「大室佑介入門」  2025・5私立大室美術館体験・まとめ   

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作成:佐藤敏宏

(まとめと課題)

大室佑介入門」を始めるにあたり、2025年5月三重県津市白山町を訪ねた。16日〜18日の2泊3日で体験したことをweb記録として作成した。記録作成の本来は事前に計画をたて、計画順に報告書を仕立てると、後の読みての理解はすすむのだろう。だが佐藤は白山町をたずねる前に、私立・大室美術館や大室さんの家族そして家屋敷について知りえたことは、FBweb地図内の情報のみであった。だから今回の記録は出会ったこと順に、内容をランダムに記録することになっている。

大室さんとの交流は2010年3月に始まったが、その後15年間にわたる大室さんの活動は事前に聞き取っていた内容以外、今回の粗年譜を作るまで細かには知らなかった。中谷ミチコさんとの出会いから結婚にいたり、家族の暮らしは都内から三重県津市白山町へ移る。大室さんと中谷さんの制作活動も白山町へ移動した。彼らは地域の人々に、自らの個性的な活動とアーティストたちとの交流、それらの現在を理解していただくために、私立大室美術館を開館する。そのことで地域との交流、さらに相互の理解を同時に促進していた。動機は「怪しい」、と思われていると感じたからかもしれない。
簡単に言うと地域に受け入れられるための努力をしたわけだ。二人にとっては当然の活動が始まったが、ダウンサイジング進む地域に一世代ほど年の差がある若者が受け入れられるのは容易には成せない。地域の基幹産業を担うために移住したわけでもない彼らを、地域の人は物陰から好奇の目で見たり、陰口をたたいたりし、高みの見物をはかることだろう。だが二人の努力は作品どうよう極めて個性的な手法を用いて地域に溶け込んでいた。

アトリエのシャッターを開け放ち、制作現場を地域の人々に観ていただく、アトリエに積極的に地域の人を招き入れ、挨拶をした(中谷さん発言)。草を刈り境界を具体的に越境する作業を続ける(10年間で草刈り機4代目)。さらに敬老の日には特別展を開き、中谷さんの作品を主に展示し見ていただく。作家が店開きし店内を見てもらっているわけだが、10年続けて敬老の日特別展を開き、同時に隣の区民館も使って敬老会を催している。

私立大室美術館、同分館庭園美術館の運営と活動の10年間は、日本(佐藤には)では希なできごとだ。生前から著名アーティストのための専用美術館は日本各地にも多数あるだろ。大室美術館三館は自作を展示するための個人美術館ではない、その点が希なのだ。

佐藤は1980年代から、福島県内に移り住んで制作活動をするアーティストの姿を何度も目撃し、交流したりしていた。けれど、大室さん夫妻のような腰の低い姿勢で地域に溶け込む努力を、佐藤の知る藝術家たちはしていなかった。農作物を生産する行為とアート制作行為を同等に見て、大室さん夫妻のような手法で、福島の地域に溶け込もうとするアーティストはいなかった。言えば偉そうな態度のアーティストが多く、あるいはニヒル・・・(世間を知らないのであろう)・・・なのだ。
だから地域の人々は怪訝な視線を彼らに投げかけた。頭の変なやつらが実用的でもない、分からん藝術というものを作っている、という受け止め方になった。農作物を生産している地域の住民から見れば当たり前の態度だろう。が、藝術家サイドは理解できない。ゲージュツは位が高いというステレオタイプは藝術家仲間で共有するだけでよいのではないか。しかし彼らは劣等感からか、領域の違う世間に暮らす人々にまで彼らの価値を強いた。藝術専制主義者たちだったから、危険きわまりない人物といえた。

3日間だが大室さんの自宅周辺を観察することが出来た。情報量が多いうえに時間が少なすぎたので、美術館周囲、地域の声を取材する事はできなかった。大室さん夫妻の努力は地域でどのような声になっているのか、今は断定できない。けれども端緒はあった、大室さんは地区の区長さんに就任し、小学校の校長先生からはこの地域に無くてはならない人として太鼓判を押されていた。地域の声を採取することもなさそうに思うが、再度訪れて今回で取材できなかった人々の声を採取することは宿題としておく。

最後にこのWEB頁で全体の出来事を振り返っておく。僅かな体験で大室さんの暮らし全体を理解したと思ってはいない。今後2年かけて、聞き取りなど続けることで、この記録を補完していきたいと考えている。

もう一つ、彼らへの大切な問は東京で生まれ育った大室夫妻は、なぜこのようにして地域に溶け込もうとしているのか・・という点だ。単に夫妻の個性なのか、その源は佐藤にはまだ分かっていない。だから地域の声を聞き記録することと共に、夫妻の今後の活動も遠目であるけれど継続し見ていきたい。

