長崎漫遊 2024  出島 (史跡:出島阿蘭商館跡)
作成:佐藤敏宏 2024年7月
5月29日  07日本二十六聖人記念館  08出島 08の1 出島の様子
09オランダ坂 10 グラバー邸11中華街  12 長崎市から空港へ 13羽田着 
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08の1 出島の様子

赤瀬浩さん講義・要約

はじめに
長崎は特別な町で自然にできた町ではなiい。秀吉や家康、昔の時代の国策によってできた町。国策に従い長崎は江戸と同様、幕府直営の都市として成長した。長崎の住民は、将軍のお膝元の江戸の住民、と言われた。江戸の1/20の規模、現在も東京中心部の1/20ぐらい。江戸の小さいものを長崎に持ってきて、江戸と同じような仕組で政治を行った。現在も江戸東京と一番よく似ている町は、長崎。

江戸でできなかった外交など、いろいろなシステムを長崎で試した。ですから先進的なものを学ぶ機会があった。結果、明治維新後の国づくりが停滞しなかった。それは長崎で培ったノウハウと、長崎の人材が、全国各地に一斉に散り、関税政策などを伝えることができ、明治の国づくりのスタートダッシュできた。

明治維新に日本が戸惑うところを、小さな長崎が明治日本を救うことになる。一番大きいことに税関の仕事がある。長崎会所といわれ、出島には税関の役目が決まったものは無かったので、役所のいろんな部署の人達が集まって税関的な仕事をやった。

南蛮人とは

元亀2年(1571)ポルトガル船が長崎にきて、その日を開港と決め歴史に残った。通称南蛮船は、ポルトガルの人々だけじゃなく、多種多様な民族が乗り合わせた船。ポルトガル船はポルトガルから出港するが、途中でアフリカ、アラブ、インドなどの多様な民族の人が乗って長崎にもきた。彼らは「南蛮人」と言われた。シンドバットが履いていたズボン、アラブを航海してときに「このズボンは便利がいい」、と船員が履いた。ポルトガルの衣装じゃない。ポルトガル船は途中でいろいろな文化を取り込み、長崎にやってきた。

通行料0.5%の日本

元亀2年は戦国時代の終わり。当時、ヨーロッパは関税意識があった。貿易を盛んにして関税を獲得する、重商主義。いろんな政策が行われ、武力を背景に拠点ごとに税関を設置したのがポルトガル。税関を設置し、その収入を王室の財産とし本国に持って帰る。マラッカ、マカオなどでもそうした。
当時、日本は安全運行に対する通行料として、積船とか、載量の名目で積荷の0.5%を徴収してた。ある地点からある地点まで、安全航行を保証するもので、用心棒費用の役割。関税を徴収せず、通行料程度。これが日本の実態だった。

大村純忠(長崎領主)は長崎に寄港する船から、長崎で収められる関税の話を聞いた。関税を自分たちのものにしたい、と彼は思った。当時の諸藩でも関税の考えがない。関税は西洋人から聞いた、と思う。西洋では2%〜3%だが、純忠は10%よこせ、と吹っかける。関税は大村純忠によって初めて日本で考えられた。



絵は、オランダ船が曳き船に曳かれ長崎港内に入ってくる全体図。左右に見える帆に横線が付いている船が、検視船。監視業務でオランダ船の前後左右に付き、長崎港に入った瞬間から出るまで、監視を続ける船。それが検視船。


鎖国は後は、キリスト教徒と関するものの対策

当時を鎖国というが「鎖国令」は存在しない。鎖国はいろいろな禁止事項の積み重ねの結果、鎖国のような常態、国を閉ざすような状態になり、後に「鎖国」という上手い単語を考えついた。
厳密に禁止されたのはキリスト教と、それに関わる物。キリスト教に関係する人と物を入れないようにする、その対策の結果が「いわゆる鎖国」キリスト教に関係ないか、とその視点で輸入品を全部チェックした。輸入品は日本側で値段をつける。それが気に入らなかったら、積み帰りなさい、と言う。納得したら商売に入る。

