの肉声から創作の泉のありかが次々に明かされ腑に落ちていく。腑に落ち続ける内容。それを詳細を書きたいが、そのことは後日のに作業する。ここでは次回から書こうとしている内容の「目次」を記しおく。 (註:2)
2時間ほどの中山さんの講演を拝聴し、中山建築の意味を、俺の受けとめかたで解ったように思い「何かのかたちでまとめておきたい」と。「この10年の間に関わっていた中山英之建築の体験をまとめた記録も加えたものがいい」そんなふうに思った。数か月かかるかもしれないし、一年掛かっても、まとめ終わらないかもしれない。でも、暇さえあればコツコツPCを叩き、まとめてしまいたい。不慣れなので「書き残すため何か指標があるといいのだが」分からない。ダラダラ尻すぼみになるように思ので、「目次」というか「大項目」その次に「章立て」のようなものを思い浮かぶままにメモしてみた。 目次、ができたなら記録は完成するだろう。他の方に役立つとは思えないが、体の奥底から、お告げのような何か解けたあとの熱が来ているので、放置し忘れたくもない。 まぁ「中山英之建築、入門帳」だ。肩の力を抜いて作業しよう。目次だって俺が体験した事なのか、過去の記憶が混濁した単なる俺の妄想を記したものなのか、それさえ分からない。とりあえずメモを整理し作った目次を紹介し、自分にとっての「中山英之建築、入門帳」の始まりとしておく。 こうして自分を留めおかないと、福島原発事故後セシウム都市暮らしの俺は、毎日、浮かんで来る、福島特有のアクチャルな他の問題に呑みこまれて流れて行ってしまう。そうして今日の講義の事をすっかり忘れてしまいそうだ。 「講義を聞いてまとめよう」と思うまで、10年間の聞き取り行為と自前の記録の存在をぼんやり覚えていたのだから、同じような事を繰り返すだろう。せめて目次に沿って一週間に一度は、この入門帳なるものために机に座り積み上げたい。目次ができても目次通りに書き進めるわけでもないだろうが。
●(一部) 中山さん建築を体験する 1)岡田栄造先生からのメール 2)岡田邸、中山建築に宿泊する 3)岡田邸は私しにとって、どんな建築だったか(建築の理想は路上である) 4)竣工直後の岡田邸の様子 5)数年後の岡田邸の様子(他者との交流の場に) 6)岡田邸を作った関係者にお会いする 7)岡田夫妻に聞く 8)岡田さんお母さんに聞く 9)満田衛資さん(構造設計者)に聞く 10)永岡さん(施工者)に聞く 11)設計者である中山さんに聞く 12)三島さん聞く (模型製作・現場管理) 13)家人の病と私の聞き取り行為と星座型居住(私にとってのコミットメント) ● (二部) 2019年1月14日の講演会に参加する (1章) 自己紹介に関して (2章)今回の展覧会について 1)ギャラ間展 2)最近のカメラ関係 3)施主の自撮り動画 3)一番町シネマ館 4)映画館について (3章)映画と関わる 1)浪人時代 2)ヒッチコック 3)スイスにはチョコレート 4)『北北西に進路をとれ』 5)全体像のないままつくる (4章)処女作品「2004」 1)伊東事務所で 2)施主をみつける 3)「2004」について 4)何を考えていたか 5)敷地境界線から考え始めない 6)思いついたことは絵に描く 7)模型が出来ていた 8)SDレビューに参加 9)写真について (5章)学生時代に考えていたこと 1)ブルーノモナリーのこと(快適さの追求) 2)洋服の着方を発明する 3)自主プロジェクト(袋に移動する穴) (6章)扉プロジェクト 1)コンペで勝利する 2)提案内容 3)建築を脱し建築をつくる 4)北海道で思ったこと 5)毎日完成しその日に消滅する建築 (7章)月の石 1)アポロ16号のクルー 2)大きさの感覚は存在しない (8章)紙岩 1)石は大きさがない 2)紙石を置くと空間が不思議な場に変わる 3)石をカットし個性を見だす 4)3Dスキャンする 5)深度合成機能付きカメラ 6)売れる (9章)質問 1)中山さんのドローイングと模型について 2)中山氏の具体的手法と抽象的手法について 3)中山さんは建築で何を表現したいのか (10章)展覧会に関すること 1)ギャラ間展について 3)一番町シネ間館について 4)中山さんの著書二冊を手にとって 『1/1000000000』2108年3月25日刊行 LIXIL出版 『,and then. 