続 花田達朗と建築あそびへ
勧進聖
勧進っていうのは何か・・ていうと皆さんが一番良く知っているのは
勧進帳かも。義経が追われてね・・関所で・・弁慶が・・なにも書いてない巻紙を見て・・ソラでズラズラーット口上をやるのを勧進帳をやるって言うでしょう。
今はこれも死語かも知れないけれど。あれはどこから来たかっていうと、弁慶たちが関所を通過するときに怪しまれて、弁慶は山伏の姿をしていて、取り調べのときにですね、
我々はある勧進のために諸国を巡ってるんだというふうなことを言って、どういう主旨の勧進についての免許証っていうのかな・・それを巻物を広げて・・実はなんにも書いてないんだけれど・・これこれしかじかの寺社仏閣を建てるために、いま諸国に勧進をやっているというふうな事を言う。その勧進帳というのは、
勧進の趣旨が書かれていて寄付を集めるための帳面なわけです。
その勧進が問題なんですけど、勧進っていうのは、当時、中世です・・例えば鴨川に橋を架ける・・あるいは東大寺が焼けてしまって再建立するとか、場合によれば飢饉がおきて飢饉に喘ぐ民衆を救済するとか、なにかそういう、いまで言えば
公共的な事業を興すときにですね、勧進というシステムを使った。
以下は、若き日本史研究者、
東島誠さんの『
公共圏の歴史的創造―江湖の思想』(東京大学出版会、2000年)から私が学んだことです。
その勧進を司るプロデューサー ・・朝廷とかオーソリティから免許をもらって、例えば東大寺再興なんていう目的のために、全てを取り仕切る、ある種の・・ジェネラル・プロデューサー・・
それの役目を担う人間を勧進聖(ひじり)という。
この
ジェネラル・プロデューサーは何をするのか・・例えば東大寺再興や鴨川に橋を架けるとなれば・・資金が必要ですね・・まず金集めなきゃいけない・・それから設計図だとか工事だとか・・大きな一つのプロジェクト。そのゼネラル・マネージャー。どうやって
資金集めるか・・結局は寄付・・寄付を募る。
その時になにをやったか・・いろいろな仕掛けをするわけです。その一つが
桟敷。例えば河原などに・・
鴨川の河原とかで興行が打たれるわけです。それを勧進興行って言う。その桟敷空間はどういうものだったかと言うと、当時の言葉で言えば
貴賤富裕の別なく、つまり金持ちも貧しい人々の区別もなく、卑しい身分の人間と高貴な身分の人間の区別もなく、つまり身分を超えて・・集う場所ですね。
ある種の見せ物興行をやる・・そこに身分を越えて人々が集まって、少しずつ自発的にカンパするわけです。そのようにして金を集める・・その
勧進興行をいろんな所でやる。そうやって勧進聖は金を集める。それが勧進聖が打った桟敷空間の興行です。
これは今で言う
チャリティー・コンサートですね。その仕掛けが中世にもあったわけです。それは
都市住民達に自発的に公共的な負担を促すという仕掛け・・装置だったと
東島さんは言うわけです。それ以前の形は公権力からの強制だった。
寺社仏閣なんていうのは公共建造物であり、みんなの共同性のための建造物ですね。橋だって道路だって、そうですよね。だれか一人の利害のためでない、だれでもの利益。
そういう公共的な建造物・施設なんかを作る時の資金調達の仕掛けが勧進興行だった
まさにその桟敷空間っていうのは、そこでさっき言った
公開性と異なった他者との共同性の原理原則が実現されていたと観ることが出来る。ハーバーマスによる西欧コンテキストでは近代の曙に公共圏っていうものが登場したっていうことになるんですが、日本の歴史の中に求めれば、
中世戦国の時代にそういう空間があったということになります。
しかしこの空間はやがてポテンシャルを失って、没落衰退していきます。特に信長・秀吉政権下あたりから、最初信長・秀吉達はこういう仕掛けを利用するんですけれど、
自治都市ですね堺とか・・しかしやがて秀吉は堺とかと紛争・対立になっていきますね。
最初はそのそういうものを利用するんですけれど、やがて取り込みかつ弾圧し始めて、徳川政権になると、中央集権の組織化が進んで、勧進聖とか・・全部追われていくんです。廃止ですね。
これでこの公の界と書く公界は江戸になると苦しい界の苦界へと転化をして吉原とか、そうゆう遊郭とかにトランスフォートしていくわけです。
江戸になると印刷物
他方では、
江戸になると印刷物などが出てきて、勧進っていうカタチで・・公共負担の資金調達をするんじゃなくて、なんとか草子とかですね、冊子みたいな印刷物でそういう公共圏っていうものを作ろうと試みられていく、そのシステムが現われてくるわけです。
メディアが・・桟敷空間っていうメディアが廃れ、弾圧されて、代わりに出版物のようなメディアが登場してくるようなことが起きてくる。
だから、日本における公界っていうこと、
