花田達朗教授による公共圏について
 2002年3月3日の建築あそび の記録  1−3  図 
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          ヨーロッパ中世ていうのは二重権力

中世の時代の公権力、オーソリティはカソリック教会王権ですね。ローマ教皇を頂点にしたカソリック教会のピラミッド。そして領主であるとかキング。ヨーロッパ中世っていうのはこのふたつが癒着した二重権力、二重構造で成り立っていました

つまり普通の人々にとってはですね、中世っていう時代は、そういう権力、教会とか王様という公権力が存在するだけなんですね。自分たちはその被支配者であって、いわば言いなりになっていて、反抗すれば火あぶりになったりするわけですね。
    近代の始まり・・プライベートな生き方・・ 社会

ところが、中世の権力構造が崩壊していくプロセスにおいて、ある種の人々の頭の中に、つまり観念の中にそういうオーソリティ、公権力に向き合う形で、私人、プライベートパーソンという存在があるんだ、ということが・・頭の中に宿る。そう考えるようになる。そういうふうに思うようになった人々が生まれる。



そういうふうな・それは思想ですね。それが誕生したとき。それが人々の頭の中に宿ったときが、それが近代っていう時代の始まりですね

    

そうすると近代という時代の前提っていうのはなにかっていうと、この図に書いてあるように、公権力の領域というのがあって、それに向き合うカタチで私人という存在のしかたの領域が成立したということ。この構図ですねふたつに分割されている、この構図が近代という時代のスタートの前提だということ。

読み替えるとですね、公権力の領域とはなにかというと「国家」。私人の領域はなにかというと「社会

だから社会という言葉を我々はいま普通に一般に使っていますけれど、社会というのがあるんだっていうふうな考え方は大昔からあるわけじゃなくて、ある時に芽生えたのです。それがここなんだ。私人の領域、プライベートな暮らしというものがあるんだと・・。プライベートな生き方、そういうものがあるんだという考え方がスタートですね。プライベートな人々が作り出す関係が社会です。

公権力の領域と私人の領域の分割。言い替えれば、国家社会分割というものがという時代のベーシックな構造としてある。

   モダンが生まれた苗床・・小家族の内部空間・・親密圏

その構図の上にですね、この切り分けられた舞台装置の上にですね、パブリックっていうものが誕生してきたということです。それを図示したのが、この図なんですけれど。その最初の苗床、発生源はなにかというと、一番左の下にあるんですけども・・小家族の内部空間。これはブルジョア知識層の家族空間ですね。そこがスタートですね。これを親密圏 ・インティメィト・スフィアーと呼びます。

親密な」っていう言葉もなかなか意味深な言葉で、性的関係を暗示する場合もありますが、内心の世界とか私事とか・・ようするに他人に晒さないところです。他者の目が届かない、あるいは他者の目から防御されている世界。

    マルチンルターの宗教改革  親密圏・・最初の原理の萌芽

そういうものが成立したというのも、これもまた歴史的に新しい。これが親密圏、或いはブルジョア知識層の内部空間。ようするに内面ということ、自分の心の中です。この内面という問題の発生源は、これをさらに辿ると、マルチン・ルターの宗教改革に行き着きます。

          

ルターの宗教改革は中世を支えていた、カソリック教会にダメージを与え、永い期間かかって、その権力構造が崩壊していく過程を作り出したわけですけれど、この親密圏の最初の原理はなにか・・良心の自由、あるいは信仰の自由ということです

ルターはなにをしたかというと、免罪符の販売に見られるようなカソリック教会の腐敗に対してプロテスト(抗議・異議申し立て)して、新教(プロテスタント)を作り出した人ですね。カソリック教会が一元的に管理していた教義に対して、彼らは新しい考え方を出していく。それに対して弾圧が加えられて・・火あぶりになったりなんだり、っていう歴史がいろいろあったわけですけれども、

そうした中で公権力といえども人々の心の中までは支配出来ないっていう考え方が出てきます。それが信仰の自由だったり、良心の自由だったり、内面の自由だったりするんですね。

それ以前の人々はそいういことは考えないわけです。だからそういうものがあるとも思わない。良心の自由とか信仰の自由とかは発明品ですね。そういうモノがあるんだと言い出した人がいるわけで、それはそう言い出した人が頭の中で構築したもの、理論武装したものであって・・だから発明品なんですね。それ以前の人はそういうことは考えつかなかった。

近代という時代を支えた精神は様々な自由の観念ですが、信仰の自由や内面の自由という観念はそれらの出発点になります。それはゆくゆくは今日の日本国憲法の中にもある、基本的人権にまで至るわけですよ。ずーっとつながっていて・・。

    ブルジョアジーの親密圏)に近代の精神が宿った

というわけで、ブルジョア知識層の親密圏からスタートしたということ。ブルジョアというのは・・日本の歴史で言えば言ってみれば・・江戸の町人・豪商ですね。商取引をしたり、モノを作ったりして、お金儲けをしている人達ですね。

