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 薬と探査ジャーナリズム

花田達朗
2018年11月16日 「薬と探査ジャーナリズム」web版をアップ
「薬と探査ジャーナリズム」『統合失調症のひろば』、第12号(2018年秋号)、日本評論社、2018年9月30日、62-67頁、のweb版を掲載します。

1 医療記事は信用できるか
 「新聞やテレビは間違ったことを載せないし、放送しない」と、いまだに多くの人々が思っているようです。しかし、その信用には根拠がありませんし、裏切られていると私は思います。そういう「マスコミ」とは別のことをやろうと、そこを退社して、新しいニュース組織を立ち上げたジャーナリストたちがいます。次の文章をお読みください。

「記事とは記者が客観的な立場で取材をして書くものだ。スポンサーがカネを払って載せる広告とは違う。命にかかわる薬の記事をめぐってカネが動いていた。記事がカネで買われていたことにならないのだろうか。人の命をどう考えるのか----。」

 これは、ワセダクロニクル(Tansa)という名前で、ネットで発信するニュース組織が創刊特集として2017年2月にリリースした「買われた記事」シリーズの共通したリードの文章です。その第1回目の「電通グループからの『成功報酬』」は、「あなたの命にかかわる医薬品の新聞記事が、カネで買われた記事だったとしたらどうしますか?」という問いかけの文章で始まります。これだけですでに、普通の「マスコミ」の記事とはぜんぜん違っているとは思われませんか。
 その特集「買われた記事」は、密かに入手した内部文書から出発した取材によって、次のような事実をおおやけに暴露しました。医師の処方箋の必要な医療用医薬品、つまり処方薬は広告をすることを法律で禁じられていますが、それを迂回する形で実質的に広告が行われていたのです。そのカラクリは、製薬会社が電通にお金を支払い、電通が一般社団法人共同通信社の系列会社である株式会社共同通信社に記事制作を依頼し、その制作物が一般社団法人共同通信社から全国の地方紙に記事として配信され、そして各地方紙はそれを記事として掲載していました。医師のインタビューなどを組み込んで書かれたそれらの「記事」は、例えば脳梗塞の予防に使う「抗凝固薬」について、特定の製薬会社の特定の薬が間接的に宣伝される内容を含んでいたのです。
 新聞の読者の中には自分の病気についていつも情報を求めている人が少なくないでしょう。そういう医療記事を読んだら、担当医師にその薬を自分に処方してくれるように頼む人がいても不思議ではありません。そこでは医療記事が、実際のところ薬の広告・宣伝として働いているわけです。電通と共同通信にとっては、そのことは最初から了解事項なので、実際に電通から株式会社共同通信社には「成功報酬」としてお金が支払われていました。このカラクリによって、地方紙は記事を偽装した広告を読者に提供し、そうとは知らずに読者はそれを記事として読まされていたわけです。
 このことは患者にとって何を意味しているでしょうか。医療記事は信用できるのか、という疑いです。薬をたくさん売って利益をあげたい製薬会社から支出されるお金でいろいろな情報が歪められているのではないかという疑念です。みなさんはどう思われますか。
 なお、共同通信も地方紙も、いまだ読者にワセダクロニクルからこのような指摘があったという事実を伝えてはいません。両方とも「膿を出し切った」ほうがよいと私は思います。しかし、それは〈言うは易く、行うは難し〉です。メスで自分自身を切らなければならないからです。誰だってやりたがりません。特に権力を持っている者は----。








