司馬遼太郎 自己解剖の勇気 (自己を絶対化する癖がある日本人 20230524佐藤作成

昭和を曲げた自己絶対化

司馬:今日は最終回であります。何か最終回らしい意義のあることをお話しようとは思うんですけど。なかなか思いつかないですね。

このあいだ友達とお酒を呑んでましてですね。面白い人工英語というか日本英語ですか、聞きまして。友達というのは大阪に住んでいおる在日韓国人の人でありまして、非常に教養人であります。私より一つ上でゲン・ブンシュクという市民でありますけれど。

私のことをちょっと褒めてくれましてですね。「司馬さんはトランネーションである」と。ゲンさんがその場でつくった英語だと思うんです。電柱に上がっているトランス、変電装置。スイッチで行ったり来たりできる、意識のうえでいったりきたりできる・・・というのは意識のトランスであります。意識だけではなくって荷物が湊を出たり入ったりするのをトランスポートと言います。輸出入のことであります。



以下絵 動画より
そういうように褒めて頂いて嬉しかったのは、私は青年期にさしかかる頃から自分を訓練したきたことが一つありましてね。

中国のことを考えるとき中国に生まれたら?自分が中国人だったら・・というように心から、そういうようなつもりになる。そのためには中国のことを少し勉強しなければいけませんが。朝鮮のことを考えるには自分が朝鮮人だったら・・ということを想う。あるいは自分が在日朝鮮人だったら・・と。沖縄問題がありますと自分は那覇に生まれた・・・とか宮古島に生まれた・・・というように考える訓練というものは過不足も、若い頃から自分に対してつけてきたことでありますので、そう褒めてもらうとちょっと嬉しかったわけです。

もう60を幾つか過ぎましたもんですから、褒めてもらったところでどうっていうことないんです。ですが、日本人はつい自己を絶対化する癖がある・・・ということを今日はお話して、それが昭和を曲げさしたんだと。まだ明治人は自分を相対化する能力があった

それは日露戦争までの間は日本人は全員がノイローゼでした。極東の小さな国の資源もなにも無い国で・・・どうやっていくかと。漱石などはロンドンで本当のノイローゼになって帰って来るわけであります。そして大学の先生を続けることももの憂くなって辞めてしまう。また日本のことを考えると自分が見てきたヨーロッパと全く違うので「こんな日本がどうしてなんとかなるんだろうか?」と。「なんとかならないじゃないか」と。何を考えても憂鬱。漱石のロンドンにおける憂鬱というのはむろん彼自身が英文学をやってよかったかしら?と。漱石というのは本当に漢文の好きな人でしたから。漢文を漢詩を好きな人でしたから。英文学というものも非常に秀才でしたけれど、それに少しずつ生涯を託する精神の気迫を失っていたのではないか?と想うんです。

具体的なことはロンドンで日本人であることを晒しておる。言葉も漱石の言葉はそんなに流ちょうな言葉だけでないですから、今の英語のできる青年たちから比べたら漱石の会話の英語というのは実に重いもんだったと思います。なにやかにやで、漱石という人はやはり、不機嫌。で、とうとうノイローゼになっていく。

自己の絶対化をし始めた昭和初期

それが明治期でありましたけれど、それだけで相対化する、自己を絶対化するというようなことだけで良しとしていない処がありました。昭和初年の軍人とかその他の人、あるいはジャーナリストも含めまして自己の絶対化を盛んにし始めたことから見たら、明治人というのはやはり大きいと思います。

この本は誰の本だったか忘れたんですが、私の読んだのは戦後の牧野伸顕(1861ー1949)の談話が出てたように思う本であって、昭和2年の頃だったか記憶で喋っているんですから曖昧です・・・ある英国女性が日本に永く住んでいてやがて帰る、というので横浜のホテルで皆さんが、ささやかな、ちいさな、小人数の送別会をしたらしんです。列席者10数人の人は日本のいわば各界の偉い人。重鎮といった人であって、彼女が横浜から出て行くについて、「日本はどうなるでしょう?」と「あなたの意見を聞かしてほしい」。彼女は「滅びるでしょう」と言ったというんですね。