』2019年5月22日刊行 TOT出版 (感想文) 以上が講演を拝聴したあと思いついたこと。 河合隼雄氏が語る三つのC、コンプレックス、コンステレーション、コミットメントを思い出した。理由はわからない。この入門帳をまとめ続けると分かるような気がしている。京都に暮らす牧野研造さんにいただいた『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を手に取ってみて確認してみた。すこし分かったような気もする。入門帳をまとめる過程で、湧きだした直感、その理由や意味が分かると嬉しい。 ● (三部)中山さんの建築について (俺には書けないかも) 1)中山建築とは 2)中山建築の可能性 3)中山建築の破壊力と暴力性 4)中山建築の設計思想とその手法 5)まとめ(中山建築の今後) |
■「中山英之さんについて」正確に語れるわけでもないし、語ったつもりになったとしても、私の中の幻影としての中山英之語りである。そんな事をすると、さぞ迷惑を掛けることもあろう。そうも思う。しかし奇遇にも縁ができ「この10年間におきた事を、まとめておかなければ」という胸騒ぎや、講演後から「ここでまとめろ」という空耳が響いている。 そんなことで「中山英之建築・入門帳」を始めた。見通しはないが、なるべく長く書き残したいと思う。途中で投げ出さないように仮の目次もつくった。こつこつまとめていく。暇でしょうがない方にお付き合いいただければ嬉しいです。 図書館など福島市内で配られた号外 映画館ロビーにはコンセプト模型など並んでいる。背がにわか仕立ての映画館入口 (註:1)映画と映画内の5本の作品についての感想は後日記述予定で、ここでは省略 ギャラリー間で制作したチラシの表面と裏面 ギャラリー間で上映された時間割 註:2 講演内容のあらましは、目次をながめても分かると思いうが、詳細を整理し分かり易く仕上げて後日公開します |
||||||
■ | |||||||
午後1時からはじまった中山英之さんの講演と質疑応答は予定どおり2時間で終了した。会場出入り口には中山英之さんの著作が積み重ねられた直販所ができていた。ギャラリー間の討論会に参加したおりに『,and then. 』2019年5月22日刊行 TOT出版は手に入れいたので、「0」がたくさん並んでいる本、タイトルは咄嗟には読めない『1/1000000000』2108年3月25日刊行 LIXIL出版を購入した。『10億分の1』と読む。絵本仕立のように簡潔で奥深い本だ。中山さんはこんなふうにこの自著を紹介していた 「この本は、独立してから色んなことを考えていた。そのことを1年間ぐらい掛けました。のたうち回りながら、七転八倒しながら、書き上げた本です。これ以上、絞っても、一滴も自分から出てこない。そういうところまで考えに、考えてました。書きあげてしまうと。1時間か2時間ぐらいで読めてしまう分量だったので「ああこんなものか〜」と思ったんです。本当に一生懸命、書いた本です」 買わねば、買ずば後悔するだろう。「中山英之建築、入門帳」必読書です、若者にはバイブルとなるだろう本。手に入れ、その場でサインをいただき、2ショットにも応じてもいただく、ありがたく、仕合せな気分であもある。 表紙にサインいり |
|||||||
