子育て上手 聞き取りメモ記録 2023年7月開始 作成 佐藤敏宏

小学校 
昭和33年3月(1958) 卒業記念アルバムあり
 東京都足立区立千壽第八小学校
 最初のクラス集合写真 後列左から3人目 セーラー服のAさん
 女生徒26人男生徒32人計58人  クラス数2
・昭子さん寄せ書き 「未来への道へ」
P 小学校通信簿が保存してある。先生のコメント欄は的確にAさんを評している。6年間一日も休まず皆勤賞(精勤賞)受賞する。放送部で校内にレコード流し、文芸部にも所属していた。

絵:昭和33(1958)年3月25日小学校卒業 精勤賞の賞状を手に
中学校
 1961年(昭和36年) 東京都足立区立第一中学校・卒業アルバムあり
  昭子さん3年A組 集合写真 後より女生徒2列目の左はしセーラー服
・男子生徒27人 女子生徒23人計50人 A〜F組まで
 担任・三好要市(男性) 教員数47名

■ C初登山、中学1年夏休み、12才 長野県美ヶ原へ
P 高校入試の当日熱をだしたが合格。1日で9科目の試験だった

〇33、34) 東京で育ったのは誇りだ
中学ソフトボール部 エースで4番 (自慢話になるから話さないでいた)
・新聞部に所属、新聞部は面白かった。
 新聞を発行 打倒岸内閣 訪米阻止(60年安保時代の影響)
 イラストも描いた、握りこぶしを挙げている絵
 父兄からクレームがあった
 当時日教組の委員長もいたが指導してもらってはいない
・樺道子さんが警察に殴り殺された事件があった。

・ 学校を代表する400mリレーの4人の1人として選手に選ばれる


家庭科で浴衣を縫った。一重の着物ウール地和服を母親に縫ってあげた
 仲田に母が来たときに生協でかった反物で縫ってあげた。
 「今時一重の着物では笑われちゃう」と母は笑った。
 「生まれ変わっても親子になろうね」と語り合う仲の良さだった
〇35)長男がこどもの頃は「ロッキード問題」が新聞紙面を覆っていたので、将来学生運動に入らないように、政治に首を突っ込んで道を誤ってはいけないと心配していた。
 
(洋裁のこと)
 C
 小6〜高3までお母さんと千恵子(姉)が洋裁の先生
 お姉さんは寸法をキッチリ仕上げる、たいへん器用だった。
 上手で西新井団地で噂になり姉に注文が殺到した
 姉は縫い賃は家計の助けに
 姑さんが友人の連帯保証人になり夫も負債を支払っていて義父の返済を手伝っていたことによる。

・101才で他界された中野香代子先生 
・女子生徒の選択教科・50名ほどの家庭科の授業
 洋裁2作品を提出 胸飾りをつけた作品を提出する
 ベストをジーンズ生地で縫い
 たちきりの布に切り返しを付け、横糸を抜いたチョッキ ファスナー付き
 背中も切り返し

・「成績よくしようと思い提出した」と誤解されてしまう。「2作品だしても成績よくしないよ」と中野先生に言われる「なに?あなたこんなことやっているじゃない!」と言われる
・25年ぶりの同窓会に参加して中野先生に再会するA
・選択教科は美術・音楽・書道などがあった

(初登山)
 中学1年生 12才 中学の男子先生に連れられて長野県「美ヶ原」へ


高等学校

東京都立
忍丘高等学校 代16回卒業生 3年F組(女生徒49人のクラス) 生徒本部所属 (D 5学区 上野高校へは中学で1人入学できればいい 次男T男兄、三男I雄兄 荒川区へ引っ張られる 次男は東大学進学を諦め参考書を燃やした姿を思い出す 次男が忘れた書類を届けるため浜松町東電へ行った記憶がある 次男兄は家で勉強するのは馬鹿だ」と言っていた)
・勉強しなくってもいい高校を選んだ。忍岡高校は父兄会が一度も開かれなかった。成績不良の父兄だけが呼び出された。
〇31)みなで楽しく過ごせるように、千羽鶴を折り(F組)教室の後ろの黒板の縁に飾り付けた。〇32)「これはなんですか?」と聞かれ生徒たちは?然とした。遠慮は無い勉強しない、そいう女生徒の集まりだった。
 
