「高知工科大学の修士生及び学部生と語る」の感想 20220601 作成佐藤敏宏

学部生、院生の皆さまへ 

勉強や研究など忙しいなか、ふたたび感想を寄せていただきありがとうございます。建築を学んでいると「私にとってどのような、何の意味あるのだろうか?」と、ふと考えたりすることがあるかも知れません。そういう時にすこし長い視点で自分を相対化して見続ける態度をもつことで、解決できるように思ったりします。

「建築人」がお互い自由で共に生き続けられる場(=「建築」)そして時空を「建築スフィア」としておきます。共に自由で生き続けられる場を維持するために、人類は様々な模索をおこなって来ていますが、まだその場を発明する段階には至っていないのは、様々な戦争や政治的争いをみるまでもなく周知の現実です。

2011年3月11日に起きた東日本大震災と、原発事故による多重災害は人にとって安全な大地と安価で安全なエネルギーを求めた私たちの浅知恵が、私たち自身に災いを振りまいてしまったという悲しいできごとでした。ではそのような惨事が起きた原因は何か?それを知ることは予想以上に難しいと思います。なぜなら原子力発電所が出来るまでの詳細な経緯が政治的理由で記録されず、なかったり、記録があっても公開されなかったり、さらに系統立て記録を整理する人が、当時から現在まで不在だったりして、共有すべき同意を得ることができる記録に容易にアクセスすることができないのです。また地域住民が独自に作り共有している原発立地史のような歴史的資料がなかったりするなどして、原発立地承諾から事故に至るまでの全容を容易に把握することができません。
そこで起きたことは政治的な立場を守ろうとする領域の人々と、被災を経験的課題とし正そうとする人々との間に政治的な、裁判的な争いが起きることで、被災地では友と敵にわかれ多様な分断と対立が起きてしまいました。互いに自由に発言できる権利を保障されている日本人同士でも、意思の疎通がうまくいかず、分断したまま放置されている民主義社会における現状もあります。

分断や意見の対立が起きるのは「建築」を造る場合には日常茶飯事であります。源は記録が無く、対立が起きるまでの経過を振り返って共有すべき資料を持たないことが根幹にあったりします。

皆さんは「建築人」になられ、人間としての闘争、あるいは経済的空間における争いの場にいずれ参加することでしょう。記録作成することを習慣にしていただき、自分自身の記録を作り続けることで、闘争を勝ち抜いたり、将来、予想もしない驚きの発見や、現在は思いも至らない仲間や友人を得たりするような機会をつくる道具になるかも知れません。自身でつくった記録を「建築スフィア」に加えることで他者にとっても有効なもの事例になりますので、でそのことを事例をもとに見ていくことで、みなさんの感想の返礼とさせていただきたいと思います。

「建築人」としてお互いの個人史を皆でつくり、建築の歴史化にささやかにでも参加することを意識の片隅に置き続けることで、冒頭に示したような「建築を学んだり、生業とすることになんの意味があるのだろう?」という思いに対して、自ら答えを発明していただければ嬉しく思います。

そこで今日の感想に対する応答は視点を変え「記録」の実例を少しみていきたいと思います。さらに加え、被災者となっても人として1人でも暮をつづけられる社会を手に入れるため、避難所や住宅セーフティーネット法の現在ついてもお知らせしておきます。



はじめに 記録について

どのような記録でも、短い言葉・俳句や短歌、ちょっとした絵・スケッチのような時間を要さない記録でも、こっこっ作り保存し、公開しておくと予想外のことが起きる種になると私は考えています。後にその記録をもとに語り合うための資料にもなりますし、自分一人で振り返ってみるための基本資料にもなります。さらにまだ生まれていない他者や地球上に生きている人々、そして既に亡くなってしまった人々とも繋がり語り合うことが可能だと思います。
皆さんの感想を読みますと「暇をみつけてはさほど手間どらぬ記録をつくるべき」という気付きに至っていることが分かり嬉しく思います。

建築を学んでいる皆さんは、市販されている多数の(記録)建築専門書や建築学会が発行する『建築雑誌』、身近な知り合いによる博士論文などに接する機会が多いことだろうと思います。また大きなスクリーンに映し出される映画をPCモニターで観ることもあるでしょう。そこには時代を越え見知らぬ町並みや人物などが暮す室内外が映し出され、画像上の彼らの暮らしぶりが物語として進行するなかで、建築や都市について受動的にであっても知識化されたりすることでしょう。
「建築」はあらゆる人に不可分に存在する創作物なので、どのような媒体を通じて体験しても、楽しみ方は分厚い建築記録の体験となり日々皆さんの身体内に蓄積されていくことでしょう。そういう事だけ見ても「建築は楽しく生きた総合媒体だ」と言え、ますます建築を学びたくなるかも知れません。

