挫折をバネに

東京都西東京市の西武新宿線東伏見駅から徒歩1分。早稲田大学東伏見キャンパスは、運動部施設が集まる体育会の拠点だ。ここでプロ野球選手を目指している一人の学生がいる。彼が所属するのは、大リーグでプレーする青木宣親ら数々の名選手を輩出した硬式野球部ではなく、一般の知名度は低い準硬式野球部だ。挫折をバネに、夢の実現を目指す。

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大声を張り上げて

人間科学部4年の森下晃熙(23)。ポジションは外野手で、遠投は116m、50m走は6秒1の記録を持つ。プロ野球・巨人の入団テスト一次試験の合格ラインは遠投95m、50m走6秒3。身体能力ではその基準をクリアしている。

準硬式野球部は月曜日を除く週に6回、キャンパス内のグラウンドで練習する。「ナイスピッチ!」「さぁ、打ってこい!」。練習中、森下は誰よりも大きな声を出していた。政治経済学部3年の増田庸介(22)は「森下さんは誰よりも努力をする人。あの人を見ていると自分も妥協できない」と話す。

準硬式野球部の部員は96人。全国から様々なバックグラウンドを持った選手が集まる。高校時代に甲子園を経験した者がいる一方、軟式野球出身者や大学から野球を始めた人もいる。硬式野球部から転向した選手は17人。森下もその中のひとりだ。

憧れ

森下が中学2年の時、早稲田実業高校が夏の甲子園で優勝した。決勝をテレビで観戦し、斎藤佑樹投手(現日本ハム)の活躍に夢中になった。「ハンカチ王子と同じユニフォームを着て、大舞台で野球をやってみたい」。早実を受験するが失敗。地元の東京農業大学第三高校(埼玉県東松山市)に進学した。そこで甲子園を目指したが、3年の夏は1回戦で敗退。自身も1打数0安打に終わり、頭角を現すことはできなかった。大学野球のメッカ・神宮にプロへの夢を託そうと、1浪して早大に入学。硬式野球部の門をたたいた。

しかし、入部して2ヶ月目の5月に人間関係のトラブルで退部。「1ヶ月ほど魂が抜けたようになった」。一度はプロの夢も諦めた。

スポーツ科学部4年の大河原朋也(23)は同時期に怪我が原因で硬式野球部を辞めた。同年6月、森下を誘って準硬式野球部を見学。そこで出会った同部OBで総監督を務める横田秀雄(78)から聞いた言葉が、森下を再び奮い立たせた。

「早稲田の準硬式からプロに行った投手がいる」

その選手は川口盛外(30)。東京六大学準硬式リーグで通算34勝をあげた左腕だ。王子製紙を経て、2009年ドラフト6位で広島に入団。2年間在籍したが、1軍登板の機会はついに訪れなかった。川口は古巣の王子に戻って野球を続けている。

初めて聞いた名前に森下は衝撃を受けた。「硬式野球部出身でなくてもプロになれるのか」。その場で準硬式野球部への入部を決断した。もう一度、プロを目指す日々が始まった。

祖父の夢を継ぐ

森下にはどうしてもプロになりたい理由がある。

森下の祖父・隆夫(2011年死去、享年81)は旧制静岡中学(現在の静岡高校)で捕手としてプレーした。「おれはプロ野球選手になるはずだった」。小学生の時、森下はそう聞かされた。隆夫はプロテストを経て、巨人への入団が内定していたという。しかし、太平洋戦争で兄が戦死したため、実家の寺を継がなければならなくなった。「おじいちゃんの無念を晴らしたい」。野球を諦めざるを得なかった祖父の代わりにプロで活躍することが、孫の夢になった。

日が落ちると準硬式野球部は練習を終える。ナイター設備がないからだ。通路を1本隔てた隣の硬式野球部のグラウンドには照明が灯る。その広さはかつて森下が憧れた神宮球場と全く同じ規格だ。

準硬式野球部には「硬式落ち」という言葉がある。森下のように硬式野球部を辞めて移ってきた部員を指す。仲間が引き上げる中、硬式野球部のグラウンドの明かりを頼りに、「硬式落ち」の森下は一人、バックネット裏でバットを振り続ける。