長崎で将軍のこのみ海外品の買い物

将軍の買い物係、御用物係が長崎にいて将軍の買い物、頼まれていた物、注文していた物、積んで来たなかに将軍が真っ先に欲しがるような物、それらを奉行所屋敷の大広間に置き、原価で購入する特権があった長崎の存在の一番は将軍のお買い物を容易にすること。それが幕府が期待していた要点。キリスト教を禁止しても将軍の買い物が長崎でできる。そうして長崎の町の性格ができる。

砂糖の関税200%で長崎の役所運営資金

税関は無かったが、例外に砂糖は200%の掛かりものを用意した。掛かりものは今でいう関税。1kgの砂糖が1000円ぐらいで入ってきた。200%の掛かりものを乗せると、3000円になる。流通の過程で運搬する費用と、手続きの料金を加えて5000円ぐらい。関税を通過して砂糖のみ流通していく。砂糖貿易は利益が大きかった。砂糖の利益を役所の費用の基盤にし、長崎のいろいろな役所を運営した。

長崎に住んでいる住民は、恵まれていた明治に入るまで、無役、義務が何もない。働く義務もなければ、なんの義務もない。それから無税無税商売といい、税金もかからずにどんな商売もやってよかった。そういう特権を持っていた。長崎が成り立ち、同時に特徴となった。

オランダ船のようす

下図は出島の沖に停泊しているオランダ船。キャピタン(船長クラスか)が乗っている。日本の役人、荷を下ろす人足、荷物を下ろす船。魚をなかに入れているので、食料
オランダ船は100人ぐらい乗っている。だがオランダ商館、出島に立ち入れるのは10人ほど。残りは入港から出港まで沖のオランダ船のなかで過ごす。食料を供給され、水を供給され出港を(2ヶ月)待った。
オランダ船は木造で帆が高い。上のほうに重心が移動すると横倒しになる。だから、船底に必ず重い物を載せなければならない船底に積んで来たのが砂糖、船底に積み替える物は日本産銅の塊。



入港し、簡単な手続き、台帳とる。荷役をする、帳面上あっているかを調べる。箱が何個あって、人員が何人いて、上陸するまでの簡単な手続きをする。
陸に上がる品物は悉皆検査と
精荷役をする。荷物を全部ほどいて、全部帳面に書き込む。書き込みながら、これは幾らだ、と値段と、品質、A級だB級をつける。

例外は、出島のキャピタンの手荷物。それは一切検査しない。キャピタンは自由に持って来てよかった。だから、ものすごいポケットの付いたコートを着用し、べっ甲などの珍しい品物を山ほど詰め込んで、キャピタンは上陸する。歩けないぐらいの重さだったという。何十キロを超える物を身に付けてキャピタンは出島に上陸する。

これが手荷物検査。手荷物を持ってくると長崎では贅沢な暮らしができたので、一生懸命持ち込もうとする


『「株式会社」長崎出島』P86からの抜粋
オランダ船の滞在は旧暦の7月から9月にかけての約2ヶ月が通常だった。10ヶ月間は出島の仕事も暇になり、商館員たちは工夫をし余暇をすごしていた。・・・


87頁・・・女性もオランダ人の心の友だった遊女は、例外とらえていたので、出島の出入りには意外と多くの抜け道があった。
出島はオランダ人にとっては暇と戦う孤立した監獄だったが、日本人にとっては出島の内部は海外への入口だった。



出島の水門、荷揚げなどの様子─荷揚げ積みなどで2ヶ月ほどの滞在。

復元した出島の水門はオランダ交易の正門。出島の出口、一方は入口、海からの水門。入口と出口が決まってた。水門は出入国ゲードの役割
絵は手前の人足が重い銅を運び出している。右側の入口は砂糖を船で運び、門を入っていく。水門の周辺に役人がたくさんいる、彼らは今でいう税関の仕事をする人たち。




 (水門と表門の位置図 国会図書館蔵)