サイン本を手に入れてから、売り場をながめていると、若い学生さんたちが中山さんと話をしながら本を購入している。売り場の後ろでは会場の後片付をする職員の方と学生さんたちが行きかっている。SDL2108に参加して地下の備品置き場を体験しているが、あそこまで運んでいくのだろう。みなさん後片付は手慣れた様子で、どんどん椅子は運ばれ消えていく。 福屋先生が近くに立っていたので、「呑み会どうでしょうか」と尋ねてみた。「場所は決まってないけど、5時から」と言う。いちど展覧会場に戻り、呑み会に参加させていただくか。往復と映画鑑賞の1時間を加えると呑み会の頭から参加ができない。「やっぱり一緒に乾杯するのが、呑み会の肝でしょう」なんて思いながら、中途半端な時間を持て余してしまった。秋晴れの天気であれば、目の前の定禅寺通りのベンチに座って、30分ぐらいは講演直後の気分が消えてしまわぬうちに、追加メモができるのだが、今日はあいにく雨模様で、外に出てもメモできる場所はなさそうだ。 ぼんやりしていると、福屋先生がやってきて「傍の居酒屋を4時から開けてもらうことにしましたよ〜」にこやかに語っている。「学生さんが多いのでしょうから、爺さんの私が参加してもいいんでしょうか」そう聞く間もなく、中山さんと三人でその店にを目指して歩いていた。店内を福屋先生が覗いている。店は開店準備が済んで様子だった。台風通過後の4時から開店している居酒屋は見つかるはずもない。そう思っていたので、店内でスタッフたちが仕事前に、気合を入れ合っているようすを様子がチラチラ見える、それは小さな驚きだった。「外でもう少し待つように」言っているように見える。 そこへ堀井さんがやって来て、台風で中止になっってしまったワークショップの話ししている。参加学生がおのおの拾ってきた小石を用い、100分の一の建築模型に仕上げる、建築ワークショップ。台湾でのワークショップのことなど話し始めた。 小雨がふるなか開店前の居酒屋に、まだ立つている。福屋先生が「この人を聞き取りしてくださいよ」と若い男性を紹介してくれる。「独立しているんですか」「いや設計事務所で働いています」「他薦で独立系の建築家に限って、聞き取りし記録を作っているんですよ」福屋先生はすぐにうなずいて「そうだよね、建築設計系の若者だって、組織に勤める我こそはという建築家は数限りなくいるしね〜。そんなに多数を聞き取りできなよね」と応えてくださる。「以前だって、生業として成り立つのか?怪しいような、遊戯的振る舞いを生きる建築人いたんだけど。今の時世に独り立ちし、建築事務所を営もうとする、奇特な人がいたら。すぐ会って、きちんと話を聞き取り記録しておきたいんですよ」 福屋先生はうなずいている。組織内に生きる若い建築家の肉声と彼らの不安も記録しておきたいと思うが、足代も無いし手も回らないように思う。 「中山さんはお酒は呑むんでしたっけ」とたずねると「大好き」と応じ、毎日呑んでいる様子。一人でもバーに出かけて行くとのこと。「この店で焼いたサンマは絶品だ、ぜひ仙台で食うべき物の一品だ」と堀井さんが大きな声で皆につたえている。地酒の銘柄がはこれだ、いやこれだ、などと雑談をしている間に、店内に案内され予約席に座った。 中山さん、堀井さん、福屋さん、菅原さん、高橋さんの6人だ。学生さんたちは講演会場の後片付など終えていないようで、遅れて集まるという。呑み始めは大人たち6人。居酒屋・先遣隊だ。初対面の設計事務所勤務の高橋さんを福屋先生に紹介していただく。高橋さんは中山事務所のインターンシップに出向き、中山事務所の空気を吸い込んでいるとのこと。彼は「佐藤さんのつくった中山さんの聞き取り記録を読みましたよ」と語る。 中山英之さんは若い人に人気があるのだろう。彼らは検索エンジンを使って2013年5月19日に聞き取った中山英之さんのweb記録を見つけているようだ。