みなさんにとって身近なところにある建築記録の事例をみますと、渡辺菊眞先生が学生時分から25年間の保存記録などをもとに、2019年12月開催された個展を思い出すことが肝心だと思います。先生個人が作った模型や図面を記録保存することの意義を渡辺先生の実例を通じて即座に理解いただけると思います。
渡辺先生を学生時分から見ているので断言できるのですが、渡辺先生は今日のような建築的教育者になるために作成・展示した模型などの資料をこっこっ作り保存していたわけではありません。自分自身の行為の痕跡である諸物を通して見つめるために記録化していたのだと推測します。25年間の建築的な記録物を個展を通して展示することで、日々の記録の意味とは違う意味が生まれていました。25年間を振り返って過去の自分の記録を改めて見つめることで渡辺先生自身も思わぬ発見をしたりして、驚いたことでしょう。
皆さんは大学で渡辺先生と共に暮しているわけですから、それらの意味などを語っていただく機会をもうけるなどして確認してください。

言うまでもありませんが、渡辺菊眞建築展を鑑賞された方なら、日々の記録を積み重ねることの有効性や機能、そして大切さを実感されたのではないかと思いますのであらためて個展開催時のことを振り返ってみてください。(佐藤が作成した渡辺菊眞2019年個展記録


ここから話は建築の記録作りからそれてしまいます。2022年現在、どのような人の身の回りにも手に負えないほどの記録が量産されており、それらに接するたびに疲労感をもってしまう方もいるかもしれません。加えてこの10年間では個人が発するweb記録が膨れ上がり、スマフォ(携帯PC)を見るたびに、その感を強くし「自分ための時間がなくなってしまう」と嘆き、短くて単純で強いメッセージに魅かれてしまい、記録作りの時間を流してしまう方も多いのではないかと推察します。



渡辺菊眞2019年個展記録目次


刊行:2020年5月30日
2020年10月05日

渡辺菊眞建築書 佐藤の感想文


■記録の数々。研究者各自の記録 皆で記録している建築学会誌面など 建築企業の記録 失敗体験を防ぐための法律も記録の一つだと考えてみる。



 絵は 現在行われている情報発信の例。トイレの中に入っても鍵垢にツイートしている様子。
      (瀧波ユカリ著 『
わたしたちは無痛恋愛がしたい』〜鍵垢女子と星屑男子とフェミオジサン〜第一巻より。

現在人は多種多様な記録群を避けては生活できません。量の多さと煩雑さに惑わされず記録づくりに参加し続けるにはちょっとした工夫が要ります。そこで長い時間を経て現在もある古い記録を参照にすることで、自分が、今、記録すべき内容とそのための手法を選択できるように思います。

繰り返しますが、先にとりあげました渡辺菊眞先生による25年間の建築的・記録保存の実例をもとに教えていただくのが身近な記録を作り残す一つの方法で、高知工科大の皆さんには最も適している実例のようにも思います。建築的記録といっても個々人によって多様で個性豊かなものになりますので、渡辺先生の手法や内容がみなさん自身には合わなかったり、志向(嗜好)に偏りが生じることも事実です。そこで今回は身近な時間から離れた過去の記録2例を以下に紹介します。

建築を学ぶ話からも、現在の時間からも外れますが過去の日本人の姿とその暮らしの記録です。半世紀ほど前に刊行された西山卯三著『住み方の記』と、150年弱昔に刊行されたイザベラバード日本奥地紀行』です。前者は建築の書籍なのですでに手に取った方もいるかもしれません。高知県にて生活されているみなさんには宮本常一さんの記録が好いのかもしれませんけれど、外国人であり女性の視線を通し日本の様子が詳細に記録されていますので、イザベラさんが記した150年前の日本人の体形や人口数とその暮らしぶりといった、建築に影響を与える要素を含んだ記録を手短に紹介します。


西山卯三著『住み方の記』について

みなさんは高知工科大学に入学され4年間学生生活をおくるためにマンションなどの部屋を探したことでしょう。その時に「1Kにするか?1LDKにしようか?」あるいは「3LDKを選んで気の合う三人で割り勘、シェア・ハウスにしょうか?」などと家賃と懐具合を照らし合わせながら高知の拠点を選択し決定されたことでしょう。