2 薬の処方箋は信頼できるか
 あと先になりましたが、ワセダクロニクル(以下、クロニクル)についてちょっと説明しておきましょう。早稲田大学ジャーナリズム研究所のプロジェクトとしてジャーナリストたちによって立ち上げられたもので、大学を拠点とした、探査ジャーナリズムのニュース組織です。私はその研究所長として、そのプロジェクトを支援してきました。2017年2月になって前記の創刊特集でデビューしました。そして、一年後の今年2月に特定非営利活動法人として大学から独立して、現在はジャーナリズムNGOとして活動しています。環境、人権、医療、教育などさまざまな分野にNGOがあるように、ジャーナリズム分野でNGOがあってもいいわけで、これは権力監視の報道活動を権力の被害者や犠牲者の救済という視点から行うことを目的にしたNGOです。取材活動などの財源は、どこからも影響を受けず独立を守るために、一般市民からの寄付金のみです。支援会員の月額1口1000円の定期寄付金とクラウドファンディングの2つで賄っていこうと努力しています。しかし、情報公開請求手数料や旅費や賃貸料などの費用をまかなうのに精一杯で、現在も無給です。
 ワセダクロニクルは、優生思想に基づく「強制不妊」やインドネシアでの石炭火力発電所建設問題を取り上げた「石炭火力は止まらない」などの特集もシリーズで発信していますが、前項の話題の延長線で、特集「製薬マネーと医師」をご紹介しましょう。
 その特集は何を白日の下にさらしたのでしょうか。シリーズの初回、その冒頭でこう書いています。

「日本には現在、30万人を超える医師がいます。講演料やコンサルタント料などで製薬会社から年間1000万円を超える金銭を受け取っている医師たちがいました。その数は90人程度です。そうしたケースを含め、医師個人に直接支払われる金額は2016年度の1年間で総額250億円を超えていました。私たちの取材でわかりました。」

 そして、こう問いかけています。

「医師には薬を処方する権限があります。製薬会社から多額の金銭を受け取ることで、薬の処方に偏りが生まれることはないのでしょうか。特定の製薬会社の医薬品を優先した処方になってしまうことはないのでしょうか。だとしたら、患者さんは金銭で左右された処方による医薬品を使われることになるのです。」

 製薬会社は医師に支払った金額をそれぞれのホームページで公開しています。法律で義務づけられるのを避けて、自主的に公開しているという形です。しかし、それは1年で消えてしまうので、クロニクルは特定非営利活動法人の医療ガバナンス研究所と共同でそれをデータベース化しました。各社がホームページに公表しているデータを収集し整理して、全社分を連結して統合しました。それによってお金の流れが透明化されます。クロニクルはこのデータベースをやがてネット上で一般公開し、誰でもが自分のかかりつけの医師の名前を入力すれば、その医師がどこの製薬会社からいくらもらっているかがわかるようにする予定です。
 こうした試みは、すでに米国とドイツで行われています。クロニクルと同じ、非営利の探査報道ニュース組織で、米国のプロパブリカ、ドイツのコレクティブです。もしも3つのデータベースを将来連結できれば、国境を越えたグローバルなお金の動きがわかるようになるでしょう。
 このデータベース作成には多額の費用がかかりましたし、これからもかかります。クロニクルの渡辺周(まこと)編集長は寄付を求めて歩き、医師や患者さんの中にはこのプロジェクトに賛同して寄付金を出された方々もあります。クロニクルは最近の記事では、薬の値段、薬価の決まり方に「製薬マネー」がどう作用しているのか、その問題に切り込んでいます。  
 シリーズ初回の記事の末尾で、クロニクルは次のように書きました。

