花田達朗 | ||
■2023年12月25日 デトレフ・ヘンシェの死を悼む ドイツの労働運動家、デトレフ・ヘンシェが12月13日にベルリンで亡くなった。享年85。病気療養中だったという。その訃報をフランクフルター・アルゲマイネ紙で見たゲルト・コッパーがクリスマスイブの日に私にメールで知らせてくれた。 二重に悲しい知らせだった。彼の死ばかりではなく、ここ2年間彼とのコンタクトを何とか取ろうとして遂に果たせなかったことが悲しい。 岩波書店発行の月刊誌『世界』に「関西生コン弾圧と産業労働組合、そしてジャーナリスト・ユニオン」の短期連載を掲載したのは2021年の秋から冬にかけてのことだった。私はその寄稿文をミュンヘンでのデトレフ・ヘンシェとの出会いから始めた。1979年当時彼は印刷・用紙産業労働組合の副委員長だった。そして新しくメディア産業労働組合を作り、さらにヴェルディ(統一サービス産業労働組合)を作った。寄稿文の最初から最後まで彼の名前は何回も登場する。実は、私はその寄稿文を終始彼のことを思い浮かべながら書いた。 だから書き終わってから私は彼と連絡を取りたくなった。ヴェルディの中のジャーナリスト・ユニオンが出していて、今も私のところに送られてくる雑誌”Menschen Machen Medien”の編集部やヘンシェが編集発行人の一人を務めてきた政治的月刊雑誌”Blaetter fuer Deutsche und Internationale Politik“の編集部にメールを送り、ヘンシェのメールアドレスか住所かを教えて欲しいと頼んだ。が、返事はなかった。個人情報だからなのか。 今年7月、ドイツから旧知の若い大学教授が日本訪問でやってきた。彼にヘンシェと連絡が取れないことを話した。すると、彼は親切にも調べてくれて、ヘンシェがベルリンの弁護士事務所で弁護士をしていることを見出してくれた。私はその弁護士事務所のウェブサイトでヘンシェのメールアドレスを見付け、そこにメールを送った。が、そのアドレスは現在使われていないという返信が戻ってきた。そこで弁護士事務所の広報アドレス宛にヘンシェへのメールを送った。その頃には例の寄稿文のドイツ語翻訳を作っていたので、それを添付した。彼に読んで欲しいと思った。が、何も返事がなかった。ドイツに帰国した、その若い知人が弁護士事務所に電話をしてくれて、私のメールは届いていたということは確認できた。推測するに、ヘンシェはもう長いこと病気で、病院に入っていたのではないだろうか。 そう思っていたところに、彼の訃報は私に届いたである。ネットで確認してみると、ヴェルディのウェブサイトにヘンシェへの追悼文が彼の写真とともに掲載されていた。その写真には精悍な彼の顔が写っており、私が30歳の頃に会った彼の姿が蘇ってきた。今となってはたった9歳しか年が違わなかったことにただ驚く。あの時はものすごく年長に思えた。頭脳明晰でラディカルな理論家だった。 |
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ver.di trauert um Detlef Hensche ヴェルディのウェブサイトに掲載されたヘンシェの追悼文 |
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