にぎわう街角で

トマトやホウレンソウなど軒先いっぱいに並ぶ新鮮な野菜、広島名産のレモンに自家製漬け物。観光客や買い物客でにぎわいの絶えない新宿・神楽坂。大久保通りとの交差点に近い一角に、八百屋と見まごう一軒の広島風お好み焼き屋がある。永川清さん(74)経営の「くるみ」は、カウンター中心で二十人も入れば満員の小さな店だ。

店内では、娘夫婦が調理する甘辛いソースのかかった広島お好み焼きが食通を惹きつける。そして店頭では、永川さんが各地で買い付けた野菜が地元の主婦らに人気だ。道行く顔見知りらと声をかけ合い、尋ねられれば気さくに料理の仕方などを教える。「どうやって食べてもおいしいじゃない? 漬物でもいいし生でもいいし」

永川さんには意外な過去があった。かつて広島で、地域の商店街の先頭に立って大型店舗の出店と戦い、多額の和解金を勝ち取ったのだ。

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独立志向、順風と逆風

永川さんは岡山県に生まれた。両親は米作で生計を立てており、「5人の子どもを育てるのに必死だった」という。父親は農業のほか、トラックを運転して廃品回収の仕事で家庭を支えた。「貧しくて周りから何か言われても、しっかりせなあかん」が母親の口癖だった。反骨精神が培われた。

中学卒業後、大阪に出て高校の夜学に通った。思い出に残るのはアメリカ建国史の授業。独立を実現したアメリカ人たちのフロンティアスピリットに憧れた。「乾いた大地に水がしみこむように、先生の言葉が頭に入っていった」という。大阪のゴム工場で働きながら勉強に励み、法政大学法学部政治学科に合格した。上京して築地市場や印刷会社で働きつつ、勉学を続けた。「組織が嫌いで独立したかった。人と同じことをしていたら独立できない。二倍、三倍の意欲で取り組まないと」

大卒後、再び大阪に戻った。ゴム工場で工場長を務め、28歳での結婚を機に妻の出身地である広島市に移って、青果店を開く。独立の夢が叶った。

最初は野菜の「振り売り」。妻の兄弟から譲り受けた、荷台にテントのついた廃車寸前の1トントラックに野菜を積んで移動販売した。保育園や工場などの近くを定期的に訪れ、便利だという評判を高めていった。その収入を元手に1979年、広島市内に100坪ほどのスーパー「みやこストア」を開店。地元の信頼を得て、商売は順調に進んだ。

1996年6月7日付中国新聞朝刊より1996年6月7日付中国新聞朝刊より

だが、広島市中心街で営業していた大手デパート「そごう」(2000年に事実上の倒産)が本館とは別に新館を造るという計画が持ち上がった。デパートでは新館の出店に際して大規模小売店舗法(大店法)に基づき営業時間や休業日数、販促チラシの大きさなどについて地元商店街側と協定書を交わしていた。しかし新館開店の9日後に大店法が改正され、開店時間などの規制が緩和された。それを理由にそごうは商店街側との話し合いもないまま協定内容を守らなくなった、という。

「バブル崩壊後の経営悪化でなりふり構わなくなったのでは」と永川さんは見る。

反骨の原点は大学に

永川さんら530店が加盟していた広島市西部商店連合会は1996年、協定が守られていないことを理由にそごうを相手に損害賠償を求める訴訟を起こす。中小の商店の集まりが大手を訴えるのは異例だった。中心で連帯を呼びかけていたのが当時副会長を務めていた永川さんだったという。「仲間のピンチを助けるのは当然のこと。一人ひとりの力には限界がある。大きなものと戦うときは手を取ってつながらなくてはならん」

1999年7月7日付中国新聞朝刊より1999年7月7日付中国新聞朝刊より

一審は商店街側が敗訴したがすぐに広島高裁に控訴。二審の口頭弁論では、毎回の傍聴席に連合会の会員約50人が陣取って裁判の行方を見守った。永川さんは「頭数を集めることで裁判長にこちらの立場を訴えることができたと思う」と振り返る。広島高裁は和解を勧告し、そごう側は400万円の和解条件を飲んだ。事実上の勝利だった。連合会は、弁護士費用以外の和解金を地元の社会福祉協議会に寄贈した。「大手のやりたいようにやらせてはいけない、という気持ちが強くあった。商売をするには仲間意識が大事だよ」