「DK」という考え方が生まれた経緯はすでに、ご存知かもしれませんが、それは、西山卯三さんが戦戦前(1945年前)京大の大学院に入学され、大阪の街をあちこち歩き回り記録を作ることで「食寝分離」の必要性を大阪の人々の街観察から実感を得、主張されたことがベースになっています。「食寝分離」の西山さんは必要性を主張された点が、戦後、東京大学の吉武泰水さんや鈴木成文に受き継がれ、1951年11月20日「51C型」を作図することで(下図)公営住宅の基本プランとなりました。

今となってはなぜこんなに狭い家が日本人の公共住宅の定型になってしまったのか?疑問を持たれるのは、敗戦期の生活を知らない私も皆さんも当然のそう想うことでしょう。



日本が15年戦争に敗戦したことで、東アジアの各地に暮らしていた日本人と兵士たちが日本の津々浦々に引き揚げ、629万人と膨れ上がり、住宅を持たない人が溢れたことで、住宅不足が起きました。そこで苦肉の住宅対策として、住宅をたくさんたくさん造る必要に迫られました。

「DK」を使った暮らしがあたりまえ、という認識が生まれた背景には「戦争に敗れて住む家が無い!」という悲劇的な現実があったわけです。基本になるべき「人間の安全保障」という視点なかったわけですから、住の質に対する内容は問わず必要数に合わせ、間に合わせ的に造られていたようです。そうして「狭いながらも楽しい我が家」そのような認識を生み出しました。根本は、敗戦による苦肉の策、その建築的事例が「DK」誕生の背景です。(現在でも狭いうえに天井の低いマンションばかりですね)


















敗戦後引き揚げ者数
・軍人+軍属 310万人
・民間邦人318万人
合計 629万人 
 左グラフと数を知るサイト 



















建築における「DK」誕生へ至る経緯などは省きますので、興味のある方は、藤森照信著『昭和住宅物語』の3DK誕〜計画学とダイニング・キッチン〜』を開き確認してください。287頁を開くと以下のようなブランが現れます。


(1950年11月20日 2DK公営住宅平面図  藤森照信著『昭和住宅物語』 287頁より)







右の書籍の表紙の絵は、関東大震災(1923年大正12年9月1日)のあと住宅政策推進の中心になっていた財団法人同潤会が建てた渋谷・代官山アパートの見下げ図です。家具などの配置は西山卯三さんの当時の様子で西山家の暮らしぶりの一端を西山さん自身が日々手描きされたもの一枚です。(『住み方の記』P136参照) 

拡大して皆さんの住んでいる部屋と比べてみますと、TV受像機が無い、風呂が無い、洗濯機が無いなど、気付くことが多いと思います。1941年頃の暮らしぶりで月給が200円で家賃は16円だったとあります(136頁)。80年後の皆さんが住んでいる家の家賃と比べてみると、どんなことが思い浮かぶでしょうか。高度成長期や経済バブルとその崩壊を経て現在の公営住宅の家賃と比較することで日本の戦後史を語ることも建築人には有効だと思います。
西山さんが1941年頃暮らしていた渋谷区の代官山アパートの平面図を下に示しておきますので、10年後に作図なった公営住宅の平面と比較してみても、物置が付いたり、シャワーとトイレが一体になったり「2DKになっている」など、面白いことに気付かれることでしょう。

1941年 同潤会代官山アパート
(西山さんの絵昭和40年(1965)刊行
西山卯三著『住み方の記』
ケースの絵









西山卯三さん寝室兼代官山会議室
 『住み方の記』143頁より
ついでに、2022年6月3日、Twitterから落ちてきたマンションの図を下に貼り付けておきますので、70年前の平面と比較すると、部屋数はあるものの、日当たりや風通しが悪い、狭いながらも楽しい夢の(?)我が家が続いていますのでご覧ください。(西欧からはウサギ小屋と揶揄されるので海外の住宅事情も研究するのもよいでしょう)

左絵:2022年6月03日Twitterより採取
 下は現在の3d作成の室内見下げず

 FB友が研究室の様子を作成した(?)(2022年4月14日) アイフォンで3Dスキャニングのアニメーション動画より 

手描き記録の例 (1941年 同潤会代官山アパート 西山卯三さん作画)手描き情報の方が整理されていることが分かる。


記録事例1 西山卯三著『住み方の記』を参照に、まとめ

住み方の記』は1963年の夏から雑誌「新住宅」に連載が始まり(8頁)単行本として1965年6月15日文芸春秋より刊行されました。

手描きをともなう記録の内容は西山さんのお母さんの家から始まり、生まれ育った大阪西九条の実家の記録、学生寮生活、下宿、兵営、新婚時代の代官山アパート暮らしとつづき、戦時下の京都での生活、戦争が終結した1945年、西山34歳の暮らしの様子へと展開し、「すまいの今」1964年の西山卯三53歳までの住経験までの記録集になっています。