江戸時代の出島の(税関)仕事

長崎会所は長崎税関の前身。長崎奉行所の仕事は税関が主。長崎奉行所は今の税関庁の仕事をやっていた。長崎奉行のなか特別に奉行所付といい、長崎に住んでいる現地採用の武士が選抜され、彼らが主に税関の幹部になった。もともと長崎は武士が少ない所で、そこで仕事をさせるため江戸から武士を連れてくるのは大変。で、現地で浪人を雇った。彼らがは遠見番唐人番を務めた。
遠見番は遠くからくる船を見張る役。鹿児島県の甑島(こしきじま)の先、180kmぐらいを、遠見番は毎日眺め、船を発見する。寄り道しないようにも遠見番がいる、監視所がありそこにも務めたいた。
唐人番唐人をずっと監視する役。唐人屋敷の世話をする。それから船番。長崎の電車の千代町から宝町の東の辺りに御船蔵町があった。御船蔵、幕府の海軍の基地があった、そこに所属する船で唐人船を監視する。陸に上がると船番と町使で警察と税関的な活動を引き受ける。波止場に役所があり詰め、出入りを監視する波止場番。出島に行けばオランダ通詞もいた。

出島番は
ガードマン、出島町人などの見守唐人屋敷には唐通詞唐人番唐人屋敷探り番見守がいた。

長崎会所は各種の目利きも筆写もする。目利きは物の真贋を定めたり値段をつけたり、価値をだす人。一つ一つ商品を手にとって筆写(役人)がメモしていく。出島で仕事に携わった人はたいへん多い。

出島の水門内側

出島水門にたむろしているのが船番と町使。刀を二本さしているから武士。茶色の羽織を着た人はオランダ通詞です。船には必ず見守がいます。途中で抜け荷をしないように必ず乗り込んでいく。大事な荷物にはオランダ人も乗り込んでくる。銅をどんどん積み込んでいく。積みこむのは役人と見守の間に監視され、数を数えられて、1本たりとも持ち出しをしないように監視する。

交易品の砂糖も同じで、オランダ人はしっかり見ている。砂糖を万が一こぼして地面に落ちて使えなくなってしまったら、信じられないが運んでいる人達のものになる。よろけたりこぼしたりを平然とし、後になって「こぼすのは勘弁してほしい」。ということで、最初からこぼす分として彼らにボーナスをあげるようにしていた。これが長崎の特権の一つです。
共通しているのは日本の役人もオランダの係の人も荷物に一切手を触れていない。



水門の内側
(出入国ゲート)の様子

復元されている水門から出島に入った商品は、役人の立会のもと計量や検査をする。立会の役人は手を触れない日雇人足が触れる。日雇いはすごい特権があった。普通の町人はなれない。収入も多く、日雇渡世をやっていると、長崎では、ぜひ嫁にもらってください、と言う人が多かった。絵の上では品物の目利をしています。一つ一つの商品をチェックし、帳面に写します。キャピタンがそれを見に来ている様子

船番、日雇い、目利などが税関てきな仕事をする。そういう役人がいて、初めて荷物の運び込みができる。出島では、誰がこの仕事をやるのか決めていた。一つの仕事、小さいことまで決め世襲で務めたので、プロフェッショナルな仕事だった。



この絵は出島の水門より少し中の様子。水門が右上にあり、水門から中に入った広場です。水門から輸入してきた品物を運び入れる。そして、広場で商品を広げ検査したり、計量もする。そのための広場。小さい物は屋内で計量できるが、砂糖籠は小さいもので120kg、大きいものは240kg砂糖袋は60kg。砂糖を出島に持ち込み計量する。初めに中身じゃなくって籠とか袋全体を測る。袋や籠から出して後にその籠と袋を計量し、引き算をして輸入量を決める。それが済んだら砂糖籠がまっさきに砂糖蔵に入っていく

航行中に嵐に遭うので、オランダ船で砂糖を運んでいると、船底に海水が入ってしまう。そのときは船底の中が溶けた水飴状態になる。商品にならないはずですが、それも汲み出している。

