モアナと伝説の海 2 鑑賞録 2024年12月08日作成

2024年師走は女性が活躍する映画で始まった。映画館の看板には女性が中心に座るポスターが並んでいた。鑑賞していて疲れないのはどれかを選択肢『モアナと伝説の海2』を選んだ。


ウォルト・ディズニー(1901年12月5日〜1966年12月15)アメリカ合衆国のシカゴで生まれたアニメーション作家で、日本で彼の影響を受けた者で最も著名な作家は手塚治虫だ。親子ほど年下の手塚治虫(1928年11月3日〜1989年2月9日)。手塚による数々のアニメーション作品は老若男女を問わずファンが多い。歌あり踊りあり、軽快な動きのある多数の作品は時を越えて世界をつないでいる。また哲学的主題をテーマに描かれる作品もあり読者層は広く、我が家の漫画庫にも多数保管している。

アニメーションでは2024年末に亡くなった詩人谷川俊太郎作詞による、『鉄腕アトム』の歌と作品を知らない者はいないだろう。原子力の平和利用を謳いあげた代表的な一作品で、1963年・TV上映されTV普及とともに視聴率を稼ぎだしたことで、アニメ文化は強く強く日本に根付いた。(海外輸出できる日本製アニメはどれほどあるのか佐藤は知らない。)


ディズニー制作アニメ映画を鑑賞したことはなかったが気軽に映画館の椅子に座った。が、途端に物語のスピートに追いつけず、目まいしそうになった。確かに実写映画とは異なり、アニメはキャラを自在に、超スピードで動かすのは得意技だ。トムとジェリーの動きを持ち出すまでもなく、これがアニメの売りなのだが、年老いた佐藤はついていけるのか?不安になっていた。
昔の手塚アニメは、1週間で1作品上映するため、さらに制作費と手間をおさえるべく、口パクアニメを発明した。口パクだけパクパクし続けるのだが、声優の技術によって、子供たちはアニメの人物に感情移入、スムーズにおこなえた。
モアナ・アニメは動きが微細で豊。実の人間より顔の表情をデフォルメし細かく描かれていて、口パク・アニメとは比較にならない多情報量なのだった。これでは老人が観るには疲れるよ、とときどき飛ばしながら粗筋だけでも記憶しておこう、と思って見始めた。余韻が吹き飛ばされていて、感覚だけです、その超スピードに浸り観るという技をもたない者には嫌われるかもしれない。視聴覚も衰えた者を客としてカウントしようとしてないのかもしれない。


谷川俊太郎作詞 鉄腕アトム主題歌

物語のあらましと演じられる舞台

物語の始まりは、浅黒い少女の足元に美しい波がおだやかに打ち返す浜辺から始まる。この穏やかな浜辺は、─理由は明かされないが─呪いが掛かっているので近隣諸島の人々との交流が途絶え孤立して久しいと、島の長から明かされる。日本列島で見るオリオン星とは逆の姿で少女の指先に現れるので、南西の島であることは分かる。それ以外、島を知る手がかりはない。時々現れるヤシの葉葺きの家屋の屋根は急こう配で、壁がなくあずまやふうである。素肌をあらわにしている島民が主なので、常夏の島の物語だと分かる。

主に演じられる舞台は大海船上、加えて呪いの内部そのものと故郷の島、その4領域だ。戻るべき故郷は小島のようで大きさはタヒチ島より小さいようだ。出舟の見送りの人々を観ると島民は80人弱のようだ。この地域の人々はいにしえから呪縛されている呪いを解き放ち、人々が行き交う、盛んな本来の島の姿を取り戻したいと願っている。そのことを実現するために大海に躍りでる冒険譚

舟は原型が右に貼ったような二艘を一体化し、船室を持つ帆船だった。色彩は青い海原に響き合うように茶色やあずき色を基調にし制作されていた。

人間には不可欠の食物のことだが、食べ物を共食するシーンは分かれの盃を交わす、ココナツ酒をくみかわすだけだったので、主食が何かは仕舞になっても分からないままだった。

飯は食わねど物語は動き続ける。登場人物たちは、何も食わないけどすこぶる元気なのだ。
人間なら喰う、寝るから始まるのだが、この物語に現れる者は食せずとも丸丸ぷよぷよしている。きっと魚系の油をふんだんに食しているのだろうと、想像した。いくらアニメとはいえ、共食の姿を美しく描いてほしい