牧野伸顕
牧野さんと思わしき昔読んだ本の中身は彼女はこう言うんですね。「ヨーロッパの国々は生まれつき比較ということを知っておる。例えば軍事においてもですね、フランスは昔から砲兵が上手・・・というか発達しておるわけであります。ナポレオンの昔から砲兵のお得意なところです。歩兵はドイツの方が上であります。それはフランス人も知っていて、ドイツ人も知っている。イギリス人は陸軍はさほどにお得意ではないにしても海軍は大変なもんである。

そういやって自然と比較してものごとを考える基礎にしているんだけれども、今日、これは撲の記憶では昭和2年の話ですから、「今、軍人は小さくなっているけど、やがて私の見るところでは軍人が日本の政権をとると思う・・・」と。

そのとき日本の軍人は地方の、田舎かから出て来て幼年学校に入って、その士官学校を陸軍大学と閉鎖社会に入って、しかも日本陸軍が世界一だと思っている、比較を知らないもんですから。そういう人々が政権を執ると日本は滅びざるを得ない・・・と彼女は言ったと。だだそれだけの話であります。

この場合には比較、自己を絶対化することをしないようにすると。私の今回の話、テーマーに上手く沿った話なもんですから。記憶の中からお話申し上げたんであります。

孫文─覇道主義をすて王道主義へ

自分を相対化する・・・いうことでもう一つ例をあげますと孫文。これは中国革命の偉大なる父と言われておる孫文ですね。

孫文という人は中国人の知識人にしては中国的教養の少ない人でした。貧しい家に生まれて、お兄さんがハワイで成功しているものですからハワイでだいたい中等教育を受けたもんですから。いわゆる中国の主体府の学問というものはあまり身に付けていません。孫文はよく頼まれると「行為下天」てんかこうとなる、という四文字を書きましたが、天下は中国のでしょうね。天下は公のものだと、みなさんがその気分になりましょうということですが。

孫文という人は日本と縁が深くって日本が好きでした。この人が、南中国にいまして北中国の方に一世一代の大きな仕事で行きます。革命の動乱の中国の中にあって孫文は北京に行かざるを得ない。いうので南中国を船で・・・中国は広をござんすから北上しようと思ったら、止めて神戸に来ちゃったんです。孫文はその年、その翌年死ぬんでしょうか。もうすでに癌があったころで─孫文自身は知ったいたかどうか知りませんけれども─お医者の学校を出た人ですからあるいは知っていたかもしれません。

遺言のような演説をしに。神戸に上陸して今の神戸高校の前身の一つなんですけど、神戸女学校という県立の女学校がありまして。そこに講堂があって。今の日本のようなたくさんの人間が入れる公会堂はそう無くって、講堂で講演したわけであります。千人とか千数百人とか人が集まったんですね。そうして、だいたこの辺りの大阪・神戸辺りの新聞各紙が共催して賑やかな講演会ができて。非常に人々に感動を与えたんです。けども孫文のような人の─次に要約しますが─言葉もですね、時勢に対して有効な時もあれば虚しいときもあるんですね。








孫文はまず「今から30年前はアジアで一つとして独立国は無かった」と。これ、大正13年、1924年の話ですよ。1924から30年引いたら明治27年になるのではないかと思うんです。明治27年は日清戦争の時であります。日清戦争の直前に条約改正がおこなわれて日本は不平等条約をうまく解消してしまったわけであります。

孫文はですね、井伊直弼が幕末に、安政条約ですね。開国をして安政条約を結んだ、これをもって日本は植民地になったと。

平然と解釈しているのは非常に大きいと思います。ご存知のように、私は明治のことを話すときに「植民地時代である明治」なんて言わなかったです。植民地時代である明治維新・・・そんなことは言わなかった。日本人は思ってもいなかったです。

だけど、安政条約はですね、各国が横浜なり神戸なり居留地に例外的にどんな犯罪をしても、日本政府はそれに対して裁判することはできない、逮捕することもできない。裁判権は向こう。関税は向こうの自由のまま、という、要するにこれをもって植民地とするんだと。

よく上海租界という、中国では「租界」と言っていますね居留地のことを。租界と言えばねいかにも植民地の臭いがするんです。居留地と言えば横浜モダニズムとかですね、港の見える丘とかですね。神戸の北野の異人館とかですね。何かモダンな感じがする。これはね、日本人の暢気なところである。居留地すなわち不平等条約、すなわちある意味での植民地であります。