砂糖の値段と関税200%、売値は5倍

長崎では砂糖1kg1000円ぐらいで入った。ですから、長崎では砂糖を使う料理、お菓子などが手軽に作られ、長崎はスイーツの発信地になっていく。

中央の上のでは薪を測っています。薪はオランダ船の燃料として積み込む薪です。オランダ船が入ってくると同時に輸入品を運び入れ、輸出品を運びだす。そういう作業員が要るので出島には多くの人が必要。作業にもそれぞれ役割がある。

絵の下部、中ほどの黒い紋付き羽織の人が船番町使。何しているかというと座って全体を見ている。商品に触ると、責任が生ずるということ、それは昔からの決まり。

筆写の人がメモしています。出島町人や商人たちが測っている。商品に触るのは日雇いたちで日雇いは物も運ぶ。日雇いの人たちは専門職として信頼されていた。




幕府は出島で唐人と貿易をおこなわない
 唐船、唐人は個人貿易(冒険商人たち)



次に、唐船との交易の様。

唐船の貿易とオラン船の貿易は根本的に違うオランダは国と国の交易唐船は国と国の貿易ではない。唐人は個人の貿易家が長崎に来る。長崎でも唐通詞の人たちが、ことに当たる

唐との貿易は検視、税関的な仕事、荷守で、船の後尾と前を見ている。唐船に近づいて来る人や作業をしている人を、不正をしないかどうかをチェックしている。荷守はプロです。ちょつとした動きがあったら、すぐ不正は分かる。同じように役人たちが船に乗っています。唐船たちは、日本の役人と日本の人足を信用してない。で、唐人たちも乗り込んでくる。荷物が搬入搬出できるように乗り込んでくる。

唐船は面白い造りです。頑丈で遠洋航海もできる船。日本で一番初めに小笠原諸島を探検しに行ったときに唐船と同じような船をつくつた。その船で遠洋航海し小笠原まで行った、唐船はいい船です。

荷物の出し入れをし。唐人は踏み絵を踏んで、初めて唐人は長崎に上陸できた。

新地荷蔵の水門(唐人専用)

これが新地の水門。新地の水門は、現在の長崎バスの本社のあたりが入口でした。そこからも運び出す荷守だとか、いろいろな役人が門の向こうでも待っている。新地荷蔵の水門の中で、唐船で運んで来た物は分類する。

手回改場は貿易品ではなく、手回り品として持ってきた物、それを全部改める。手荷物はすぐ唐人屋敷に持っていかなければいけないので、ここで改める。

正式な貿易品は荷蔵にそのまま入る。荷蔵に入ると悉皆調査をする。荒道具は大きい物。


手荷物回の改場


手荷物は全部籠に入れたり袋に入れたりする。船番などが細かいところをチェックし筆者は、左手に墨壺のようなものを持ってる。右手に筆を持ってる。「改」ろチェック済みの改を書く。白い物には赤い墨壺を持った人が改と書く。赤い箱には白い墨壺を持った人が改と書く。改と書くとチェックしたことが分かる。



新地の荷蔵から経由し、初めて唐人屋敷の中に持っていく。唐人屋敷に行く、出口です。今でいう新地の角から関内のほうに行く横断歩道の場所に当たる。座っている船番町使、楽ですね。日雇いが運ぶ。


絵のように集積されていく。ここは新地の荷門といわれる場所。荷門にも探番がいて、ボディーチェックしている。いろいろな物を持ち込まないようにしている。
絵の探番を見ると、唐人たちのボディーチェックしてる。探番は唐船から新地まで一緒に乗ってきて、唐人が服のなかに何かを隠してないか、チェックする。改めるとたいがいなにか隠してる。世襲ですから、探番は隠している唐人は分かる。その人の挙動を見て探番がボディーチェックをする。



持ってきた荷物は「改」が書いてある。この箱にも改と書いてあるのでチェック済。改は唐人屋敷に持っていっていい物。ここでもう一度チェックする。お酒とか味噌とか醤油とか、身の回品。