西山の記録には当時の人々の暮らしぶりという戦前・戦後の住生活文化が記録されてもいて、読み手の住経験や暮らしぶりとの比較が簡単にできる点が興味深く、現在の生活文化と比較することで「建築」とそれを生み出す社会背景や「住」そのものについて考える手助けにもなる記録です。あまりにも分かるので、西山の奥さまからは「プライバシーの侵害だ」としばしば抗議をうけたともあったと記されていますように、身内から抗議がおきるほど赤裸々なのです。西山さん家族の日常のままの記録となっているということです。だから西山の記録は半世紀を経た現在の暮らしと比べることもでき、将来の「住」を考えるためにも多くの気付きが多くあるのだと思います。

身の回りの事物は、時間を経ることで生き続ける事物と消滅する事物の区別がつけにくいものです。ですから建築人は現在の事物を時間のフィルターを掛け観察する習慣を身に付けていることが肝心だと思います。そうすることで今あるけど消滅する事物を見通せるようになるのだと思います。「建築」は長い時間生き続けますので。目前の熱狂や流行りに動かされて建築を造ってしまうようでは、自らの記録と、生き続ける建築との関係を照らし合わせることもできないでしょう。

『住み方の記』を刊行する以前に西山さんが数十年かけながら手描きで残していた記録の全てが掲載されたわけではないでしょう。けれど、編集前の資料の様子を想像することは可能ですし、半世紀後の私たちの暮らしぶりと比較することで、今後展開するだろう歴史のベクトルを推察することもできます。西山のような自分に合った技で記録を作り続ける行為は創造行為の一つなのだがとも気付かされます。

現在は、手描きの絵や文章が苦手でも、デジタル写真あるいは3Dスキャンの画像や短い文章を携帯電話に打ち込むことで記録データとして、またはSNSに投稿保管しておくこともできる、便利な道具が発明されて続けています。やがて1週間ごとにまとめるなど、自分のための記録をAIが支援し完成させ続ける、そんなことは誰でも簡単に実行できる世が到来すると予想しております。

手描きのよい点

3D画像と比べて手描き絵の好い点は「無意識に自分がもっている点は記録されない」ということです。意識してしか見えない物や暮らしぶりの様子を脳が選別して外部化している点だといえます。デジタル画像や音声は意識外の無意識も写り、採り込んでしまうことが多いので煩雑になります。デジタル情報は意識外に得てしまったそれらを他者に伝えるためには、不要なデータも多いです。3D参照図のように何でも有るのは何もないと同じ状態になってしまいます。そこで、時間を惜しむ他者にとっては整理編集されていない記録は、思ったより煩わしい記録になっていることが多いかもしれません。

他者にとって有効な記録は、何を撮り保存するのか?撮影前からそれを明確にしシャッターを押す(事前編集)ことを繰り返し、体験を積んで勘が働くようになるかも知れません。その点を考慮しつつ「建築」を学んでいる皆さんだから、継続できる記録作成は手描きの絵か、デジタル絵などかを選べばよいのだと思います。

その際、建築における身近なテーマを決め、形式を整え、自分の得意とする持ち技を活かし、簡潔にまとめ、記録を継続することで、皆さんの「建築」の暮らしぶりは地に足が着いたものになっていくよういに思います。

西山さんが手描きの記録を作り始めたことは戦後「DK」を中心にした公営住宅を作図することが目的ではありませんでした、「そんなことは夢にも思っていなかった」はず。ですが、他者に伝わり「DK」を生み出しました。(吉武泰水さん鈴木成文さん)ました。(「DK」が生まれたことの良し悪しはここでは棚上げしておきます)

ここでのまとめは、西山卯三さんの自身の手描き記録を知ることで、記録することに目的を持ち込むことは合理的かもしれないが、建築に多様性を生み出す源泉にはなりにことに気付く必要があるということです。皆さん自身がもつ技で淡々と記録し続けることが、時を経て波紋をもたらし、さらなる明日の人間にとっての自由を確保しつづけるために不可欠なる、そういう効果(気象でいうバタフライ効果)を持っていて、未来の人々のよき(悪しき)効果を生み出す始まりの行為になってしまう可能性が高いということです。