 担任入江妙子先生
 「ひとつの真理を発見するよりも
 一つの迷いをなくすことのほうが
 人を賢くする」 (卒業アルバム 自宅2階東側の棚・左片開き扉内に保存)

・Aさんの忍丘高等学校の生徒数は6クラス413人だった。
 1クラス50人ほどでA〜F組まであった。
 1学年300人生徒数900人 先生48〜58人ほどと思われる。
L 高校の友達が日大写真学部に入学した、現像と焼き付けなどを手伝った。
・忍岡高等学校は「生活が楽しめる学校」との町の評判だったので選んだ。
生徒活動(記長当選)と
文化祭が楽しかった。模擬店。教室の窓を色セロハンをはって空間演出をおこないハワイアンをながした。生徒指導の先生に「大人の真似をするな」と注意された。当時忍岡高校は演劇が盛んで日本一位になった。
M・生徒会書記に立候補してほしいと推薦され、当選して嬉しかった!
N 中学卒業、(中学?高校の修学旅行)のときに淑子姉さんにオリンパスカメラを買ってもらうった。写真をたくさん撮り手づくりアルバムも制作するようになった。アルバム作りは次男兄に教えてもらった。
・2年生で組替 B
 進学クラス4組200人 就職クラス2組100人
・Aさんは家が貧しいから大学へ行かず
 姉2人は嫁にいっていた。
・進学クラスは浪人する者多く、大学へ行かない人が多かった(印象)


都電通学
〇22)夜は遅くまで起きていたので朝は7時起床。学校は8時半開始 千住4丁目始発の都電に千住大橋駅から乗る。都電の車掌さんがすごい素敵な人がいて運転手にもなったので帰りはその運転手が来るまで待った。

生徒会活動で書記として当選活動していたがもう一人の女性はサントリーの社長と結婚(嫁いびりに遭った)平成元年の同窓会に派手な形の衣装で参加「さすがサントリー」と。
〇23)通学の帰り道に食べたパンはサラダパン、コロッケパン、かつパンは高価だった。ラーメン一杯30円だった。
〇29)かつパンは通学路食べ歩き
・都電のなかではレース編み。カバンの中身はレース糸と編み棒とレース糸。教科書はロッカーに置っぱなし。夜間部は上野忍岡高校となり独立していて、芸大の予備校と化した。
都電は車掌も男性だった。Aさん長男が都電の模型を買ってくれた
〇30)・雷門を都電のなかから観たくって遠回りもした。蔵前国技館で相撲開催したいてので、買い物などだろうがお相撲さんも乗ってきた。31番浅草橋着

小遣い
 月3000円もらっていた

山登の切っ掛け)忍丘高等学校・山の家「忍山荘」体験

@有志が後輩のために軽井沢・千ヶ滝(せんがたき)造ってくれた、山の家「忍山荘」2泊3日 男子が先行して宿泊、入れ替えて女子が宿泊
・1クラス50人ほどでA〜F組まで、生徒数932人

・家庭科の中野・・先生(101才で亡くなる)
選択科目は美術、音楽、書道などで「家庭」科を選ぶ。女子50人。 
Aベスト ジーンズ・断ち切りの生地、ファスナー。横糸を抜いて背中も断ち切り
  同窓会(写真あり)F組で中野先生に会う
P 手づくりベストを着て入院中の母を見まいにいった。姉たちは嫁ぎ男の兄弟に囲まれて育ったから男っぽい言葉遣いだった。

R 明治大学ラグビー部北島監督の娘さんが体育の先生だった。後の平成元年のクラス会に参加され北島先生もお腹の周りが太くなっていた 男子生徒たちの憧れの的だった。
北島先生は創作ダンス 男たちは剣道の稽古。防具はたくさんあって、蔵前工業の生徒が借りにくるほどだった。
〇22)
高校の同級生は日本大学を経て設計事務所を開設していたが、「雑誌に載るような建築つくっていない。佐藤は雑誌に載っているって凄いな」と言われた。

S 高校に入ると生徒会活動と手芸部の活動に明け暮れ、家の手伝いをしなくなった。5時下校し夜遅く帰宅(6時ごろか)するようになり、母に「何も手伝いしなくなった」と嘆かれた。
下校時は山崎パンを食べながら都電にのった。都電は和泉駅と千住大橋の定期券。
写真のこと
〇24)
写真は忍が丘高校大銀杏のまえで仲良し仲間と集合写真がある