「自分の人生に、後悔だけは残したくない。おれはまだ諦めていない」

準硬式野球部にはプロ志望者が3人いた。しかし、就職活動も一切せずに野球に打ち込んでいるのは森下だけだった。

早大準硬史上、最強の投手

早大準硬式野球部の創部60周年記念誌(2008年発行)で、「史上最強の投手」と紹介されている川口。大学時代は個人タイトルを11回獲得した。川口は自らの準硬式野球部での日々をこう振り返る。

川口盛外

「とにかく必死だった。どんなかたちでもよいので、硬式をもう一度やりたい。そのために準硬式で圧倒的な成績を残そう。注目される存在にならないと未来は開けてこない……と思っていた」

「プロを意識したのは、社会人2年目。1年目で都市対抗の若獅子賞(新人賞)をもらったから。それでもプロに行けると確信したことはない」

川口に準硬式で夢を追う後輩へのアドバイスを尋ねた。

「球速、コントロール、打球の飛距離、守備、走力……人並み、及第点では硬式をやっている選手に負けてしまう。自分の特徴をしっかり出して、アピールポイントを明確にすべきだ」

「プロ入りは硬式野球部に在籍するよりも遥かに高い壁で、難しい目標。それを認識し、少なくとも準硬式では圧倒的な存在になってほしい」

「バカなやつ」

4年生の森下にとって、9月から始まる秋季六大学リーグ戦は大学最後の舞台だった。ここまで通算で公式戦出場は1試合のみ。打率は.000。

試合で使う球場は神宮ではなく、各大学のグラウンドや公営球場だ。観客も少なく、ブラスバンドなどによる応援も滅多にない。それでも森下は燃えた。「このままじゃ終われない」

準硬式野球部には早実で4番を打っていた社会科学部2年の鈴木夏玄(20)や、千葉・成田高出身で甲子園ベスト4の実績があるスポーツ科学部3年の勝田優斗(22) らがおり、外野手のレギュラー争いは激しかった。それでも「必ずポジションを奪う」。最後の秋にレギュラー奪取を誓った。

しかし、森下の願いはかなわなかった。秋季リーグでベンチ入りしたのは1カードのみ。その試合も出場はできなかった。森下の大学野球は終わった。

4年生は部活を引退後、卒論に取り掛かる。メガバンクやメーカーなど、同級生のほとんどが企業からの内定を得ていた。野球を続けると表明していたのは森下だけだった。同じ外野手だったスポーツ科学部4年の川上翔平(23)は、森下を「バカなやつだ」と言う。自身は地方銀行への就職が決まっている。「もっと現実を見るべきだ。準硬式ですらレギュラーになれなかったのに」

栄光のレールを走る者

10月、プロ野球ドラフト会議が開かれた。硬式野球部からは2人の選手が指名された。重信慎之介(22)が巨人ドラフト2位、茂木栄五郎(21)が楽天ドラフト3位だ。二人とも、主力選手として活躍した神宮のスターだった。重信は4年秋、茂木は3年秋にそれぞれ六大学リーグの首位打者に輝いている。

一方の森下は、9月に巨人と広島の入団テストに挑戦していた。広島は1次、巨人は2次で落ちた。準硬式野球部のチームメートからは、「当然だ」「無謀だ」という声が出た。人間科学部2年の高橋崚介(20)は「何を考えているのか分からない。自分の実力を過信しすぎだ」と評した。

森下は、仲間たちの声に全く耳を傾けなかった。「言わせておけばいい。今に見返してやる。茂木や重信にも、潜在能力では負けていない」。そして進路未定の森下は、プロ野球独立リーグへの挑戦を決意した。2015年のドラフト会議では、独立リーグの選手が12人指名された。まず独立リーグで活躍することが、NPBへ通じる道だと考えたのだ。

部活を引退した森下は、後楽園のバッティングセンターに通い始めた。ここでは硬式球を打つことができる。週に2~3回、一度に200球ほどを打ち込む。「お金の問題もあるので、毎日来ることはできない」

結果が全て

11月1日、四国アイランドリーグplusのトライアウト1次試験が行われた。1次試験は関東(千葉県柏市)と関西(大阪府枚方市)の2会場で行われる。種目は50m走、遠投、フリーバッティングだ。関東会場では32人が受験し、合格したのは7人。その中に森下もいた。11月15日に行われる2次試験へとコマを進めた。ここで合格を勝ち取れば、高知、徳島、愛媛、香川のいずれかのチームに所属することになる。