2000年8月25日付中国新聞朝刊より2000年8月25日付中国新聞朝刊より

永川さんの反骨精神を育んだひとつが、法政大学での学びだった。1959年まで法大総長を務めた日本のマルクス経済学の権威・大内兵衛らが築いた学風は、当時の青年らに大きな影響を与えた。「労働者を搾取するのは最低のやり方だ、とマルクス・エンゲルスは書いていて、つくづく身にしみた。醜い資本家になりたくない、と思ったもの」。商売で暴利をむさぼらない、大手の横暴を許してはならない、という考え方は永川さんの原点となった。

「あんな学校に行かなかったら商売人としてもっと大きくなったかな?」。そう言って永川さんは笑う。

野菜が伝えるもの

そごうと争っているさなかでも、永川さんのスーパーは利益を出し続けた。だが、家族で食卓を囲む習慣が次第にすたれ「個食の時代」が到来するのを永川さんは感じていた。「食材だけを扱うのは将来的には無理かな、と思った」

転機は2001年、みやこストアを閉じてコンビニ「ポプラ」の経営者に転じて間もない頃だった。東京に移住していた娘に「こっちでお店をやりたい」と招かれた。レンタルしたワンボックスカーに家財道具を積み、妻ら家族全員で上京した。

お好み焼店を仕切る娘と共にお好み焼店を仕切る娘と共に

広島名物のお好み焼き店を開くことを選んだのは長女の希望だった。東京で仕事をしていた長女は、広島お好み焼きが東京で好評を博しているのを見て、自分でもやってみたくなったという。店の候補地は複数見つかり、自分の母校の法政大学に近い神楽坂を選んだ。

開店5年目、「自然にひらめいて」店頭で野菜を売り始めた。初めは店で使っていたキャベツだけ並べていたが、次第に種類を増やした。料理を巡る店頭での他愛ない会話、常連客との挨拶。野菜を介して芽生えるコミュニケーションが、店に欠かせないものとなった。

野菜は直接農家から買い付ける。お好み焼きになくてはならないキャベツは春・夏は群馬県から、冬は愛知県から仕入れる。手間をかけるのは、自分で行かないと野菜の質をみる勘が働かないからだ。「ふれあいがある。野菜の仕入れで田舎を巡るのも好きだしね」

大久保通り拡幅計画の事業区間大久保通り拡幅計画の事業区間(東京都の報道発表資料より)

永川さんが今気がかりなのは、神楽坂と交差する大久保通りの拡張だ。東京都は2020年東京五輪に向けて、幅18mの道路を4車線が通る30mに拡げる計画を打ち出している。だが、それによって坂上と坂下が分断されはしないか。

街の一体感が損なわれ、立ち退かなければならない商店街の仲間が出てくることを永川さんは懸念する。「何かものごとを決めるときは、一緒にやろうという気持ちがなくては」。街の寄り合いに積極的に顔をし、道路の拡幅計画に疑問の声を投げかけている。広島での経験が、東京でも役立つ日が来るのかもしれない。

芋がら芋がらを示す永川さん

店の前には毎日、永川さんが近郊から仕入れた多種多様な野菜が並ぶ。「あんたらは知らんだろうが……」と取り上げたのは芋がら(サトイモの茎の皮を剥いて干したもの)の束。戦中戦後の食糧難時代に庶民の食卓を支えた食材を、都会の真ん中で若い女性らが買って行く。味の記憶が親から子へ、過去から現代へと引き継がれていることに「商売を離れて感動する」という。

反骨のお好み焼き屋店主は、野菜を通じてきょうも地域や社会とつながり続ける。

>>動画完全版はこちら 野菜でつながる 新宿・神楽坂

(年齢などは2015年11月現在 )

大店法

1974年に施行された「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」の略。デパートや大規模スーパーなどの進出から中小の小売事業者を保護するため、大型店が出店に際して売り場の面積や閉店時刻などを規制する内容だった。しかしアメリカが日本の市場開放などを求めた日米構造協議で批判され、2000年に廃止された。同年施行された大規模小売店舗立地法(大店立地法)で大型店の出店規制が緩和されたため、大型店の進出が加速した。