タヒチ島webより


アニメに登場するオリオン星座
北半球とは逆配置
舞台となった島はあるの

100年以上の時の差はあるが、モアナ制作者とフランス人画家ポール・ゴーギャン。彼らが南半球の大海原にある小島をめざし舞台として描いたのはなぜだろうか。

ゴーギャン(1848・6・7〜1903・5・8)ポスト印象派の画家で、生きた時は第一次世界大戦前、貴族社会から民衆への権力移行期にあらわれた画家だ。1897年タヒチで制作した『我々はどこから来たのか我々は何者か我々はどこへ行くのか D’ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?』というタイトルの絵は注目されている。彼は根源的な問いを描こうとしたようで、画面に三つの問いを右から順に素直に描いている。

人間の誕生(赤ん坊)〜島での人々の生活〜老人(死)を、私には押さえた色調に見える、フォルムは具体的な人や動物を描いている。犬、猫、オシドリのような鳥 カワセミのような白い野鳥。地球上の楽園の生死を描いたのだと思うが、仏教でいう輪廻転生図にも似ているかもしれない。男性は立ち上がり果物を採取し、子供に与えコミュニティを維持するが、やがて若い女性の肉体の隣で年老いた老男になる、その老人はゴーギャンその人に思えるので、共感を得やすいだろう。フランス領の地上に楽園をみようとしたのは産業革命以降にあっては、西欧男性の一種の退廃、あるいは現実からの逃避とも受け止めることは可能だ。



2024年・現在、IT革命が加速的に進み社会構造の激変、(貧富の拡大と職業の消滅)と、グローバル経済による権威主義政治の台頭によって人々の分断と対立は露わだ。さらにアメリカ一強が崩れだし、不安定な地上の様が明らかにされつつある。先進国とグローバルサウスといわれる発展途上地域の利害の対立の溝は埋まらず、共存を成し安定した社会が訪れるとは想像しにくい。さらに一瞬に世相が流動化し、そのままSNSで可視化・共有可能な世になった。人々は「嘘でも平安な世があると信じたい、」その心境は理解できる。だが嘘で事実は改変できない。

このようような世にあって、情報を遮断し逼塞し平安な日常を手に入れたい、と思い込むのが人情だろうか。過度の成果主義と経済競争社会の呪縛から解き放たれ、平安な楽園に暮らしたいものだ!と夢想するのだろうか。現代人の呪いは、働いても働いても我が暮らし楽にならざり、ITが更新され続け仕事ばかり増える、家の中まで、布団のなかにも仕事は追いかけてくる。IT社会・・いい加減にしてよ、もう〜。労働の手かせ足かせの鎖から解放されたい、楽園に行って暮らしたい!
そんな今を生きる人の深層にモアナは絵ずらと共に応え、彼らを一時でも解放してくれる作品だと思った。(この点を強く言えば、ディズニーは商売じょうず)

映画の中の呪いは呪いか

モアナの暮らす島楽園にも伝説的呪いが掛けられて数千年のようだ。その呪いから島の人々を解放すること、それがモアナのミッションのようだ。予告頁には、「かつて人々は海でつながっていたが、人間を憎む神によって引き裂かれた。海の果てにある島辿り着けば呪いは解け世界は再びひとつになる」と表明されている。呪いの解き方の一例を示す映画のようだ。師走の地上にディズニーが贈る妙手はいかに、その手の内を公開する。

果たしてモアナの行動はどのようなものか、超スピードで展開するストーリーに目を回しながら追い、疑問に思うことが多かったので、次にその点をあらわしてみたい。


不沈島に代わる波間にただよう母舟

タヒチ島に関わらず、太平洋南半球にある島々は、帝国主義の時代には植民地として西欧列強に統治され、核実験場にされるなど、近代の呪いにつつまれている。さらに貨幣経済社会にのみ込まれたのち、独立運動が起きるのだが、独立しても本来の地上の楽園は戻らない、と想像できる。資本主義下に組み込まれるとその呪いからも解放されえない、仮の常夏の楽園となるのだろう。独立を獲得したあともグローバル経済の呪いは溶けない、世界資本主義経済からは脱出できないだろう。そのためには永遠に待つしかないように思うし不可能だとも思う。