就職試験は夏休み中に受ける
 日大の写真部に行った仲間が集合写真を撮った。友達にはヤクザの娘もいて「父親が恐喝で刑務所に入っている」父は悪くないなどと語っていた。家にはドーベルマンを飼っていて上野三丁目に住んでいた。

集合写真右の友達は鶯谷にある華学院に2年通った、Aさんは1年一緒に通った。彼女のお色直しのドレスをAさんがミシンを使って縫ってあげた。洋裁学校へ行っても応用がきなないので洋裁をやめてしまう。

〇25)F島に来てからもクラス会を続けていた40年も仲良しだった。右の彼女は倍ぐらい太った。彼女は藤倉電線に就職しダンスの先生と結婚、歳の差15歳ですぐに家を建てたので遊びに行った。

集合写真の足下の靴下は丸めているのが当時の女学生の流行りだった。お金持ちの娘、不動産屋とか社長の娘はストッキングを履いていたが昭子さんは素足に靴下だった。写真の足の揃え方は足を細く見せる(写る)工夫だった、みな同じ足揃えである。
北海道旅行(写真集記録あり)
初めて味噌ラーメンをたべた 民宿にとまり余ったご飯をおにぎりにして持ち歩いた。

■ 洋裁学校のこと 
友達のナベと一緒に通った。姉千恵子は東京アート学苑文化式はゆったりしている。昭子は坂本式・華学苑きつきつ型。クッキングスクールもあった。ドレメは寸法ピッタリ型。
〇26)住友電工に勤めながら洋裁学校へ、1日おきに宿題がでた、1日おきに残業していた。ナベチャンは2年通ったがAさんは1年で終了した。詳しく習いたい人は2年通った。ナベちゃんはアンネナプキンの創業者の社長(東大卒)令嬢だった。東大卒でナベ父は農林省で、ナベは農工中金に勤めた。

A井組へ
〇27)4年務めた住友電工を辞し失業保険で遊んでいようと思ったら直ぐA井組を紹介された。高卒時に鹿島建設に勤めたかった、理由はオリンピックなどで大きな仕事をしているのでかっこいいと思った。長兄に「土建屋は柄が悪いから就職しては駄目だ!と言われ住友電工に勤めた。住友電工を辞めたら長兄に叱られた。

高校の倫理の先生は「おまえら金融業へは勤めるな!高利貸になるな!」と岩えれたが、仲間は生命保険、銀行へいった。

〇28)住友電工は虎ノ門にあった 京成千住大橋、上野駅から地下鉄銀座線乗り換え虎ノ門で下車した。

■〇28O波に

引っ越した(1980年)ら缶詰工場で働かないか?と言われ驚いた。嫌でO波小学校の給食パートをした。

佐藤は大きなお世話をしてしまったと後悔。大失敗だったと語る。O波の人たちと暮らしてもうまくいかないことが判明した。倉Zさんは「T宏はいいやつだったけど東京居たらだめになった」と語っていた。

〇29)パートに行くと次男(2歳)が後を追って泣いた
 福島市上町まで送り迎えをした 八剣マンションへ引っ越す。
家のこと
奥の細道 出発点に神社がある日光街道近くに実家がある。

・〇32)入江先生は「あなた達下町の子には奥の細道分からないでしょうが・・」下町と山の手には差別意識があった。
・大水が出たときに水が溢れるから道路などが水没してしまう。 淑子お姉さんは胸まで水に浸かり銀行から帰宅したこともあった。

兄弟のことなど

長男M人は写真を撮るのが好きで家族の写真が多い。道具の手入れとクラシックを聞くのも好き。「子供のくせに大人の歌をうたうな」言われて育つ。
兄二人は成績優秀だった
T男 上野高校へ進み東大を目指す。富士銀行退職後写真撮影を趣味に励む。熟年離婚、娘はPC系の社長になっているそうだ。
I男  家で勉強をする奴は馬鹿だ。才年上。

成績優秀なため荒川区へ引っ張られた
上野高校へ行き東大を目指すも家が貧しくT男大学進学を断念
庭で参考書を焼く姿を見てしまう。

(父・M一さん) 
E 「かあちゃんのお陰で皆が育った」と常に語っていた戦前は大工だった。戦中から日本通運に勤める。
G勤続20年で表彰状と銀杯をいただく
後、日通の社長が汚職で捕まると「あんなやつの表彰状は捨ててしまえ!」と怒りをあらわにしていた。