以前にも若い人から何度が聞いた。誰のために、何のためには考えず、web記録を作っり公開しているのだが、見知らぬ人に波紋が伝わっている様子が浮かぶ。記録は害があったのか、腑に落ちたのか。それを聞くのは野暮というものだ。みんなありがとう!乾杯の盃を干した。 乾杯も済んで、肴の注文を始める。店の若い売り子の甲高い声が刺さる。秋刀魚、秋刀魚が美味いと押し売り同然なのだ。今年はまだ秋刀魚を食っていない。それは温暖化の影響で「秋刀魚は獲れなくなった」と伝え聞いていたし、家のそばのスーパーで、一尾500円との高値。ちいさな鯛より高値だ。美味い秋刀魚の見分け方は、頭から数センチ尾にいった人間なら肩のあたりが、ポッコリと張っている、そこに油が溜まっているを買えという。今年は不良で小さく痩せている秋刀魚しか見掛けない。それなら臭みのない鯛の塩焼きですし、鯛ならトマトと共にイタリアン風に煮込み、スパゲティと和え食いたい。売り子さんに聞くと「一尾900円」その値におののき、お祝いだ、まいいか。もしかしたら仙台の伝説「仙台の秋刀魚は美味い」に当たるかもしれないしね。堀井さんは「ここは焼き方が仙台一だ」と推すし、6人うなずき合って、あっという間に秋刀魚6匹注文していた。 酒は、まずはビールで乾杯。時をみて仙台地酒を注文。美味いお酒と楽しい対話があると「あ」っと言う間に酔いつぶれてしまうので、人気ないけど腹に貯まるポテトサラダを平らげる。そのあと鯛かもしれない刺身を2切れいただく。生タコ好きなんだけど、これも今年は超高値だし。誰が頼んだかしらないけれど「腹子めし」これは秋鮭とご飯を炊いたものに、いくらを乗っけ和えた飯。東北だけなのだろう、関西で食ったことがない。東北地方の美味いものの一品だ。 そうこうしているうちに1時間も経ったのであろうか、客もちらほら入店してきた。秋刀魚も焼けたぞ。 焼けた秋刀魚を運んで来て、売り子がなぞなぞを掛ける「はーい、秋刀魚はとこから喰えばいいでしょうか」「背を押して骨を抜いて頭からかぶりつく」「残念でした、背中のここからがぶってください」ああそうか、秋刀魚の脂の乗ったところからか。美味い肴の見分けポイント、秋刀魚の象徴形のあのところか〜、妙に納得して、ぱくりとかぶりつく。なんと美味いことだろう。向かいの席で中山さんも、かぶりついて言葉を発せず、親指を立てて合図している。むしゃむしゃ、「これが、仙台伝説の秋刀魚かもしれない」うまいのだ。腑も丁寧にいただく、独特の苦みがいい。棒引き網で獲る秋刀魚はぎゅーぎゅー詰めの網に苦しもがき、そのとき、だれかれとなく落とす鱗を吸ってしまい、腑に鱗が残ってて、気仙沼の漁師たちは「腑に鱗が混じりあるのは品が悪い、一尾10円だ」なんて教えてくれてのを思い出した。腑に鱗が混じっていない、これは伝説の仙台の焼き秋刀魚だ〜。一気に満足度はアップされていき、ほろ酔い気分もぐーっと高まるのであった。 |
|||||||
中山建築作品のベースだというヒッチコック監督の数々のメソッドを聞いて後、秋刀魚をいただけば、小津安二郎の『秋刀魚の味』を思い出す。 24歳の一人娘を演じる岩下志麻さんと、父親、奥さんに先だたれた老人が主人公。仲間とも交流が絶えない笠智衆演じる父さん。お兄さん(佐田啓二)と妻。一人者の弟。戦後なら戦争未亡人とその家族の暮らしぶりを描くほうが合っているように思うが、当時は映画を観る余裕のあるご婦人はすくなかったのだろうか。嫁入り前の娘をもつ観客は父親の方が圧倒的に多かったのだろうか。どこにもありそうで、こんな親子はないだろう、戦後の父と娘の対話が芯にどっしりと収まっている。昭和や敗戦後の世界を覗き見ることができる。 ラストがまた渋い。娘を嫁にやった父は、小さな恋心を抱くママが営む、どっぷり昭和の内装が詰まっているバーに行きロックを呑む。