荷門の中に通常は朝市がたつ。魚とか肉とか、ここで商っている絵。

許可を受けた長崎の住民たちが許可証を持っていて、その人達が大門の中から入って広場で商売する。日用品や食料を売る。これが昔の長崎の人々の商売です。絵のうえには豆腐屋鴨かな、鳥を売っている、隣には魚屋野菜売り。も売っています、もも肉があるから豚のもも。長崎には豚いました、丸ごとも、解体したものもここで売った。燃料の薪。右上は紙売、日本の紙はたいへん質がいい。土瓶食器。有田焼の店もでる。


これはマーケット、長崎の唐人屋敷の前にあった。中国のお金で商売したり、日本のお金で商売したりする。外貨が流出したり、いろいろ入り込む。で、ここだけで使える通貨を作る、銅銭です。銅銭をつくる場所が銅座だった。銅座は唐人屋敷で使う銅銭を造っていた場所。ここで流通し銅銭は本国のお金に換えたり、日本のお金に両替した

右下の絵は買い物にわざわざ出て来るだけの人のために探番がいます。探り番が怪しい人、どこに隠すかは分かる。一番多いのは遊女の出入り常時、200〜300人の遊女が出入りしていたので、全部ボディーチェック。帯の中に必ず、なにか隠す。だから最初から帯をさせないんで、帯なしでいきます。

髪の毛の中に隠したりします。連れの小さい禿・かむろの体に隠したりする。でも探番は一発で当てます。

小さい小銭とか、指輪とか、そんなものも探し当てます。手紙もたくさんあります。たいへん厳しい。

それは抜荷の捜査です。(絵がない)抜荷は長崎港の沖合での抜荷、今でいう女神大橋のあたり。オランダ船や唐船に漕ぎ寄せて直接、密貿易をやっていたりする。規定量の積戻し船、たくさん積んできた船は半分だけ荷をおろして、半分持って帰れ、といいます。持って帰るわけに行かないので、どこかで誰かと商売する。いろんな港、港に寄ったりして、沖合で船と接触してる。これらを摘発する。

琉球薩摩系の密貿易の摘発

薩摩藩の領内に入って捜査をすることも可能でした。今で言えば、長崎税関が鹿児島の中に入っているのと全く同じ。漂着をよそおった抜け荷の防止と摘発がよくあった。漂着は天草とか人影のないところに、難破した、と言い密貿易を行う例が大変多い。

大阪あたりまで出て、流通している抜荷品を捜査しますと、質が違う物が出てくる。これは長崎のものじゃない、と、分かる。それを辿っていき、どこから来たのか、捜査をする奉行所付町使船番による直接的な調査は、御用ですからどこでも出入りできる。密偵や隠密、おとりを使った捜査もやる

抜荷をいかに防ぐかが幕府の方針だった

一例です、元禄14年の話です。船番がいます、現在の税関に当たるような者、足立彦之信という船番が、銀2貫500目、だいたい500万円ぐらい、その銀を体に隠して持ちだそうとしていた唐人、船員を発見し、とがめだてした。挙動がおかしい、開けてみろ!。荷物を監視し、とがめだてした。ところが、唐船の他の船員が何をするんだ、と彦之信を船の上に引き摺って、散々に打ちすえた。身の危険を感じて刀を抜いて唐人一人に傷を負わせた。唐人たちは怒って彦之信を海に投げ込んだ

えらい騒ぎになります。

騒ぎになったら唐人たちは、たいへんなことになった、と思うかもしれませんが逆です。事件が関内に伝わって騒ぎが大きくなって、どこに怒るかというと、乱暴をした唐人への船番は正当防衛です、が刀を抜いて、傷つけたことに怒る自分たちが抜荷している行為は棚上げにし そっちに怒る

たびたびこのような騒動はあった。奉行も業を煮やして、唐人は何人とも切り捨てても構わない、という指示をだした。ところが、唐人を処刑したり、積荷を取り上げる、という武力が幕府、長崎奉行所には無い座って対応する役人しかいない唐船の船頭や船員の来日を禁止する処分しかできない。唐人は国外退去だけです。唐人屋敷の内側は実質、治外法権だった。日本の役人は唐人を扱うときに、たいへん気を使った。なにかあると徒党を組み乱暴をする。ですから簡単な仕事ではない、いざというときに命をはったひとたちが船番。