「医師は、患者のことを第一に考える存在であってほしい。製薬会社は医師との利害関係を透明化した上で、患者さんの命と健康を守る薬を売ってほしい。」

 これが探査ジャーナリストの思いであり、願いなのです。みなさんはどう思われますか。

3 疑念から監視へ
 ワセダクロニクルの探査ジャーナリストたちは既成メディア=「マスコミ」とは違うことをやろうとしています。それがやらないこと、やれないことをやろうとしています。上で述べた2つの特集記事がまさにそうです。では、どうして「マスコミ」は、もしも自らがジャーナリズムの一角であるのなら、ジャーナリズムが本来やるべきことをやらなくなってしまったのでしょうか。ジャーナリズムが本来やるべきこととは、市民社会の側に立って権力を監視し、権力の横暴や暴走や不正をウォッチして、その危険性を事実とストーリーで市井の人々に伝え、知らせることです。
 権力とは、その人の意に反してその人を従わせることができるだけの強い力のことであり、その力を持った人間であり、組織であり、システムであり、制度などです。仮に分類すれば、政治的権力、経済的権力、社会的権力があります。組織のレベルで言うならば、政治的権力には国家統治機構の3権、すなわち立法・司法・行政、言い換えれば、議会・裁判所・政府があって、それらが最強のものです。経済的権力には大企業や経済団体、特に多国籍企業があります。社会的権力にはいろいろありますが、宗教団体、マフィアなどの組織犯罪集団などを挙げることができます。
 日本の「マスコミ」の生態を観察すれば、みなさんもお気づきのように、「マスコミ」はもはやそれらの権力の監視どころか、自らの独立や自由のためにさえ闘わなくなりました。情報産業としてのビジネスと大きな組織の維持にきゅうきゅうとしています。「記者クラブ」に依存して情報を集めているので、情報をくれる政府や大企業のものの見方に染まった記事を流しています。下手をすると、政府や大企業の広報機関と見間違えるほどです。いや、見間違えなのではなく、それが実態だと、目を覚まして、リアルな現実に徹したほうがよいでしょう。実は一部の人々はとっくの昔からそうしているらしいのですが、私は「マスコミ」の改革の可能性に期待するところがあったために、逆に出遅れてしまい、やっと3年ほど前に幻想からパッチリ目覚めました。目覚めてみると、「マスコミ」とは社会的権力の1つであって、したがって政治的権力や経済的権力と対立しようとはしないものなのです。権力という同じ仲間になっていて、相互に癒着し、かつ見かけ上は適度に競争しているかのように振る舞っています。権力を持っている者たちは、多少張り合いつつもお互いに助け合うのが常です。
 「マスコミ」は不偏不党、公正中立、客観報道などといういろいろな言葉で自らのやり方を正当化していますけれども、結局のところはそれらの言葉を盾にして傍観者であることを決め込んでいると、私は見ています。傍観者はこの世の中を改善したり、改良したりしようとは思っていません。しかし、ジャーナリズムとはまさに報道活動によって世の中を改良し、改善することを使命としているものです。したがって、傍観するのではなく、主体的価値判断に立って行動します。だからこそ、世界の多くの国々と地域ではジャーナリストが脅威と危険にさらされているのです。実際に脅迫されたり投獄されたり殺害されたりするジャーナリストも少なくありません。傍観していれば、そんな目には遭わないでしょう。
 さて、私たちは疑問に思ったことを大切にし、簡単にやり過ごさず、その先に進むべきではないでしょうか。つまり疑問や疑念を追跡して、事実をもって真相に、真実に限りなく迫ろうと努力しようではないかということです。強い力を持った者たちの言葉と行為、権力を持った者たちの語り方と活動、それに簡単に従ったり、順応したりするのではなく、疑いを持って観察し監視し、自分で考え、他者の意見に耳を傾け、自分の判断を形成し、そして自分の言葉で語り、自立して行為できたらよいのではないでしょうか。
 ジャーナリズムとは、実は、そのような人々によってはじめて支えられるものなのです。そして、ジャーナリストとはそのような人々の代理人として職業的に権力監視をやっていく人々のことです。