孫文は日本は苦心惨憺して各国と交渉して明治27年にようやく条約改正をして、そして平等の国際的地位を得たと。その日本をアジア元年にしておるわけですね。

で、中国は今でも独立性を持っていないと。我々は独立国たろうとするんだと。で、日本は34年間ですか、安政条約から30数年の植民地時代があったが、それを跳ねのけては,跳ねのけ、今日ここに明治27年から独立国だと。

孫文の演説を読むまで、そういう具合にして見るのか!?と、よく知らなかったです。今でもピント来ないですね。だけど孫文の目から見たら明治27年までの日本人は威張っていても、つまり半植民地国家と言えるんじゃないでしょうか。

これはやっぱり行き来する頭、トランスの頭がなければこうは言えないし、孫文の言うこともひょっとすると不愉快になってしまって「日本は明治維新の時にもう独立国ですよ」と言って憤然と食って掛かるかもしれませんけど。こういうふうに食って掛かったところで、人間しょうがないので、人間の精神というもは自己の信念の中に精神がある、落ち着くわけです。しかし精神の枝葉は相対化していないと人間というのは見にくいもんであります。そしてまた、暗くなっちゃうもんである。

孫文は、それまでの日本も半植民地国で中国と同じ状態だったと・・・明治27年までの日本も中国と同じ状態だったと。こういうように言っておるのは面白いと思います。

でまあ、孫文はそれをい言うために言っているのではなくって、その後の日本は大正13年の話です、この講演は。悪名の高い今は太始史(?)と言わないですが大家(?)と言います、21カ条の条約を受け付けてですね、中国に対して土足で踏み込むような利権主義の、帝国主義の国の姿を大正期に日本は表し始めています。孫文はそのことは一言も言わないですね。

要するに西欧の覇道主義、帝国主義のことでしょうね。日本は行こうとしておると。しかしそうじゃなくって、我々と一緒に王道主義でいかないか?と。王道主義というのは相せめぎ合わない・・・ということを孫文は言うわけですね。どっちを採るかはあなたたち日本人がお決めなさることでしょうといのが講演の締めくくりの言葉だったわけです。

王道:仁徳を本とする政道、情け深い政道
これは後になってイタリアファシストに酔心してしまう中野正剛が、中野正剛は民権論者でした。元々は民権論者だったと思いますが、非常に感動して中野正剛がこの講演に感動して、日本の行く道は決まったと・・・いうような文章を書いてます。非常に名文です。

その中野正剛がその後、イタリアのムッソリーニふうに少し影響され、やがて太平洋戦争のさなかに東條英機のやっていることに対して痛烈な批判をして、東條から、東條の憲兵によって迫害を受けて自殺してしまいます。非常に、どういいます、中野正剛というのは今のところ、右翼の思想家のように思われていますけども。そうじゃなくって福岡玄洋社(1881〜1946)というか、なに社というんですかね。大陸伸長の民権派が右翼化していったグループの一論客と考えていいと思うんです。

中野正剛のことで話をとってもいけませんが、中野正剛といえどもこの講演に感動し、聴衆はことごとく感動したんですけれども(講演後)日本は別の道を行ったと。


日本画変になった切っ掛けといえる『日露戦史』編纂

日露戦争(1904〜1905)が終わりましてですね、日本が変になって来たということは、何回か申し上げました。

その変になった最初のことは『日露戦史』というものの編纂でした。『日露戦史』というのは参謀本部が凄い金を出して全部の資料を集めてですね、1人の優秀な大佐に編集長、編纂委員にさして、そして編纂したんです。それは実に愚劣な・・・何巻もあるんですよ

私は昭和27年に大阪の道頓堀の天竜(漢字不明)という古本屋さんから買ったんです。上の方にずっと『日露戦史』がありましてですね「あれを買おう」と思って行ったら紙屑のような値段でしたよ。「こんなものを欲しいんですか?!」と言うんですよね。私はこれの評判の悪さは聞いてましたから、ちょっと悔しくって「中に地図が一杯あるのが嬉しいんだ」といって格好はつけたんですけども。こうして帰ってきて何年もか掛かって読みました。読んでもなんのイメージも湧かない。不思議な戦史でした。立派な本ですよ、造本としては。

それはちょうど貝塚茂樹さん(1904〜1987)京都大学の名誉教授の東洋史の貝塚茂樹さん、湯川秀樹さんのお兄さんですね。まだ、貝塚さんたちのお父さんが小川琢治という京都大学を創設されたときに地質と地理の教授でおられた人で。その前は農商務省の技官でした、地質関係の技官でした。