以下16日から18日のことをweb記録に仕立てたので順に目を通すと、佐藤が体験したことをまま追うことができる。以下に3日間の概略を記しリンクを張った。


16日のこと

5月初旬から東京漫遊していた佐藤は、16日羽田空港から大室さんとの待ち合わせ場所である滋賀県大傍の旧・日夏村役場(登録有形文化財)に向かった。

12時過ぎに待ち合わせ合流した。待ち合わせ場所では、月一回の句会が開催される日だった。幸運にも声をかけた句会の世話役の老女に、旧役場を一通り案内していただいた。その後、大室さんの自家用車で琵琶湖東岸にそびえる荒神山の展望台にむかった。山頂で昼飯を食べたのち逍遥し辺りを見回した。そのあらましは2webページに分け「羽田〜彦根」と「荒神山に登るとした。

荒神山から下山し日野町に向、移動する車中対話も記録した。日野町は福島県会津若松の繁栄の基礎を築いた蒲生氏郷の故郷だ。大室佑介さんの帰路に在る地域でもあり、大学の課題として選定した土地だとも知った。日野町と氏郷と現在会津若松にある甲賀町のことも書いた。 

16日の夕刻、大室佑介さんの家に着いた。新鮮な刺身(よこわ)をもとめ遠くのスーパーに向うことになった。よこわを頂ながら、呑み語り合ったことも加えた。そこで初めて、大室美術館のことも含め貴重な内容をお聞きした。食事での話とその後の談話へ。

17日のこと 出来事順に羅列する。

17日は朝から強い雨だった。大室美術館開館の様子と、分館の開館までのあいだについての語り、17日の大室美術館体験の語り合いなどの記録

10時に開館した。来館者に話をお聞きしはじめる。
○7 来館者 松坂からの夫妻 の話をお聞きする。

○8 原理花子さんのこれまでの人生をお聞きする
    大室美術館などのお手伝いなどの支援をしている女性。  

○9 荒川朋子さんに聞く
   荒川さんは絵画制作者。第一回大室美術館の作家である。  
   以来、大室美術館開館には必ず来館されているかた。 

○10 早川琢也博士に聞く
    三重大学で地域おこし活動をされている博士であった。
    専門は精油会社の研究者で三重大と産学連携で油の研究者。
 
○11 中谷ミチコさんのアトリエ訪問 。
  大室美術館そばのアトリエで、日々制作されている姿を拝見。
  「黒い彫刻」作品は現在ないが、刮目し続けるべき作品となるだろう。

○12 17長い一日がおわり、大室家の食堂で語り合う


18日の事

雨があがり庭園美術館にある8パビリオンに作品を並べるなど、開館前の様子を記録した。
○13 18日朝の美術館 

この日の大室さん朝から大変忙しくうごきまわっていた、開館の準備の後は小学校の廃品回収、環境整備という草刈りへでかけたので、追っかけ取材した。その後身支度をし挨拶をすませ、福島市へ向かうため榊原温泉口まで原さんに送っていただいた。それらの記録。
○14 小学校の草刈りと、佐藤が大室美術館を去るときの様子。 

大室さんの家と屋敷についてメモ書きのようなものを残すことにした。
○15  家屋敷について。 

「大室佑介入門」を始めるにあたり、2025年5月16〜18日以前に起きていた、起こしていた大室さんの活動を、FBから拾い上げ大室佑介粗年譜を作成した。聞き取るさいに出来事の順序は混乱することが多い。粗年譜をもつことで容易に確認できるようにした。

以上で2025年、大室佑介美術館体験録はお仕舞とする。


2025年の今後について

今後大室佑介入門を2年かけて行う予定だ。今回の3日間の聞き取りなどの活動は大室さんに関する基礎情報をえるためにおこなった。大室佑介さんと中谷ミチコさん夫妻はともに注目すべき活動と制作をおこない、現在を巧みにそしてたくましく生きている夫妻であった。彼らから学ぶべき事も多いのだが、今後の暮らし方の変化や変容にも興味は湧く。それは人の歴史は自身では成しえない、偶然の重なり合いによって、ゆったりと流れがうまれ、積み重なり起きてしまう結果だと思うからだ。大室さん夫妻と社会の変化を両目で観て記録し、振り返ることでしか分からない。(本人自身にだってどのような作品が生まれるのか、その結果も分からないだろう。起きた事実にはかならず自身のなかにズレを抱える。)

このような機会を得たことの幸いを、大室さん中谷さんのお二人と地域の人々、さらに二人の活躍する二つの領域の方々にも感謝申し上げ、今後の「大室佑介入門」のエネルギーにしていくつもりだ。引き続き大室さん夫妻についても観察し語り続けていくことにしたいので、そのおりにはお付き合いいただければ幸いです。

 これらの記録の文責:佐藤敏宏


  
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