1955年ごろの住宅公団の団地開発映画
そう想うと既に亡くなってしまった他者の記録を知ることで、自分自身の手が作り出した記録が、まだ生まれ来ていない未来の人と繋がってしまうこともあります。そのような事を想像することも記録する愉楽の一つだと思います。永井荷風著「にぎり飯」は家族を亡くしてしまった男女の話ですが東京大空襲で被災した人々がどのような「おにぎり」をどういう状況下で食べたか分かります。

さらに言えば前回の記録で示したように、高知工科大学に入学することで渡辺菊眞先生と仲間たちになった、そのご縁を活かし続けることが自身の生を豊かにする始まりの第一歩です。ですから菊眞先生と仲間たちで語り合う場も創出し、他者に伝えながら、卒業後も研究室に仲間と纏まり連携し発信することが、自身の豊かさをつくり保つことになるでしょう。その行為端緒が自身の身近な記録作りなのだと気付くことになれば嬉しいです。


 朗読「にぎり飯」


ここで一息いれます。
「King Gnu - カメレオン」


記録事例 2 イザベラバード著日本奥地紀行』について

近代の国民国家の始まり、つまり明治維新(1868)から150年ほど経ちましたが150年前に日本列島に暮す人々はどのように暮らし生きてきたのだろうか?150年後の暮らしはどうなるのだろうか?それらは想像しにくいものの一つです。

過去の暮らしぶりや人々の行いを知るためには、イザベラ・バードさんのような外国人が日本人の日常的な姿を相対化した記録を参照にするのもよいと思います。現在の自分の記録作りの手法を磨くために役立つと思いますので簡単に紹介します。

どうしてかというと、今日の身の回りを見渡し誰でもが着ている洋服だとか、朝飯に食べている食物を日記に書き事細かに残しておこうと思わないです。あんまりにも当たり前すぎる日常のなにげない様子は記録しな残らないので想像しにくいものの一つです。

150年前の、新婚さんはどのような姿でご飯を食べていたのか?(右の絵参照) 記録に接する機会がないと思います。ですから遠い昔の暮らしぶりと現在のそれを比べあれこれ想ったり、語り合う機会は少ないと思います。ですが、今日に至った暮らしぶりを知らずに、明日の暮らしに思いをめぐらすベクトルを見つけるのは難しいと思います。これから150年後の新婚さんはVRグラスを身に付け、サプリメントを食べているのに寿司を食べてる気がする、そんな姿の暮らしぶり、食文化の激変が起きているかもしれません。
今まで築いた暮らしのベクトルを知り、その地続きで未来を想いつつ「建築」を考えるためにも、古い写真や旅行記などに助けてもらうのがよいのだと思います。

イザベラ・バードさん47才は1887年(明治11年)横浜に上陸し、伊藤鶴吉さんを通訳とし雇い、異国の女性一人で牛馬の背に乗り(右絵参照)、あるいは徒歩で、本州の内陸・東京から東北を経(福島県内は会津盆地の西側を北上)蝦夷までの旅の様子を記録しました。彼女の著書は完訳され『日本奥地紀行』として1880年に刊行され、我が家の傍の福島県立図書館も所蔵していて、借り読むことができます。内容は研究書ではありませんが「当時の旅先で日本の様子を妹と親しい友人たちに書いた書簡を中心とする形式にした」。(完訳日本奥地紀行1-P26)とあります。

イザベラ・バードさんが横浜に上陸直後の記述を写してみます。








 お膳 副食物がほとんどない!


幕末、馬の背に乗り移動する武士
『蘇る幕末』256頁より。馬も現在の競走馬しか知らないので、当時の馬は足が短く背が低いことが分かります
(男たちと小人

上陸してまず印象的だったのは浮浪者が一人もおらず、通りにいる男たちが小柄で不格好で、顔は人が良さそうだがしわくちゃで貧相で、蟹股で猫背で、胸がへこんでいるように見えるものの、みな自分の仕事をもっていることだった。上陸用階段をあがった所に屋台が一つあった。小ぎれいで、実にこじんまりとまとまり炭火を使う七輪と調理器具と食器が揃っていた。ただあたかも人形が人形のために作ったものであるかのようにみえた。屋台の男の背丈も5フィート(152p)に届かず、小人のようだった。関税ではヨーロッパ風の青い制服を着、革の長靴をはいた小柄な役人の検査を受けたが、非常に礼儀正しく、トランクを開け注意深く調べた後、紐で縛り直してくれた。同じ仕事をするニューヨークの関税のあの横柄で貪欲な連中と対照的で、面白かった。(以上写しでした)