4 暴露から対話へ
 探査ジャーナリズムは、権力が隠していること、それは多くの場合、腐敗や不正や不作為などですが、それらを探査し、発掘して、その事実と証拠に基づいてストーリーを構成して、それを公衆に向けて、市井の人々に向けて発信します。つまり権力の秘密を暴露するのです。となると、「パナマ文書」報道もそうであったように、権力の内部で不正義の存在を知っている人がそれを探査ジャーナリストに密かに情報を提供すること----すなわち内部告発者に取材の端緒を依存しています。探査ジャーナリズムは内部告発者との信頼関係の上に成り立ちます。
 暴露があって、その先をどうするかは市井の人々、市民社会の側の問題です。権力について考える材料、判断する材料を提供されたのですから、それぞれの人がその後どのような態度を取り、どのような行動を起こすか、起こさないか、それはそれぞれの人次第です。どのような政治的意見を自分の意見とし、それをどのように人前で表明するか、選挙でどのような投票行動をとるか、それはそれぞれの人の自由です。そして、その自由は保障されなければなりません。そのようなそれぞれの人々の選択が集合して、政治や社会は変わっていきます。悪い方向にも、良い方向にも。閉じた方向にも、開かれた方向にも。
 まえに権力を組織のレベルで見ましたが、権力を関係のレベルで見ると、もっと広がります。権力関係というものは至る所にあります。遍在しています。セクハラやパワハラ、DVや「いじめ」、家父長制や女性差別やLGBTQ差別、児童虐待や児童ポルノ、優生思想や障害者差別、ヘイトスピーチや民族差別、あるいは「過労死」に見られるような労働における人間の奴隷化など、探せばたくさんあり、それらを権力関係の問題だと名指しをして、さらにまだ名付けられていない権力の作用を権力関係だと捉え返していくと、権力という補助線を引くことによって、見えてくる風景が変わってくるのではないでしょうか。このように関係のレベルで捉えると、それは社会意識や個人倫理の問題、差別や暴力の問題、構造や制度の問題として立ち現れてきます。そこから誰も無縁でいることはできません。
 今日の日本の社会状況はきわめて閉塞しています。そこから脱するために必要とされるのは社会的対話だと思います。対話が社会の中で、すなわちさまざまな局面の人間関係のシーンで生起することが必要です。対話には他者との対話があり、自己との対話がありますが、そのような対話というものに予定調和はありません。一部の人々は対話を結末から考えて、合意や同意を前提にして考える傾向がありますが、対話とはそんなに簡単なものではありません。対話とは当事者間の相互行為によって作り出されるプロセス(過程)そのものです。それ以外ではありません。対話とは最初から決まった目的地のない航海のようなもので、対話という関係を実現していること自体に意味があります。しかし、対話とは始めるのも終えるのも容易ではない、なかなか難しいものです。とは言え、対話にしか可能性はありません。
 当然のことですが、対話が可能になるためには条件が要ります。その条件とは対等であることです。言い換えれば、権力関係の排除ないし無力化、あるいは相手を対等とみなす、他者への配慮と勇気です。したがって、対話の難しさとは、対話そのものの難しさというよりも、むしろその条件自体の難しさにあると言えるでしょう。そこで、対話を望む者は双方で権力はずしの努力をしなければなりません。この「権力はずし」こそが対話を生み出すための基本であり、それは対話のための手続き、または対話の作法だと言えます。
 まえに「医療記事は信用できるか」「薬の処方箋は信頼できるか」と見出しに書きましたが、あえて言葉の区別をすれば、信用は一方向的で、信頼は双方向的だと言えるでしょう。処方箋で言えば、それは医師と患者の間の対話があってはじめて成立するものでしょう。そこに別のもの(たとえば「製薬マネー」)が影響していたら、対話への裏切りです。実は、対話と信頼はセットの関係にあります。対話というプロセスの中から生まれてくる意味、それが信頼の発生ではないでしょうか。対話の中から信頼は生まれる、対話を行える人々の間からしか信頼は生まれない、という関係です。
 探査ジャーナリズムにとって権力の秘密の暴露は命です。暴露すると、そこにはあからさまに「ひどい悲しい現実」があります。それで終わるならば、暴露自体、悲しい行為ではないでしょうか。やっている側にとっても、見せられる側にとっても。しかし、暴露はスタートなのであって、そこから社会的対話が始まるのです。いや、始まらなければなりません。探査ジャーナリストは困難な問題について社会的対話が始まることを期待して暴露するのですから。そして、暴露するのは、何よりもそこに権力の被害者や犠牲者がいるからです。その人々を他人事(ひとごと)として傍観はできないからです。


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