そういう現実の社会があることで、アニメの意義は浮かび現世で二度イキイキするわけだ。極楽のような社会があったならば─地上には永遠極楽はない─と、思いモアナを鑑賞する人はいるのだろうか。布団の中まで仕事に追われし者は、楽園を獲得するために楽園探しに奔走する映画を観ることで、一時の平安を得るのかもしれない。人は一瞬でも夢を見たいのが人情だろう。

冒頭にも書いたがモアナが育った島には、呪いによって交流を閉ざされた、不沈島だ。モアナは巨大な箒星に誘導され、オリオンを羅針盤として不沈島を離れ、海の果てと伝わる、ダークサイトの島をめざす。映画でどちらも巨大な男・女1名で、2人しか住んでいない。魔力をもってあらゆる者を撃退してしまうということだろう。数千年の間、孤立しっぱなしの方々であった。

モアナの育った島の対極に絵かがれる呪いを掛ける者が暮らすダークサイトの島は、海の巨大な女性器、浮遊し続ける根無し草のような形状を模したのだろうか。呪いを解くための参集した島民一行は、そのダークサイト島の入り口から奥へと一気に飲み込まれる。とどんどん時間は遡上するかのように渦巻く。到達する最果ての神殿は子宮のようなもので、ダークサイトの魔王が暮らす、一人勝ちし、他島に呪いをかけることが生きがいとなり、数千年生き続ける孤独の魔王が住む宮殿だった。貧富をわかりやすく示すため人々の集いと、孤立する魔宮殿として示していたのだろう。

ダークサイトへ至る物語は映画の肝の部分なので省略する


ハッピーエンドはハッピーエンドなのか

モアナと仲間たちの活躍と奇跡がおきて、島の呪いは解け、周囲の島々との交流が一斉に起き、映画はお仕舞となるが、腑に落ちない。

他島の人々との交流がなぜハッピーなのか。現在起きている世界の大きな島・大陸と大陸の間に起きる交流によって起きる争いを観ると、人が集うことは争いの始まりで、これが現実だろう。だから現世には交流が始まってもハッピーエンドはない。常に争いと緊張のなかで人々の暮らしを継続され、世界が変容していく。これが事実で、アニメの中だけでもハピーにありたい、とする、その点に老人の佐藤は心や政策態度の足腰の弱さを感じてしまうのであった。(観客をあまく見ているのかもしれない)

さて、ではどう描けば本当の幸いある島になるのだろう、それを推測してみたい。


結末はどんなのがいいかな

感想が長くなってしまうので箇条書きにする。

まずは参集した島々の者たちが語り合う場造りから始まると思う、その場ではどんな事が議題になるだろうか。

@協力しあって呪いの本質を断つ
呪いの本質が何かは語られていないので類推するしかないが、島の人々の暮らしが平安で豊であることにダークサイトの一人住人は嫉妬している。そう解釈してダークサイトの2名も仲間にとりこみ、懐柔する。そして孤独の宮殿で数千年生きることの虚しさを感じたならば、その時こそ彼らを人らしく葬ってやる。(島葬とする)

A放置して静かに生きる
呪いの島の2名のことは忘れて、島々の人々と争いながら、争いのなかから豊さの芽吹きをみつけ、育てることを生きがいに生きつづける。

B自分の欲望を最大化するために活動する
島々の人々の欲望がなにかは語られていないのだが、南国の楽園で狩猟採取民として活動を継続し平安に生きるなら、その前に、他島の人々の暮らしを荒らさず、植民地化の防御方法を─呪いは解けたのだから─ダークサイトの2名から教示してもらう。そのことで呪いを他島に向けさせる。

C自由で開かれた正悪共存
考え方を共有し他島と交流しても傷つけ合うことのないよう、まずは島々間で協定し、次に実践し観察し、争いをなるべく少ない世をつくる法整備と、統治機構を初めにつくる。そして暮らしながら意見(欲望)の違いを整理調整し、妥協し合う関係をつくる。 

D格差解消
 島々の人と交流することで格差が可視化され自覚されると推測するのだが、その調査を行い、格差をなくすための話合いをおこなってから、交流することにする。まずは徐々に徐々に他島と交流を始めることにしてもらい散会する。

E文学作品の中にある、スティーブンキング地霊の呪いなどを研究しあうことで、困難を乗り越える学習を互い共有するにすることから、始める。

など他にもいろいろ思いつくが、きりがないので、この辺りでとめ、モアナの感想はお仕舞とする。

 2024年12月16日 佐藤敏宏