 屋台店


上の絵は幕末期の農村の子供たちの様子です(『蘇る幕末』より)この絵の子供達は和服を身に付けていますが、イザベラさんの記録によると大人も子供も1年中、同じ服を着ていて風呂に入らないので皮膚病が蔓延しているとあります。

また、宮本常一著『イザベラバード奥地紀行を読む』によると布地を織るためのは植物から繊維をとりだし、糸に撚り、その糸を機織(はたおりり)で織りあげ、布地にし、着物として仕立てると4ヶ月ほどは掛かったようです。ですから織物機械が発明される以前は、身に付ける物を作るのは大変な労力を要したわけです。1人当たり1年1着の着物を新調することは困難だったとあります。

建築で言えば平らな板をノコギリで挽きだすのが大変な労力が要り貴重品だったようなものと同様ですね。

布地は貴重品ですから地方では裸で暮らしている者も多かったようですし、着物は京都や大阪などの消費地から古着(のこりぎ商法という)として地方の人々に古手屋(ふるでや)を通じて各地に渡ることで、継ぎはぎの布で一着の着物に仕上げ、それを身に付けていたようです。推測ですが、作るのが大変で貴重な着物はほとんど洗濯したりしない、風呂に入らない。それは水汲みが重労働で困難だったことや、風呂を沸かすための燃料の薪を集めるのも重労働だったからでしょう。そうして蚤や蚊などの害虫にさされて不必要にひっかきますと、薬も無いので皮膚病になり放置していたとのことです。(皆さんは蚤にくわれた経験は無いのでしょう)


(身長と人口増について)

イザベラさんの横浜の抜き書きを見るように日本人の身長は「男の背丈も5フィート(152p)に届かず、小人のようだった。」とあります。

2020年現在の平均身長は172p(厚労省webより)。だとすると日本人男性は1887年から150年間で20p伸びたことになります。

日本の人口は明治維新時(1986年)3、330万人、敗戦時(1945年)7、199万人、2010年12806万人がピークとなり、12年前から人口減少は加速しているのは周知のことです。 (表webサイトより
 
人口が4倍にも増えると同時に各人の身長が伸び続けた因は富国強兵、殖産興業という政策によるものと、それを支えた日本人一人一人の食料増産などの努力によるものでしょう。

敗戦後の身長と人口の倍増は、栄養源・食物の海外依存や家畜の飼料などの海外依存によって、人も田畑も栄養のバランスがよくなったことが基になっていると推測いたします。いわゆる戦後の高度経済成長政策に相当しています。その当時も工業化された米国の畑で生産された小麦やトウモロコシや小麦などの安い輸入食物や、工業生産された化学肥料と農薬の散布などによる日本にもたらされた農業の効率化による結果でしょう。現在も食べ物もその移動も海外のエネルギー、つまり原油に依存し続けています。東日本大震災後も再エネによる日本・自前のエネルギーをもとにした将来の日本の姿を示し見せてはいません。

今は多くのエネルギー源を海外に依存していますが、皆さんが主に活躍する30年後(2050年)、その時は水素などの再エネと日本独自に改良し工業化した農漁産物が日々の栄養源となっているのか?それは不明です。食い物とエネルギーがなくなり人口が減り平均身長が20p縮んでいくのでしょうか?みなさんにはそのことを確かめる楽しみもあります。ですから2050年日本人はどのような暮らしをしているのか確かめ「建築」に活かしつつ皆さんの次の世代にも伝えていただきたいと思います。



イザベラバードさん
 絵:ウイキペディア
 写真はこのサイトにあります 

 (記録について まとめ) 

多くの人は日々記録をつけ暮すことは常態化していないことでしょう。しかし建築人は多くの人々との関係の中で建築を構築するための方を身に付けなければ成り立ちません。スケッチや模型づくりに始まり、設計図等、施工管理記録、それぞれの工程に合わせた写真など多数の記録を作り続ける、ある種、変わった職能です。そのようなことで皆さんの長い人生は多量な記録を造り続けることになるでしょう。ですから、記録の意味を考えることができるように150年間と時間を伸ばして観てきました。

「建築スフィア」とは建築に参加していると想像し続ける建築人の内部に生まれ続ける可能態のことです。だから観たり触ったりすることはできません。建築スフィア(渡辺菊眞研究室の友)に参加していると、誰でも自由に平等だと意識することが、現世の多様なしがらみから開放され「建築」を思いつづけるための源泉の一つとなることが可能なのだと思います。