そいうブルジョアジーの家族の中で・・・いわば独立した、親密圏っていう空間を持つ。それは宗教改革のおかげですけれども、そこの間を説明すると、一寸ながくなるので、そこは端折りますけども・・。ここで親密圏が出来上がる。

この親密圏、これはひとつの空間なわけですが、この空間では、やがて生物学でいう細胞の卵割が始まる・・細胞が受精してですね、わかれていき、2分割して4分割して・・だんだん体になっていくのと似ています。

ここに近代の精神が宿ったということになるわけで・・例えば、フランス革命の精神と言われる自由・平等・博愛ですね。あるいはヒューマニズムとかね、そういうのは近代の原理なわけですね。そういうものの苗床にここがなったというわけです。
      


そのブルジョアジーは二つの資源を持っていました。一つはですね、彼らはさっき言ったように、豪商ですから、私有財産を持っている。わかりやすく言えば、彼らは金持ちなんですね。土地を持ち、広い農園も持ち、或いは初歩的な工場を持ち、取引のための馬車、軍団とか・・いろんなものを持っている。彼らはとにかく私有財産の所有者でした。

それからもう一つは、持ち物っていうかな・無形の持ち物です。教養ですね。これは啓蒙主義的な教養ですね。この二つですね。この二つを転がしていくことによってですね、彼らは異なった二つの空間を作り出していくっていうのが、このストリーなんです。

私有財産を転がして行くことによってですね、私有財産っていうものをドンドン回転させていくことによてですね・・、かれらはブルジョア社会っていうものを作る。

ブルジョア社会って言うのは商品交換と社会的労働の分配。これは行く行くはですね、資本とか労働とか商品いうものをモーメント、契機にしてですね、市場経済に発展しいくわけですね。


     市場経済はプライベートな領域から生まれた

市場経済っていうのはある種のメカニズムですよ。実際に見ることはできないのですが、存在している・・メカニズムなわけです。・・で・・これ全体が私的領域、プライベートな領域。

ですから、いまでもいくら大きな・・例えばソニーとかですね、大きな会社であろうが、英語で言えばプライベート・エンタープライズですね。どんなに巨大なグローバルな多国籍企業であったって、プライベート・エンタープライズなんです。私的な活動であり・・日本語で言うと私企業、民間

              会場 笑う

民間、民活なんて言うでしょう。市場活動していく・・・ドンドンドンドン発展していくわけですね。こっちのルートはね・・。

            啓蒙主義的な教養

さて、問題はもう一方のルートなんです。啓蒙主義的な教養の方です。教養って、言ってしまえばリテラシーのことですね。一つベーシツクには読み書き能力ですね。字が読めるということ。

彼らは字が読めたからこそ・・、グーテンベルグの印刷技術によって・・一寸逆戻りしますけども・・、ルターはそれまでラテン語で書かれていて、普通の人が読めなかった聖書を口語訳、つまりドイツ語訳にして、普通の人が使っている言葉に翻訳をして、グーテンベルグが発明した活版印刷技術を使って、その口語訳の聖書を印刷させた。

         

ルターは大変な戦略家だと思う。なんていうかな・・メディアっていう問題に対して非常にセンスがあった。メディアを戦略的に利用したストラテジス
彼はメディア使い、カソリック教会を批判し、攻撃するのですね。聖書はラテン語で書かれていたから、普通の人々(一般信者)は聖書の内容、つまり神の言葉に直接接触できなかった。だからこそ、間に司祭っていうものが必要だった。彼らはラテン語のリテラシーがあり、聖書へのアクセス・ルートを一人占めすることができた。

司祭っていう仕組こそが、或いは祭壇という場こそがカソリック権力の基盤だった。ルターはそのカソリック権力の腐敗を批判したわけだから、だからその基盤(司祭)を取り除こうとしたのですね。そこでなにをやったかというと、さっきも言いましたが、ココの梯子を外してやればいい、と。

だから普通の信徒が直接・・聖書・神の言葉にアクセスできるようにしてやればいいわけだから。そうすることここ(司祭)が不要になりますから。そのためになにをやったかというと、ラテン語を口語訳して、口語訳したものを印刷して行き渡るようにした。

その口語訳の印刷された聖書を手にしたのが、このブルジョア知識層なんですね。カソリック教会から自由に自分で聖書を読めるわけだから、ドイツ語で聖書を読んで、直接神の言葉にアクセスする。そうなると、仲介項がいらなくなってくるわけですね。

で、そこに親密圏という観念が宿る。つまりなぜかというと、口語訳された聖書を通じて直接神の言葉と自分が対面するようになったから。

その時に始めてその対面する人間の心の中に、「あっ、自分は自立した・・神と直接向き合う自立した内面をもっているんだ」という意識が、観念が芽生えるわけです。

それがいわゆる近代の自我というものの出発点だということになるわけですね。自覚する時・・自分っていう人間がいるんだっていうことを自覚する時のスター台ですね。
一寸まえに遡っちゃいましたけども・・・





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