旧陸軍における戦史編纂 −軍事組織による戦史への取組みの課題と限界−PDFへ 以下PDFより

大島健一(大島浩駐独大使の父、1858-1947)が編纂指導・・大島は・・それまでに形成されていた多元的な編纂枠組みによる編纂対 象の狭隘化を促しただけでなく、批判的叙述の制約を強化することにより、軍の威信を 保つことを優先した編纂を目指したのであった(注:参謀本部「日露戦史編纂綱領」(明治39年)(防衛研究所図書館所蔵)

日露戦争が始まりますと、総司令部が児玉、大山児玉(?)の総司令部に椅子を一つもらいまして、それが小川卓琢治博士でした。

後で青島、これは第一次大戦に日本はどさくさに紛れに参戦して、ドイツ領だった青島を攻略してそれを占領。その後日本の純領地にして、そこに守備隊を置いて、そこの守備隊長です。これは閑職もいいとこですね。日露戦争史の編纂をした大佐がおったわけです。小川博士が青島に行って会うと「あなたは随分優秀な人と聞いたけども、こんな閑職にいてどういう訳だ」と言ったら。私(大島健一ではなさそう)はあの悪名高き日露戦史を編纂したからだ。

編纂した(内容の改編)のはですね、一杯将軍たちがやってきて「俺の言うことをよく書け」と。「俺のあのミスを書くな」とかですね。散々言ってくるわけです。それは勲章とか昇給昇進とかにも関係がありますからね。しかも下級の一大佐としては言うことを聞かないとまずいんで。できるだけ言うことを聞きつつ正しいことを書いているうちに、正しい部分はみなの気にいらない。それで袋叩きに遭ってとうとうこんな敗所の月を眺めておるんですと。いうような話だったそうです。

いかにも、日本が悪くなろうとしている、最初の坂道を堕ちていこうとしているエピソードとして非常に象徴的だと思います。

第二次世界大戦史編纂の米軍の姿勢と防衛庁のそれ

アメリカの例を挙げたってさほどの意味はなさないんですけれども・・・アメリカは第二次大戦が終わりますと、すぐ ─これは誤りかもしれませんが─ スタンフォード大学かな?どこかの大学およびその教授たちのグループ、歴史学者に全部を委託してしまったと。「第二次大戦の戦史を書いてくれ」と。全部資料を渡した。つまり第三の専門家に全部任せた。これは「自己を解剖してくれ」と言うのと同じであります。私のお腹は痛くも何もないんですが、どうか解剖してださい・・・と言って解剖台に載るのと同じ勇気が要るわけです

それを日本人は ─そういう場合の勇気の─ 日本人はいいところあるですけれども、自己を解剖するということについては実に臆病なところがあります。第二次大戦が終わって敗戦になってしかも日本の戦史は依然として防衛庁がやっている。第三の、つまり歴史家たちに委ねてないわけですね。怖いわけですね。自己を解剖するということはこんなに、軍人というのは勇敢でなければならないし、勇気をもたなければいけないですけど、自己について解剖されることについてはどんだけ臆病な人たちがいたか!と思うぐらい臆病であります。

これは日本人全体につていもいえます。そのジャーナリズム、これは今の大佐は1人の歴史家ジャーナリストとして解釈してもいいんですが、置かれた職務からして。日本のジャーナリズムも明治期、大正期は元気のいいジャーナリズムがありましたけれども、自国を解剖する。自国の政府を解剖したり、自分自身を解剖したりジャーナリズム自身まで解剖したりするような勇気があったかどうか? それはあったとは思いませんですね。

日露戦争というものは実際はどうだったのか?と・・・日露戦争が終わった後、それほど高度に発達したジャーナリズムではなかったんですけれども、追求する能力があったとしたらですね、太平洋戦争というものが起こらなかったのかもしれません。

つまり、あれは際どい処でいろんな政治的な手を打ったからよかったんで、日本が強かったわけではないんだ。日本はよくやったけども、そして兵士たちは勇敢に死んでいったけども、しかしあれは危ういところでこうだったんだ・・・と。それはこういう手を打ったから救われたんだと。そして海軍の非常に優れた日本海海戦の勝ち方もですね、実際はこういうデータが有ったから勝ったのだ・・・と、いうことをクールに客観視して自分を絶対化せずに、相対化して書くジャーナリズムがあるとしたら ─新聞雑誌だけでなくって個人の作者でもいいですが─ 太平洋戦争は起こらなかったと思いますね。