建築や社会から開放され自由に生きるための一つの手法として、建築スフィア内にある、一人一人の建築の記録だと思います。自分がもつ生という時間の縛りから開放され、想像力が枯渇することを防止するための、答えと仕組みもそこにあると思います。
これからは、遠い理想目標に惑わされることなく、身近な建築記録をつづけていくことで、私利や組織利や会社利から開放されことでしょう。さらに淡々と記録し、照らし合わせ語り合いを続けることが楽しさの源になると考えています。



 格差あるいは階級社会に日本における住政策などの現状の課題一例


 (避難所と〜住宅セイフティーネット法について )

被災した人々を対象に応急的に(災害救助法)支給される避難所や応急仮設住宅(住宅営繕課で造る)ならびに民間住宅を借り上げ仮設住宅(既存住宅活用)について興味をもっていただきありがとうございます。

私たちは火山噴火、津波や洪水などの自然災害、さらに原子力発電所などを含む人災に遭うと、何時でどこへでも避難せざるをえなくなりますので社会的弱者に対する住につて少し書いておきます。

避難所は仮設住宅に入居可能になるまでの間の支給品だと、理解されている事と思います。続いて応急仮設住宅は被災者が恒久住宅を取得するまで支給されるもの同様でしょう。ですが、大きな被害に遭い職も失ったりした被災者に仕事を斡旋し将来の生活の基盤を保証するような支援制度はありません。恒久的な新しい住宅を確保できたとしても、新しい住宅のある周りの社会やその地域で好い人間関係を構築のために地域を理解するための学習支援(生活慣習や伝統行事、方言や地域の歴史などを学)してくれません。ハウスレスは解消しても生き続けるためのホームが無い様は解消しないなどの問題があります。様々な理由で誰でもが孤独な路上生活者になる可能性があるにも関わらず、そのような弱者に対し公的で複合的な支援策が無く、現状では血縁者による支援に政府が頼っていることになっています。血縁者に頼らず被災者が自立できるまでの支援制度をつくりる努力が成されていません。

そこで、未来において誰でもが弱者に成った場合の総合的な人間の支援を想うために、すこし視野を広め人間の安全保障という言葉や住宅セイフティーネット法について記しておきます。皆さんがつくりだす未来の暮らし方や、そこでの住宅のあり方を模索するために参照としていただければと思います。


人間の安全保障について) 

人間の安全保障」という言葉は外務省のHPに以下「・・」のような説明がありますので引用しておきます。1990年代初頭に緒方 貞子さんが雑紙などで「人間の安全保障」について発言したことで私は知りました。

・・・「人間の安全保障とは,人間一人一人に着目し,生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り,それぞれの持つ豊かな可能性を実現するために,保護と能力強化を通じて持続可能な個人の自立と社会づくりを促す考え方です。グローバル化,相互依存が深まる今日の世界においては,貧困,環境破壊,自然災害,感染症,テロ,突然の経済・金融危機といった問題は国境を越え相互に関連しあう形で,人々の生命・生活に深刻な影響を及ぼしています。このような今日の国際課題に対処していくためには,従来の国家を中心に据えたアプローチだけでは不十分になってきており,「人間」に焦点を当て,様々な主体及び分野間の関係性をより横断的・包括的に捉えることが必要となっています。」・・・・




















緒方 貞子さん

以下動画 2021年現在の議論


人間の安全保障という捉え方で社会を作り運営する方法を編み出すことは、国際的で総合的な今日の人々の共通の課題の一つです。

日本国民に対する「住」に関しては「住宅セーフティーネット法」=住宅確保要配慮者に対する賃貸住宅に関する供給促進に関する法律という長い名前の法律にもとづいて定められています。法はつくったが具体化がおくれ十分に運用法や仕組みが整っているわけではなく、たびたび改正し、模索改良の段階といえます。運用は都道府県や居住支援協議会と市町村などが窓口になり、後に示す住宅要配慮者(日本人)に対し相談や支援などを行う政策です。

この政策が実施されようになった起点は働き盛りの40代の男性が団地で1人で亡くなるという事実を日本国民の多くに警鐘をならした「ひとり団地の一室で」(下埋め込み動画)という公共放送のドキュメンタリー作品です。「孤独死」問題に焦点を当て2005年9月に放映に公共放送(NHK)された、鈴木秀文さんの作品です。戦後のサラリーマンにとっての夢の住宅団地が半世紀後に孤独死する住宅に変容していたわけです。

孤独死は住宅建築の問題ではないと言えますし、住宅計画の基本構造が起こす問題でもある、ともいえる問題です。ですから、これからの社会で建築的行為で暮らしづくりをしながら「建築人」なろうとする者なら知るべきことで、今後、解決すべき多くの課題を発見できると思います。(空間を造っただけでは人は豊かには生き続けられない)