2次試験の会場は兵庫県西宮市のビーコンパークスタジアム。この日全国から集まったプロを目指す若者は全部で39人。2015年シーズン限りで日本ハムを解雇された佐藤正尭(19)など、元プロの姿もあった。種目はシートノックと実戦形式のバッティングの予定だったが、前日の雨の影響でグラウンドコンディションが悪く、シートノックは中止。午前中は室内練習場でマシン打撃が行われることになった。

現役時代はほとんど着ることがなかった「WASEDA」のユニフォームに身を包んだ森下。バッターボックスに入り、打ち始めて6球目だった。パキン、と乾いた音が響く。ボールを詰まらせ、バットを折ってしまったのだ。スカウトは失笑している。他の受験生たちが快音を響かせる中、森下は良いところを見せることができなかった。

昼食時、香川オリーブガイナーズの関係者に森下の評価を尋ねた。「足も肩も普通レベル。それであのバッティングだと、ウチでは取れないなぁ。プロに行きたいなら、ずば抜けたものがないと」。彼は笑いながら「午後、全打席ホームラン打てれば、可能性あるかも」と話した。

午後、天候は回復し、屋外でバッティングができることになった。野手は2班に分かれ、交代で打撃と守備をする。投手の受験生たちと順番に対戦していく方式だ。森下はまず守備に着いた。ライトのポジション。自慢の強肩を披露したいところだったが、頃合いの打球は飛んでこなかった。外野で「さぁ来い!」と張り上げた声が、バックネット裏にまで響いた。

攻守交替し、いよいよ森下の打順になった。1打席目は四球。2打席目は低めのカーブに手が出ず見逃し三振。3打席目、初球を打ち、どん詰まりのピッチャーゴロ。インコース低め、134キロのストレートだった。

4打席目の準備をしていたところで、主催者のアナウンスがかかる。「ここで終了にします。ここから先は各球団のリクエストに応じます」。森下の名前が呼ばれることはなかった。もう一度チャンスを与えられた受験生が打席に向かっていくのを、森下はヘルメットを外しながら見送った。

3打席0安打。合格発表は翌日だが、この時点で望みはほぼなくなった。しかし解散後、着替える森下の顔には笑みがあった。「まあ仕方ない。次に切り替えていく」。帰り道、森下は他の受験生と並んで歩き、本塁打を放った受験生について「あの人すごかったね」と話す。談笑は駅に着くまで続いた。

「甘かった…」挑戦は続く

森下は、新幹線で名古屋へ向かった。早大準硬式OBの川口に会うためだ。名古屋駅で合流した初対面の2人は居酒屋に入り、川口はビールを飲みながら森下に体験を語って聞かせた。

「社会人までは、絶対誰にも負けないと思っていた。でも、プロはレベルが違った。マエケン(前田健太=元広島、2016年から大リーグのロサンゼルス・ドジャース)とか、大竹さん(大竹寛=巨人)とか、バケモノだよ」

「広島をクビになった時は、どうしようかなと思った。翌月から給料が貰えない。26歳にもなって、親にメシ食わせてなんて言えない」。川口の言葉に森下は神妙に聞き入り、何度も何度もうなずいていた。

東京へ帰る新幹線の車中、森下は「プロへの認識が甘かった」と繰り返し、ひとしきり後悔の念を話した後は、視線を宙に投げ出し、黙り込んでしまった。その目はいつしか真っ赤になっていた。

翌日の午後6時、東伏見の準硬式野球部グラウンドに森下の姿があった。薄暗い、無人のグラウンドで携帯電話を取り出す。トライアウトの結果をウェブサイトで確認するためだ。

「はい、(名前は)なかったです」

「不甲斐ない。野球をやるから普通の就活はしないって決めて、野球だけをやってきたのに、こんな結果になって」

森下はおもむろに立ち上がると、バットケースからバットを出して振り始めた。陽は完全に落ちていた。この日は硬式野球部の練習もなく、ナイターの照明も点灯しない。真っ暗なグラウンドに「ブン、ブン」とバットが空気を切る音と「フン、フン」という森下の息遣いだけが響いていた。

(文中敬称略、年齢などは2016年2月現在 )

準硬式野球とは?

硬式球の芯を軟式球のゴムで覆ったボール(準硬式球)を使用する野球競技。ボールの大きさ・重さは硬式球と同じで1949年から使われ始めた。使用するボール以外のルールは硬式野球と変わらない。大学を中心に全国的に行われており、全日本大学準硬式野球連盟によると2014年4月時点で加盟校は278校、部員登録者数は9871人。