自己の絶対化によって満州事変以降は自己の絶対化をすることによって、国家を誤っていくわけですから、そういうことなかったと思います。

長い沈黙

昭和への道 精神衛生に実によくない歴史

私は「昭和への道」も書いて喋っておりまして、しかも昭和というものに ─私も確か63才でありますが、64才かもしれないですね─ 昭和というものを書く気が起こらず書かないだろうと思います。そんなに喋ったなら書いたらどうだろうと言う人はいまして、しかしその気はまったく無くって、おそらく書いたら1年を持たずして私は発狂状態になって内臓まで狂って死ぬんじゃないか・・・と。

昭和というのは実に精神衛生に悪い、書いておって精神衛生に悪い、実にそういうものをもっています。

それをどなたか若い人が昭和を解剖してくれたらいいんであって、その切っ掛けとして喋っているようなもんですね。

敗戦時に佐野に

私は敗戦の年は23才だったと思いますが、栃木県佐野にいました。いわゆる満州にいたんですけども、本土が危なくなったというので、連帯ぐるみ内地へ帰ってきて、九十九里浜と相模湾に敵が上陸するかもしれない時に、そのための戦車連隊としておったわけであります。

で、結局敗戦になりました。私の中隊長西野ギョウという人でした。私と同じ年じゃないかと思います。士官学校を出た人ですから大尉でした。今でも付き合っていますから。西野さんがですね─そのことを覚えているかどうか知りません─ 「これは戦争ではなかったな」と、23才の西野青年が言うわけであります。彼はプロとしての教育を受けてきまして戦争らしい戦争というものを、太平洋戦争の進行のなかで見た事がないわけですね。
つまり一方的にやられているわけです。これは戦争らしい戦争じゃないと。実際23才の青年でも敗戦のときにそう呟かざるを得ないことを昭和の日本国はやったわけですね。

なぜか?と言いますともし昭和史を私が書くとしたら半分は戦争のことを書かなければいけない。戦争というものはですねやったりやられたり・・・いわば対等の競り合いであってですね、一方的にやられるということを書いていたら変になりますね。
一方的にやられるような事をなぜ?したんだと。

つまり太平洋戦争というものは昭和16年の12月に始まるわけですけれども、日本陸軍及び海軍がやったことはですね。南方その他の島々に兵力を分散することでした。それはどういう訳か?石油をとりにいかなければいけない・・・とか、いろいろのためでした。兵力を分散する。で、敵が来るのを待っているような、そしてそれを一つずつ潰されていくのを待っているような、簡単に言えばそういうもんでした。

そして正当の開戦もなく ─正当と言ったらおかしいですが─ つまり開戦らしい開戦もなく、力不足の・・・力不足という言葉も当たらないですね。つまり日露戦争は戦争だと言えるんですけども、太平洋戦争あれが戦争だったか?と。

偏差値教育、秀才教育のはじまり

私どもは明治元年に国際社会の中での一つの国になったわけです。ですから、これを国家および社会および一民族の発達というものを1人の人間に比べることができるですね、置き換えて考えることができるので。

やはり100年と少しですから太平洋戦争を始めるのは明治70年ごろに始めるわけで、その準備段階では明治60何年ぐらい前後で用意しはじめる。で、明治国家をついに潰すわけですけれど、そういう未熟な、未熟だったと。

とにかく、日本というのは世界史で不思議な国で、ヨーロッパの臭いの無い地域にヨーロッパと類似の国を与えて、しかも、今はだいぶん妖しくなりましたけれども、東洋の良さというものを残して、少なくっても明治期は残してきたわけですけれども。

繰り返し言いますけれども、一種の秀才教育とか、偏差値教育いうものは日露戦争の後に始まっています。つまり薩長が壟断(ろうだん)しておった権力社会に喰い込んでいくのには、陸軍大学出なければいけない、東京大学法学部出なきゃいけないという気分はとくに乗り遅れた藩に多くってですね。それらがペーパーテストで秀才のいい太鼓判を押してもらうとですね、出世していくと。そういう江戸期離れ、江戸期がもっておった財産は精神の中から大正時代は廃れてきまして昭和になると、江戸期の臭いはほとんど遺産は食いつぶしたようなもんですね。