ひとり団地の一室で」とYouTubeで検索してみましたら、見つかりましたので埋め込んでおきます。

ひとり団地の一室で
2005年9月に放映
YouTubeにありましたので埋め込んでおきました。

 21世紀の成熟した日本で、孤独死した人はハウス・レスじゃなかった?!というショッキングな事態が2005年以前に発生していましたが、当時はそこに光を当てイシュー化されていませんでした。光を当ててみると、働き盛りの男性が家は有るが死から数か月間も長い間!誰にも発見されず放置される、孤独死を多くの人が意識するようになりました。

繰り返しますが、この状況を世にしらしめ警鐘を鳴らしたのが「ひとり団地の一室で」。孤独死を世に知らしめた舞台は1955年ごろの住宅公団の団地開発でうまれた、千葉県松戸市にある夢の常盤平団地(確か皇太子夫妻も見学しちゃったはず)です。当時のサラリーマン家族にとっては「超憧れ!の夢の住宅」でありました。その半世紀後の家の現実の姿が「ひとり団地の一室で」という記録映像として私たちに残されました。

現在は下図に示すように、単身者世帯が4割となり、老若を問わず1人暮らしが多くなり、ハウスはあるけど暮らしている地域やとりまく社会と無縁で生きる、心はホームレス状態ででしょう。やがて暮らしていくためのホームが無い1人暮らしが多くなると推測します。

住宅セーフティーネット法は2017年9月5日成立しました。この法律は住宅要配慮者を定め一定の住宅家賃などの支援をするための法律で、路上生活者を救うための法律にはなっていません。
今世紀に入り日本の住政策は公営住宅の建設をやめ、民間住宅(市場)に依存するように方向転換がなされました。公営住宅の建設から民間貸家住宅へと政策を転換し何をもたらしているか?そこに焦点を当て言いますと、民間住宅を持つ大家さんは孤独死を恐れ、1人暮らしの高齢者や仕事を持たない若者の入居を拒否する場合がとても多いということです。

また住宅付きで雇われる派遣労働者は、景気変動などで雇用期限がないようなものでいつでも職場から切られてしまいます。そうすると派遣会社による提供住宅を追い払われ瞬時に住宅を失います。新型コロナが蔓延し多くの経済活動が止まってしまうと派遣労働者は真っ先に解雇され、それまで住んでいた家も職も同時に失いました。職と住が無い人に民間の大家さんは住宅を貸しませんので、住所が無くなった人には生活保護も支給されません。このような事実は日本の経済政策が生み出す人災とも言えます。日本政府の無策が生み出す人災だと言い換えておきましょう。

このようにして現在の日本社会に生まれる住宅弱者は、自家用車の中で暮したり、路上生活者になっていくことは容易に想像できると思います。住を与え職業を得る支援を与えるための対策を具体化する組織や人がいないのです。路上生活者の半数は知的障害をもつとも言われ、法律も知らないうえ住所をもっていたとしても生活保護申請の手続きを自分では出来ないことも周知のことです。家や生活保護を得たとしても孤独で暮らしていれば、亡くなっても葬儀をしてくれる縁者をもたないなどの事態が発生します。

人は一人で生まれ、1人で死んでいくとも言えますので、1人世帯が40%も占める日本においては、孤死した場合に葬る作法を政策的につくりだす必要があるといえます。1人で暮らしていても不安なく死んでいける社会づくりが要ります。
日本における人間の安全保障に似た政策はまだつくられていませんが、北九州にあるNPO法人・抱撲(ほうぼく) (奥田知志理事長)の複合的な支援活動を知ることで、みなさんがつくりだす建築などによる未来社会の姿の一端を、かいま観ることができるように思います。

記録の最後に動画を埋め込んでおきますので時間のある時にでも眺めてください。


住宅要配慮者は地方時自体が定める主な対象者
福島県の場合

・身体障がい者 ・知的障がい者
・精神障がい者 ・子育て世帯
・外国人      ・DV被害者
・ひとり親世帯  ・生活保護受給者
・低所得者    ・犯罪被害者
・児童保護施設退所者
・刑余者  




NPO法人 抱撲 (ほうぼく) (奥田知志理事長)


人を大切に社会づくりを30数年実践している「抱僕」作成の動画

「助けてと言える社会へ ー 抱樸からのメッセージ」

今回の応答は以上でお仕舞です。皆様の今後の活躍などを期待いたします。またお会いしワイワイできる日を楽しみにいたしております。
 佐藤敏宏 2022年6月吉日