H ・お父さんは結城藩の国家老の娘(Aさんのお婆ちゃん)であった。

E (お母さんとその弟のこと)
オジサンは日通に勤めているもものの、Aさんの家のそばの自宅裏に小さなオモチャ工場をもち(副業)なオモチャ工場を持ち羽振りがよかった。プレス機は3台あった。

ヨシさんは朝から夕食まで弟の工場の手伝いをしていた
F ・Aさんもプレス機で男の子が乗っているブリキのオートバイの車体に前輪付けを小学6年生から手伝っていた。
G・オジサンはオートバイに乗り革ジャンを着て羽振りがよかった
 叔母さん(妻)に反物を買ってくれ、同時にお姉さん(ヨシ)さんにも反物を買ってくれた。和服は近所の内職をしてる方に仕立てもらった。

H ヨシさんはおもと(植物)が栄える=坂入が繁栄すると言って株分けをし調布の借家(新婚時代)にもってっきてくれた。福島市INで地植えにした。
・オジサンはハゼ釣りの名手で内臓を取り除き干して年の瀬に昆布巻きにして食べた。Aさんはハゼのいがいがが嫌いだったので母は蒲鉾を入れ替えた蒲鉾巻きにして娘Aさんに与えていた。Aさんは今でも煮干しが嫌いなのだがカルシウム補給(2200mg)のため時間をかけて食しているJ
・〇36)お母さんは料理が上手だった。がんもの煮つけが美味しかった。がんもとタケノコの煮つけが好きだった、今でもタケノコ好き。

J (オジサンの子供)
・長男は吉野工業(ペットボトル生産)の工場長
・次男は千葉大を出て小学校の教員になる

(母にもらった植物各種)
結城の「おもと」母は「おもと」が増える家は繁栄する」と語っていて、新婚当時に暮らしていた調布の借家に鉢植えも持ってきてくれた。INの西北角に地植えしてある。
I・葉欄は八王子の姉T子さんにもらい 泉の離れの北面に植えてある、除染で消えたが2023年には芽をだした。

・姉T子さんの夫は一級整備士で仲間から「次郎長」と呼ばれていたほど面倒見がよかった。
自動車修理工場は製造元の系列化に組み込まれてしまい一般の修理工場はびれはじめた時期であった。四谷にある修理工場をたたみビルの(不動産運営社)オーナーに転身することになる。労働者を首切りに際し仲間の再就職を全て斡旋した。その功労賞として八王子に在る社長の家を頂戴する。
夫とAさんと子供はよくお世話になって泊まっていた。長女が生まれた時は夫は八王子から通勤していた。

J・姉T子は夫Kさんからの結婚申込を逃げ回っていた。Kさんの小学校の担任の先生が「結婚してやって」と説得に来た

K(坂入与三郎 国の無形文化財絵師)
 父・Mさんの甥っ子、Aさんとは従弟で結城紬の絵師
 叔母ちゃんには高すぎて買えないよと言っていた
 戦争疎開していた昭子さん家族は与三郎さん家族に冷遇されたとのこと。兄や姉を虐めたという昭和21年8月ぐらいまで疎開したいたようだ(うまれたばかりなので記憶がない)
O H姉は母が「茄子がキュウリを産んだ」と言われたほどの美貌であった。富士銀行に勤め接客が上手だったので、母は家の外交はすべてH姉に任せて、代理出席させていた。そうして洋服などのみだしなみの費用と時間を節約していた。
@ メモ用紙を示す
植物好きのAさん I によるとお母さんの影響だとわかる
葉欄は八王子市にあった姉の家からもらう
スズランは畳帖 一坪ほと仲田にはあったが除染で刈り取られたが徐々に再生している

Aさん自身の子供のこと

Q H姉のところに泊まり旅行、鎌倉に行く。長男小学3年生 宝物殿にてガラスに額を付けて熱心に釘付けで見ていた。Aさんが3年の時は素通りしていた。皆が長男の説明に舌を巻いた。次男は「早くおばちゃんの家に帰りたい」と

〇23)O波へ自転車旅行。長女4年生で大人の自転車に乗って往復、下り坂は怖かった。次男2年生で子供の自転車だった。子牛が生まれたばかりで可愛いかった。(参照:長女の作文が2階、南部屋東の本棚の引き出しに保管)

夏休みはオリエントファイナンスで前借して旅行をしていた。