ママは「お葬式の帰りですか」と聞くと「まーそんなもんだよ」と応える。嫁入りは今までの世界と縁を切るお葬式なのだ。バーの店内に軍艦マーチが鳴り響く。ヒッチコックの好きの中山さんには退屈極まりない映画だろう。デヴィット・リンチ好きの堀井さんは、観た事ないだろなーなんて想像してしまう。 「あー、ひとりぼっちか〜」とつぶやく老人の声が台所に響くなか、軍艦マーチが鳴る。恩師の孤独、戦後家族や老いる仲間同士のの寂しさ、娘を嫁がせ一人残された父の孤独を丹念につづりあげた映画だ。娘が嫁に行くことは寂しいものなのか、囲い込んだり、甘ったれていないか。共感はしないけど理解はできる。30年経っても、昭和も戦後も続けている家族がいそさ。 |
|||||||
居酒屋の店内には勤め帰りのサラリーマン風な人たちで混雑してきて、熱気があがっている。店先で焼いている炭火の熱が、秋の冷気を遮っているのか、中山さんの講義の熱の余波が体内に残っているのか、いろいろ熱い。 10数人の学生さんがどやどやと店に入り込んできて、用事があるという学生は中山さんと握手したり、記念写真を撮ったりし去って行く。残った学生さんたちは、甲高い声の売り子に席を指示され、二手に分かれてしまった。全員が並んで座れる席は予約席のため無いという。 会場の片づけを終え疲れていても、中山さんに会って話そうとやって来る、学生がたくさんいるので、感心しきりであった。東京や京都なら、どやどや集まって大宴会になるのだろうが、ここは仙台だ。 動員を誘導する、粉飾型ゆうめい建築家も多いように思う。SNS全盛から衰退にさしかかる今の時期でも、中山さんは動員型を志向する宴会系建築家ではない。しかし若い人が大好きなのは、対面すると熱く語りだし続ける、無防備にエネルギーを与える。そんな建築家の一人のように見える。 高校を卒業し社会に出て働いた俺は、大学生という生き物をいまだに理解できない人だ。my子供たちが大学生だった頃は、彼らの悩みを存分に聞いたんだけれど、ほぼ解決できず、大学生の病に一緒に罹っていた、そう思う。悩みを聞くと感染する。だけれど、一度に多数の学生さんと、どのように付き合っていいのか分からない。一人ずつ聞き取るなら、なんとかこなせそうなのだが、若い人たちを集めた場において、彼らに共通した役立つような何かを語るなんて出来ない。 日々稼ぎ続け現実の面倒な社会で暮らしている大人しか、相手にしてこなかったからだ。若い学生の熱気を受け取れない欠陥は、その偏った人生の報いのような気もする。で、すっかり若い人・人との対話を諦めてしまっている。だが、いつか解消できるかも知れないので、諦めず、若者群とも相対しても、こなせるように暮らしていきたい。そんなことを懇親会に若い人が、どどどっと入って来て思うのだった。 宴も盛り上がり、中山さんは学生たちの席に移動している。堀井さんは「今日の講演は涙をだしながら聴いたんだ」という。その意味するものは何かを訪ねはしなかった。映画好きの堀井さんは『映画術』の話に導かれて、大いなる妄想を抱いたのかもしれないし、中山さんの建築手法に大きく共感することしきりだったのかもしれない。 俺は「扉プロジェクト」の名で記憶している北海道のあるコンペで勝利者となった中山さんの建築。あれこそ、中山建築の神髄だと確認でき、この10年の間に抱えてしまった中山建築の謎について解く、一つの端緒得た。それと同時に、中山建築の巨大さと、誰もなしていない構想の大きさに触れ、涙はなかたけど、とても嬉しく思うばかりだった。 「若者よ、懇親会は借金してでも参加すべき」と言っておこう。このあと数時間場所をかえ、二次会へと続いたのだったが、その時の話の内容は細かに分けて今後の記録に書き入れて行く予定だ。 つづく 絵:福屋先生のFB投稿より |
|||||||
続く | |||||||
■ | |||||||