今のような酷い偏差値論議の社会じゃないんですけれども、それにしても大正期には既に偏差値論議が一部のクラスで行われておって。別に金持ちだけではないです、軍人は一銭も金の無い家からでも出ます ─それはほとんど秀才をタダで教育するシステムが陸軍のシステムですから─ そして貧しい所から出たから貧しい人々に同情があるとか?アジアンの人々に同情があるとか・・そういことは無いですね。

(偏差値教育は)ただ、異様な人物を出してしまう

それは人の国の痛みが分るとか、人の民族、他の民族の歴史に対して荘厳な思いを持つとか、いうような教育を一度もしたことが無い
(注:偏差値教育や教育制度の問題を指摘相手の痛みを理解できる者、身につまされる、他人事ではないと思える人間へ教育のへ転換せよとの伝言である)

それは軍人の学校だけでなくって、他の学校をもおそらくそういう教育をしたことがない。したことがなくって国際社会の中で明治以後ですね、よくここまでやってきたと思う。

だけども太平洋戦争といろいろもの凄いミスがありました、ありましたけれども、アジアの諸国に随分迷惑をかけて、結局は後々まで、日本人はものを考える、日本人は少しずつ引け目を持って生きていかなければいけない、それだけの事をやってしまったわけなんですけど。

しかしそれもこれも入れてですね、一つの民族が、単一民族がという意味ではありませんが、まあまあ、いい線をやってきたと、いうことは言えそうですね。

(注:アジア諸国に迷惑をかけたことを忘れるな!の伝言)
言えそうですけれども、これからは世界の人間として、我々が付き合ってもらえるようになっていくには、まず真心という、これは日本人は大好きな言葉ですね。

真心とうものを世界の人間に対して、そして自分自身に対しても持たなければいけない。そして相手の痛みとか相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、それは自分がその国で生まれたがごとく、よく知っただけでなくって、いろんな事情から国家構造とか、相手の民俗的な行動が出てい来るもんなんだと。相手の社会の現象も出てくるもんなんだと。いろんな事情というものを自分に身に摘まされて感じる神経ですそういう神経の人々がたくさん日本人の中に出てくることでしか、日本は生きていけないんじゃないかと。前の回も偏差値加熱状態、偏差値に価値感の大きなものを、そこに置いて、人間とか社会には随分多様に価値があるにもかかわらず、何というか。

高知県のこと

今、ぽっと思ったのは、私は坂本竜馬の土佐のことを随分書いたもんですからね。私も偏差値というのに紛れ込みまして偏差値論議のなか、頭の中で紛れ込んで高知県というのは全国の最下位なんですね・・・に近いですね。

どうして?あんなに面白い非常にダイナミックなものの考え方のできる風土の土地が?偏差値教育の場では全国の最下位に近いんです。お隣の愛媛県は最上位に近い。同じ四国のなかでどうして違うんだろう?きっと土佐の人間には偏差値という社会は合わないんじゃないか。

で、1人の女の子がいましてですね、今年のことです、高等学校出たばかりの子ですが、高知の子です。まったく偏差値社会と関係無い子なんです。

日本とう国は息苦しい」と言うんです。どうして、どこかの国の人と結婚したいと。日本の社会は私にはとても住んでいけないと。これは高知といういわば大らかでダイナミックでそして、潔いところのある県はですね。

面白い人もたくさん産んできました。革命家だけでなくって、自由民権運動家だけでなくって、高知県っていうのは明治以後文章を書く人、名文家がおおござんした。漱石が可愛がっていた寺田寅彦という物理学がいますね。いらい大町桂月とか、それいらい非常に文書のうまい人が多かった所ですから、そういう知的な才能においても面白いものをもった県が、どうして日本の事務局長養成型の偏差値社会に合わないのかと。

これは大きな何かを暗示してことだと思うのですね。こんなことは僕の心配することではなくって、これは言い放しにして、前の回でしたから、言いましたように、若い人がもし聞いてくださっていれば、その人が考えて、その人が考えることであって。私はちょっと宿題というよりかそかなヒントを1人喋っておるだけであります。

12回よく、しゃべたもんだと思いますながらく、こういのはどう挨拶すべきなのか聞いてくださってありがとうございました。


(動画のお話はお仕舞となります)



絵 WEBより寺田寅彦 


絵WEBより 大町桂月