日本におけるパブリックなるものっていうことは建築っていうものと密接な関係があるんですね。
これは前に佐藤さんからいただいたメールですけど、佐藤さんは12世紀日本に生きていた
重源っていう勧進聖です。お坊さんですけども・・ファンなんですね・・ヒョッとしたらあとで、重源が作った建造物などを見せてもらえるかも・・
重源っていう勧進聖
重源は出家後・・聖地・霊地・霊山を、つまり無縁の場所ですね、行脚して、修行して、各地を遊行する。遊行するのがまたこの・・特色なんですね。遊行、遊び歩く。遊人・・・ようするに遊行っていうのはなんなのか・・境界を越えて移動する人間のことなんですね。境界の中に止まって、定住している人間じゃないんですね。
定住している人間、これは農耕民です。農耕民ではなくて、ある種時代の中を交通する人間。交通人間。境界を越えていく・・越境人ですね。勧進聖ってまさに越境人なんですね。だから、弁慶が関所という場所で勧進帳をやるというのは象徴的だと思います
それから重源は遊行し、人々に
仏法を説き、
造寺、造仏、写経、鐘を鋳造するなど、
橋を架ける、池を掘るなどの社会事業を実践する勧進聖として成長し、次第に南無阿弥陀仏の信仰を深め、また高野山を本拠とするいわゆる高野聖の一員となったと思われる、と百科事典的な説明なんですけども、ここに書いてあるんですね。
このひとは色んな事業をやったようですけれども、重源は東大寺再興に全力を傾け文治5年1185年には早くも、大仏の鋳造に成功して、開眼供養を行い建久6年1195年には大仏殿はじめ中門などの造営をひとまずなって、後鳥羽天皇・将軍源頼朝ら臨席のもと盛大な落慶法会が営まれ、重源は大和尚の号を受けた。
とはいえ源平合戦の最中から開始された東大寺再は容易な事業ではなく、重源はそれまでの勧進聖としての経験の蓄積に加え、さらに大きな努力を重ねて資金の募集をし、・・金集め・・それから技術上の困難を克服して、この短時間で再興がなった。
ようするにジェネラルプロデューサー、
資金集めまで含めたジェネラルプロデューサー。その点で言えば空海もジェネラルプロデューサーですね。
かれは
日本有数の土木工事人ですね。ようするに
テクノロジーを持っているんですよね彼らは。
さっき
ルターは・・メディオロジーってメディオロジーってさっき言わなかったかな・・ようするにルターはメディアに対して大変センスがある、戦略家であったといいましたが、
勧進聖もまさにメディア人間。空海もまさにそうですね。
と同時に、
彼らはテクノロジーを持っていて、当時の最大のテクノロジー、最重要なテクノロジーって、治水灌漑。土木工事、つまりシビルエンジニアリングですね。そういう人間達がジェネラル・プロデューサーになって勧進興行を・・桟敷空間っていうものをセットして、人々に自由の空間を与え、その代償に見返りにお布施をもらって、・・寄付をもらって、そのお金で土木事業をしたり公共建造物を造っていた。
これはまさに
パブリックなるものの運動、運動形態ですね。
ただ残念ながら江戸になって徹底的に・・衰退していった。ついには公界って言葉も死語になっていった。
実は私が最初に考えたことも、エッフェントリッヒカイト のドイツ語を訳す時にさきほども言いましたけれども公的意味空間と訳したけれども、さらに次には公共圏ってやったけれども、公界っていうふうに訳して公
界っていう言葉を過去の歴史から呼び戻して、今の現在日本の中に・・再利用すると・・いう手もあるかなと思ったんですけども、
一寸無理かなと思った止めたんです。でも、それでもよかったなあ・・
第二バージョンの結論
第二バージョンの結論をまとめれば、
日本の歴史の中にもパブリックなるもの、今まで言ったように、存在していた。
それと同時に我々は公界という言葉を失ってしまったけれども、また失ったがゆえに・・現代のパブリックなるものを・・観る道具だて・・望遠鏡を持つことが出来なかった。
しかし我々がもしも
現在日本社会の中にパブリックなるものの運動を観測したい・・と思うなら、丁度ガリレオが自分でレンズを磨き、望遠鏡を作って天体観測し、地動説を立てたように、言葉もそうです、概念っていう装置の望遠鏡を作る必要があるんじゃないか。
それが「公共圏」という言葉を投入した私の理由なのです。
以上第二バージョンでした・・
会場 拍手 パチパチパチパチ
佐藤 格好いいなー
佐藤 続きは食べたり飲んだりしながら・・
と
pm4時〜深夜3時まで続いたのでありました
第3バーション・・みんなでワイワイ編もありますが、花田先生による
現代の公共圏については、11月初旬に建築あそびを開きまして・・・後掲載予定です。
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